33. 芝居

文字数 5,802文字



 森に囲まれたヘスの町では、徐々に秋が深まりつつある。夏の間に青々としていた木々は暗い色に沈み、やがて枯葉色に変わった頃に、霜が降りてその葉を地面へ落とす。
 アイリーンはその日、レヴィの母親サリーの目を盗んで街へ出ていた。しばらくの間は親切なジプシーの家で寝たきりで過ごしていたが、少しでも体調が回復すると、彼女の癇はじっとしていることにすぐに耐えきれなくなってしまった。呪術師だというサリーの処置がどの程度効いているのか、自分の怪我も回復の程度もよく理解していないが、とにかく痛みがほとんど消えて歩けてしまう以上、アイリーンは出歩かずにいられなかった。
 家の中に人の姿が見えなくなったのを見計らって、アイリーンはベッドを抜け出した。壁に掛けられていたケープを勝手に借り、それを頭から被ってしまうと、まるでジプシーになった気分だった。手元に残っていた小銭で何か菓子を買っても天罰は下らないだろうし、サリーや彼女の友達の分も買っていったら、家を抜け出したことも黙ってケープを拝借したこともかえって感謝されるかもしれない。そんな前向きな思考でアイリーンは出掛け、しかし菓子を買う前に、美味そうな匂いを漂わせている食堂に入り、気がついたら牛肉とチーズに齧りつきながらビールを飲んでいた。
 美味い飯を落ち着いて食べるのなんてどのくらいぶりだったろうかと考え、次に今も旅を続けているはずのエレンやアスカ、レヴィのことを考えると、食欲はいくらか落ち着いた。
 彼女は自分の不甲斐なさに落胆した。父の誇りに相応しい騎士になるのが彼女の夢だったのに、彼女はそれに失敗した。体格や腕力、色々な条件で兄たちに劣る彼女には、今回の旅がもしかしたら最初で最後の、自己証明の機会だった。恐らくあの馬鹿みたいに強い刺客はエレンが死んだものと思っているはずだから、そうなればディガロがきっと仲間たちを守ってくれるだろう。それにエレン本人だって、あのディガロやアイリーンの父アンゾに比べればもちろん劣るが、本来は大した剣の使い手なのだ。アイリーンは弓は得意だが、剣では彼に敵わない。
 彼女は思考に浸りながら残ったビールを啜っていたが、ぼんやりと漂わせていた彼女の視線が、ふと薄暗い食堂の中の、カウンターの端の席に座っている男の上で止まった。何となく、見覚えがあるような気がすると感じたのだった。アイリーンはあまり賢いほうではないが、物覚えはとてもよく、特に人の顔や名前、その性格などを記憶するのはとても得意だった。
 黒髪を撫でつけた痩せ気味の男――旅人らしいなりをしているが、神経質そうな顔立ちから教養のある人間だとわかる。ただ貴族のような気品を感じさせないので、商人か金貸し、あるいは貴族の使用人かもしれないと考え、彼女の頭の中で鐘が鳴り響いた。男は、ブロントの使い走りだ。確かギャレイとかいう名前で、ブロントの私人であるにも関わらず、かの宰相が王宮を我が物顔で闊歩し始めた頃から、王宮の中をちょろちょろと嗅ぎ回っていた男だ。アイリーンは彼を見かけるたびに、イアン王の王宮が黴臭くなるようで不愉快だと感じていたのだった。もしブロントがエレンの王宮脱出を知り、秘密裏に刺客を用意するとしたら、間違いなくあの男がその任務の担い手になるはずだ。
 彼女はビールのカップを手にしたまま立ち上がると、カウンターへ向かって歩いていった。
「よう、御大臣殿」
 わざとらしく訛りのある口調で言いながら彼女が隣の席に座ると、男は鬱陶しそうに手を振り、早口の低音で言った。
「ジプシーに恵んでやる小銭はない。失せろ」
「御大臣、つれないねえ。はるばるミースを出てヘスの森の中でお会いしたってのに。ねえあんた、こんなところで何してんの。隙だらけ、あんたの腕じゃ誰のことも殺せっこないよ」
 そう言ってアイリーンは、猫のような素早さでギャレイが腰に提げていた剣を掠め取った。びくりと大きく体を跳ねさせた使用人は大仰に振り返り、ケープのフードの下に隠れていた顔を見て息を呑んだ。そして空になった腰に手をやってから、彼女の手に握られている剣に視線を走らせる。
「お前…!」
「お前?お前って誰のこと?あたしの名前覚えてる?」
 アイリーンは片手でビールを啜りつつ、もう片手に握った剣を握りなおし、男を睨みつけた。使用人はしばらく黙り込んで、恐らく何が起きているのかという現状の予測とこの後の展開を計算していたのだろう、方向性が定まったと見えると、ゆっくりと話し始めた。
「ここで何をしている」
「そっちこそ」
 使用人は鼻で笑う。
「私がどこで休暇を楽しもうが、ご令嬢には関係のないことだろう。しかし、こんな片田舎で物乞いの真似事とは、騎士団長殿はご息女によほど前衛的な教育を施していらっしゃるものと見える」
 アイリーンは、彼女の中の短い神経の先が刹那の間に焼き切れるのを感じる。剣を握っていた拳の節が白く浮き、声を発する彼女の腹の底に力が籠る。
「エレン様が死んだってのに、あんたはここで何してるわけ」
 すると彼女の言葉を聞いた使用人の眉間に一瞬不可解そうな皺が寄り、彼女はそれを見逃さなかった。アイリーンは早口に言葉を続ける。
「知らなかったの?」
 それは、「本当はエレンがまだ生きていると知っているのか」という質問と同義でもある。アイリーンとしては、ブロントの追っ手にエレンの生存を知られているとしたらそれは問題だ。ギャレイは視線を宙にさ迷わせた後、「私には関係ない。休暇中だ」と呟いた。
 募る苛立ちを抑えながら、アイリーンは剣の刃を持ち上げて相手を威嚇する。するとカウンターの奥から店主が不安そうな声をあげた。「お客さん、揉め事は外でやってくれ、頼むよ」
 仕方なく彼女は椅子から立ち上がると、顎をしゃくってギャレイに促した。男はしばらく悩んでいたようだったが、苦い顔をして従い、椅子から立ち上がる。この使用人は彼女が怪我を負っていて大立ち回りできないことは少なくとも知らないらしい、とアイリーンは考える。彼女の頭の中が疑問符で埋めつくされてきた。
 通りに出て、彼らは路地の端に向かい合って立った。アイリーンが睨みつけると、使用人は諦めたのか交渉方法を変えたのか、「王は死んだのか。何故死んだ」と訊ねてきた。
 しかしその訊ね方があまりに率直だと、彼女は思った。アイリーンが彼を疑っていることは彼自身わかっているだろうに、その上で嘘をついているのだとしたら、単純すぎて逆に下手な演技だろうと、アイリーンですら思った。ここへ来て、エレンの身に起きたことについて、目の前の男は本当に何も知らないのではないかと思えてきた。また同時に、丁寧に順を追って考えていけば、本当にギャレイが王を殺しかけてその末路を見届けるためにこの町に残っているのだとすれば、酒場でのんびり昼酒を飲んでいるなど、あまりに無思慮で不用心な行為だ。アイリーンは実際に、腹の怪我がなければ自分は恐らく復讐心のままに目の前の男に斬りつけていただろうと思う。それではなぜ、この宰相の私臣は、このヘスの町で一人ぶらついているのだろうか。
「知らないの?」
 半ば本当に戸惑いながら、アイリーンは言った。その彼女の顔を見て、使用人も何かを考えたに違いない。余計なことを言われる前に、アイリーンは釘を刺した。「私がそんなことに関わるわけない、とか言ったらこの場であんたを真っ二つにしてやるからね」
 彼女の怒りを含んだ声は本気だった。彼女が何を指してそう言っているのかくらい、仮に目の前の男が先の事件の共犯でなかったとしても、理解できるはずだ。ブロントはそういう男で、ギャレイがその主のために、主が表だって行えないような仕事を他にも片づけていることは、王宮の権力に与る立場にある者たちはそれとなく理解しており、アイリーンはその情報を父から得ている。政治的に対立しているのは百歩譲って不問に付したとしても、そういう宰相の仕事のやり方は、徹底的にアイリーンの性質や価値観と相容れない。
 ギャレイは彼女の顔を見て息を呑むと、首を横に振った。
「誤解だ。私は刺客など雇っていない、本当だ。仮に雇うとしてもだ、そんなことをフランツ国内で命じるか?あまりに危険で愚かな行動だ。ただ、正直に言おう、王がミースを抜け出したことを知り、私は密偵を出した。しかしその密偵が何者かに殺された。私はてっきり君らが殺したものと思っていた。私がここへ来たのは死んだ密偵の代わりに王の消息を探って安全に王都へお戻しするためだ。本当だ」
 アイリーンはできる限り慎重に事実の可能性を吟味した。後半はでたらめだろう、仮に殺す気はなかったとしてもどこかへ幽閉するつもりだったのかもしれないし、言葉の上では何とでも言える。しかし同時に、前半の部分には信憑性があった。慎重なブロントとその舎弟が王を殺すとすれば、国境の付近かその向こう側で行うだろう。万が一他人に現場を目撃されても、エール人の仕業だとでっち上げられる。それに、エレンが死んだと聞かされた時にギャレイが見せた驚きは本物のように思えた。何より考えてみれば、エレンを殺しかけたあの刺客は、すぐにエレンを殺すことができた状況で獲物の首を絞めた。ブロントの手下に雇われた刺客がそんなことをするだろうか。目の前の使用人は、そういうつまらないミスを犯さないが故に、あの大臣に重用されてきた。
 何が起きているのかわからないが、いずれにしろ相手には王が死んだと思わせておいた方がいいことは間違いない。アイリーンは言った。
「とにかく、エレン様はもういないんだよ。あたし達は、あんたが送った刺客だったと思ってたけど。あんたはさっさとミースに戻って、あんたの干物みたいなご主人様にそう伝えなよ」
 そう言うと、アイリーンは視線を落とし、剣の握りを持ち変えて、使用人に差し出した。男は怪訝そうに彼女と武器を見比べたが、恐る恐る剣を取る。
「…令嬢、君はここで何をしている」
 アイリーンは嘲笑するように鼻息を吐いた。
「戻れるわけないでしょ、エレン様がいないのに」
 本来なら嘘は彼女の不得手だが、ジプシーのケープをかぶって言う台詞には説得力があったかもしれない。使用人は惨めなものを見る目で彼女を見つめると、「お父上には、君も途上で斃れたと伝えておいてやろう」と言い残して踵を返し、早足にどこかへ歩き去っていった。
 旅装の後姿が角を折れるのを見届けながら、相変わらず不愉快な男だとアイリーンは思う。今からブロントに密書でもしたためるのだろうか。
 密書と考え、この発見をエレンたちに伝えなくてもいいものだろうかと、彼女は思い至った。あのいかれた刺客が何者かわからないが、ブロントの下っ端以外にも彼を狙う連中がいることを、警告しておく必要があるかもしれない。
 もちろん棘の谷の奥へ進んでゆき、その後アイリーンの想像の中では既にアストルガスへ再出発している仲間に警告する方法など、彼女は持っていない。しかしレヴィの母親のサリーならどうだろうか。砂漠のジプシーには猛禽類を伝書鳩のように使う者達がいると聞いたことがある。彼女なら、離れた位置にいる息子に警告を伝える手段を知っているかもしれない。
 アイリーンはそこで本来の目的を思い出すと、菓子が売っている市場のある通りを目指して歩いていった。







 一行は合わせて二回の夜を、魔法使いの家で過ごした。
 二回目の晩に、魔法使いの親子は魔力の継承とかいうものを終えたらしい。レヴィが酷く興味を示したが、集中しなければいけないので第三者の参加は受け付けられないとツィエトに断られていた。魔力というのは人間の体力と精神力の中間のようなもので目に見えるものではないらしく、魔力を継承した後も、娘の様子に何ら変化は見られなかった。ただ翌日の朝の出発の時に、家を出る客人たちとそれに付き添う娘を見送る魔法使いの姿はなかった。レヴィがツィエトの様子をネイに訊ねると、父親は疲れているので休んでいる、とだけ娘は答えた。
 ただディガロだけは、その晩に起きたことを知っている。
 出発前の晩、夕食を終えた後、それぞれ部屋に戻る面々と同じように食堂を去ろうとしたディガロに、魔法使いの娘が声をかけた。
「ねえ狼君、ちょっといい?」
 手招きされてついていった先、魔法使いのものであると思われる寝室の扉の前へ来ると、娘は振り返るなり、彼を見上げて言った。
「この後の片付けを手伝ってくれる?お礼は薬くらいしかないけど」
 荷造りか何かだろうと思い、ディガロは単純に頷いた。「魔法使いの薬なら金んなる。何を片づける?」
 すると娘は悪戯っぽく笑い、「死体」と答えた。
 魔力で維持されていたツィエトの器は、その中身に入っていた魔力をネイに移したことで、たちどころに滅びてしまったということだった。ディガロは魔力の継承というものを目撃したわけでなく、娘について部屋の中へ入ると、そこにはもう僧衣を着た亡骸が横たわっていた。骸はまるで何十年も棺の中に放置されていたように、崩れかけた土人形のようになっており、死体というよりは何か物体のほうに近いように思われた。
 思わず彼が言葉を失っていると、娘の声が、彼の意識を引き戻した。
「人間たちには黙っといて」
 彼は隣の小さな人型を見下ろした。「どうしてだよ」
「だって、人間は感情的でしょ」
「俺は?」
「半分狼だもん」
 ふん、とディガロは笑い、あくまで冗談らしく言った。「差別的だな」
「親父がそう言ってたの。人間社会に長く生きてると、誰でも偏見を持つようになるんだって」
「それこそ差別的だぜ」
「あの人は、それに疲れちゃったんでしょ」
 娘の視線は寝台の上の亡骸に向けられたが、彼女は肩をすぐに竦めると、人狼を見上げた。「手伝ってくれるよね?」
 しばし、ディガロは口を閉じ、娘を見下ろす。
「半分ソーサリー、お前は、感情的にはならねえのかよ」
 魔法使いの娘は、首を回すと、乾いた遺骸をもう一度見つめ、「もうお荷物にならなくて済んだから、ほっとしてる」とだけ言った。



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