25. 事情

文字数 4,677文字




 棘の谷の名称の由来は、その昔この谷一帯が刺を持った茂みに覆われていたことによるそうだが、森の生態系は時の経過とともに変化したのだろう、今では刺のある植物を見かけることはあまりなく、森そのものは呼称から想像されるほど歩きにくいというわけではない。ただ同じような景色が延々と続くことからそこに立ち入った人間は方角を失いやすく、この谷は迷い森とも呼ばれ、必要以上に奥まで立ち入る者はあまりいない。
 ヘスを出てから野宿を挟んですでに二日間、いよいよ進む先に道らしい道は全く見られなくなってきた。唯一の頼りはジプシーの案内のみだが、森歩きに相当慣れているディガロから見ても、レヴィが何を基準にして進む方角を選んでいるのか、全くわからなかった。
 訊ねたところによると、レヴィは呪術師の母親に連れられ時々森へ入ることがあり、彼の母がかつて一度魔法使いに出会ったのだという場所にも何度か同行させられたのだという。人の足跡の残らない森の中でもレヴィの記憶の中に残る目印は残っており、ジプシーはその記憶を頼りに進んでいるのだと言った。また不思議なことは、呪術師であるレヴィの母は魔物を避ける術をもっており、母と歩いている時は一度も魔物に遭遇したことがなかったのだとレヴィは言う。
 ディガロは何かの冗談だろうと揶揄した。棘の谷は人間の手があまり入らないこともあり、ミース南方に広がる広原と比べても、随分多くの魔物の住処になっている。現に彼らは二日のうちに何回も魔物と遭遇し、そのうちの三度はワーグの襲撃だったので、ディガロはワーグだけでも既に八匹を殺している。こちらに危害を加えるわけではないが、他にも魔物に分類される小さな獣をちらほらと見かける点からも、この森が人間でなくあちら側の領域であることがよくわかる。
 結界を描いてその内側で眠っている時のほかは、常に魔物の気配を探して神経を尖らせているアスカは、随分消耗しているように見えた。しかし芯の強い娘は泣き言も言わず、ただ淡々と自らの仕事を全うしている。貴族の娘にしては大したものだと思う。一方で彼が背負っている青年の呼吸は昨日の朝、昨日の夜、今日の朝と時間を経るごとに徐々に浅くなっており、またその体が少しずつ冷たくなっていることも、ディガロに危機感を感じさせた。こうして危険を冒してまで森を進むのはこの青年を生かすためであり、この青年が屍に変わってしまう前に目的地へたどり着かねば、全ては無駄足になってしまう。無駄になること自体は彼の気に障ることではないが、何匹もの獣を殺して数日を費やした挙句、悲嘆に暮れる娘やジプシーを、亡骸を背負いながら町まで送り届ける役は、御免こうむりたかった。
 蔦を払いながら先頭を歩くジプシーの後ろ姿をぼんやりと眺めた後、ディガロは自分の前を歩く貴族の娘へ視線を移した。レヴィの顔にもアスカの顔にも疲労の色が濃く、この二日間、彼らは必要最低限の言葉しか発さなくなっていた。恐らく熊並みの体力を持っているディガロだけが多少の創造性を思考に残しており、沈黙が葬列を思わせるほどに濃くなってきた時に、ジプシーか娘のどちらかに声をかけるのだった。ジプシーと彼の母の呪術師の話も、そうして聞き出したものの一つだ。
「なあ」
 彼が声を掛けると、娘は顔を上げた。その瞳が彼の方へ意識を向けたのを確かめて、ディガロは先を続ける。
「あんたと兄貴は、どうしてエールへ向かってる。しかも兄妹だけで。親はもうあっちへ渡ってんのか」
 アスカは何度か瞬きを繰り返した後、戸惑ったように視線を俯けた。その仕草だけで、彼には十分だった。ディガロは頷いた。
「まあ、無理して言う必要なんざねえ、ただのお喋りだ。あんたらにも色々あんだろうよ。ただ、こんなことがあっちゃ予定より随分遅れてアストルガスへ着くだろうし、もしあんたらの親父やおふくろさんが待ってんだとしたら、心配してんじゃねえかと思っただけだ」
 爪先の方へ視線を落したまま、アスカが小さな声で呟いた。
「…ごめんなさい」
 ディガロは肩を竦めようとしたが、背負っている青年のせいでそれはかなわなかった。代わりに眉を上げて見せる。
「何をだよ」
「あなたに、本当のことを言えなくて。…こんな厄介なことに付き合わせてしまってるのに」
 想像していなかった回答に、彼は少し面食らった。実は相当難しい事情でもあるのだろうか。この兄弟は貴族の中でも、あるいは政治犯の子息子女で亡命中だとか何かだろうか。だとすれば、青年がやたらと腕の立つ刺客に狙われているとしても納得のいく話だが、そんなことを自分からぺらぺらと話す依頼主はどこにもいないだろう。
「いや、気にしねえよ。あんたらの事情を俺が知ってようが知るまいが、俺の仕事は変わんねえだろ」
 彼がそう言うと、アスカは再び俯いた。何か考えていたのだろう、短い間の後に彼女は顔を上げると、今度は彼に訊ねた。
「あなたはこういう仕事をよくするの?」
 いい質問だと彼は思う。葬式の沈黙に陥らずに済むのなら、今の彼にはどんな質問も良い質問だろう。
「まあな。商人なんかをどっかへ送り届けて、その代金をもらうことはよくある。あんたらみたいな貴族と関わる機会は滅多にねえけどな。連中から金をもらうにはコネがいる」
「でもきっと、こんな風に誰かを背負って森の中をずっと歩き続けるなんで、あまりないわよね」
「それは確かに、軍にいた時以来かもな。まあでも、文句は言わねえよ、お給料さえ払ってくれりゃあな」
 にやりと笑って見せると、アスカも小さくだが微笑を返してきた。
「あなたは何のためにお金を貯めてるの」
 またも意外な質問だと思いながら、彼は言葉を返す。
「貯めてるってほどでもねえよ。仕事がなくて干される時期もあるからな。稼げる時に稼いで、使う時に使うだけだ」
「故郷に、お父さんやお母さんはいないの?」
 何かを勘ぐるわけでもなく、単純に口にされた疑問だった。ディガロはいや、と首を振る。
「俺みたいなのにはお決まりだが、おやじもおふくろもいねえよ。気楽なもんだ。あんたは――とまあ、これは聞いちゃまずいのかもな」
 彼がわざとらしく笑うと、彼女はまた小さく笑う。しかしその瞳にどこか悲しみの色が混ざっていることに、彼は気が付いた。アスカの口が開く。「実は、私ももう二度と――」
 そこまで言いかけて、アスカは口を噤んだ。瞳に浮かんでいた悲しみが、たちまち警戒の色にとって代わられる。魔物が近づいてきているのだとディガロは察した。
「何だ、今度は」
 アスカの目がどこか遠くへ向けられる。彼女の足が止まったので、前方にいるレヴィも歩みを止めて振り返った。
「何か、強いものが近づいてる。すごく早いから、またワーグかもしれない」
 それを聞いて、ディガロは溜め息を吐いた。実際にこの森は連中の縄張りなのだろう。先ほどからどこへ進んでも獣の匂いが残されていて、次はいつ出るのだろうかとディガロはうんざりしかけていたところだった。
「厄介だな。一度あんたの兄貴を下ろして、連中をお出迎えするか」
 レヴィが近づいてきて、ディガロの背からエレンを下ろすのを手伝った。
「何匹いる?」
 ジプシーの質問に、アスカは「たぶん三頭」と答えた。「今までのよりも大きい」
「ディガロ一人でやばそうだったら、俺も弓を使うよ」
 あまり良くない顔色でジプシーが言った。
「だとしたら、木の上にでも登ってそこから矢を射かけるってのはどうだ。結界の中からじゃ都合が悪いだろうし、木の上なら安全だろ」
「俺、あまり木登りは得意じゃないんだよな」
 彼らがそんな会話をしているうちに、ディガロの五感にも獣の接近が伝わり始めた。こちらへ向けられる殺意、微かだが茂みの揺れる音、そして強い獣の匂い。アスカを見るとすでにエレンのそばに立ち、意識を集中させようとしている。それを見て、レヴィも木に登っている暇がないらしいことに気付いたようだった。
「やっぱりあんたも結界とやらの中に入っといた方がいいかもな」
 彼がそう言うと、レヴィは腰に下げている小さな弓に手を伸ばしながらも、アスカの立っている場所へ近づいていく。ディガロは近づいてくる殺意と獣の足音に身構えた。
「来るぞ」
 暗い茂みの向こうに、黒い毛皮が見えた。一対の緋色の点が浮かび上がる。彼の視界が捉えたのは一頭のみだったから、他の獣は左右へ回り込んだらしい。
 木々の間から飛び出してきたワーグは、まるで牛のような大きさだった。飛び掛かってきた獣に向かって斧を振りかざした瞬間、背後からレヴィの「もう一匹だ」という叫び声が聞こえた。しかしよそ見している暇はない、ディガロは獲物に向かって武器を叩きつける。
 横からもう一匹が飛び掛かってきた。獣の体当たりを避ければ魔物はアスカ達へ近づいてしまう。彼女たちは結界で守られているとはいえ、彼は本能的に敵が仲間に近付くことを恐れた。斧が獣の肉にめり込む手応えを感じながら、ディガロはあえて横からの突進を自分の体で受ける。自分の体が派手に倒れるのを悟ると同時に、背後から短い悲鳴を聞く。落ち葉で覆われた地面に叩きつけられる寸前に振り返って見たのは、弓でなく小刀を構えてワーグとにらみ合うジプシーだが、その脇腹の服が派手に裂けて血が滲んでいる。
 彼はアスカの言葉を思い出した。強力な魔物相手には結界の範囲が狭くなるという話だったが、どうやら今回の敵相手では結界の有効範囲はアスカとその足元のエレンを囲むくらいの大きさのようだ。レヴィが結界の範囲内に入るにはもっとアスカへ近づかなければいけなかったということだろう。
 よそへ意識を向けた一瞬の間に、獣の牙が彼の喉元へ迫ってきた。彼は咄嗟に斧の柄を獣に噛ませる。武器に食いついた獣の頭を何とか押しやり、その胴体にブーツの爪先を叩き込んだ。
 一匹を撥ね退けたと思うと同時に新たに茂みから飛び出してきた別の一匹が、横から飛びかかってくる。そいつがレヴィを狙わなかったのは幸いだと思いながら、彼は渾身の力を奮って大斧をそいつに向かって投げつけた。初めの一頭よりはいくらか小柄だった3頭目の頭から首にかけての位置に、彼の放った武器が突き立つ。獣の悲鳴を聞いたのも束の間、初めの一頭がすぐに戻ってきた。
「結界へ入れ!」
 彼はほとんど怒鳴りながら、腰に佩いていたダガーを抜いた。飛びかかってきた一匹目は刃物を見て一度態勢を立て直し、何かの合図らしく短い唸り声をあげる。するとレヴィと睨み合っていた二匹目が標的を変えたように、ディガロに向かって走ってきた。
 よろめくジプシーがアスカへ近づき横たわっているエレンの足元に座り込むのを視界の端に捉えながら、ディガロは二頭のワーグと睨み合っていた。数匹の獣を同時に相手にしたのは初めてではないが、今回の敵はずいぶんと大型であり、今彼の手元にある武器らしい武器は貧相なダガーのみだ。大斧を投げてしまったのは失敗だったかもしれないと考えつつ彼は、彼を囲んで円を描くようにゆっくりと歩いている二頭のうち、小ぶりな方の獣に狙いを定めた。
 彼の動きを察知した獣が、彼が刃物を振り下ろすと同時に飛びかかってくる。ディガロは正面から飛びついてきた小柄な一頭の頭をダガーで割ることに成功したが、気がついた時にはもう一頭の開いた顎が、彼の眼前に迫っていた。



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