28. 蜥蜴

文字数 5,476文字




 エレンは眠り、そのうちで時々悪夢を見ていた。戦火が首都ミースにまで及び、街や城が焼け落ちる夢だ。彼は牢獄に囚われており、鉄格子の隙間から叫ぶことしかできない。愛する祖国を焼け野原にした敵に対して煮え狂う憤怒を感じ、それに対して何もできない自分に絶望を感じる。自らの命に代えて復讐をしてやろうと誓う。それによってさらに多くの血を流すことになったとしても、尊いものを踏みにじり、奪った愚者どもには償いをさせなければならない。
 炎に包まれた空が茜色に染まり、それを見上げる彼が狂人のように怒り両目を光らせていると、何か冷たいものが彼の額に触れた。そしてその冷たい手は彼の両目を覆い、彼はその冷気に従って目を閉じる。もう一度彼が目を開くと、そこには見たことのない天井と、淡く白い光と、彼を覗き込んでいるいくつかの顔があった。
「――エレン様」
 柔らかい声が彼の名前を呼んだ。彼は視界の中に、若い女性の顔を見た。
「…アスカ」
 かすれた声は、たったそれだけで彼の喉を焼くようだった。まるで一年間は声帯を使っていなかったようだ。しかしその一言で、彼を覗き込んでいた彼女の表情が明るく輝いた。そして彼は彼女の他にも、彼を覗き込んでいた顔があることに気付く。
「レヴィ、」
 彼はもう一人の友人の名を呼ぶ。お人好しのジプシーは、目覚めた彼を見て既に嬉しそうだった。そして彼は、三つ目の見知らぬ顔へ視線を移した。
「この人は」
 するとジプシーが答える前に、その黒い髪の男性が、自ら口を開いた。
「私はツィエト、魔法使いだ、君を目覚めさせた」
 エレンの脳の裏側を、長い間凍結されていた思考が巡り始めた。彼は何が起きていたのかを思い出す。暗殺者の襲撃、黒い血の呪い、発熱と意識の混濁。
「…僕は、助かったのか」
 彼がそう言うと青年の姿をした魔法使いは、「今のところは」と、静かな声で答えた。
 その言葉の意味を測りかね、彼が眉間に皺を寄せると、アスカが説明を買って出たらしく、ゆっくりと話し始めた。
「陛下、私たち、いくつかあなたにお伝えしなければいけないことがあります」
 恐らく話は長くなるのだろう、魔法使いは彼女の言葉を合図にしたようにベッドのそばを離れ、小さな部屋を出て行った。ジプシーは明るかった表情を少し厳しくすると、部屋の隅に置かれている小さなテーブルセットの椅子に、腰を下ろした。アスカははじめから、ベッドの隣に置いた椅子の上に座っていた。長身の賞金稼ぎの姿が見えないが、もしかしたらそれはアスカの話の中で説明されるのかもしれない。エレンは口を閉じると、彼女の言葉に耳を傾けた。



*



 まずアスカは、アイリーンについて、レヴィの母のサリーが約束通り彼女をヘスで預かっていることを報告し、アスカとレヴィがディガロの助けを借り、三日かけてこの魔法使いの家へたどり着いたこと、エレンはさらにここで手当てを受けながら一晩眠り、四日目の朝に目覚めたことを伝えた。旅に目的のある彼らにとって時間の経過は重要だ。彼が賞金稼ぎの居所を訊くと、アスカは、ディガロは魔法使いの娘と薬草を採りに森へ行っている、と答えた。
 その辺りで、魔法使いが茶の器を乗せた盆を運んできた。飲み物は三人へ配られ、アスカはエレンが久しぶりに自らものを口にするのを手伝おうとしたが、エレンはそれを断って、震える指先に力を込めて、岩のように重く感じる杯から中身を飲み込んだ。
 その様子を無表情に見つめていた魔法使いが、「ここからは私が説明しましょう」、と遮った。彼が頷くと、黒っぽい僧衣を着た男は彼の手から器を取り、それをテーブルの上へ置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「エレン殿、あなたの病は治っていない」
 彼は一番初めに魔法使いが「今のところは」と口にしたことを思い出した。魔法使いは続ける。
「とても珍しいし、私も久方ぶりに目にしたが、あなたを苛んでいるのはオークの血の呪いだ。オークの呪いはとても強力で、基本的には呪いの対象が死に至るか魔物と化すか、いずれにしろその目的を果たすまで続く。つまり、取り除けるものではない。私があなたに施しているのは一時的な緩和でしかない。この緩和を繰り返せばその間あなたは今の人間の姿のまま生きながらえることができるが、それはとても困難で厄介な所業になるだろう。しかもその緩和には莫大な浪費が伴う。あなた方はすでにピクシーを一体消耗したと聞いたが、あなたの意識を三月保つには十体のピクシーがいても足りない。今あなたが目覚めているのは、私の薬草が効いており、私があなたのために大量の力を消費したからだ。もし私が医者であるなら、あなたに心身の安定も長生きも保証できないし、それほどの犠牲を伴いながら生きながらえることはお勧めしない」
 エレンは無意識のうちに自分の顔が強張っていることに気付いた。アスカが不安気な表情を彼に向けている。魔法使いは、人間以外のものには見えないが、なぜか爬虫類を思わせる顔を、少し傾けた。
「あなたには悪い知らせだろう。目覚めたばかりのあなたにこういった事実を伝えなければならないのは申し訳ない。だが、これが事実だ。人間の若い王よ、あなたは決断しなくてはならない」
 目覚めたばかりで鈍く、ばらばらになっている思考を、エレンは脳の中で集約しようとした。彼が容赦なく告げられたのは絶望だが、彼の中に、諦めるという選択肢は、まだ不思議なほど存在していない。
「教えてくれ」彼は言った。「オークの呪いとは何なんだ。なぜ僕は、そんなものを被っている。僕を襲った刺客は、人間ではなかったのか」
 魔法使いは首を振った。
「あなたを襲った襲撃者は、人間ではないだろう。人間だとすれば、相当に特殊な知恵と業を身に着けた呪術者だ。実を言えば、私はあなたの中に流れる血とその毒を通して相手を見たが、あなた方を襲った敵は恐らく完全なオークではなくても、その血を引いている者だろう。相手はあなた、もっと言えば人間に対して強い憤怒の念を抱いており、それが血の呪いに力を与えている。オークの呪いは血を介するが、実質的には怒りを相手の肉体に移して蝕ませるものだ。呪いは血を媒介とするから、例えば呪いを受けた後にあなたが子を成せば呪いは生まれる新生児にも継承される。オークは滅びたと人間たちの間で考えられているが、例外なんてものは多くの場合存在している。それに誰かが気が付くかは、また別の問題ではあるが」
「刺客を殺せば、呪いは解けるのか」
「そうであれば、私はその方法をお勧めしただろう。つまり、答えは否だ。血に移された怒りは、呪いの主が滅びてもそれだけで残り続ける」
「だがあなたはさっき、『基本的には』と言った。例外的に、呪いが消えて対象が生き延びることがあるということじゃないのか」
 魔法使いはもう一度首を傾げると、今度はいくらか人間を思わせる表情で、小さく微笑んだ。
「それは、術者が相手を赦した場合だ。あるいはあなた自身が、怨怒と真逆の力をもって、その怒りの力を完全に消し去った時だ。後者を成しえた人間を私は見たことがないし、前者が成り立った光景もほとんど聞いたことがないので、私はあえて説明をしなかった」
 なぜこの魔法使いがこれを話しながら微笑を浮かべているのか、その事実が不可解で、同時にひどく彼の癇に障っていた。エレンは眉間に皺を寄せている自分に気付きながら、魔法使いを睨む両目を動かせずにいた。
 するとアスカが口を開いた。
「ツィエトさん、では陛下にかかっている呪いの進行を遅らせるには、具体的には何をしなくてはいけないんでしょうか。とても大変だってことはお伺いしましたが、実際に、それは本当に不可能なんですか」
 彼女の縋るような声が、魔法使いの視線を引き寄せた。爬虫類のようだった瞳に、突然老父のような温和さが宿るのを、エレンは見た。
「アスカ殿、あなたは昨夜見ていただろうが、彼の呪いを手術的にとどめておくには、強い陽性の力が必要になる。それは魔力でも霊力でも構わないが、膨大な量になる。患者を癒すために術者は恐らく三日おきくらいに患者に触れなければいけないが、陛下の生涯彼の命をとどめておくために、彼の元に侍り続けなければならない将来など、私はごめん被る、残酷な話だがね。私は君の主のために、自らを奴隷にすることはできない」
 アスカの瞳に悲壮の色が浮かんで彼女の首が項垂れるのと、魔法使いの蜥蜴の両目がエレンの方を振り返るのとは、ほとんど同じだった。「そういうわけだ、人間の王よ。あなたはあと三日程度この小屋の中で生き延びるだろうが、その先はない。あなたは従者達を解放して、死後の旅のための祈りを用意するといいだろう」
 魔法使いはそう言うとテーブルの上の盆を掴み、僧衣の裾を翻して、小さな寝室を出て行った。
 後には、ベッドの上のエレンと、そのそばのアスカと、部屋の隅のレヴィが残された。アスカもレヴィも、恐らく今まで詳しい事情は明かされていなかったのだろう、先ほど表情にあった輝きを失って、今は青い顔をして俯いていた。エレンはそんな彼らを見ながら、沸きはじめる怒りと、焦燥を感じている自分に気付いていた。不思議とそこには、絶望も悲しみもない。彼が感じているのは怒りだった。冷淡で人を馬鹿にしたような魔法使いの態度に彼は腹が立っており、理不尽な状況に憤りを感じている。彼は泥の塊のように感じている上半身を無理やり起こすと、骨の芯を走る痛みをこらえながら、戸棚や家具が詰まった狭い小部屋の中を見回した。
「こんな場所で死ぬわけにはいかない」
 彼は労働のために乱れた呼吸の中で唸った。アスカが彼を手伝おうとしたが、彼はその手を退けた。
「ディガロは、どこにいる」
 彼が言うと、レヴィが「魔法使いの娘さんと、森に行ってます」と早口に答えた。
「そうだった。レヴィ、アスカ、この際僕は一生を全うしようとは思わない。オークの末裔がなぜ僕を恨んでるのかはこの際どうでもいい。ただ、僕は無益な戦争をやめさせて、ブロントから政権を取り戻さなければいけない。その間の命さえあればいいんだ。デロイ王に会い愚かな公子クインを追放させなければいけない。デロイは強欲で見栄っ張りだが本来は怠惰で穏健だ。僕を人質にやった上で欲しがっている港町をくれてやれば、大人しく剣を下ろして元の箱に納まるはずだ。デロイ王は人質を永遠に利用しようと企むだろうが、この人質はどうせ長持ちしない。ブロントの失脚を見られないのは口惜しいが、そこはカーラー達に任せるしかない。だから元々、僕はこの旅に一人で出てきたんだ」
 友人達に向かって語り掛けたようで、実際にはそれは彼の独白のようなものだった。彼はずっと腹の底に抑え込んでいた感情を、久しぶりに目覚めた体とともに発露してしまった。王自身が人質になる可能性があると彼らに明かしたのはもちろん初めてだったし、本来は実際にそうなってしまった時まで、秘密にしておくはずだった。彼は当然、自らの死も視野にいれていなかったわけではなかった。それに、本当に、彼自身認めることを避けていることだったが、彼は一番初めから、レヴィやアスカやアイリーンの死さえ可能性のうちに数えていた。限られた条件の中で人手を割けず、ごく一部の人間にしか事情を共有できない状況の中で、選ばれたのが彼女達だった。魔法使いが蜥蜴のような目で彼を見たのは、恐らくそれを知っているからだと彼は思った。あの瞳は彼自身の写し鏡だ。
 目覚めるなり過酷な現実と溢れるような感情を思い起こした彼は、胸が焼けて両目が熱くなるのを感じたが、いつも通りにその衝動を追い払う。突然王の告白を聞かされて青い顔をしているレヴィに向かって、エレンは彼らしからぬ粗雑な口調で、「ディガロはいつ戻ってくる」と訊ねた。
「昼前には戻るって言ってました。もう少しだと思います」
「彼は、もう僕たちの正体に気づいているか」
「いえ。まだ話してません。でも、何か訳ありだろうとは感じてると思います。それより、……」
 レヴィがそこで言い淀み、エレンは眉を顰めてジプシーを見た。代わりに、アスカが言葉を継いだ。
「ディガロは、人狼だったんです。ここに来る途中で彼が怪我をした時に変身してしまって、それでわかったんです。彼が帰ってきたら、陛下も彼の姿を見ると思うので、先にお伝えしておこうと思って」
 エレンは一度押し黙った。また新たな情報が付加されて、彼はその意味と危険性と可能性を計算する。そこに感情的な働きがあってはならない。
「それでも彼は、僕らをここへ届けるのを手伝ったんだな」
 彼がそう尋ねると、「はい」とアスカが頷いた。
「彼はまた人間の姿へ戻れるのか」
「時間を置けばそうなるって言っていました」
 その回答に満足すると、エレンは頷いた。これであの賞金稼ぎの人間離れした身体能力の説明がついたと感じた。むしろ浪人は、強力な助けになるだろうと思えた。ただあの男をこの先の共とするには、事情を明かさなければならないだろう。
「アスカ、レヴィ。すまない、一人にしてくれないか」
 目覚めたばかりの彼には、仲間の抱擁よりも、沈思する時間が必要だった。彼がまだこうして呼吸している理由は、目的に辿り着くための一手を探し当て、次へ繋いでゆくためだ。



*
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み