37. 疑心

文字数 4,787文字




「間違いありません、彼はイアン王の息子です」
 エール軍の副官ゴアはエレンの顔を見つめながら、上司であるクインにそう告げた。訝しげにエレンを見下ろしていた公子は部下を見遣ると、「そういえば、お前はミースへ行ったことがあったか」と訊ねた。副官は頷く。
「随分前ですが戦前に一度、感謝祭に招かれたことがありますからな。しかしフランツ王、あなたが直々にこんな場所まで……」
 しかし部下の言葉が最後まで発される前に、クインが被せた。「まるで盗人か逃亡者のように俺の裏庭に入り込んで、一体何をしている?」
 横柄な物言いにエレンは隠さず眉を顰め、しかしあくまで丁寧に答える。
「それを、あなたの叔父上にお伝えしたい。我々は本来なら直接アストルガスへ向かうはずだった。デロイ王にお引き合わせいただけないだろうか」
 公子の眉間に皺が寄せられる。「なぜ俺に言わない?」
「私は外交のために貴殿の王を訪ねており、国家同士の決め事は合意の前に当事者同士以外に明かされるべきではないからだ」
 なぜその程度のことを説明しなければならないのかという皮肉めいた感情を抑えながら、エレンは言った。しかしあるいはそれは態度に出ていたのかもしれない、公子の赤い額に血管が浮き上がったのを見て、ゴアが素早く口を挟んだ。
「公子、いずれにしろここは話を続ける場所ではございません。帷幕へ戻りましょう」
 遮られクインは荒々しく鼻息を吐いたが、手にしていたカンテラを手近に立っていた兵士に押し付けると、大股で小屋を出て行った。副官は彼の背後に立っていた兵に合図すると、エレンに会釈し、早足で彼の主を追って行った。







 エルレ郊外のキャンプはエール軍の最大の基地である。その指揮官がクインであり、実際に基地の管理を行っている者が副官のゴアなのだろう。エレンはゴアに命じられた兵に両脇を固められてキャンプの中を歩きながら、周囲の様子を観察した。
 エレンが知っている限り、エール軍の滞陣期間は相当に長いはずだ。少し前までクインの率いるエール軍は西方の沿岸まで戦線を伸ばして無関係な農村を焼き落としていたはずだが、ここしばらくは本拠地へ戻って来て大人しくしているようである。兵は戦いに疲れているか、滞陣に倦んでいるかのどちらかだろう。いずれにしろ指揮官があの様子では、軍隊の風紀を維持して規律を保たねばならない副官の苦労は推して知るべし、あのゴアというのは恐らくデロイ王が甥のお目付け役として選んだ優秀な王族の一人だろうと、エレンは推察した。クインの弛緩しきった振舞いの割に、エール軍の基地も先ほどエレンを基地まで運んだ騎馬隊も、随分とまともに機能しているようである。
 兵たちはエレンを基地の中で最も立派な建物へ連れて行った。それは帷幕というより、木を組んで建てた小さな屋敷だった。クインはその奥の広間で先ほどと同じ格好のまま、獣の毛皮を敷いた玉座に座っていた。彼は酒の瓶を手にしていたが、客が入ってくると、その瓶を手近にあったテーブルの上に置いた。
「さあ、俺は部屋へ戻ったぞ。王エレンよ、教えてもらおうか、お前はこの戦時下、無断でエールの国土に入り込んで何をしている」
 客人が立ち止まるのを待たず、クインは話し始めた。エレンは先ほど腕の縄を解かれており、縄の跡の残る手首を触りながら首を振った。
「公子クイン、先ほども言ったがそれは貴殿に伝えることのできるものではない。私は国家同士の約束事のために、あなたの王へ会うべくここへやってきた」
 副官は公子の玉座の右手に立っており、エレンの両側には兵が残っている。クインは苛々とした様子で足踏みした。
「だから、なぜそれを俺に言えないのだ。俺は王の甥、エールの軍団の長でこの基地の指揮官だ。貴様には俺に秘密を明かす義務がある」
「私にその義務はない。私の用事はいわばあなたの王への交渉だ。交渉を当事者以外に行っても意味がないだろう」
「何の交渉か、と聞いている」
「それをあなたに明かすことはできない。私たちを、アストルガスへ送ってもらえないだろうか」
「生意気な。お前は、俺の許しがなければこのキャンプから出ることもできんのだぞ」
「それは脅迫か」
 エレンは目の前の男に挑戦する危険性を理解しながらも、忍び寄る緊張を隠して、どこまでも単調な声で言った。彼はデロイ王への交渉者としてもフランツの王としても、背筋を正して尊厳を保たなければならない。特にクインのように上辺のみを見て物事を測り、容易に侮る輩に対してはより一層そうでなくてはならないと彼は考えた。一方で、公子の額には再度青筋が浮かび上がった。長い腕が伸び、手近にあった酒瓶を逆さに掴もうとして、それを副官の手が止める。公子はそれを振り払うと、「こいつは密偵だ。俺を殺そうとしてる」と舌足らずに言った。
 それを聞いて初めて、エレンは眉を顰めた。その言葉は彼の予想の外側にあった。
「殿下、」口を開きかけたゴアの声を遮り、クインは「俺はここでこのガキを殺す」と声を荒げた。副官が眉を険しくする。
「殿下、それはできません。彼は叔父上への使者であり、それ以前にフランツ国王です。捕えたとすればまずはデロイ王へ報告しなければ」
「そうして俺を殺させるのか。なぜだ。戦場でこいつに出会えば迷わず殺すだろう?そして俺は英雄だ。なぜ同じように殺せない?」
「ここは戦場ではないからです、殿下」
 ゴアの表情が曇り始め、副官は兵に目を向けると、「フランツ王を西棟の牢へ入れておけ」と早口に命じた。
 エレンの両脇に立っていた兵士が彼の肩を押し、体の向きを回転させる。エレンは首を回しながら、喚く公子クインと彼を宥める副官の姿が遠ざかってゆくのを見ていた。







 エレンがその後戻された場所は先ほどの薄暗い小屋ではなく、牢と呼ぶには相応しくない、寝台の備え付けられたまともな部屋だった。彼がフランツ王であることを考えれば、仮に捕虜だったとしても妥当な扱いだろう。彼はアスカとネイの身を案じたが、それよりも先ほど彼が目にしたエール軍指揮官の混乱した挙動を思い起こしていた。
 クインがエレンを疑うのは理解できる。想像できる工作が何であれ、敵国の重要人物が自国内に密偵のように入り込んでいて、疑わしいと思わない者はいないだろう。しかしその点エレンがクインに対して求めたのは、敵の首領であるデロイ王へ会わせろということだ。これを聞いたクインが「俺を殺そうとしてる」と言う根拠は何だろうか。それはあまりに急で、被害妄想めいてはいないか。
 そこから彼が想像することの一つは、デロイとクインの間にも何かしらの疑念があるという可能性だ、ちょうどブロントとエレンの関係がそうであるように。しかし、公子がエール王にとって手に余る乱暴者であることが公然の事実であるにしろ、クインはデロイが病にかかるまではその王と戦場で馬を並べて戦っていたのだし、その後もクインはデロイからの指示を受けて戦線に留まっているはずだ。とはいえ、戦時下で敵国であるエールの情報はそう詳細なものまでエレンのもとへ届くわけではない。叔父と甥の間には公に知られていない軋轢があるのかもしれず、物事が悪い方向へ進めば、あるいはクインは本当にエレンを、王に秘密で殺すことがありうるのかもしれない、エレンの知りようのない何らかの疑念のために。
 彼は薄暗い部屋の中をうろつきながら、脱走の方法やその後アストルガスへ辿り着くための手段をいくつか考えたが、辛うじて一人で逃げ出しても今の彼は野垂れ時ぬしかない。
 エレンは長い溜息を吐くと、ベッドの上に腰掛け、天井に吊るされた貧相なランプを見つめた。今の彼にできるのは、結局黙って待つことだけだった。







 兵士に連れられたエレンが出ていってから、アスカとネイはしばらく為すこともなく、狭い小屋の中で沈黙していた。やがてふとした合間に、アスカが呟いた。
「エレン様、大丈夫かな」
 薄闇の中で、ネイが彼女の方へ視線を向ける。
「まだ、大丈夫みたい。お喋りした後、王様は別の部屋へ連れてかれたみたい。一応偉い人だから、もっと環境のいい牢屋に入れられたんでしょ」
 魔法使いは答えた。アスカの顔が上がる。「どうしてわかるの?」
 ネイは明り取りの窓に目を遣ると、その隙間から入り込んできたコオロギに指先を伸ばし、昆虫を手の平の上に乗せた。「彼らに聞いたの」
 へえ、とアスカは頷く。「それで、魔法使いは何でもわかるのね」
「うん。それにあのおっさんは、賢者の目も持ってた。自分がいない場所で起きてることも、自分の目で見れるの。あたしにはないけど」
 娘はコオロギの羽を指先で撫でると昆虫を窓の外へ戻す。しかし何かに気付いたように、声を低くし「誰か来る」と呟いた。アスカも思わず身を固くする。
 ごとりと、扉の外側で閂を外す音がする。いつの間にか、ネイの姿は小柄な老人に変わっている。扉が押し開けられ、現れたのは、先ほどの公子だった。
 現れた公子クインは相変わらず酔っぱらっており、しかし今度は供の兵を連れておらず一人きりだった。逆にそのことが、アスカに不安を呼び起こさせる。老人の姿をしたネイからも、彼女は痺れるような緊張を感じた。
「使者ども、」
 酔って縺れる舌で、公子が言った。手にカンテラも持っておらず、彼は暗闇をブーツで踏みしめながら、小屋の中へ侵入してきた。
「お前たちが預かっている用件とは何だ」
 低い声が唸り、濁った眼に見下ろされ、アスカは背が粟立つのを感じた。彼女は首を振る。
「私は……私は存じ上げません。王のみが預かっていらっしゃることです」
「なぜ俺に言えない」
 公子は更に詰め寄る。
「言えないのでなく、存じ上げないのです。デロイ王への交渉ごとということしか、私は聞き及んでいません」
 眉間に皺を寄せて彼女を見下ろしていた男は、突然、アスカの二の腕を掴んだ。握力の強さに痛みを感じた彼女は、反射的に顔を顰める。公子は彼女の様子になど気付かないように続けた。
「フランツの若造はいい気なものだ。王位を手に入れ、都合の良い大臣に仕事を任せて自分は女連れで巡遊の旅だ。エールに結界師などいない。フランツにはお前のように若い魔女が大勢いるのか?」
「公子!」彼らの横から、ネイが鋭い老人の声を発した。「何のためにお一人でこのような場所へ来られたのか存じませぬが、お引き取り下され。貴方は酔っていらっしゃるようだ」
 そうして老人の痩せた手が青年の厚い腕にかかる。しかし男はそれを振り払うと、老人を軽々と突き飛ばした。
 うあ、と声を上げて老人が床の上に倒れ込み、アスカは咄嗟に男の手を振りほどいて仲間へ駆け寄っていた。公子が一歩彼女たちに近寄ったが、アスカはその顔を睨み上げた。
「どんな方でも、自分より弱い者に無為な暴力を働くことは許されません」
 男の足が止まった。公子は奥歯を噛みしめ赤い顔を怒りで膨らませ、自分を睨み据えるアスカの顔を暫く見つめていたが、間もなくして無言のまま踵を返すと、大股で小屋を出ていき、乱暴に扉を閉めた。重い音が聞こえたので、閂は忘れずにかけていったようだった。
「大丈夫?」
 アスカに助け起こされたネイは、すでに少女の姿に戻っていた。魔法使いは頷くと、苦々しく言った。
「とりあえずあたしは、個人的にエールのことが嫌いになってきたよ。少なくとも問題が片付くまではあなたの王様の味方してあげるから、安心して」
 娘に気落ちしたところがなさそうなのを見て、アスカは安堵の溜息を零すとともに、「ありがとう」と呟いた。



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