7. 宿場

文字数 4,406文字



 一つ目の中継地点であるティプトの町はミースの衛星都市であり、馬を走らせればミースから半日程度しかかからない。
 実際彼らは早朝にミースを出て、昼を過ぎる頃にはティプトに着くことができた。道中で野兎を追うゴブリンを見かけたが、彼らが遭遇した魔物もその程度のものだった。ちなみにアスカの結界は使用すると彼女の集中力や体力を消耗するため、危険の少ない区域では使わないことに皆で決めておいた。
 彼らはティプトに到着して城門へ入ると、馬を下りて市街を歩いた。普段から鍛錬しているアイリーンや旅慣れているレヴィは何ともないようだったが、こんな長時間馬に乗っていた経験のないエレンとアスカは正直少しくたびれており、鞍の上から降りられた時は、思わず二人で顔を見合わせて苦笑してしまった。
「なんか、魔物も全然出なかったね」
 馬を引きながらアイリーンが言った。まるで出てほしかったかのような口ぶりだ、そんなふうにエレンが思っていると、案の定アスカが「出なくて良かったじゃない」と答えた。横からレヴィが言う。
「ミースからキースまでの街道は、最近兵士がよく通るようになったからだと思うけど、弱い魔物はほとんど出なくなったよ。むしろ気を付けなきゃいけないのは人間のほうだね。治安が悪くなって、盗賊がすごく増えたんだ」
 しかしそこまで言い終えてから、レヴィは何かに気が付いたようにちらりとエレンを見、「おっと、ごめん」と口をもごもごさせた。彼の言いたいことはわかる。アイリーンがレヴィを睨みつけたが、エレンは首を振った。
「いいんだ、本当のことだからね。むしろ僕は真実を知りたい。僕の家に籠っていると、僕の機嫌を取るために都合のいい嘘を吐く人はいくらでもいる。…それより、僕らは今どこへ向かってるのかな」
「あざみ亭って宿です陛下、あ、じゃないエレン様」
 アイリーンは素早く答えたものの、呼称を間違えて一度小さく咳払いする。「すごく小さいし、人目にもつきにくい店です」
「そうか、それは助かるな。今夜は夕食もそこで食べるのかい?」
 今度は、レヴィが答えた。
「それがいいと思います。旦那はできるだけうろつかないほうがいいと思うし…、買い出しも俺とアイリーンで行ってきますよ」
 エレンは国王だが今まで人前に出る機会はあまりなく、よって彼を見ても国王だと気付く人はほとんどいないはずなのだが、それでも危険は最小限に抑えておいた方がいいということなのだろう。それに疲れていたこともあり、エレンとアスカは宿へのチェックインが済むと部屋に残り、馬の手入れや食糧などの買い出しに出ていくアイリーンとレヴィに礼を言って二人を見送った。
 二人が出ていってしばらく、エレンとアスカはそれぞれ荷物の整理をしていたが、やがてそれも片付いてしまうと、彼らは所在なく離れたベッドの上に腰掛けた。そう高価な宿ではないので、部屋は狭く、座る場所はベッドしかない。
 手持ち無沙汰になり、ふとエレンは、四つのベッドのうちの一つに座っているアスカを見た。あちらも同じことを感じていたのかもしれない、たまたま振り返ったアスカと目が合った。
 言葉を発したのは、わずかに彼女の方が先だった。
「何か飲み物でも、もらってきましょうか?」
 半日一緒にいてそう思い始めたのだが、やはりアスカは好ましい意味で、気遣い屋のようだ。
「いや、大丈夫だよ。さっきアイリーンに水筒の水をもらったからね。君は?」
 私は大丈夫です、とアスカは首を振ってから、ふと窓の外に目をやった。すぐ外で、人が争うような声がしていた。周囲には野次馬もいるのか、はやし立てる声が随分賑やかだった。
「外が騒がしいですね。……アイリーンは、私を護衛のために置いていくって言ったけれど、私は魔物をはじく結界は作れても人間相手に闘えませんし、強盗がやってきたらお役に立てるかどうか…」
「大丈夫だよ、その時は僕に任せてくれ。実戦で鍛えた兵士たちには劣るかもしれないが、僕の剣の先生はアンゾだからね。彼を負かしたことはないが、その辺りのごろつきに負けるつもりはないよ」
 あえて自慢気に笑ってみせると、アスカもにこりと笑ってくれた。やはり、好ましい女性だと思う。しかしそこで突然階下から大音響を聞くとともに、宿の部屋が振動した。天井からぱらぱらと埃が落ちてくる。
「何だ?」
 外から聞こえていた喧騒が、どうやら階下に移動したようである。
「私が見てきます」
 そう言ってアスカが立ち上がったので、エレンもそれに合わせて立ち上がった。
「僕も行くよ。喧嘩かな?」
 二人が部屋から廊下へ出ると、彼らと同じように様子を見に出てきた宿泊客が数人、階段の踊り場から下を覗き込んでいる。彼らもそこへ加わった。
 一階の受付前で、二人の大男が取っ組み合いの喧嘩をしている。一人が帳簿台の上のランプを掴んで投げたかと思えば、もう一人が手にしていた斧で階段の手摺りをぶった切る。それを奥の部屋から見ている宿の店主が、頭を抱えて「やめてくれ!」と泣き叫ぶ。もちろん唸り声を上げる男たちが耳を傾けるはずはない。
 飛び出してゆき争いをやめさせようかと反射的に考えたエレンだったが、すぐに思いとどまった。そんなことをしては、彼は何のためにアスカと宿に残ったのかわからなくなってしまう。目の前の小さな問題よりも大きな問題を、彼は解決しなければならない。彼の隣に立っている行商人風の男が「警邏隊は何をしてるんだ」と呟いたが、今は各都市の治安部隊までもが戦場に送られており、地元で治安維持に当たるための人員が不足しているのだ。エレンは歯噛みした。
 その時、そこに高い女の声が響いた。
「あんたたち、なにしてんのよ!」
 声がしたのは宿の戸口からで、そこには両手にパンや果物のバッグを抱えて仁王立ちするアイリーンがいた。エレンとアスカは目をぱちくりさせた。
 当の大男たちは一瞬の間でこそアイリーンに目を向けたが、チビ女の言うことなど知るかと言わんばかりの態度で、返事もせずに喧嘩を再開した。アイリーンはふんと鼻息を吐くと、足元に荷物を置き、入り口に立てかけてあった長い鍵棒を手にした。カンテラなどを高い場所に掛けるための道具である。
 彼女はそれを投げ槍のように構えると、男の一人に向かって投げつけた。鍵棒はまっすぐ飛んで男の一人の背中にぶつかり、男はとうとう振り返った。
「何だ女、死にてえのか!」
「外でやってよね!あんたらここの全部弁償しなよ、そっちのハゲもだからね!」
 ハゲと呼ばれてもう一人の男もアイリーンを振り返る。二匹の獣は揃って小柄な娘を睨みつけた。アイリーンの舌はまだ動く。
「うっわ、二人ともぶさいく!あんたらもしかして兄弟?兄弟げんかなら他所でやってよね。お母ちゃんがかわいそう、ここの請求書を払うために一体いくら内職しなきゃいけないんだか」
 突如でたらめな罵声を浴びせられ、元から切れている男二人はアイリーンの幼稚な悪口にもぶち切れたようだった。「ぶっ殺す!」という声がどちらともなく発され、二人の男は彼女に向かって突進した。
「うわ、醜~い!」
 彼女はそう言いながらひらりと身を翻すと、玄関から外へ向かって飛び出していった。どうやらそのまま突っ走って行ったようで、男二人は「待てこの野郎!」「殺してやる!」と口々に叫びながら彼女を追って行った。
 やっとのことで建物の中には静寂が戻ったが、ぼろぼろになった店の中を見て、宿屋の店主はしくしくと泣き始めた。エレンが階下へ下りてみると、奥の食堂までもがめちゃくちゃにされていた。エレンについて下りてきたアスカが、「酷い」と呟いて眉を顰める。
 そこで玄関に、革のバッグを提げたレヴィの姿が現れた。彼はすぐにエレンとアスカの姿を認め、次いで地面に置かれた食べ物のバッグを見て、あれと首を傾げた。
「アイリーンは?先に戻ったんだけど」
 それにはアスカが答えた。
「さっきまでここで喧嘩してた男二人を挑発して、どこかへ連れてっちゃったの。大丈夫かな……」
「彼女はいつもあんな感じなのかい?」
 思わずエレンは口を挟んだ。アイリーンに対して倍はありそうな男二人に喧嘩を売るなど、相当勇気のいる行為である。レヴィが軽い調子で頷きながら、空いている片手で床の上の食料袋を抱え上げる。
「ああ、そういうことか。リーンって見た目以上に元気だよね。大丈夫でしょ、逃げ足は俺並に早いしそれなりに腕も立つし……しかしなんだか、酷いことになってるね」
 荒らされた店内を見回して、レヴィは眉を上げた。
 背後で客の一人が店主に向かって、「そういや、今夜ここで飯を食おうと思ってたんだが…」と言っている。店主は暗い顔で首を振った。
「この有様じゃ、食事の支度はできませんよ。申し訳ないんですが、食事だけは他の店へ行ってもらえませんか」
 それを横目で見てから、レヴィはエレンの方を向いた。
「そう、俺も同じことを心配しててさ。気が進まないけど、飯はちゃんと食べといた方がいいと思うし、…どうします、旦那?」
 エレンは肩を竦めた。一食くらい抜いても深刻な問題にはならないかもしれないが、ティプトを出た後はしばらく野宿しなければならない。レヴィの言う通り、食事はきちんととっておいたほうがいいだろう。
「…仕方ない、アイリーンが戻ってきたら、適当な酒場へ夕食に行こう」
 彼がそう言うと、アスカもレヴィも頷いた。エレンは何となく腰に下げている財布に触れる。
「しかし、あの店主は気の毒だな。路銀には余裕があるし、銀貨の一枚くらい恵んでやりたくなる」
 すると、すぐにレヴィが首を振った。
「だめですよ、そんなことしたら顔を覚えられるし、どこで誰が見てるかわかりません。余計な金を持ってるって思われないほうがいいです」
「わかってるさ、そんなことをしても本当の問題は片付かないしね。…ただ、そうできたらと思ったんだ。旅の一日目から、こんなものを見ることになるとはね」
 彼が階段を上がり始め、アスカとレヴィも彼に従って階段を上り始めた。レヴィが説明する。
「俺は見てないんでわかりませんけど、暴れてたのは多分八つ頭のチンピラですよ。去年くらいからどんどん増えてて、ティプトを根城にしてるごろつき集団です。昼間から酒を飲んで暴れてるのは表の顔で、ティプトからキースの途中に出る盗賊は、連中だって話です」
 アスカが言う。「それじゃ、夕食を食べる時はその八つ頭がいないお店を選びたいですね」
 そうだなとエレンは頷く。しかし、こんな小さな宿屋にまで出るのならもしかしたらそれは難しいのではないか、彼の中の心配性がそう呟いているのも、彼には聞こえているのだった。



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