39. 使者

文字数 3,529文字




 クインの気儘によって閉ざされてしまうかと思われたエレンの旅路は、幸運にもそこで途切れることなく、その先へ彼を導くことにしたようだった。
 ちょうど彼がエール軍の宿営地に幽閉された翌朝、アストルガスからやってきたデロイ王の使者が公子を訪れたのだった。何か変わったことはないかと使者が報告を求めた際に、隠し事をする危険を避けた公子は結局、彼が捕えたフランツ王の存在をその使者へ報告した。話を聞いた使者はフランツからの高貴な虜囚を、彼の主の元へ送り届けるべきだと判断したようだった。
 実はこれらの事情を、エレンは後からネイに聞かされて知った。その辺りの虫や鳥の言葉を聞くことができる魔法使いは、彼女が閉じ込められていた檻の外側の出来事をそれらの生き物たちを通じて知り、エレンがクインと交わしたやり取りもその中に含まれていた。
 エレンはアストルガスからの使者に頼んで、彼の従者ということになっているネイとアスカを同行させた。彼らはエール王都へ向かう馬車の中で再会し、離れていた短期間に起きた出来事を互いに共有したというわけだった。
「僕が想像していたより、クインとデロイの間の溝は深いようだ」
 表の御者に聞こえない程度に声音を抑えて、エレンは言った。彼の斜め向かいに座っていた少女は頷いた。
「聞いたところによると、エールの王様は定期的にあのキャンプへ見張りの使者を送ってるみたいだよ。今回のもそれでしょ。あの原始人は自分の王様にまるで信用されてないんだね」
「実際にクインは何度か命令無視をして、勝手な戦闘を行っている。ローエンも一度陥落させたのに彼が事後処理を怠ったせいで再度フランツに奪取されてしまったんだ。その点は、個人的に感謝したいところだが」
「信用度ゼロだよ。あいつ、お姉さんのこともじろじろ見てたもんね、相手は使者の連れだってのに。全く、人間って奴は繁殖行為がそんなに重要かね、まあ年中交配期だもんね」
 呆れたようにネイが溜息を吐いたが、エレンは何だか人間の男性の一人として、彼女の言葉を勝手に気まずく感じた。ちらりとアスカを盗み見ると、彼女も同じように、よく観察しないと分からない程度に表情を厳しくして、荷馬車の床を睨んでいる。こころなしか額が赤い。二人の様子に気が付いたらしいネイが、ああと声を上げて首を振った。
「ごめんごめん、お姉さんと王様はそうでもないもんね。それに交配だって重要だよね。無駄遣いするから浅ましく思えるけど、本来は生産的で神聖な行為だって親父も言ってたし」
 会話はネイに中途半端に収拾され、そこから続かないうちに収束してしまった。エレンは既に成人しているし、もちろんこういった話題が特に苦手というわけでもないはずだったが、どういうわけかこの時は軽口を返すことができなかった。赤くなったアスカの額を見ながら、もしかしたら自分もあのように顔のどこかを赤くしているのではないかと、おかしな心配ばかりしてしまった。非常事態であるのに、信じられない軽率さだ。
 しかし一度は訪れた窮地を脱して、安堵していたことは間違いない。エレンは馬車の窓から、目まぐるしく流れてゆく森の景色を眺めた。







 ミースが海辺の都であるのに対し、アストルガスは山の都である。元々要塞都市であったその街は、巨大な岸壁に貼り付くように建造された王宮を背に、段々と連なる丘の形を取っている。灰色の石を積み上げ山を削り出して築かれた城砦は、馬車の小さな窓から覗き見ても圧巻の光景だった。
 エレンは初めて目にするエールの王宮を見上げながら、握り締めた拳の中で指先が冷えているのを感じていた。彼はこれからデロイ王に会う。それは、ミースからの旅路の中で何度かはもう叶わぬと感じながらも、彼に与えられた機会だ。
 デロイ王は先日顔を合わせた公子クインとは全くの別物である。国内の政敵も近隣諸国の侵寇も押さえつけ、エールを自分のものとして何十年と守り続けてきた駆け引きの玄人である。その老人相手に、自分は対等に交渉を行わなければならない。
 彼らを乗せた馬車が王宮の門の中へ入ると、三人は馬車から下ろされた。
 王宮の使者はエレンに向かって慇懃に「こちらです」と宮殿の裏口への扉を勧め、それに従ってエレンは歩き始める。しかし彼に続こうとしたアスカとネイを、腰に剣を剥いだ兵士が遮った。「あなた方はこちらです」
 娘と老人が兵士を見上げ、エレンが警戒を含んだ声で、「彼女たちは僕の連れだ。同じ部屋で構わないと思うが」と早口に言った。使者が首を振る。
「ご心配いりません、我々はフランツ王を謁見の間へ、お連れ様を使者のための居室へ案内するだけです。お連れ様方は、交渉に加わるわけではありますまい」
 そう言われて、エレンは肩に入れていた力を抜いた。実際にその通りではある。彼は頷く。
「そういうことなら――アスカ、また後で会おう」
 アスカは頷き、ネイと一緒に兵に押されて別の通路を進んでいった。エレンは遠ざかる彼らを見送りながら、使者の後を追って王宮の裏口をくぐった。
 始めに使者が彼を連れて行ったのは、一時的な待合室のようだった。椅子とテーブルのある部屋には茶が用意されていたが、エレンは手を付けず、椅子に腰かけて待った。
 しばらくすると扉をノックする音があり、先ほどの使者が、衣装を抱えた召使い三人と剣を差した兵士一人を伴って現れた。デロイ王に謁見する前に身なりを整えて欲しいと頼まれ、なるほど当然だろうとエレンは思う。
 彼は数日前に川を渡ってずぶ濡れになった旅装のまま一度も着替えておらず、謁見の間で清潔な身なりのデロイ王と今の彼が並ぶのはあまりに具合が悪いというのが、彼の個人的な所感だった。これを敵からの憐れみと取るか厚意と取るかは難しいところだが、少なくとも清潔を好むエレンはあちらの申し出を受け取ることにした。何よりも、あちら側としてはエレンが武器の類を隠し持っていないかどうか確かめたかったのだろう。彼の着替えが済むと、彼が今まで身に付けていたものは全て持ち去られた。
 身ぎれいになったエレンを、兵士を連れた使者が案内した。広い王宮の中の階段をいくつも上がり、緩やかなカーブを描く廊下を渡ってようやく、通路の先の片手側に、巨大な両開きの扉が現れた。
 使者が衛兵に命じ、衛兵によって扉が開かれる様をエレンは見つめていた。







 一方で、アスカと老人の格好をしたネイは、エレンが案内された本棟とはいくらか離れた別棟を歩いていた。
 長い廊下に連なる扉の一つの前に召使いが立っており、その召使いが彼女たちの姿を認めると、扉を開いた。エール兵に促され、二人はその部屋の中へ入る。
「お茶がございますので、お召し上がりください。あとはゆっくりお休みになって、旅の疲れを癒してください」
 丁寧に、しかしどこか他人行儀に召使いが言い終えると、兵士が彼女たちの目の前で扉を閉めた。続いて、重い音が響き、それは閂を掛けた音だとアスカにもすぐわかった。ネイがぴくりと眉を動かした。
 アスカは、ぐるりと部屋の中を見回した。部屋の中には、二つのベッドの他に椅子とテーブルのセットがあり、その上には兵士の言葉通り、茶と茶菓子をそろえた盆が置かれている。
「部屋はきれいで整頓されているけれど…」アスカが言うと、またいつの間にか少女の姿に戻っているネイが、言葉を繋げた。「扉に閂をかける必要ってある?囚人じゃないんだからさ」
「私たちは敵国から来たわけだし、警戒されているのかも」
「でも、女の子とおじいさんだよ?エールの連中は、そんなに揃って小心者なわけ?」
 ネイはあからさまに不審そうに言い、アスカも認めたくはないが、清潔とはいえ逃げ場のない小部屋に閉じ込められたことに対して、不安を感じていた。しかし彼女は、自分に言い聞かせる意味も込め、言葉を続ける。
「でも、少なくとも私たちも陛下も、まだ殺されたり牢屋に入れられたりしてるわけじゃないわ。もし彼らが最初からそのつもりだったら、私たちは直接牢屋へ連れていかれてるはずだもの。エレン様が交渉を終えるまで、どうなるかはわからない」
 それを聞いて、ネイが頷いた。
「まあ確かに、そうだよね。……つまり、あたしたちは、ここで待つしかないってことだね」
 魔法使いの娘がそう言いながら、窓に嵌められた格子の向こう側を見つめているのは、彼女に言葉を届けてくれる生き物たちを探しているからだろう。アスカは誰にともなく祈るような気持ちで、青白いアストルガスの空を見上げた。



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