二十一 神々(一)
文字数 3,092文字
唖然として石段の先にある大きな楼門を見上げた。
「変なところだな、妙に造りがでかい…… 巨人でも参拝すんのか?」
――「お参りにでも来たか」
その声は背後から聞こえてきた。
とても人の声とは思えぬような低い振動に毛が逆立つも、恐る恐る振り返った。
「キャンッ!」
断末魔に近い声を発して後ずさり石段へと張り付いた。余りの恐怖に逃げることも化けることもできずに震えることさえも忘れて、ただただ息を殺して見上げた。
驚くほど巨大な馬に、驚くほど巨大な黒い鬼が跨って平次郎を見ていた。
「古狸が、今さら俺等を初めて見たと言うわけでもあるまい」と、鬼が馬から下りて来る。
その背丈は十メートル以上もあり、平次郎は腹を上に白目を見開き、あらぬ方へと黒目を向けた。余りの恐怖に意識を失う一歩手前だった。いや、既に意識がないといってもいい状態である。
その、黒くて巨大な鬼は平次郎の前まで来て胡座をかいて座った。
「そうか、迷い込んだか。ここらの狸で我等を恐れるものなどおらんからなぁ。山神様が近くにいると思って皆いい気になっとる。いやぁ、殊勝な狸だ」
その黒くて巨大な鬼は平次郎の首の後ろを注意深く掴んでゆっくり持ち上げた。
「行平 、何をやっておるんだ」
石段を下りてきた鬼が声をかけてくる。
「あッ、将門様。これを見て下さい」
行平と呼ばれた鬼は、将門と呼ばれた鬼へ平次郎を見せた。
「――なんだ。ただの狸ではないか」
「迷い込んだらしく、私を見て恐怖の余り動けなくなりました」
「ほ、本当か」
「はい」
「ほう、すれてないのう。いやぁ、殊勝殊勝。――そうか、せっかく狸らしい狸に会ったのだから鍋にでもしてやれ。そいつも喜ぶ」
将門と呼ばれた鬼は平次郎を見ながら感心したかのように言った。
「狸が聞いたら、疑問を抱くと思いますが――」薄らぐ意識の中、かなり押しは弱いが、平次郎は突っ込みらしきものを入れたとのことだった。もちろん、心の呟きである。
「狸を食うのですか」
「昔は、よく食ったもんだ。結構上手いぞ」
「これが、ですか」と、行平と呼ばれた鬼は平次郎を顔の前まで持ち上げた。
平次郎は死んだふりをした。
「なんなら、わしが捌いてやろうか。――って、そんなことを言ってる場合ではなかった。御蔵へ参るぞ」
「御蔵へ?」
「ああ、ものの具を脱いで関東へ行かねばならん」
「さっき履いたばかりではございませぬか」
「ああ、久しぶりに日高見の山々を駆け回ろうと思っていたのだがなぁ。ま、仕方あるまい。――で、行平。飯能というところを知ってるか」
「ハンゴウ? キャンプで飯を炊くやつですか」
「もう、いい」
行平と呼ばれた鬼は「死んだふりはやめろ」と平次郎を石段の上に置き、馬に跨って周りの景色へと溶けるように姿を消していった。
暫くの間、平次郎は動けずに横たわっていたが、突然起き上がり石段から飛び下りて深い森の中へ一目散に駆け込んだ。
その頃、家に着いた私は慌ただしく片付けをしている母の後ろ姿に首を捻っていた。
訝しげに訊くと、昔暮らしていた里の家に引っ越すことにしたと言う。「歳も歳なので畑を耕しながら土へ帰る用意だよ」と笑った。
「そうそう、丁度よかった。男手が欲しかったとこだったの」
久しぶりに昔住んでいた里の家に足を踏み入れた。
「結構手入れをしてたんだね」
「そうよ、月に一度は通って一日、二日は泊まっていたの」
そうか、方太も関東に来てしまったからなぁ……
母から頼まれた力仕事を終え、二人は里の家を後にして屋根付き商店街の家に向かった。
「ホント、助かった。男の子は頼りになるね。でも、ごめんね。忙しいのに付き合わせちゃって」
「いいよ、蒼樹様のところには行かないから夜まで暇だった」
――「あら? 蒼太、あれってものの具じゃないかしら」
母と同じように目を細めた。
「あぁ、ホントだ」
私たちを見つけたものの具は背景に溶けるように消していた姿を少しずつ現しながら近づいて来た。
「さすがは紅葉殿、遠くから良く分かりましたね。――蒼太、久しぶりだなぁ」
「行平様でしたか、お久しぶりです」
平次郎は必死に森を駆けていた。
恐れ慄いた御社から少しでも離れたかったという。
だが、空腹のあまり力尽きたように欅の大樹の前で足を止め、横になるとそのまま死んだように眠ってしまったらしい。
三十分ほどして平次郎はうっすら目を開けた。だが、立ち上がるほどの力もなく、横になったままボーッと森の樹々を見ていた。
「ここはどこだ? 確か、あの社から飛び出して無我夢中で走ったんだ。……なんか、このまま逝っちまいそうだなぁ。とんでもないところに来ちまった」と力なく口にして、また目を閉じた。
少し経つと「お前、ここのものではないな!」と、鳥の囀りのような、人の赤子のようななんとも不思議な声が聞こえた。
平次郎は閉じていた目を少しだけ開けた。
なッ、なんだこいつらは!
慌てて首を持ち上げると、雪だるまを小さくしたようなものが集まって騒いでいる。
持ち上げた首をゆっくり下ろした。「なんか逝っちまったようだなぁ、ごめんなチー坊。叔母さんのいい子になるんだぞ」と静かに目を閉じた。
死を迎えようと覚悟する平次郎の思いを汲み取ったのか、集まったモリコたちは声を出すことをやめ、辺りを静寂が包み込んでいく。が、微かに「ソウキサマ」という音が聞こえると、声をひそめていたモリコたちが「蒼樹様だ! 蒼樹様、蒼樹様!」とはしゃぎ出した。
三途の川の向こうの鬼でも来たか―― ん? ソウキ…… あいつの主か?
平次郎は目を閉じたまま、近づいて来る蒼樹様の気配を感じ取ろうとした。だが、気配がない。死んだふりでもしてやろうと思っていたのだが堪らえきれずにうっすらと目を開けた。
「キャンッ!」
断末魔の声を上げた。白目を見開き、あらぬ方向へと黒目を向けて腹を上に硬直した。
余りにも大きく、美しいほどに白く輝く山犬の顔が目の前にあった。
「臭うなぁ、人臭さがプンプンする。化け狸か」
蒼樹様は唸った。
平次郎は、あまりの恐怖に喉が渇いて返すことができなかった。
「悪さをしようと、ここに潜り込んだ半妖か」
返さなくては喰い殺される! そう思った平次郎は話をしようと生唾を飲み込んだ。が、声は出ずに、ただ頷いただけだった。
「ほう、やはりなぁ。ならば喰い殺すまで」
蒼樹様は首を引きちぎろうと平次郎の腹を前足で押さえた。
――そこで、真打ちの登場である。
「蒼樹様、お待ちください!」慌てた声を出して駆け寄った。
「お、蒼太、どうした。顔は出さんと思っていたが」
「あッ、はい。その狸がここに紛れ込んだと行平様からお聞きし、慌てて参りました。蒼樹様、それは半妖ではございません。ただのもどきです」
「ああ、見れば分かる。人臭いので、どうせお前の後をつけて来たのだろうと処分するところだ」
跪いて「申し訳ございません。私の不覚の致すところです」と、深く頭を垂れた。
「お前では太刀打ちできんぞ。この古狸は人に成りすぎている」
「あ、いや、実は私の仕事を手伝わせております」
「嘘だろ」
「はい」
おいッ、認めるなよ! と、まな板の鯉状態の平次郎ではあったが、さすがに将門様とは違い、私への突っ込みは若干の押しの強さがあったという。
「なんで助けたい」
「その狸には、いや、その者には小学校一、二年程の娘がいます。今朝、その子に『パパをお願いします』と笑顔で言われました」
「そうか、ならば連れて行け」
「え、良いのですか?」キョトンと蒼樹様を見上げた。
「ああ、理由があるなら構わん」
「か、構わんって……」
「変なところだな、妙に造りがでかい…… 巨人でも参拝すんのか?」
――「お参りにでも来たか」
その声は背後から聞こえてきた。
とても人の声とは思えぬような低い振動に毛が逆立つも、恐る恐る振り返った。
「キャンッ!」
断末魔に近い声を発して後ずさり石段へと張り付いた。余りの恐怖に逃げることも化けることもできずに震えることさえも忘れて、ただただ息を殺して見上げた。
驚くほど巨大な馬に、驚くほど巨大な黒い鬼が跨って平次郎を見ていた。
「古狸が、今さら俺等を初めて見たと言うわけでもあるまい」と、鬼が馬から下りて来る。
その背丈は十メートル以上もあり、平次郎は腹を上に白目を見開き、あらぬ方へと黒目を向けた。余りの恐怖に意識を失う一歩手前だった。いや、既に意識がないといってもいい状態である。
その、黒くて巨大な鬼は平次郎の前まで来て胡座をかいて座った。
「そうか、迷い込んだか。ここらの狸で我等を恐れるものなどおらんからなぁ。山神様が近くにいると思って皆いい気になっとる。いやぁ、殊勝な狸だ」
その黒くて巨大な鬼は平次郎の首の後ろを注意深く掴んでゆっくり持ち上げた。
「
石段を下りてきた鬼が声をかけてくる。
「あッ、将門様。これを見て下さい」
行平と呼ばれた鬼は、将門と呼ばれた鬼へ平次郎を見せた。
「――なんだ。ただの狸ではないか」
「迷い込んだらしく、私を見て恐怖の余り動けなくなりました」
「ほ、本当か」
「はい」
「ほう、すれてないのう。いやぁ、殊勝殊勝。――そうか、せっかく狸らしい狸に会ったのだから鍋にでもしてやれ。そいつも喜ぶ」
将門と呼ばれた鬼は平次郎を見ながら感心したかのように言った。
「狸が聞いたら、疑問を抱くと思いますが――」薄らぐ意識の中、かなり押しは弱いが、平次郎は突っ込みらしきものを入れたとのことだった。もちろん、心の呟きである。
「狸を食うのですか」
「昔は、よく食ったもんだ。結構上手いぞ」
「これが、ですか」と、行平と呼ばれた鬼は平次郎を顔の前まで持ち上げた。
平次郎は死んだふりをした。
「なんなら、わしが捌いてやろうか。――って、そんなことを言ってる場合ではなかった。御蔵へ参るぞ」
「御蔵へ?」
「ああ、ものの具を脱いで関東へ行かねばならん」
「さっき履いたばかりではございませぬか」
「ああ、久しぶりに日高見の山々を駆け回ろうと思っていたのだがなぁ。ま、仕方あるまい。――で、行平。飯能というところを知ってるか」
「ハンゴウ? キャンプで飯を炊くやつですか」
「もう、いい」
行平と呼ばれた鬼は「死んだふりはやめろ」と平次郎を石段の上に置き、馬に跨って周りの景色へと溶けるように姿を消していった。
暫くの間、平次郎は動けずに横たわっていたが、突然起き上がり石段から飛び下りて深い森の中へ一目散に駆け込んだ。
その頃、家に着いた私は慌ただしく片付けをしている母の後ろ姿に首を捻っていた。
訝しげに訊くと、昔暮らしていた里の家に引っ越すことにしたと言う。「歳も歳なので畑を耕しながら土へ帰る用意だよ」と笑った。
「そうそう、丁度よかった。男手が欲しかったとこだったの」
久しぶりに昔住んでいた里の家に足を踏み入れた。
「結構手入れをしてたんだね」
「そうよ、月に一度は通って一日、二日は泊まっていたの」
そうか、方太も関東に来てしまったからなぁ……
母から頼まれた力仕事を終え、二人は里の家を後にして屋根付き商店街の家に向かった。
「ホント、助かった。男の子は頼りになるね。でも、ごめんね。忙しいのに付き合わせちゃって」
「いいよ、蒼樹様のところには行かないから夜まで暇だった」
――「あら? 蒼太、あれってものの具じゃないかしら」
母と同じように目を細めた。
「あぁ、ホントだ」
私たちを見つけたものの具は背景に溶けるように消していた姿を少しずつ現しながら近づいて来た。
「さすがは紅葉殿、遠くから良く分かりましたね。――蒼太、久しぶりだなぁ」
「行平様でしたか、お久しぶりです」
平次郎は必死に森を駆けていた。
恐れ慄いた御社から少しでも離れたかったという。
だが、空腹のあまり力尽きたように欅の大樹の前で足を止め、横になるとそのまま死んだように眠ってしまったらしい。
三十分ほどして平次郎はうっすら目を開けた。だが、立ち上がるほどの力もなく、横になったままボーッと森の樹々を見ていた。
「ここはどこだ? 確か、あの社から飛び出して無我夢中で走ったんだ。……なんか、このまま逝っちまいそうだなぁ。とんでもないところに来ちまった」と力なく口にして、また目を閉じた。
少し経つと「お前、ここのものではないな!」と、鳥の囀りのような、人の赤子のようななんとも不思議な声が聞こえた。
平次郎は閉じていた目を少しだけ開けた。
なッ、なんだこいつらは!
慌てて首を持ち上げると、雪だるまを小さくしたようなものが集まって騒いでいる。
持ち上げた首をゆっくり下ろした。「なんか逝っちまったようだなぁ、ごめんなチー坊。叔母さんのいい子になるんだぞ」と静かに目を閉じた。
死を迎えようと覚悟する平次郎の思いを汲み取ったのか、集まったモリコたちは声を出すことをやめ、辺りを静寂が包み込んでいく。が、微かに「ソウキサマ」という音が聞こえると、声をひそめていたモリコたちが「蒼樹様だ! 蒼樹様、蒼樹様!」とはしゃぎ出した。
三途の川の向こうの鬼でも来たか―― ん? ソウキ…… あいつの主か?
平次郎は目を閉じたまま、近づいて来る蒼樹様の気配を感じ取ろうとした。だが、気配がない。死んだふりでもしてやろうと思っていたのだが堪らえきれずにうっすらと目を開けた。
「キャンッ!」
断末魔の声を上げた。白目を見開き、あらぬ方向へと黒目を向けて腹を上に硬直した。
余りにも大きく、美しいほどに白く輝く山犬の顔が目の前にあった。
「臭うなぁ、人臭さがプンプンする。化け狸か」
蒼樹様は唸った。
平次郎は、あまりの恐怖に喉が渇いて返すことができなかった。
「悪さをしようと、ここに潜り込んだ半妖か」
返さなくては喰い殺される! そう思った平次郎は話をしようと生唾を飲み込んだ。が、声は出ずに、ただ頷いただけだった。
「ほう、やはりなぁ。ならば喰い殺すまで」
蒼樹様は首を引きちぎろうと平次郎の腹を前足で押さえた。
――そこで、真打ちの登場である。
「蒼樹様、お待ちください!」慌てた声を出して駆け寄った。
「お、蒼太、どうした。顔は出さんと思っていたが」
「あッ、はい。その狸がここに紛れ込んだと行平様からお聞きし、慌てて参りました。蒼樹様、それは半妖ではございません。ただのもどきです」
「ああ、見れば分かる。人臭いので、どうせお前の後をつけて来たのだろうと処分するところだ」
跪いて「申し訳ございません。私の不覚の致すところです」と、深く頭を垂れた。
「お前では太刀打ちできんぞ。この古狸は人に成りすぎている」
「あ、いや、実は私の仕事を手伝わせております」
「嘘だろ」
「はい」
おいッ、認めるなよ! と、まな板の鯉状態の平次郎ではあったが、さすがに将門様とは違い、私への突っ込みは若干の押しの強さがあったという。
「なんで助けたい」
「その狸には、いや、その者には小学校一、二年程の娘がいます。今朝、その子に『パパをお願いします』と笑顔で言われました」
「そうか、ならば連れて行け」
「え、良いのですか?」キョトンと蒼樹様を見上げた。
「ああ、理由があるなら構わん」
「か、構わんって……」