四十三 兆し(二)
文字数 2,709文字
「んッ!」僅かに身構えた。十数メートル横を何かが通り過ぎた。凄い速さで丘の下に消え、同じようにクォーンとけたたましい音を響かせる。
「何! 援軍?」
慌てる美波に、お姉は「沙夜よ」と返した。
そうそう物事に動じることのない美波だが、さすがに沙夜さんの登場には思考がついていかないのだろう、見返したお姉には何も言わずに向き直って食い入るように沙夜さんの後ろ姿を目で追っている。
思いの外冷静に、私も沙夜さんを目で追っていた。
「先輩―― 後ろの人は速いし、きっとハルちゃんたちに追いつく。でも、一匹目にはとても間に合わない」
美波が声を震わせた。
美波の読み、計算能力は速さ精度ともに人並み外れて高い。どんなケースに於いても不思議なほどに結果を言い当てる。それ故にお姉はブレーンに抜擢した。
そんな美波の言葉にお姉は焦った表情を浮かべた。
――笑ってしまった。
そんな状況ではないのだが、いつでも冷静さを装うお姉の焦った顔を久々に見て思わず笑みを浮かべた。
不思議な感覚だった。
研究所で私を見ていた女童。その女童と同じ目をした麟ちゃん。光浩君を真っすぐに見つめ、そこへと向って行く沙夜さん。そして、もう一つ―― ここは何かに守られていると、そう感じていた。だから笑みを浮かべながら皆んなに目を向けていられた。
そんな私に「……直?」と、お姉が訝しげな顔を向けてくる。
「山神が麟ちゃんの横で寝てる」
遠く、光浩君を見据えたまま返した。
「見えてるの?」
周りに聞こえないよう、小さな声で問いかけてくる。
「いや、見えない。そんな気がしただけだよ。お姉は見えているのか」
「――気配は、なんとなく」と、さらに声をひそめる。
「遅れを取るでないぞッ! 何があってもお手を汚させるな。またも遅れを取ったら平氏の名折れぞ」と無線器に叫び気が気ではない将門のお爺ちゃん。自分の出した結論に目を塞ごうとする美波。光浩君に向かう沙夜さんやハルちゃんとナッちゃんなんかはその横顔が一緒に飛んでいるかのように見えていた。傍らではお姉が戸惑いを隠せないまま光浩君たちに向き直り、そんなお姉を何も言わずに里絵が目で追っている。
全てが見えている。何台かのカメラで撮った画が送られてくる。そんな感じだった。
そして――
一匹目にまだ間に合うと、いや、間に合わせようとハルちゃんたちは持てる最大の加速を出し、その横を「お前たちは二匹目を」と、それ以上の加速で沙夜さんが追い抜いて行く。『速い―― 沙夜様、前よりずっと速くなってる!』と、ハルちゃんとナッちゃんは動揺しながらも指示に従って減速を始め、脇と腰の両側に取り付けたタンクからガスを吐出して巧みに方向を変える。
そんな二人の、心の声さえも聴こえてくる。
「凄いッ、凄いよ沙夜先輩! 計算の域を超えてる。間に合っちゃう」
予想を超えた沙夜さんの速さに美波は興奮し、その沙夜さんは光浩君まで二十メートル程に迫っていた熊の前に踊り出るようにして立ち塞がった。立ち上がると三メートル近くにもなる灰色熊の首を青く光る太刀で一瞬に切り落とす。血しぶきの中「浩兄様、すぐに戻ります」と言い残し、二匹目と対峙しているハルちゃんたちの横を三匹目に向かって行く。
そんな沙夜さんの後ろ姿を見ながら「あれでは、いつまで経っても嫁に行けないなぁ」と光浩君は呆れ顔に口にし、傍らの麟ちゃんは「そうですね」と言いたげにクスッと笑みを零している。
ありえない。俺は、いったいどこにいて……
事後処理が始まり、沙夜さんたちは一本桜のところに戻って来た。
「馬鹿者が! また、沙夜様のお手を汚しおって」
将門のお爺ちゃんはハルちゃんとナッちゃんの前に進み出て叱責を始めた。
確かに沙夜さんは全身を返り血に染め、それはハルちゃんやナッちゃんの比ではない。
「爺、もういい」
「ですが、沙夜様に二体も処理させ、小奴らは二人で一体とは申し開きがたちませぬ」
「しばらくここを離れていた。仕方がない」
「乳母として私めの勤めが至らぬ証拠、何卒お赦しを」
将門のお爺ちゃんは深く頭を垂れた。
乳母…… 将門のお爺ちゃんが沙夜さんを育てたってことか?
「それより直君、美波、里絵ごめんね。純菜と二人で話をしてからと思っていたのに出だしからこんなで」
が、全身を返り血に染めた沙夜さんを前に返す言葉がない。
「沙夜様、今日は如何いたしましょう。随分とお時間も過ぎてしまいましたが」
「そうですね」と返し、沙夜さんはお姉に顔を向けた。そこに、本当の沙夜さんの一端を垣間見た美波が「わ、私は大丈夫ですよ、何時まででも」と、興奮冷めやらぬ顔で割って入った。「サトちゃんも、まだ大丈夫だよね」と里絵にも賛同を求める。
しかし、里絵の歯切れは悪い。
「私は、ただあたふたして何もできなくて。なんか、整理がつけられないというか」と、らしくもなく俯いてしまう。
「美波、今日はやめよう。――いいよね沙夜」
「分かった。私もこの格好ではさすがに憚れる」
美波は冷めやらぬ探究心をどうしても押さえ込むことができないのだろう「先輩、帰ってもいいですけど、御厨のこと、日高見のことちゃんと説明してくださいねッ」と食い下がった。
すると「そ、そこなんですよ」と、突然に里絵が顔を上げた。
「わッ! 急に何?」美波は引いた。
深く沈んだはずの里絵の顔はいつもの里絵に戻っていた。
そう、私への敵意をいつでも忘れない! そんな臭いをプンプンさせている。
「美波ちゃんはやっぱ凄いです。ちゃんと見ていたんですね、直先輩と室長のこと―― な、なんか夫婦みたいに見えちゃって。ホント、なんなんですかこの人ッ!」
指をさし、凄い形相で睨めつけてくる。
「なんだよ、そこなのかよ整理がつかないって。……っていうか、そんな場面があったか?」
「美波先輩はいいんですか、ハッキリさせなくて」
む、無視かよ……
「いやぁ、私はなんていうの、研究対象が増えたというか――」
興奮冷めやらぬのおかぶを里絵に奪われ、美波はモチベーションを下げて返した。
お姉は「研究対象だったの、私」と呆れ顔を向けている。
「美波ちゃん、気が多くないですか」そんな興奮気味の問いかけにも「サトが一途過ぎるんだよ」と美波は力なく返した。
「だから、どこにあったんだよそんな場面が―― っていうか、また聞いてねえよ」
「ハイ、ハーイ。もう終了。帰るよーッ」
お姉は締めた。
将門のお爺ちゃんとナッちゃんは御厨に残り、関東組にハルちゃんを加えた五人が雫石への帰途に就いた。連結線の車内ではお姉が雫石での段取りを里絵に指示しただけで誰も言葉を交わすことはなかった。
「何! 援軍?」
慌てる美波に、お姉は「沙夜よ」と返した。
そうそう物事に動じることのない美波だが、さすがに沙夜さんの登場には思考がついていかないのだろう、見返したお姉には何も言わずに向き直って食い入るように沙夜さんの後ろ姿を目で追っている。
思いの外冷静に、私も沙夜さんを目で追っていた。
「先輩―― 後ろの人は速いし、きっとハルちゃんたちに追いつく。でも、一匹目にはとても間に合わない」
美波が声を震わせた。
美波の読み、計算能力は速さ精度ともに人並み外れて高い。どんなケースに於いても不思議なほどに結果を言い当てる。それ故にお姉はブレーンに抜擢した。
そんな美波の言葉にお姉は焦った表情を浮かべた。
――笑ってしまった。
そんな状況ではないのだが、いつでも冷静さを装うお姉の焦った顔を久々に見て思わず笑みを浮かべた。
不思議な感覚だった。
研究所で私を見ていた女童。その女童と同じ目をした麟ちゃん。光浩君を真っすぐに見つめ、そこへと向って行く沙夜さん。そして、もう一つ―― ここは何かに守られていると、そう感じていた。だから笑みを浮かべながら皆んなに目を向けていられた。
そんな私に「……直?」と、お姉が訝しげな顔を向けてくる。
「山神が麟ちゃんの横で寝てる」
遠く、光浩君を見据えたまま返した。
「見えてるの?」
周りに聞こえないよう、小さな声で問いかけてくる。
「いや、見えない。そんな気がしただけだよ。お姉は見えているのか」
「――気配は、なんとなく」と、さらに声をひそめる。
「遅れを取るでないぞッ! 何があってもお手を汚させるな。またも遅れを取ったら平氏の名折れぞ」と無線器に叫び気が気ではない将門のお爺ちゃん。自分の出した結論に目を塞ごうとする美波。光浩君に向かう沙夜さんやハルちゃんとナッちゃんなんかはその横顔が一緒に飛んでいるかのように見えていた。傍らではお姉が戸惑いを隠せないまま光浩君たちに向き直り、そんなお姉を何も言わずに里絵が目で追っている。
全てが見えている。何台かのカメラで撮った画が送られてくる。そんな感じだった。
そして――
一匹目にまだ間に合うと、いや、間に合わせようとハルちゃんたちは持てる最大の加速を出し、その横を「お前たちは二匹目を」と、それ以上の加速で沙夜さんが追い抜いて行く。『速い―― 沙夜様、前よりずっと速くなってる!』と、ハルちゃんとナッちゃんは動揺しながらも指示に従って減速を始め、脇と腰の両側に取り付けたタンクからガスを吐出して巧みに方向を変える。
そんな二人の、心の声さえも聴こえてくる。
「凄いッ、凄いよ沙夜先輩! 計算の域を超えてる。間に合っちゃう」
予想を超えた沙夜さんの速さに美波は興奮し、その沙夜さんは光浩君まで二十メートル程に迫っていた熊の前に踊り出るようにして立ち塞がった。立ち上がると三メートル近くにもなる灰色熊の首を青く光る太刀で一瞬に切り落とす。血しぶきの中「浩兄様、すぐに戻ります」と言い残し、二匹目と対峙しているハルちゃんたちの横を三匹目に向かって行く。
そんな沙夜さんの後ろ姿を見ながら「あれでは、いつまで経っても嫁に行けないなぁ」と光浩君は呆れ顔に口にし、傍らの麟ちゃんは「そうですね」と言いたげにクスッと笑みを零している。
ありえない。俺は、いったいどこにいて……
事後処理が始まり、沙夜さんたちは一本桜のところに戻って来た。
「馬鹿者が! また、沙夜様のお手を汚しおって」
将門のお爺ちゃんはハルちゃんとナッちゃんの前に進み出て叱責を始めた。
確かに沙夜さんは全身を返り血に染め、それはハルちゃんやナッちゃんの比ではない。
「爺、もういい」
「ですが、沙夜様に二体も処理させ、小奴らは二人で一体とは申し開きがたちませぬ」
「しばらくここを離れていた。仕方がない」
「乳母として私めの勤めが至らぬ証拠、何卒お赦しを」
将門のお爺ちゃんは深く頭を垂れた。
乳母…… 将門のお爺ちゃんが沙夜さんを育てたってことか?
「それより直君、美波、里絵ごめんね。純菜と二人で話をしてからと思っていたのに出だしからこんなで」
が、全身を返り血に染めた沙夜さんを前に返す言葉がない。
「沙夜様、今日は如何いたしましょう。随分とお時間も過ぎてしまいましたが」
「そうですね」と返し、沙夜さんはお姉に顔を向けた。そこに、本当の沙夜さんの一端を垣間見た美波が「わ、私は大丈夫ですよ、何時まででも」と、興奮冷めやらぬ顔で割って入った。「サトちゃんも、まだ大丈夫だよね」と里絵にも賛同を求める。
しかし、里絵の歯切れは悪い。
「私は、ただあたふたして何もできなくて。なんか、整理がつけられないというか」と、らしくもなく俯いてしまう。
「美波、今日はやめよう。――いいよね沙夜」
「分かった。私もこの格好ではさすがに憚れる」
美波は冷めやらぬ探究心をどうしても押さえ込むことができないのだろう「先輩、帰ってもいいですけど、御厨のこと、日高見のことちゃんと説明してくださいねッ」と食い下がった。
すると「そ、そこなんですよ」と、突然に里絵が顔を上げた。
「わッ! 急に何?」美波は引いた。
深く沈んだはずの里絵の顔はいつもの里絵に戻っていた。
そう、私への敵意をいつでも忘れない! そんな臭いをプンプンさせている。
「美波ちゃんはやっぱ凄いです。ちゃんと見ていたんですね、直先輩と室長のこと―― な、なんか夫婦みたいに見えちゃって。ホント、なんなんですかこの人ッ!」
指をさし、凄い形相で睨めつけてくる。
「なんだよ、そこなのかよ整理がつかないって。……っていうか、そんな場面があったか?」
「美波先輩はいいんですか、ハッキリさせなくて」
む、無視かよ……
「いやぁ、私はなんていうの、研究対象が増えたというか――」
興奮冷めやらぬのおかぶを里絵に奪われ、美波はモチベーションを下げて返した。
お姉は「研究対象だったの、私」と呆れ顔を向けている。
「美波ちゃん、気が多くないですか」そんな興奮気味の問いかけにも「サトが一途過ぎるんだよ」と美波は力なく返した。
「だから、どこにあったんだよそんな場面が―― っていうか、また聞いてねえよ」
「ハイ、ハーイ。もう終了。帰るよーッ」
お姉は締めた。
将門のお爺ちゃんとナッちゃんは御厨に残り、関東組にハルちゃんを加えた五人が雫石への帰途に就いた。連結線の車内ではお姉が雫石での段取りを里絵に指示しただけで誰も言葉を交わすことはなかった。