十六 決戦の時?
文字数 3,190文字
「兄ちゃん、まだ悩んでるの?」
方太が呆れ顔を向けてくる。
「そりゃそうだろう」座椅子にもたれたまま気が抜けた返事を返した。
光浩様から恭子様への御印を預かった次の日、私は飯能に戻って来ていた。だが、情けないことにもう三日もうじうじと悩んでいる。
「恭子様は兄ちゃんのこと分かってるんだよ、話をして手を握らせてもらえばいいじゃないか」
「そう簡単にいくかよ」
やはり、気が抜けた返事を返した。
簡単なことだと言い放つ方太の奴に「俺は三年も恭子様を遠くから見守ってきてんだ。五メートル以内にさえ行ったことがないんだ。今さら恭子様の身体に触れろって言われてもそう簡単にいくか。ましてや、て、手を握るなんて――」と胸の中で毒づいてみても「手を握るなんて――」というところで言葉が詰まる。渡す瞬間を想像しては顔を赤らめる。どうやら、それに浸って二、三十分は現実社会に戻ってこないらしい。見守りに出ても心ここにあらずで「僕に連れられて歩く始末だったんだ」と方太は呆れていた。
分かってはいる。分かってはいるがやめられない。っていうか、そうなるんだからしょうがない。
「兄ちゃん、大変だ! 恭子様が」
「え、もう出るのか? 早くないか?」
「違う、恭子様の家に警官が来てる」
窓のところに行くと、家の門の前で恭子様と警官が話をしていた。
あれは、この前の化け狐。何しに来たんだ……
訝しげに見ていると、警官をその場に待たせて恭子様が家の中に入って行った。
「……おそらく警察に行くんだ。方太見ててくれ、俺は衣装を用意してくる」
方太は「分かった」と窓の外に向き直ったが、すぐに「兄ちゃん。ちょっと来て」と呼び止めた。
衣装部屋に行きかけた私が窓のところに戻ると、警官が古びたコートを羽織った如何にも刑事という出で立ちの男に敬礼をしていた。
「なんで平次郎の奴が…… そうか、御厨に探りを入れようと何か仕掛けてるんだ」
恭子様に接触しようとしている平次郎を見て何日かぶりに我に返った気がした。
「あれって、緑姉ちゃんについてった狸の人だよね」
「ああ、ただのエロ狸だ。方太、お前は恭子様について一緒に来い。俺は警察へ先に行って用意してる。いつものところに車を駐めておく」
そう言い残し、階段を駆け下りた。「うじうじ悩んでる暇なんてない。蒼太、しっかりしろ!」と喝を入れた。
東飯能署の近くに車を駐め、警官に化けて恭子様たちが来るのを待った。
「化けても消えてない――」
掌の御印を見ながらそう言うと「蒼太、落ち着け。これは御印を渡すチャンスかもしれない」と、自分に言い聞かせるように続けた。
五分程待つと、恭子様と平次郎が姿を見せた。
二人が署内へ入ると間を置かずに方太が車に乗り込んで来る。
「さっきの警官に化けたんだね」
「ああ。――方太、あいつは化け狐だぞ」
「え、あの人が」
「前に話した紅姉と探りを入れた時にいた狐があいつだ。バイクで来てたから外回りだって思った。良かったよ一緒じゃなくて」
「さすがだね、兄ちゃんは」
いつもの私に戻っていると方太は胸を撫で下ろしている。
「方太、俺は先に行く。お前は原付免許のことを聞きに来たということにして後から来い。平次郎に面が割れてるから、車の中の物を適当に見繕って化けろ」
そう指示を出し、辺りを窺いながら車を降りた。
署内に入るとフロアを見回し、相談窓口の長椅子に座る恭子様を見つけた。
「平次郎の奴、いったいどんな手を使って恭子様を」
ブツブツ言いながらフロアの隅へ向かうと「吾野さん、派出所に行ったんじゃないんですか」と、通りすがりの婦警が声をかけてきた。
唖然とした。
ば、化けるならもっと…… 無意識に呟いた。
声をかけてきた女は丸々と肥った化け狸で、制服のボタンが今にもはち切れそうになっている。反射的に目を細めて、僅かに顔を引いた。それほどまでにパンパンしていた。そして、スカートの下からのぞかせているふくらはぎが、琴線に――
そう、まるでバレーボールにストッキングを被せたかのようなのだ。思わず、しゃがんで撫でてしまいそうになった。
このふくらはぎの中、何入ってんだろう…… 空気? じゃないよなぁ。しかし、タイツもタイツだ。よくもまぁ、ここまでフィットできるもんだ。黒だったら、間違いなく見事なグラデーションを見せてるだろうなぁ。
余計なことまで考えさせられた。
私が見惚れていると思っているのだろうか、笑みを浮かべた女は周りに見られていないことを確かめ、小声で「ちょっと」と目配せをした。目に見えぬほどの速さで私の右手を掴んだ。
「あッ! 御印が」心臓が止まった。
女は、骨が折れるのではないかと思うほどの力で私の指を握っていた。
あぁぁぁ、良かった―― こんなのに御印渡したら蒼樹様に喰い殺される。
そう呟きながら女のなすがままに手を引かれて行った。
人気のない給湯室に連れ込まれると、あろうことか女は顔だけ出して周りを窺った。
恐怖を感じた。ホントまずいぞ、これ! と、たじろいだ。
その時だった。
「おーい、誰かいないか」と、離れたところで声が聞こえた。その声の主が「おーい。おーい」と連呼しながら給湯室の方に近づいて来る。
今にも私に抱きつこうとしていたと思われる女は「ちッ!」と舌打ちし「バーコードか」と、吐き捨てるように言って振り返った。瞬時に面持ちを変えたのだろう「はぁーい、名栗課長。なんでしょう」と、如何にも好意的な声を出し、その体格からは一切想像できないほどの軽快な足取りで給湯室を出て行く。
「た、助かった」
力なくシンクにもたれかかった。
が、すぐだった。
「もう、何が藤原よッ。こんな山奥まで何しに来るかなぁ、ったく!」と御立腹顔ながらも、やはり軽快な足取りで女が戻って来た。
恐る恐る「どうしたの?」と声をかけると、女は「藤原が来たのよッ」と、吐き捨てるように言った。
「藤原?」キョトンとした顔を向けた。
「藤原玄明! 議員に成り立てのくせに御厨グループがバックにいるらしくて、将来の首相候補だって騒がれていい気になってる奴よ」
「そ、そうなんだ」
「それも、こともあろうにこの私にあのイケメン振った奴へお茶を持って行けだって。ホント、勘弁してほしい。絶対バーコードリーダーくっつけてやる!」
女は腹立たしいという顔をすると、そのバレーボールのようなふくらはぎの足で横の冷蔵庫を蹴りつけた。反動で開いた扉から当たり前のようにお茶を取り出した。
呆気に取られながらも、もしかして方太の奴―― と嫌な予感が走った。
「いいよ、そのお茶は俺が持っていくから」
「え、いいの? ああ、助かった。私、あの偽イケメン面を見てるとイラッてきちゃうの」
そう言うと、女はお茶を淹れる手を止めた。「私は、そのシュッとした吾野さんみたいな顔が好き」と、笑った。
が、またすぐに面持ちを変えて続ける。
「でも、昨日の希実とのことは後でゆっくり聞かせてもらいますからね。こう見えても私には情報屋がいるの。甘く見ないで」
淹れたてのお茶を持って藤原玄明が通された応接に向った。
「希実とのことって、なんだ? 俺、なんかしたっけか……」
化け慣れない者に化け、挨拶以外の言葉を初めて交わしたせいか困惑顔で向かっていた。――おそらくこれが紅姉が言っていた「化け惑いには、気をつけろ」というものなのだろう。
応接室の前まで行くと見張りの若い警官が「吾野さんが持って来たんですか、ご苦労様です」と、お茶を受け取ろうと手を伸ばしてきた。
「お、ご苦労さん。いいよ、俺が出すから。で、中には議員の他にも誰かいるのか?」
「いいえ、議員お一人です。ちょっとだけ名栗総務課長が居られましたが、お茶の次は署長か! と焦った顔して玄関の方へ行かれました」
余分なお茶を若い警官に渡して応接に入った。
方太が呆れ顔を向けてくる。
「そりゃそうだろう」座椅子にもたれたまま気が抜けた返事を返した。
光浩様から恭子様への御印を預かった次の日、私は飯能に戻って来ていた。だが、情けないことにもう三日もうじうじと悩んでいる。
「恭子様は兄ちゃんのこと分かってるんだよ、話をして手を握らせてもらえばいいじゃないか」
「そう簡単にいくかよ」
やはり、気が抜けた返事を返した。
簡単なことだと言い放つ方太の奴に「俺は三年も恭子様を遠くから見守ってきてんだ。五メートル以内にさえ行ったことがないんだ。今さら恭子様の身体に触れろって言われてもそう簡単にいくか。ましてや、て、手を握るなんて――」と胸の中で毒づいてみても「手を握るなんて――」というところで言葉が詰まる。渡す瞬間を想像しては顔を赤らめる。どうやら、それに浸って二、三十分は現実社会に戻ってこないらしい。見守りに出ても心ここにあらずで「僕に連れられて歩く始末だったんだ」と方太は呆れていた。
分かってはいる。分かってはいるがやめられない。っていうか、そうなるんだからしょうがない。
「兄ちゃん、大変だ! 恭子様が」
「え、もう出るのか? 早くないか?」
「違う、恭子様の家に警官が来てる」
窓のところに行くと、家の門の前で恭子様と警官が話をしていた。
あれは、この前の化け狐。何しに来たんだ……
訝しげに見ていると、警官をその場に待たせて恭子様が家の中に入って行った。
「……おそらく警察に行くんだ。方太見ててくれ、俺は衣装を用意してくる」
方太は「分かった」と窓の外に向き直ったが、すぐに「兄ちゃん。ちょっと来て」と呼び止めた。
衣装部屋に行きかけた私が窓のところに戻ると、警官が古びたコートを羽織った如何にも刑事という出で立ちの男に敬礼をしていた。
「なんで平次郎の奴が…… そうか、御厨に探りを入れようと何か仕掛けてるんだ」
恭子様に接触しようとしている平次郎を見て何日かぶりに我に返った気がした。
「あれって、緑姉ちゃんについてった狸の人だよね」
「ああ、ただのエロ狸だ。方太、お前は恭子様について一緒に来い。俺は警察へ先に行って用意してる。いつものところに車を駐めておく」
そう言い残し、階段を駆け下りた。「うじうじ悩んでる暇なんてない。蒼太、しっかりしろ!」と喝を入れた。
東飯能署の近くに車を駐め、警官に化けて恭子様たちが来るのを待った。
「化けても消えてない――」
掌の御印を見ながらそう言うと「蒼太、落ち着け。これは御印を渡すチャンスかもしれない」と、自分に言い聞かせるように続けた。
五分程待つと、恭子様と平次郎が姿を見せた。
二人が署内へ入ると間を置かずに方太が車に乗り込んで来る。
「さっきの警官に化けたんだね」
「ああ。――方太、あいつは化け狐だぞ」
「え、あの人が」
「前に話した紅姉と探りを入れた時にいた狐があいつだ。バイクで来てたから外回りだって思った。良かったよ一緒じゃなくて」
「さすがだね、兄ちゃんは」
いつもの私に戻っていると方太は胸を撫で下ろしている。
「方太、俺は先に行く。お前は原付免許のことを聞きに来たということにして後から来い。平次郎に面が割れてるから、車の中の物を適当に見繕って化けろ」
そう指示を出し、辺りを窺いながら車を降りた。
署内に入るとフロアを見回し、相談窓口の長椅子に座る恭子様を見つけた。
「平次郎の奴、いったいどんな手を使って恭子様を」
ブツブツ言いながらフロアの隅へ向かうと「吾野さん、派出所に行ったんじゃないんですか」と、通りすがりの婦警が声をかけてきた。
唖然とした。
ば、化けるならもっと…… 無意識に呟いた。
声をかけてきた女は丸々と肥った化け狸で、制服のボタンが今にもはち切れそうになっている。反射的に目を細めて、僅かに顔を引いた。それほどまでにパンパンしていた。そして、スカートの下からのぞかせているふくらはぎが、琴線に――
そう、まるでバレーボールにストッキングを被せたかのようなのだ。思わず、しゃがんで撫でてしまいそうになった。
このふくらはぎの中、何入ってんだろう…… 空気? じゃないよなぁ。しかし、タイツもタイツだ。よくもまぁ、ここまでフィットできるもんだ。黒だったら、間違いなく見事なグラデーションを見せてるだろうなぁ。
余計なことまで考えさせられた。
私が見惚れていると思っているのだろうか、笑みを浮かべた女は周りに見られていないことを確かめ、小声で「ちょっと」と目配せをした。目に見えぬほどの速さで私の右手を掴んだ。
「あッ! 御印が」心臓が止まった。
女は、骨が折れるのではないかと思うほどの力で私の指を握っていた。
あぁぁぁ、良かった―― こんなのに御印渡したら蒼樹様に喰い殺される。
そう呟きながら女のなすがままに手を引かれて行った。
人気のない給湯室に連れ込まれると、あろうことか女は顔だけ出して周りを窺った。
恐怖を感じた。ホントまずいぞ、これ! と、たじろいだ。
その時だった。
「おーい、誰かいないか」と、離れたところで声が聞こえた。その声の主が「おーい。おーい」と連呼しながら給湯室の方に近づいて来る。
今にも私に抱きつこうとしていたと思われる女は「ちッ!」と舌打ちし「バーコードか」と、吐き捨てるように言って振り返った。瞬時に面持ちを変えたのだろう「はぁーい、名栗課長。なんでしょう」と、如何にも好意的な声を出し、その体格からは一切想像できないほどの軽快な足取りで給湯室を出て行く。
「た、助かった」
力なくシンクにもたれかかった。
が、すぐだった。
「もう、何が藤原よッ。こんな山奥まで何しに来るかなぁ、ったく!」と御立腹顔ながらも、やはり軽快な足取りで女が戻って来た。
恐る恐る「どうしたの?」と声をかけると、女は「藤原が来たのよッ」と、吐き捨てるように言った。
「藤原?」キョトンとした顔を向けた。
「藤原玄明! 議員に成り立てのくせに御厨グループがバックにいるらしくて、将来の首相候補だって騒がれていい気になってる奴よ」
「そ、そうなんだ」
「それも、こともあろうにこの私にあのイケメン振った奴へお茶を持って行けだって。ホント、勘弁してほしい。絶対バーコードリーダーくっつけてやる!」
女は腹立たしいという顔をすると、そのバレーボールのようなふくらはぎの足で横の冷蔵庫を蹴りつけた。反動で開いた扉から当たり前のようにお茶を取り出した。
呆気に取られながらも、もしかして方太の奴―― と嫌な予感が走った。
「いいよ、そのお茶は俺が持っていくから」
「え、いいの? ああ、助かった。私、あの偽イケメン面を見てるとイラッてきちゃうの」
そう言うと、女はお茶を淹れる手を止めた。「私は、そのシュッとした吾野さんみたいな顔が好き」と、笑った。
が、またすぐに面持ちを変えて続ける。
「でも、昨日の希実とのことは後でゆっくり聞かせてもらいますからね。こう見えても私には情報屋がいるの。甘く見ないで」
淹れたてのお茶を持って藤原玄明が通された応接に向った。
「希実とのことって、なんだ? 俺、なんかしたっけか……」
化け慣れない者に化け、挨拶以外の言葉を初めて交わしたせいか困惑顔で向かっていた。――おそらくこれが紅姉が言っていた「化け惑いには、気をつけろ」というものなのだろう。
応接室の前まで行くと見張りの若い警官が「吾野さんが持って来たんですか、ご苦労様です」と、お茶を受け取ろうと手を伸ばしてきた。
「お、ご苦労さん。いいよ、俺が出すから。で、中には議員の他にも誰かいるのか?」
「いいえ、議員お一人です。ちょっとだけ名栗総務課長が居られましたが、お茶の次は署長か! と焦った顔して玄関の方へ行かれました」
余分なお茶を若い警官に渡して応接に入った。