六十三 蒼屋根の本家

文字数 4,898文字

          ◇



 貞任様と義家様は沙樹様との対面を果したアメリカ軍の式典を終えると、未だ関東に残る御厨の面々に指示を行うため義家様の長子義平様が預かる鎌倉に向かい、二騎が御厨に戻ったのは式典の二日後だった。

 貞任様はものの具を脱ぐために室に入り、出るまでに半日をかけ、その後体力の回復に一日半を要した。

 私たちは式典を観た翌日から作戦担当と調査担当に別れ、各々の業務習熟に入っていた。作戦担当は私を中心に道真様、塔子さん、里絵、数名の御蔵スタッフが当てられ、作戦行動時は美波と直も補佐をすることになった。美波と直は本来の目的である研究業務の応援を今まで道真様を中心に動いていた調査班と担い、調査班のまとめ役は道真様から補佐をしていた雫石研究所の胆沢所長に代わった。



 私と美波は侍所の休憩室で貞任様と沙夜を待っていた。

 手にした熱いコーヒーを口元に運び、息を吹きかけながら美波が話し始める。

「私、きっと覚めると思っていたんです。連結線から一歩外に出たら、御厨に一歩でも足を踏み入れたらそこから先は全て夢の中だって。いつかはきっと覚める夢だって。だから抵抗もなく色んなことがすんなり入ってきて、それがとっても楽しくて夢中にさえなれていたんです。この御厨の人たち、沙夜先輩や貞任様、光浩様と麟ちゃん。谷内の町の人、子どもたちでさえ皆んな妖怪か何かできっと化かされてるんだって。そして、それは雫石に戻れば覚める夢だと。少し時間がかかっても次の日の朝には、それでも覚めないなら休暇で家に帰ったときには必ず覚める夢だと。それが世界中の人たちの前に出て行って戦っている貞任様たちをテレビで観て現実だと感じたんです。自分の目で見て触っているのが夢で、なんか逆ですよね」

 美波はテーブルの上に置いたコーヒーに顔を向けていたが、視野の端にいる私をずっと見つめている。

 私は「ごめんね」の一言しか返す言葉が思い浮かばず、感のいい美波はその一言が出る前に話を変えた。

「今朝、先輩が道真様と打ち合わせをしている時、きっ子ちゃんが御所に来ていたんですよ。沙夜先輩が気を遣ってくれたみたいで、屋敷の人と一緒に」

 合わせるかのように表情を崩した。

「話はしてくれたの?」

「いえ、ダメでした。でも、とっても良く笑う子で、その笑顔を見ただけで撃沈されちゃいました。ホント可愛いんですよ。それに、肩幅なんかこれくらいしかなくてお人形さんみたいなんです。思わず抱きしめたくなっちゃいました」

「そんなに可愛いんだ」

「はい、もう食べちゃいたいくらいに!」

「……分かるなぁ。直が四、五歳の頃、やっぱりこれぐらいしか肩幅がなくて、なんか理由もなく抱きしめては頬ずりしてた。――あ、ごめん。きっ子ちゃんの話だよね」

 美波は嬉しそうな顔を向けていた。

「そうですか、直君にもそんな時が―― 想像できませんね。それにしても、ホントに良かったんですか? 直君を行かせちゃって。今日は例の話が貞任様や沙夜先輩からあるって聞いてますけど」

「あいつ乗り気じゃなくてね。前からハルたちが盛岡を案内したいって言ってたから今日にしてもらっちゃった。サトちゃんは谷内で買い物しながら連絡を待ってる」

「乗り気じゃない?」

「戸惑いなのか、何をすべきかを既に解っちゃてるのか『後でお姉に訊くからいい』ってね。なんか、私もそうしてくれると気が楽だなぁって感じでさ」

 御社ノ森での直の姿を思い出していた。

 山神様に顔をあてがう姿が胸の奥の方にずっと引っかかっている。

「盛岡か、行きたかったなぁ」

「私も行ってないし、後で一緒に行こう。サトちゃん連れて一杯やりに」

「大賛成です。今夜でも大丈夫ですよ!」

 ――「是非、ご一緒したいね」

 突然貞任様が声をかけてきた。

「貞任様!」

「お、ガテマラかい?」

 美波と顔を見合わせた。「グアテマラです」と笑いながら返した。

「そうか、ガッテマラだったなぁ」

 二人は、また顔を見合わせてクスクスと笑った。

 が、すぐに面持ちを変えた。

「お身体のほうは、もう大丈夫なのですか」

「ああ、久々に履くとさすがにこたえる。で、直行は今日いないんだって?」

「はい。ハルちゃんとナッちゃんに連れられてデートです」

 美波が茶化すように応えた。

「春菜と夏海か、あの二人は人気があるから若い奴らは羨ましがっているだろう」

「あの二人はモテるんですか」

「ああ、都会帰りで垢抜けて来たって評判らしい。で、それ以上に美波と純菜は評判らしいぞ。皆して標準語の勉強を始めたと道真が笑ってたよ」

「じゃ、お誘いが来ますね!」美波は目を輝かせた。

「いやぁ、どうだろう。春菜たちにならいざ知らず、お二方に声をかけるとなったら標準語の習熟に結構時間がかかると思うなぁ。なんせ、皆んなガッテマラが言えないんでな」

 相変わらず貞任様は気安く、何日か振りに笑った気がした。

 一笑いし終わると、貞任様は「これが、母から渡された文だ」とテーブルの上にある物を置いた。

 それは背景に溶け込んだ長さ七十センチ程の筒だった。

「この文入れはものの具と同じような表面構造を持っている。姿を消した時、合わせるかのように保護色化したらしい。七年前、こんなものを用意して向こうに行っていたんだ」

「お母様がですか」

「ああ、この前のことも既に織り込み済みだったのだろう」

「織り込み済み……」

「情けない話だ。母が向こうへ行くと言った時、私と沙夜は色々なことを問い質した。だが、向こうで状況を視てから話すの一点張りだった。話すに話せなかったのだろう、七年前の私では未熟過ぎて」

「この文には、当時聞けなかったことが書いてあったのですか」

「これは、まだ開けていない。沙夜と話をして、お前たちと一緒に見ることにした。直にあいつもここに来る。一緒に見て欲しい」

「そんな大事な物をよろしいのですか」

「構わない。一緒に見てもらいたい、それが沙夜と私の偽らざる気持ちだ。御厨のこと、向こうのことも話をさせてもらう。――純菜、御社ノ森はどうだった?」

「はい、とてもいいところでした」

「そうか――」

 貞任様は僅かに面持ちを変えた。

「正直に言うと、私も沙夜も戸惑いがある。御厨の者は幼き頃にあの森に行き、山神や麟と触れ合う。数十年に一度浩兄は姿を消し、麟は浩兄を迎えに蒼屋根に行って一年程は戻らないと云われている。だが、それ以外は御社ノ森にいて幼き者たちと触れ合う。いつもは女童の姿だが、十八、九の美しい娘になって山神とともに幼き者たちを森で遊ばせる。――あれも、山神と同じもののけの類だ」

 驚きを隠せなかった。御厨を束ねる貞任様は春菜や夏海、道真様と同じように山神様や麟ちゃんに対して絶対的な信仰を持っていると思っていた。だが、私や美波と同じで冷静に御厨を視ている。

 貞任様は続けた。

「厨川家の者は十五になると長老等に連れられて外の世界を見せられる。御厨とは違うもう一つの現実を―― そこには、麟も山神もモリコさえもいない。御神体、護神兵など以ての外だ。戸惑ったよ、正直。未だにどちらが本当なのか判らない。だが、そのもう一つの現実を視せた長老たちでさえ、外の現実を仕切ってきた者でさえ御厨という現実に浸ることを選び、それを必死になって守ろうとしている。――私も、随分と悩んだ。が、やはりここがいい」

 内心ほっとした。気持ちの片隅にあるどうしても納得し得ない部分に貞任様が整理をつけさせてくれた、そんな気がした。

「お前たちには言ってなかったが、ものの具を履いて走り回っていると恍惚の世界へと引き込まれる。大地をとてつもない速さで駆け、山を飛び越え、この蒼い空さえどこまでも駆けて行ける。望めば月へも行けるやもしれん。そのままものの具に同化されようが、喰われようが構わないとさえ思ってしまう。
 上手くは伝わらんだろうが、それは幼き頃、御社ノ森で山神や麟に接して感じたことにも似ている。――この地で遥か古より綿々と生を受け、御社ノ森を、御厨を甘受してきた者たちに、その対価を支払う時がきたのだといわれているような気がする。二つの現実に折り合いをつける時がきているのだと――
 沙夜は、綿々と受け継がれてきた厨川家の巫女の教えを受けていない。母、沙樹の代で、母が自らの手で途絶えさせた。私はそう思っている。……何かが、動き出そうとしている。そして、それが何かを私や沙夜、御厨の者たちは知らない。厨川の最後の巫女である母だけしか知らないだろう。……いや、麟は知っているかなぁ。しかし、あのとおり女童の姿になって口を固く閉ざしている」

 麟ちゃんが口を開くとき、接する者は御社ノ森の中にいて正気を失っている。そういうこと、なのだろうか……

「光浩様は、どうなのですか?」

「浩兄か―― 兄者は何も知らないだろうなぁ。私は十二の頃からずっと一緒に暮らしていて、本当の兄以上に慕っている。沙夜も同じだ。そしてこの二十年、私の疑問を道真、兄者と一緒になって必死に解いてきた。ああ見えても結構優秀な研究者で、難題の突破口は常に浩兄が開いた。……まったく可笑しな話だが、自分が何なのかを浩兄が必死に探しているようにも見えるときがあるよ」

 美波が聞き辛そうに問いかけた。

「光浩様なら麟ちゃんに聞くことができるのではないですか?」

「無理だろう。麟は御社ノ森を出ると、いつも言葉を忘れた女童でしかない。ただ定めに従い、その性によって光浩という者の面倒をみて、光浩という者が存在しうる唯一の場所を、御厨を守り続けている。ただ、それだけだ。――そう、千年以上もの間」

「千年以上!」二人は驚きの顔を向けた。

「古文書は千数百年前までしか記されていない。だが、その記述から読み取れば、千年周期を綿々と繰り返してきたようなフシがある」

「数千年のオーダーということですか?」

「……それ以上、やも知れん」

「蒼屋根ノ本家というのは? すみません、根堀り葉堀りになって」

「構わんよ、純菜。今日はそのために来てもらった。既に沙夜から聞いていると思うが、千年以上前に分家した厨川家の本家が蒼屋根ノ本家と云われている。二十年前にそこから浩兄と麟が厨川家に来た。――兄者は普段眠ることがない。いつも屋敷の屋根でのんきに月光浴をやっている。だが、そんな兄者も半年に一度十日程死んだように眠ってしまう。そして、眠りについた兄者を麟と蒼樹が蒼屋根ノ本家に連れて行き、数日すると眠ったままの兄者を連れて帰って来る。浩兄にはその間の記憶がないらしい。それ以外、蒼屋根ノ本家のことは分からん。どんなところで、どこにあるのかすら分からん。御厨の者でそれを知っているのは母だけだろう」

 喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
 が、察した貞任様は僅かに笑みを浮かべた。

「この期に及んで気遣いは要らんよ、純菜。――やはり、浩兄も人ではないのだろう」

 とても寂しそうな顔で発した言葉―― そう感じた。

 気付くこなく落としていた視線を、徐に上げた。

「お母様の養女になった方は」

「あれは蒼君ノ巫女あおきみのみこと呼ばれている。蒼屋根ノ本家の巫女だ。七年前に母の付き添いで彼の地に行って、どうやらそのまま残っていたようだ」

「蒼君ノ巫女……」

「お前たちも気付いたと思うが、アラバマで見て我が目を疑ったよ。七年前、母を向こうにお連れした時会ってはいるが、麟に似ているとは思えない顔立ちだった。この七年で歳は取らずに顔容を麟に似せてきた。――もし、向こうにも御厨があったら厄介なことになる」

「向こうにも御厨が……」

「何れにしても、神々の考えていることは我々には解らん。不老不死で、尚、自らが決めた世界にあって、死を経なければ先に行けぬ我々の疑問になど気付きもしない。――ただ、何かは分からんが、守らねばならぬものがあるのだろう」

「神々…… 守らねばならぬもの……」

 俯いたまま呟くように口にした。そして、先ずは、なぜ沙樹様がアメリカに行かなければならなかったのかを問いかけようと、顔を上げた。

 その時、深刻な顔をした沙夜が将門様を伴って現れた。
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登場人物紹介

北野蒼太《きたの・そうた》(幼名:ポン太)野原家長男

南野方太《みなみの・ほうた》野原家次男

浅田恭子《あさだ・きょうこ》

南野紅《みなみの・べに》野原家次女

東野桜《ひがしの・さくら》野原家長女

西野緑《にしの・りょく》野原家三女

小堀平次郎《こぼり・へいじろう》

日高見直行《ひだかみ・なおゆき》二十五歳

北野純菜《きたの・じゅんな》二十八歳

厨川沙夜《くりやがわ・さや》二十八歳

厨川貞任《くりやがわ・さだとう》三十一歳

川越春菜《かわごえ・はるな》二十三歳

三浦夏海《みうら・なつみ》二十三歳

秋山里絵《あきやま・さとえ》二十三歳

浅田美波《あさだ・みなみ》

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