七十三 君の背へ
文字数 4,692文字
遠野の町から三十分程で谷外に着いた。十軒程の集落の外れにある木工所に向かい、敷地の奥にある大きな倉庫に車を入れた。
中には大型トラックが三台程載れるエレベータがあり、地下深くへ降りて大型の連結線に車ごと乗り込んだ。十分程移動して大型の連結線を降りると高速道路のような片側二車線のトンネルを十分程走り、最初と同じ大型のエレベータで地上の近くにある大きな地下トラックターミナルに出た。その後は一般道と変わらないトンネルを走り抜けて谷内の町へ通じる道に入った。
この間、かなりの数のゲートがあったが全て開かれていた。止められるどころか人影すらない。
谷内の町でも、白砂ノ御所でもやはり人影はなく、御社へ続く参道にも人の気配がない。
車を駐め、通用門から境内に入った。
そこで待ち構えていたのは将門様が履くものの具だった。
秋葉は私の前に出て太刀を翳した。
片膝を突いて見据える将門様と対峙する。
「秋葉、太刀を収めてくれ」
貞任様の声だった。
ものの具の向こうには貞任様と沙夜がいた。
沙夜が一歩前へと進み出て来る。
「秋葉、ごめんなさい。あなたには、本当に辛い思いばかりをさせてきました。――どうか許して」
静寂の中に沙夜の声が悲しく聞こえてくる。
「お願いです。その太刀を収めてください。純菜と話をさせてください」
太刀を握る手が緩みかけた。が、秋葉は覚悟を決め、また強く握り締めた。
「秋葉、さすがにお前が相手では並の者では刃が立たぬ。行平は留守にしている故、念のためにものの具を置かせてもらった。許せ――」
「――」
「純菜と沙夜に話をさせたい。太刀を収めて、そこに控えてくれぬか」
「純菜、お願いです。話を聞いてください」
何も言わずに銃を取り出した。
ゆっくりと、沙夜に向けた。
将門様が私の視野から沙夜を隠そうと動き出す。
「控えろッ!」
沙夜が一喝する。
「控えたまま動くなと言ったはずです。他の者も、何があっても動くことは許しません」
沙夜は見つめたまま私の言葉を待った。
「――直は、どこにいる」
「直君は御社ノ森に行きました」
沙夜の声は震えていた。
「なら、すぐに山神をここに呼べ。直から遠ざけてッ」
「――」
「知っていたんだろ、直が山神の贄にされることを。――お前が私を騙して直をここに、御厨に連れてこさせた」
「純菜、落ち着いて。お願い、話を聞いて」
「もう騙されない。お前は私に隠し事をしないと言った。それなのに、それなのに嘘だらけだ」
「ごめんなさい。純菜――」
沙夜の目からは涙が零れた。
手の震えを押さえながら沙夜に向けた銃口を自らの喉元へと移した。
「直が、直が全てなんだ――」
「――」
「直がいなければ、私は生きていてもしょうがない」
溢れ出す涙をそのままに震える声で言った。
沙夜は顔を伏せて、その場に膝を落とした。
静かに時間が止まっていくように感じた。泣き崩れていく沙夜を、ただ瞳に映していた。
そして、悟った。
胸が凍りついていく―― 縋るような声が漏れ出でくる。
「嫌だよ直―― もう少しだけ、もう少しだけでいいから、待ってて」
落とした視線を沙夜に戻した。
「山神をここに呼んで。私が腹を―― 山神の腹を割いて、直を取り出す」
その一言は山神を神と崇める御厨の者たちを凍り付かせた。
「皆、下がれッ! 私と沙夜、秋葉と美波だけを残して皆下がれッ!」
私の身に危険を感じて、貞任様が叫ぶように言った。
しかし、私の言葉を聞いた御厨の者たちは動かない。
覇気を顕にするかのように貞任様が進み出て来る。
「皆、下がれと言っている。純菜も直行も私の家族だ。下知に従わぬ者は私と沙夜で切り捨てるッ!」
その言葉に、ようやく将門様が履くものの具が動き出す。各所に配置していた警護班の者たちも下がり始める。
境内には私と沙夜。貞任様、秋葉、美波の五人だけが残った。だが、私が自らへ向けた銃口はそのままで、誰もその場から動けずにいる。
そんな時、貞任様の後ろにいた美波が声を上げた。
「先輩、拝殿の上! 拝殿の上を見てくださいッ」
視線を移すと、御社ノ森で見た透き通るほどに白く美しい山神が屋根に降り立つところだった。
山神は拝殿の上から皆を見回し、静かに沙夜と私の間に下りた。
座り込んだままの沙夜に顔を向ける。
応えるように沙夜は立ち上がり、それを見とどけた山神は視線を貞任様に移した。
貞任様が頷くと、その白くて大きな顔を私に向けてくる。
秋葉は進み出て、山神の前に立ちはだかろうとした。
私が言ったことを代わってやらなければと――
しかし、進み出た身体は山神に見返されて動きを止めた。ただただ震えている。その場に立ち竦み、涙が溢れるばかりだった。
山神は視線を戻して歩き出した。
私の少し前まで来て立ち止まった。
自らに向けた銃口を山神に向けた。
少しの間、涙で歪んだ山神を睨み付けた。
そして、囁くように「サトちゃんゴメンね」と、その銃口を喉元に戻した。
「死んだら、私を喰って下さい。――お願いです。せめて、直のところに」
何も返すことなく、山神は私を見ている。
また、幼い頃、小さな直を抱きしめた時の匂いに包まれていく――
その細い身体の温もりが、直の温もりが私の中に入ってくる。
覚悟を決めた顔は涙に濡れながらも、僅かな笑みが浮かんでくる。
その時、あまりにも愛おしい声が聞こえた。
「お姉、助けに来たぞ。空だってちゃんと飛んで来た」
な、直の声――
動くことができなかった。山神の顔を見返したまま立ち竦んだ。
山神は徐ろに歩き出す。
私が触れられる距離まで来て、その足を止めた。
「もう、それを下ろせよ」
その声は、山神から聞こえている。
喉元に向けた銃を少しずつ下ろした。
銃は手から零れ、白砂の上に落ちていく。
「ほ、本当に、直なの?」
「ああ」
「こ、この手を―― この手を伸ばせば、まだ、あなたに触れられる?」
「俺はここにいる。お姉のすぐ前にいる」
恐る恐る両手を山神の顔に近づけた。
でも、その手はほんの少し手前で止まり、震えてその先に伸ばせない。
山神は進み出て、その手を自らの顔にあてがった。
堪らえきれなかった。
堪らえきれずに、幼子が泣いたときのように口をへの字にして、その大きな顔に縋っていた。
泣き声を押しのけながら、途切れ途切れの言葉が漏れる。
「山神様に、蒼樹様に食べられたんじゃないの?」
「ああ、喰われた。お姉が見たら気を失っていたぞ。――でも、それはかたちだけのことなんだ。真実は、俺が蒼樹様を喰った」
「蒼樹様を――」
「モールで襲われた時、覚醒が始まった。どうやら俺は山神様の後を継ぐ者だったらしい。蒼樹様と一つになり、山神をもっと強くするために生まれてきたようだ」
「山神様の後を継ぐ者――」
大きな顔に縋った腕に力を入れて、静かに目を閉じた。
見届けたかのように貞任様たちは境内を後にし、山神様と私だけが白砂の上に残った。
「俺が覚醒すると、蒼樹様には寿命が生まれてしまって半年ぐらいしか生きられない。その間に蒼樹様の力は衰えていってしまい、最後はモリコと同じくらいになる。一つになった時の力はその時の蒼樹様の力を受け継ぐ。だから少しでも早くしないと一時的なものとはいえ弱い山神になってしまう。力が戻るまでに時間がかかる。貞任様も沙夜さんもお姉が悲しむから少しでも遅くしろと言ってくれた。山神の力が衰えている間はものの具で何とかすると。でも、俺は嫌だった。――怖かった。モールで襲われた時、ハルちゃんと俺は飛ばされてビルの壁に叩きつけられた。その時、ハルちゃんは俺の頭が壁に当たって潰れないよう、飛ばされながら自分の手を俺の頭の後ろに回したんだ」
「春菜が――」
「ああ―― そして、そんなハルちゃんを背負ったら、潰れてしまった手で、動かなくなった手で懸命に俺に掴まってくれた。あの時の、あのハルちゃんの声が忘れられない。――ハルちゃんのちっちゃな身体に宿った命は皆んなの、お父さんやお母さんの、夏菜ちゃんたちの何よりも大切な命なんだ。そんな大切な命と引き換えに俺は生かされた。――もう、誰も死なせはしない」
閉じた目からとめどなく涙が流れ出てくる。
僅かな静寂を置いて、力を入れていた腕が徐々に緩むと、涙に濡れた目を少しだけ開けた。
震える声で「私も?」と訊いた。
「当たり前だろ。小さい頃に初めてした約束。母さんとの最初で最後の約束は『純菜お姉ちゃんは僕が守る』だった。俺は、――お姉だけは絶対に守る」
縋った腕に、また力を入れた。
「お姉、疲れた。初めて飛んで疲れた。――座ろう」
大きな顔に縋った腕をほどくと、山神様は白砂の上に静かに伏せた。
恥じらいながらその横顔に持たれるようにして腕を回し直した。その深い毛並みの中に顔を埋めて安堵するかのように目を瞑った。
「俺が、日高見ノ巫女の血筋に男の子が生まれた時が御厨が動き出すトリガーになっていたらしい。沙夜さんのお母さんは、その兆候をお告げとして感じ取っていたようだ」
「山神様になったら、今まで解らなかったこととかみんな分かるようになったの?」
「ああ、みんな解る。ただ、みんな解るには少し時間がかかる。蒼樹様は一万二千年も生きてきたから、その記憶を受け取るのは大変なんだ。そして、その前の気が遠くなるほどの記憶も受け継ぐ」
「……その記憶がみんな入ってきたら、直の記憶は消えてしまう?」
「今の山神の一番大切な記憶はお姉と生きた二十五年間だ。決して消えたりしない」
顔を埋めた深い毛並みの中、閉じていた目を少しだけ開けた。
「私は、直に何もしてあげられなかったね」
「……いや、沢山してもらった」
「本当は、色んなことを教えて――」
「色んなこと?」
「人として、すべきことを。人であるうちに、私が教えて――」
「人として、すべきこと……」
「ううん、なんでもない」と、僅かに顔を赤らめた。
深い毛並みに強く顔をあてがった。
「お姉。俺は、すぐに蒼樹様と同じ力にまで復活する。その後は、蒼樹様を越える力を得る。半年もすればモールで襲って来たやつのように人の姿へも変われる」
「半年……」
「そう、半年」
「きっと、私は生きられても、後、一年ちょっと」
「大丈夫だ。もっと、もっともっと生きられる」
「――」
「そうだ」
「ん?」
「お姉、飛ぼう。家に連れてってやる」
「家に?」
「ああ、帰るんだ、家に―― お姉も俺も、親父は本当の親父じゃなかった。でも、皆んなで暮らしたのは本当なんだ。家は壊さずに残して置いてくれるって沙夜さんが言ってた。――行こう、叔母さんに脅かされて座敷わらしにビビッてたあの家へ」
僅かに顔を離した。
遥か遠くを望む、その横顔を瞳に映した。
「あの時の二人はきっと、まだ彼処に居て、……そう、笑ってる」
「彼処に居て、笑ってる?」
「ああ、きっと居る」
少しだけ笑って、深い毛並みへと顔を戻した。
眠るように目を閉じた。
静かに飛び上がり、固唾をのんで控える者たちを見下ろす石段の上に降り立つ――
皆が見守る中、大切な者がいることを教えるかのようにその背にしがみ付く私に顔を向け、僅かに頷いて見せる。
向き直って控える者たちを見回し、見上げて控える者たちの中に安堵の顔を見つけ、徐に顔を上げる。
蒼樹様は、南の空に遠く浮かぶ稜線を見据えた。
しがみ付く手に力を入れると静かに歩き出し、まほろばの丘へと向かって少しづつ駆け出して行く。
その君の背で、夏萩色に染まろうとしている空で、遥か遠い願いを望む――
何よりも大切な君との願いを――
中には大型トラックが三台程載れるエレベータがあり、地下深くへ降りて大型の連結線に車ごと乗り込んだ。十分程移動して大型の連結線を降りると高速道路のような片側二車線のトンネルを十分程走り、最初と同じ大型のエレベータで地上の近くにある大きな地下トラックターミナルに出た。その後は一般道と変わらないトンネルを走り抜けて谷内の町へ通じる道に入った。
この間、かなりの数のゲートがあったが全て開かれていた。止められるどころか人影すらない。
谷内の町でも、白砂ノ御所でもやはり人影はなく、御社へ続く参道にも人の気配がない。
車を駐め、通用門から境内に入った。
そこで待ち構えていたのは将門様が履くものの具だった。
秋葉は私の前に出て太刀を翳した。
片膝を突いて見据える将門様と対峙する。
「秋葉、太刀を収めてくれ」
貞任様の声だった。
ものの具の向こうには貞任様と沙夜がいた。
沙夜が一歩前へと進み出て来る。
「秋葉、ごめんなさい。あなたには、本当に辛い思いばかりをさせてきました。――どうか許して」
静寂の中に沙夜の声が悲しく聞こえてくる。
「お願いです。その太刀を収めてください。純菜と話をさせてください」
太刀を握る手が緩みかけた。が、秋葉は覚悟を決め、また強く握り締めた。
「秋葉、さすがにお前が相手では並の者では刃が立たぬ。行平は留守にしている故、念のためにものの具を置かせてもらった。許せ――」
「――」
「純菜と沙夜に話をさせたい。太刀を収めて、そこに控えてくれぬか」
「純菜、お願いです。話を聞いてください」
何も言わずに銃を取り出した。
ゆっくりと、沙夜に向けた。
将門様が私の視野から沙夜を隠そうと動き出す。
「控えろッ!」
沙夜が一喝する。
「控えたまま動くなと言ったはずです。他の者も、何があっても動くことは許しません」
沙夜は見つめたまま私の言葉を待った。
「――直は、どこにいる」
「直君は御社ノ森に行きました」
沙夜の声は震えていた。
「なら、すぐに山神をここに呼べ。直から遠ざけてッ」
「――」
「知っていたんだろ、直が山神の贄にされることを。――お前が私を騙して直をここに、御厨に連れてこさせた」
「純菜、落ち着いて。お願い、話を聞いて」
「もう騙されない。お前は私に隠し事をしないと言った。それなのに、それなのに嘘だらけだ」
「ごめんなさい。純菜――」
沙夜の目からは涙が零れた。
手の震えを押さえながら沙夜に向けた銃口を自らの喉元へと移した。
「直が、直が全てなんだ――」
「――」
「直がいなければ、私は生きていてもしょうがない」
溢れ出す涙をそのままに震える声で言った。
沙夜は顔を伏せて、その場に膝を落とした。
静かに時間が止まっていくように感じた。泣き崩れていく沙夜を、ただ瞳に映していた。
そして、悟った。
胸が凍りついていく―― 縋るような声が漏れ出でくる。
「嫌だよ直―― もう少しだけ、もう少しだけでいいから、待ってて」
落とした視線を沙夜に戻した。
「山神をここに呼んで。私が腹を―― 山神の腹を割いて、直を取り出す」
その一言は山神を神と崇める御厨の者たちを凍り付かせた。
「皆、下がれッ! 私と沙夜、秋葉と美波だけを残して皆下がれッ!」
私の身に危険を感じて、貞任様が叫ぶように言った。
しかし、私の言葉を聞いた御厨の者たちは動かない。
覇気を顕にするかのように貞任様が進み出て来る。
「皆、下がれと言っている。純菜も直行も私の家族だ。下知に従わぬ者は私と沙夜で切り捨てるッ!」
その言葉に、ようやく将門様が履くものの具が動き出す。各所に配置していた警護班の者たちも下がり始める。
境内には私と沙夜。貞任様、秋葉、美波の五人だけが残った。だが、私が自らへ向けた銃口はそのままで、誰もその場から動けずにいる。
そんな時、貞任様の後ろにいた美波が声を上げた。
「先輩、拝殿の上! 拝殿の上を見てくださいッ」
視線を移すと、御社ノ森で見た透き通るほどに白く美しい山神が屋根に降り立つところだった。
山神は拝殿の上から皆を見回し、静かに沙夜と私の間に下りた。
座り込んだままの沙夜に顔を向ける。
応えるように沙夜は立ち上がり、それを見とどけた山神は視線を貞任様に移した。
貞任様が頷くと、その白くて大きな顔を私に向けてくる。
秋葉は進み出て、山神の前に立ちはだかろうとした。
私が言ったことを代わってやらなければと――
しかし、進み出た身体は山神に見返されて動きを止めた。ただただ震えている。その場に立ち竦み、涙が溢れるばかりだった。
山神は視線を戻して歩き出した。
私の少し前まで来て立ち止まった。
自らに向けた銃口を山神に向けた。
少しの間、涙で歪んだ山神を睨み付けた。
そして、囁くように「サトちゃんゴメンね」と、その銃口を喉元に戻した。
「死んだら、私を喰って下さい。――お願いです。せめて、直のところに」
何も返すことなく、山神は私を見ている。
また、幼い頃、小さな直を抱きしめた時の匂いに包まれていく――
その細い身体の温もりが、直の温もりが私の中に入ってくる。
覚悟を決めた顔は涙に濡れながらも、僅かな笑みが浮かんでくる。
その時、あまりにも愛おしい声が聞こえた。
「お姉、助けに来たぞ。空だってちゃんと飛んで来た」
な、直の声――
動くことができなかった。山神の顔を見返したまま立ち竦んだ。
山神は徐ろに歩き出す。
私が触れられる距離まで来て、その足を止めた。
「もう、それを下ろせよ」
その声は、山神から聞こえている。
喉元に向けた銃を少しずつ下ろした。
銃は手から零れ、白砂の上に落ちていく。
「ほ、本当に、直なの?」
「ああ」
「こ、この手を―― この手を伸ばせば、まだ、あなたに触れられる?」
「俺はここにいる。お姉のすぐ前にいる」
恐る恐る両手を山神の顔に近づけた。
でも、その手はほんの少し手前で止まり、震えてその先に伸ばせない。
山神は進み出て、その手を自らの顔にあてがった。
堪らえきれなかった。
堪らえきれずに、幼子が泣いたときのように口をへの字にして、その大きな顔に縋っていた。
泣き声を押しのけながら、途切れ途切れの言葉が漏れる。
「山神様に、蒼樹様に食べられたんじゃないの?」
「ああ、喰われた。お姉が見たら気を失っていたぞ。――でも、それはかたちだけのことなんだ。真実は、俺が蒼樹様を喰った」
「蒼樹様を――」
「モールで襲われた時、覚醒が始まった。どうやら俺は山神様の後を継ぐ者だったらしい。蒼樹様と一つになり、山神をもっと強くするために生まれてきたようだ」
「山神様の後を継ぐ者――」
大きな顔に縋った腕に力を入れて、静かに目を閉じた。
見届けたかのように貞任様たちは境内を後にし、山神様と私だけが白砂の上に残った。
「俺が覚醒すると、蒼樹様には寿命が生まれてしまって半年ぐらいしか生きられない。その間に蒼樹様の力は衰えていってしまい、最後はモリコと同じくらいになる。一つになった時の力はその時の蒼樹様の力を受け継ぐ。だから少しでも早くしないと一時的なものとはいえ弱い山神になってしまう。力が戻るまでに時間がかかる。貞任様も沙夜さんもお姉が悲しむから少しでも遅くしろと言ってくれた。山神の力が衰えている間はものの具で何とかすると。でも、俺は嫌だった。――怖かった。モールで襲われた時、ハルちゃんと俺は飛ばされてビルの壁に叩きつけられた。その時、ハルちゃんは俺の頭が壁に当たって潰れないよう、飛ばされながら自分の手を俺の頭の後ろに回したんだ」
「春菜が――」
「ああ―― そして、そんなハルちゃんを背負ったら、潰れてしまった手で、動かなくなった手で懸命に俺に掴まってくれた。あの時の、あのハルちゃんの声が忘れられない。――ハルちゃんのちっちゃな身体に宿った命は皆んなの、お父さんやお母さんの、夏菜ちゃんたちの何よりも大切な命なんだ。そんな大切な命と引き換えに俺は生かされた。――もう、誰も死なせはしない」
閉じた目からとめどなく涙が流れ出てくる。
僅かな静寂を置いて、力を入れていた腕が徐々に緩むと、涙に濡れた目を少しだけ開けた。
震える声で「私も?」と訊いた。
「当たり前だろ。小さい頃に初めてした約束。母さんとの最初で最後の約束は『純菜お姉ちゃんは僕が守る』だった。俺は、――お姉だけは絶対に守る」
縋った腕に、また力を入れた。
「お姉、疲れた。初めて飛んで疲れた。――座ろう」
大きな顔に縋った腕をほどくと、山神様は白砂の上に静かに伏せた。
恥じらいながらその横顔に持たれるようにして腕を回し直した。その深い毛並みの中に顔を埋めて安堵するかのように目を瞑った。
「俺が、日高見ノ巫女の血筋に男の子が生まれた時が御厨が動き出すトリガーになっていたらしい。沙夜さんのお母さんは、その兆候をお告げとして感じ取っていたようだ」
「山神様になったら、今まで解らなかったこととかみんな分かるようになったの?」
「ああ、みんな解る。ただ、みんな解るには少し時間がかかる。蒼樹様は一万二千年も生きてきたから、その記憶を受け取るのは大変なんだ。そして、その前の気が遠くなるほどの記憶も受け継ぐ」
「……その記憶がみんな入ってきたら、直の記憶は消えてしまう?」
「今の山神の一番大切な記憶はお姉と生きた二十五年間だ。決して消えたりしない」
顔を埋めた深い毛並みの中、閉じていた目を少しだけ開けた。
「私は、直に何もしてあげられなかったね」
「……いや、沢山してもらった」
「本当は、色んなことを教えて――」
「色んなこと?」
「人として、すべきことを。人であるうちに、私が教えて――」
「人として、すべきこと……」
「ううん、なんでもない」と、僅かに顔を赤らめた。
深い毛並みに強く顔をあてがった。
「お姉。俺は、すぐに蒼樹様と同じ力にまで復活する。その後は、蒼樹様を越える力を得る。半年もすればモールで襲って来たやつのように人の姿へも変われる」
「半年……」
「そう、半年」
「きっと、私は生きられても、後、一年ちょっと」
「大丈夫だ。もっと、もっともっと生きられる」
「――」
「そうだ」
「ん?」
「お姉、飛ぼう。家に連れてってやる」
「家に?」
「ああ、帰るんだ、家に―― お姉も俺も、親父は本当の親父じゃなかった。でも、皆んなで暮らしたのは本当なんだ。家は壊さずに残して置いてくれるって沙夜さんが言ってた。――行こう、叔母さんに脅かされて座敷わらしにビビッてたあの家へ」
僅かに顔を離した。
遥か遠くを望む、その横顔を瞳に映した。
「あの時の二人はきっと、まだ彼処に居て、……そう、笑ってる」
「彼処に居て、笑ってる?」
「ああ、きっと居る」
少しだけ笑って、深い毛並みへと顔を戻した。
眠るように目を閉じた。
静かに飛び上がり、固唾をのんで控える者たちを見下ろす石段の上に降り立つ――
皆が見守る中、大切な者がいることを教えるかのようにその背にしがみ付く私に顔を向け、僅かに頷いて見せる。
向き直って控える者たちを見回し、見上げて控える者たちの中に安堵の顔を見つけ、徐に顔を上げる。
蒼樹様は、南の空に遠く浮かぶ稜線を見据えた。
しがみ付く手に力を入れると静かに歩き出し、まほろばの丘へと向かって少しづつ駆け出して行く。
その君の背で、夏萩色に染まろうとしている空で、遥か遠い願いを望む――
何よりも大切な君との願いを――