二十九 御印が消えた掌
文字数 2,059文字
◇
いつものように恭子様を見守り、いつもの茶店でいつものアイスミルクを飲んでいた。
「方太に笑われるなぁ。紅姉にだってなんて言われるか―― 平次郞さんにも格好つけて言ってはみたものの、もう三日も過ぎてるし」
ボヤくように言って右の掌を広げた。
入れ墨みたいだけど、お渡ししたら消えるのかなぁ、この御印――
「飲まないと、溢れますよ」
隣のテーブルにいた老婆が優しい笑みを向けていた。
「あ、ありがとうございます」
軽く頭を下げて、溢れかけたアイスミルクのストローに口をつけた。――そして、すぐに ……飯能に着いて、駅の自転車置き場は? いやいや、近くに駐めてないからきっかけがなぁ。と、相変わらず終わることのない思案の海へと漕ぎ出し始める。
「ご一緒してもいいですか?」
「……?」
困惑した顔を向けると、やはり老婆が優しい笑みを浮かべている。
方太が言っていた狐を化かす老婆って……
テーブルの上に置かれた島田屋と書かれた包を焦点を合わせることもせずにただボンヤリと見ていた。
「方太が言っていた狐を化かす老婆か―― 本当にいたんだなぁ」
心ここにあらずで口にした。
ほんの二十分程前に恭子様の家の前で、その恭子様と別れた。
「蒼太さん、このお団子とっても美味しいんですよ!」
嬉しそうな声で、遠回りをして買った島田屋の団子を私にくれた。その記憶は、その笑顔は瞼の裏に鮮明に焼き付いている。だが、その前のことが妖しい――
二人で話しもしたし、テーブルの前にも、駅に向かう横にも、電車の座席の隣にも恭子様はいた。あの日の話に二人で笑い、涙ぐんだ。しかし、そんな恭子様の顔も、声も思い出せない夢のように瞳の後ろで淡く揺れている。
「本当に、恭子様と一緒に家まで来たんだろうか。もし、あのお婆ちゃんが半妖だったら――」
訝しく思った。が、ただ団子を見つめていた。
「蒼太? ――おいッ、ポンちゃん!」
その、遠くから呼んでいるような声にボンヤリとした顔を向けた。
「蒼太、大丈夫か? 化け惑いになっちゃったか?」
「……」
「蒼太ッ!」
「……あぁ、姉ちゃんか、どうしたんだ」
「お、お前なぁ」
紅姉ちゃんは、あまりにも情けない俺にしびれを切らして見守りをしている茶店に恭子様を連れて来たと言っている。その後は、二人を見守りながら家まで来て恭子様が家に入るのを見とどけてから、どうせ自分の分の団子は無いのだろうとそそくさと団子を買いに行っていたと、そう言っている。
が、なんかピンとこない。
「化かされてると思ったって―― なんで、そうかけてもいない術に簡単に落ちちゃうんだ。それも、こともあろうにただのボケたお婆ちゃんの術って洒落になんないぞ」
「ボケたお婆ちゃんの術――」
そう言って、右の掌を返した。
「もしかして、御印を渡せたの?」
「ああ、店から出る時、立ち上がったお前に恭子様が手を差し出してくれたんだ」
御印が消えた掌にボーッとした顔を向けた。
「蒼太、用意しなさい」
「どこか行くの?」
「玄明様がお忍びでここに向かってる。お前の次の仕事の話だと思う。――さぁ、お出迎えするぞ」
「次の仕事……」感情の入らないままに口にした。
「運転手さえつけずに、ご自分で運転してくる。お前が御印を渡したら連絡しろと言われていた」
「俺が御印を…… え? お、俺が御印を渡すのを待っていたって、そう言ったのか」
ようやく、正気を取り戻したかのように返した。
「ああ、そうだと思う。ただ、お前にいうなと言われていた。それに、今日会うことはお前と私だけで姉様にも母さんにも誰にも言うなって。沙樹様にも言っては駄目だと言われてる」
「沙樹様に」
「蒼樹様にすら、いうなと言われた」
「蒼樹様にも」顔色を変えて返した。
「全てを采配なされる沙樹様や、私たちの主である蒼樹様にすら隠せとなるとかなり気を張っていかないとまずいぞ。ややもすれば、野原一家は皆んな野に帰される」
紅姉は強張った顔をしていた。
「いいのか、そんなことをやって」
「しょうがない。おそらく蒼屋根ノ主様の意向だ」
「光浩様の――」
呆気にとられる二人を前に「いやぁ、走る走る! 無理かと思った高速も難なく走った」と、草と泥に塗れた古びた軽トラから玄明様は降りて来た。
「俺の車には発信器が付いてるだろうから、近所の爺さんから借りて来た。――で、近くにカラオケあるか?」
「――え?」
紅姉が助手席に乗り、私が自転車で先導した。
「しかし相変わらずだなぁ、玄明様は。状況説明のじょの字もない顔で笑ってる。いつものこととはいえ、調子くるっちゃうよ」
そうブツブツ言いながら先導した。
カラオケ店では、日頃の鬱憤を晴らすかのように玄明様と紅姉は歌いまくった。密室で何らかの話があるのだろうと構えていたが、状況を把握できないままに手を叩き続けた。
で、あろうことか、歌いまくって気が済んだかのように玄明様は寝てしまう。
「ここでいい。いやッ、ここがいい!」そう言い張る玄明様と、自転車を恐る恐る荷台に載せて家に帰った。
いつものように恭子様を見守り、いつもの茶店でいつものアイスミルクを飲んでいた。
「方太に笑われるなぁ。紅姉にだってなんて言われるか―― 平次郞さんにも格好つけて言ってはみたものの、もう三日も過ぎてるし」
ボヤくように言って右の掌を広げた。
入れ墨みたいだけど、お渡ししたら消えるのかなぁ、この御印――
「飲まないと、溢れますよ」
隣のテーブルにいた老婆が優しい笑みを向けていた。
「あ、ありがとうございます」
軽く頭を下げて、溢れかけたアイスミルクのストローに口をつけた。――そして、すぐに ……飯能に着いて、駅の自転車置き場は? いやいや、近くに駐めてないからきっかけがなぁ。と、相変わらず終わることのない思案の海へと漕ぎ出し始める。
「ご一緒してもいいですか?」
「……?」
困惑した顔を向けると、やはり老婆が優しい笑みを浮かべている。
方太が言っていた狐を化かす老婆って……
テーブルの上に置かれた島田屋と書かれた包を焦点を合わせることもせずにただボンヤリと見ていた。
「方太が言っていた狐を化かす老婆か―― 本当にいたんだなぁ」
心ここにあらずで口にした。
ほんの二十分程前に恭子様の家の前で、その恭子様と別れた。
「蒼太さん、このお団子とっても美味しいんですよ!」
嬉しそうな声で、遠回りをして買った島田屋の団子を私にくれた。その記憶は、その笑顔は瞼の裏に鮮明に焼き付いている。だが、その前のことが妖しい――
二人で話しもしたし、テーブルの前にも、駅に向かう横にも、電車の座席の隣にも恭子様はいた。あの日の話に二人で笑い、涙ぐんだ。しかし、そんな恭子様の顔も、声も思い出せない夢のように瞳の後ろで淡く揺れている。
「本当に、恭子様と一緒に家まで来たんだろうか。もし、あのお婆ちゃんが半妖だったら――」
訝しく思った。が、ただ団子を見つめていた。
「蒼太? ――おいッ、ポンちゃん!」
その、遠くから呼んでいるような声にボンヤリとした顔を向けた。
「蒼太、大丈夫か? 化け惑いになっちゃったか?」
「……」
「蒼太ッ!」
「……あぁ、姉ちゃんか、どうしたんだ」
「お、お前なぁ」
紅姉ちゃんは、あまりにも情けない俺にしびれを切らして見守りをしている茶店に恭子様を連れて来たと言っている。その後は、二人を見守りながら家まで来て恭子様が家に入るのを見とどけてから、どうせ自分の分の団子は無いのだろうとそそくさと団子を買いに行っていたと、そう言っている。
が、なんかピンとこない。
「化かされてると思ったって―― なんで、そうかけてもいない術に簡単に落ちちゃうんだ。それも、こともあろうにただのボケたお婆ちゃんの術って洒落になんないぞ」
「ボケたお婆ちゃんの術――」
そう言って、右の掌を返した。
「もしかして、御印を渡せたの?」
「ああ、店から出る時、立ち上がったお前に恭子様が手を差し出してくれたんだ」
御印が消えた掌にボーッとした顔を向けた。
「蒼太、用意しなさい」
「どこか行くの?」
「玄明様がお忍びでここに向かってる。お前の次の仕事の話だと思う。――さぁ、お出迎えするぞ」
「次の仕事……」感情の入らないままに口にした。
「運転手さえつけずに、ご自分で運転してくる。お前が御印を渡したら連絡しろと言われていた」
「俺が御印を…… え? お、俺が御印を渡すのを待っていたって、そう言ったのか」
ようやく、正気を取り戻したかのように返した。
「ああ、そうだと思う。ただ、お前にいうなと言われていた。それに、今日会うことはお前と私だけで姉様にも母さんにも誰にも言うなって。沙樹様にも言っては駄目だと言われてる」
「沙樹様に」
「蒼樹様にすら、いうなと言われた」
「蒼樹様にも」顔色を変えて返した。
「全てを采配なされる沙樹様や、私たちの主である蒼樹様にすら隠せとなるとかなり気を張っていかないとまずいぞ。ややもすれば、野原一家は皆んな野に帰される」
紅姉は強張った顔をしていた。
「いいのか、そんなことをやって」
「しょうがない。おそらく蒼屋根ノ主様の意向だ」
「光浩様の――」
呆気にとられる二人を前に「いやぁ、走る走る! 無理かと思った高速も難なく走った」と、草と泥に塗れた古びた軽トラから玄明様は降りて来た。
「俺の車には発信器が付いてるだろうから、近所の爺さんから借りて来た。――で、近くにカラオケあるか?」
「――え?」
紅姉が助手席に乗り、私が自転車で先導した。
「しかし相変わらずだなぁ、玄明様は。状況説明のじょの字もない顔で笑ってる。いつものこととはいえ、調子くるっちゃうよ」
そうブツブツ言いながら先導した。
カラオケ店では、日頃の鬱憤を晴らすかのように玄明様と紅姉は歌いまくった。密室で何らかの話があるのだろうと構えていたが、状況を把握できないままに手を叩き続けた。
で、あろうことか、歌いまくって気が済んだかのように玄明様は寝てしまう。
「ここでいい。いやッ、ここがいい!」そう言い張る玄明様と、自転車を恐る恐る荷台に載せて家に帰った。