八十五 月の輝く夜に
文字数 2,162文字
塔子さんに見送られて御所を後にした時には八時を回っていた。既に夏の長い日も落ち、この時期には珍しいほどに月が煌々と輝いている。
「なんか、冬の月のようだ。……湿気がないからかなぁ」
見上げたまま口にすると、なんとも説明のつかない不安が胸の奥の方から込み上げてきた。
車へと急いだ。
「なんだろう…… 胸が締め付けられる、この感じは――」
屋敷に入り車を駐めてライトを消すと母屋からの灯りはなく、凪いだ海かのような庭が月明かりに静かに映し出されている。
「――せ、先輩」
車から飛び降りて母屋へと走った。
灯りのない玄関は開け放たれ、慌てて家の中に駆け込んだ。
先輩と秋葉ちゃんの姿はない。
庭に出て見回しても見当たらない。
不安な思いで母屋の裏へ回ると裏庭から川原に出る門が開かれ、川原の方を見て立ち竦む秋葉ちゃんがいた。まるで時間が止まっているかのように固まったまま月明かりに映し出されている。
躊躇いながらも秋葉ちゃんのところまで行って川原へ目を向けた。
「――」何も言えなかった。
同じように立ち竦んで秋葉ちゃんの腕を掴んでいた。
屋敷裏の川に流れ込む小川の前に先輩は立ち、その前で幼い少女がじっと見上げている。しかし、その少女は小川の水が持ち上がって人の、女童の姿を形づくっているものだった。
呆然としていた秋葉ちゃんが先輩のところに歩み寄ろうとする。
腕を掴む手に力を入れた。
涙に濡れた顔を向けてくる秋葉ちゃんに、同じように涙に濡れた顔をゆっくり振った。
「――」
唇を震わせながら、何も返すことなく秋葉ちゃんが私を見ている。
まるで、せせらぎすらも止まってしまったかのような静寂。その中に微かな女童の笑い声が聞こえた。
秋葉ちゃんが振り返ると、水で形づくられた女童が両手を広げていた。
堪らえきれずに秋葉ちゃんが駆け寄ろうとする。
止めた。その身体を抱くようにして止めた。
「行かなくちゃいけないんだよ、サトちゃん」
涙が溢れ出てくる。
私、なんで止めてんだろう――
胸が張り裂けそうになりながら『嫌だ』と今にも泣きじゃくりそうな秋葉ちゃんを抱いていた。
「分かってる。分かってるって」そう言って強く抱いていた。
――そんな二人に女童を見つめていた顔が静かに向けられてくる。
月明かりに淡く映る姿に、その切ないほどに悲しい顔に、涙に濡れた目に身体が震えた。
もう、私、駄目ですよ。先輩――
抑えていた感情が堰を切って溢れ出てくる。
秋葉ちゃんを抱きしめた腕を解いた。「や、やっぱ嫌ですって!」と、自ら先輩に向かって走っていた。
そんな私を、涙で前が見えない私を、躓きながらも駆け寄ろうとする私を白くて大きな壁が抱くかのようにして止めた。
「行かせてやってくれ、美波」
山神様が―― 直君が、そこにいた。
「今、行かなければお姉は命を失う」
「――だって、急過ぎるって」そう言いながら視線を落とした。
俯いたまま震える声が零れる。
「直君、用意だってできてないんだよ」
「――」
「そうだよ、直君だって、まだガレージに来てくれてないじゃない。先輩はずっと、ずっと待っていたんだよ。直君のためにバイクだって買ったんだからぁ」
そう言って、その場に泣き崩れた。
「すまない、美波」
直君は静かに身体を離し、脇へと座った。
「すまないじゃないんだってばぁ」
幼子のように泣く私を秋葉ちゃんが後ろから支えていた。
「ご、ごめんねサトちゃん。何もしてあげられない。止められないよォ」
秋葉ちゃんの身体も震えていた。
そんな二人に向けた眼差し――
その顔は、先輩の顔はまるで愛おしい我が子を見ているかのようだった。
「――」
共に過ごした歳月が走馬灯のように蘇ってくる。止めどなく涙が溢れ出てくる。
「――ホントに、本当に行っちゃうんですか?」
ようやく言葉にした。
ほんの少しだけ笑って、頷く顔――
「――」
何も返すことのない、その、涙の向こうにある優しい顔が私から女童へと静かに向き直っていく。
そして、女童は下ろしていた腕を広げた。
まるで、母を慕うかのように見上げて――
膝を落とし、その小さな身体を優しく抱いた先輩は、少しずつ、少しずつ月明かりに輝き出していく。
同じような水の身体へと変わっていく。
女童さんの頭へそっと頬をあてがい静かに目を閉じる純菜先輩を、小川の中へ身を沈めていく二人を声を出すこともなくただ見つめていた。
「――美波ちゃん」
サトちゃんのように声をかける秋葉ちゃんに支えられながら立ち上がった。
姿の消えた小川の前まで行って膝を落とした。
せせらぎの中に手を伸ばした。
「冷たい―― もう夏なのに、まだ冷たいですよ。大丈夫なんですか、――先輩」
小さな声で訊いた。
私と秋葉ちゃんは先輩がここに、――もう御厨にいないことを受け入れたかのようにして立ち上がった。
山神様に見守られながら母屋に向かうと裏庭の開かれた門には沙夜先輩と塔子さんが、その少し後ろには貞任様と山吹さんがいた。
「行っちゃいました」
沙夜先輩は少しの間何も言わずに私を見ていた。優しい顔をしていた。
「――大丈夫だよ、美波。すぐに帰って来る」
そう言って私を抱いた。
抱きしめられた身体は夜空を仰いだ。
煌々と輝く青い月が、瞳から頬へ、胸元へと零れ落ちていく。
「なんか、冬の月のようだ。……湿気がないからかなぁ」
見上げたまま口にすると、なんとも説明のつかない不安が胸の奥の方から込み上げてきた。
車へと急いだ。
「なんだろう…… 胸が締め付けられる、この感じは――」
屋敷に入り車を駐めてライトを消すと母屋からの灯りはなく、凪いだ海かのような庭が月明かりに静かに映し出されている。
「――せ、先輩」
車から飛び降りて母屋へと走った。
灯りのない玄関は開け放たれ、慌てて家の中に駆け込んだ。
先輩と秋葉ちゃんの姿はない。
庭に出て見回しても見当たらない。
不安な思いで母屋の裏へ回ると裏庭から川原に出る門が開かれ、川原の方を見て立ち竦む秋葉ちゃんがいた。まるで時間が止まっているかのように固まったまま月明かりに映し出されている。
躊躇いながらも秋葉ちゃんのところまで行って川原へ目を向けた。
「――」何も言えなかった。
同じように立ち竦んで秋葉ちゃんの腕を掴んでいた。
屋敷裏の川に流れ込む小川の前に先輩は立ち、その前で幼い少女がじっと見上げている。しかし、その少女は小川の水が持ち上がって人の、女童の姿を形づくっているものだった。
呆然としていた秋葉ちゃんが先輩のところに歩み寄ろうとする。
腕を掴む手に力を入れた。
涙に濡れた顔を向けてくる秋葉ちゃんに、同じように涙に濡れた顔をゆっくり振った。
「――」
唇を震わせながら、何も返すことなく秋葉ちゃんが私を見ている。
まるで、せせらぎすらも止まってしまったかのような静寂。その中に微かな女童の笑い声が聞こえた。
秋葉ちゃんが振り返ると、水で形づくられた女童が両手を広げていた。
堪らえきれずに秋葉ちゃんが駆け寄ろうとする。
止めた。その身体を抱くようにして止めた。
「行かなくちゃいけないんだよ、サトちゃん」
涙が溢れ出てくる。
私、なんで止めてんだろう――
胸が張り裂けそうになりながら『嫌だ』と今にも泣きじゃくりそうな秋葉ちゃんを抱いていた。
「分かってる。分かってるって」そう言って強く抱いていた。
――そんな二人に女童を見つめていた顔が静かに向けられてくる。
月明かりに淡く映る姿に、その切ないほどに悲しい顔に、涙に濡れた目に身体が震えた。
もう、私、駄目ですよ。先輩――
抑えていた感情が堰を切って溢れ出てくる。
秋葉ちゃんを抱きしめた腕を解いた。「や、やっぱ嫌ですって!」と、自ら先輩に向かって走っていた。
そんな私を、涙で前が見えない私を、躓きながらも駆け寄ろうとする私を白くて大きな壁が抱くかのようにして止めた。
「行かせてやってくれ、美波」
山神様が―― 直君が、そこにいた。
「今、行かなければお姉は命を失う」
「――だって、急過ぎるって」そう言いながら視線を落とした。
俯いたまま震える声が零れる。
「直君、用意だってできてないんだよ」
「――」
「そうだよ、直君だって、まだガレージに来てくれてないじゃない。先輩はずっと、ずっと待っていたんだよ。直君のためにバイクだって買ったんだからぁ」
そう言って、その場に泣き崩れた。
「すまない、美波」
直君は静かに身体を離し、脇へと座った。
「すまないじゃないんだってばぁ」
幼子のように泣く私を秋葉ちゃんが後ろから支えていた。
「ご、ごめんねサトちゃん。何もしてあげられない。止められないよォ」
秋葉ちゃんの身体も震えていた。
そんな二人に向けた眼差し――
その顔は、先輩の顔はまるで愛おしい我が子を見ているかのようだった。
「――」
共に過ごした歳月が走馬灯のように蘇ってくる。止めどなく涙が溢れ出てくる。
「――ホントに、本当に行っちゃうんですか?」
ようやく言葉にした。
ほんの少しだけ笑って、頷く顔――
「――」
何も返すことのない、その、涙の向こうにある優しい顔が私から女童へと静かに向き直っていく。
そして、女童は下ろしていた腕を広げた。
まるで、母を慕うかのように見上げて――
膝を落とし、その小さな身体を優しく抱いた先輩は、少しずつ、少しずつ月明かりに輝き出していく。
同じような水の身体へと変わっていく。
女童さんの頭へそっと頬をあてがい静かに目を閉じる純菜先輩を、小川の中へ身を沈めていく二人を声を出すこともなくただ見つめていた。
「――美波ちゃん」
サトちゃんのように声をかける秋葉ちゃんに支えられながら立ち上がった。
姿の消えた小川の前まで行って膝を落とした。
せせらぎの中に手を伸ばした。
「冷たい―― もう夏なのに、まだ冷たいですよ。大丈夫なんですか、――先輩」
小さな声で訊いた。
私と秋葉ちゃんは先輩がここに、――もう御厨にいないことを受け入れたかのようにして立ち上がった。
山神様に見守られながら母屋に向かうと裏庭の開かれた門には沙夜先輩と塔子さんが、その少し後ろには貞任様と山吹さんがいた。
「行っちゃいました」
沙夜先輩は少しの間何も言わずに私を見ていた。優しい顔をしていた。
「――大丈夫だよ、美波。すぐに帰って来る」
そう言って私を抱いた。
抱きしめられた身体は夜空を仰いだ。
煌々と輝く青い月が、瞳から頬へ、胸元へと零れ落ちていく。