九十八 厨川沙夜(一)
文字数 4,502文字
翌日の朝、籠ったままで姿を見せない沙夜先輩に会うために御社へ向かった。
御社に着くと先輩は拝殿の前で眠りについている御神体に手を合わせていた。
「お早うございます」
「美波――」
「ずっと顔を見せてくれなかったんで会いに来ちゃいました」
そう言いながら突然現れた私に驚いている先輩の隣に行って頭を垂れる御神体を見上げた。
「光浩様がお履きになりましたね」
先輩は僅かに俯いて何も返すことなく頷いた。
「沙夜先輩、お天気も良くてとても気持ちのいい朝です。散歩でもして少し息抜きでもしませんか」
戸惑うような顔を向けた先輩だったが、すぐに気遣いへ応えるかのように「そうだね」と笑みを返した。
どこに向かうともなく二人は御社ノ森へと足を向けた。
樹々の間から蒼く澄んだ空を見上げながら歩く先輩に何気ない口調で訊いた。
「光浩様の意思は感じ取れましたか」
「――さすがは美波ね、なんでもお見通し」
「そんなことはないです」
「――」
「でも、本当に御神体の中に光浩様がいるんでしょうか。なんかピンとこないんですよね」
「本当にいた。御神体の前に跪いた時、分かった」
見上げた顔を下ろし、そう言った先輩が今にも泣き出しそうだと、そう感じた。
そんな先輩を視野の端に見つめながら意を決したかのように口にした。
「御神体の前では光浩様の声が聞こえないような気がするんです。沙羅様が阻んでいる、そんな気がします。――ごめんなさい」
少しの沈黙を置いて「私も、そう思う」と先輩は返した。
「やはり、そう感じていましたか」
「美波―― なぜそう思うの?」
「よく分からないけど、なんかとても悲しかったんです。直君や先輩のときと違って覚醒を待つって感じがしないんです」
「――私も同じ。でも、ただあそこに立って、ただ耳を澄ませるしかなかった。――何もできない」
いつも輝いていた。いつも笑っていたそんな先輩がとても小さく感じた。
胸が張り裂けてしまいそう――
「先輩、蒼屋根ノ本家に行ってみませんか。そこに行けばきっと何かが分かる、というか、光浩様の近くに行ける気がするんです」
「場所が分からない」
「心当たりがあります。もし、そこへ行って前に見た景色があったら言ってください」
先輩は戸惑いの表情を浮かべて立ち止まった。
でも、すぐに気を取り直すかのように「行けても、行けなくても散歩にはもってこいだね」と笑みを返してくる。
森に入ると、何気に探りを入れた。
「大欅の向こうに行ったことありますか?」
「うん、小さい頃に貞任兄様と。やはり『本家に行こう!』って何度も行った。でも森の向こうは崖になっていて下りるところすら探せなかった」
「な、何度もって……」
今度は私が立ち止まった。
まずったかなぁ…… と、戸惑いの表情を浮かべた。
が、すぐに「いやッ、きっと何かありますよ」と邪念を振り払うかのように口にした。「さあ、行きましょう!」と歩き出した。「あの夢は、きっと何かを伝えようとしてるはず。っていうか、そんな気がする。そうだよ、きっと純菜先輩が何かを伝えようと……」そう独り言のようにブツブツと言って歩いた。
視線を向けると、先輩は笑みを返して付いて来ている。
胸を撫で下ろした。口元を緩めて前へと向き直った。
大欅の前まで行くと、まるで二人を待っていたかのように山神様が座っていた。
な、なんか睨み付けてる? と直君に、いや、山神様に違和感を持った。
立ち止まった二人に「沙夜、どこへ行く」と、山神様が訝しげな目を向けてくる。
「大欅の向こうに」と返す先輩に『ここから先へは行かせない』と言わんばかりの顔をしている。
思わず「直君、お願いだから行かせて」と口にした。
山神様が徐に顔を向ける。
「美波、沙夜をどこに連れて行こうとしている」
やはり、直君らしからぬ言いようにたじろいだ。
「こ、この先に広くてとてもいい川原があるはずなの。そこはおかっぱ頭の女童さんたちが遊んでいて、海神様が、そう、蒼波様が――」
そこまで言って威圧に負けた。最後まで言えないまま固まった。でも、蒼波という名を聞いた山神様が僅かに表情を変えたように見えた。何も返すことなく向き直り、じっと見ている先輩を見返す。
そして、森に溶け込むかのように少しずつ、少しずつ姿を消していく。
山神様が見えなくなると「先輩、……きっと行っていいってことですよ」と恐る恐る手を掴んだ。少しの間様子を窺った。――で、逃げるかのように足早に歩き出す。手を引きながら「なんか、怖いよ直君」と、動揺が収まらないまま――
少しすると「美波、この先に広い川原なんてないよ」と、先輩が諦め口調に言った。
「はい、ないかも知れません。もしなかったらごめんなさい。そのときは本当にただの散歩にしましょう」
言葉と裏腹に『絶対にあるッ!』という意思が伝わる、そんな風に言った。先輩は「らしいなぁ。もう少し付き合うね」と顔をほころばせた。
ホッとした。胸を撫で下ろしながら歩いた。が、やはりなんか釈然としない。
「それにしても、さっきの直君は怖すぎですよ。先輩のことだって呼び捨てにしてるし」
「……もう、直君じゃなくて蒼樹に代わっているんだと思う」
「そんなの勝手過ぎますよ。絶対、純菜先輩に言いつけてやるッ」
先輩は「そうだね」と、思わず笑ってしまう。
――いい感じである。あながち直君の登場は良かったのかも知れない。
ま、告げ口の件は勘弁してやるか!
大欅から十分程歩くと森の切れ目が見えて周りが明るくなり始めた。
「崖はこんな近くになかったと思ったけど……」
記憶を辿るようにして先輩が口にする。
「ええ、私ももっと遠かった気がしたんですよね」
その言葉に先輩は違和感を持ったようだった。でも、森を出ると私が言ったような広い川原に出た。
「あッ、ここですよ、ここッ! やっぱ、あった」と声を上げた。
傍らの先輩は遠い昔を思い出すかのような表情になっている。
「……ここは知ってる。浩兄様と麟を迎えたところだ」と漏らすように口にした。「この川原の少し前に控えの小屋があって…… そう、そこで待っていたけど言い付けを守らずに兄様と森を出て、ここで母様たちと会った」
「やはり、ここでしたか」
「なぜ、ここを知っているの?」
「夢で見たんです。きっと、純菜先輩が見せてくれたんじゃないかと思うんです。そこの川の辺りで海神様がおかっぱ頭の女童さんたちを遊ばせていて、そして―― あ、あれです! あそこが―― そう、きっとまほろばの丘です。あの一本だけ桜の樹があるところ」
そう言いながら、どこかでみたと思ったけど一本桜だったんだ。と合点がいった。
「まほろばの丘―― 本当にあったんだ」先輩が目を細めている。
……やはり貞任様と一緒で知らないんだ。
「あ、それは後にして」と、我にかえったかのように周りを見回した。「あれだ! あそこですよ先輩。あの草が倒れているところ」と川向こうの獣道を指さした。
「……そういえば、母様たちも川を渡ったようで足が濡れていたわ!」
二人は顔を見合わせた。
可笑しいほどにあたふたとしながら川を渡った。渡り終わると濡れた足を拭きながら顔を見合わせてケラケラと笑った。
対岸に立って近くで見るその獣道は広く、いかにも大きな山犬のつくった道に思えた。
意を決して足を踏み入れると僅か百メートル程登ったところで大きな岩室の前に出た。
「道はここで途切れています。……おそらくここが本家じゃないですか?」
「この岩室が蒼屋根ノ本家……」
「間違いないです。きっとここです。――で、どうしましょう。これってかなり怖いですよね」
岩室を前に私はモチベーションを下げた。予想外だった。おっかなくて入れそうもない。
――えッ! 岩室を前に怯む私を置いて躊躇することなく先輩が歩き出す。
「せ、先輩。少し待ってください。ライトだって持って来てないんですって」そう言いながら追いかけて袖を掴んだ。
立ち止まった先輩は「大丈夫だよ」と笑みを返してくる。
「中に何か居たらどうするんですか」
「ここは山神の巣の中だから危険なモノは居ない。それに、見えるところまで行ってそこでしばらく目をならせばライトだって要らない」
「目をならせばって、光がなければ無理ですって」
「きっと大丈夫。御蔵の室と同じ匂いがするの」
「御蔵の室と同じ匂い?」
周りを見回して匂いを嗅いだ。
先輩は笑って「大丈夫だよ、美波」と手首を掴んだ。
「えッ! だ、だからライトが――」
先輩は人が変わったかのように、まるで少女かのような素振りで私を引っ張って行く。
三十メートル程行くと殆ど見えなくなってしまった。立ち止まって目をならし、その後は手探り足探りでまた十数メートル程進んだ。光のまったくない闇の中で立ち止まった。
「……ここにいて、ホントに見えるようになりますか?」
不安げに言って握られていた手首から先輩の手を外し、自らの手でその手を握った。
「もう少し待って」
そう言うと先輩は何も言わなくなり、じっとして何かを待っている。
一分程だろうか、壁や天井のいたるところに小さく淡い光りの粒が現れ室の続きが見え始めた。
「ほら、見えてきたでしょ」
「……この青い光は?」
「分からない。室に入って少しすると同じような淡くて青い物が壁一面で光り出すの」
「なんか淡くて今にも消えてしまいそうだけど、とても綺麗―― 室の中ってこんなに綺麗なんですね」
二人は夜空の星を見ているかのように室の中を見回した。
「この光が灯ると無かったはずの室の続きが現れて、それを奥へ歩いて行くとものの具の中に入っているの」
「へぇー、……って、私も入るとか!」
「大丈夫よ。ものの具を履く者が二人で入ってもこの光は、室の続きは現れなかった」
「……それって、答えになっています? ――ま、ものの具も履いてみたい気もするし、先輩と二人で履けるなら、それもいいか」
淡い光りの中で笑みを返し、先輩は私の手を引いて歩き出す。――そして二、三分進んだところで「室が終わった」と足を止めた。「ここは、ものの具を脱ぐときに来るところ」と戸惑いの表情で立ち竦む。
「先輩――」不安気な顔を向けた。
「ここで、――この行き止まりの扉に手をあてがうと少しづつ光りが消えていって、気が付くと室に戻っているの」
そう言って先輩はゆっくりと扉に手を伸ばしていく――
――僅かに瞼を開けると止まっていた時間が静かに流れ出した。
漆黒の闇に浮かぶ青くて淡い光は今にも消えてしまいそうなほどに弱い。
先輩か自分の分が消えてしまったのだろうか……
その微かな光を灯す瞳の中に先輩を映そうと持てる全ての感覚を研ぎ澄ました。
闇の中からあてがっていた手を離し、横の壁に身体を預けるように座り込む姿が浮かび上がってくる。
その尽きることなく溢れる涙をそのままに意識を失っていく姿を、沙夜先輩を息を殺して瞳に映した。
どれほどの時間が流れたのだろう――
闇の中へ溶けていったその姿に目を凝らすのをやめた。「沙夜さん」とだけ囁くように言って瞳に灯した微かな光を消した。
御社に着くと先輩は拝殿の前で眠りについている御神体に手を合わせていた。
「お早うございます」
「美波――」
「ずっと顔を見せてくれなかったんで会いに来ちゃいました」
そう言いながら突然現れた私に驚いている先輩の隣に行って頭を垂れる御神体を見上げた。
「光浩様がお履きになりましたね」
先輩は僅かに俯いて何も返すことなく頷いた。
「沙夜先輩、お天気も良くてとても気持ちのいい朝です。散歩でもして少し息抜きでもしませんか」
戸惑うような顔を向けた先輩だったが、すぐに気遣いへ応えるかのように「そうだね」と笑みを返した。
どこに向かうともなく二人は御社ノ森へと足を向けた。
樹々の間から蒼く澄んだ空を見上げながら歩く先輩に何気ない口調で訊いた。
「光浩様の意思は感じ取れましたか」
「――さすがは美波ね、なんでもお見通し」
「そんなことはないです」
「――」
「でも、本当に御神体の中に光浩様がいるんでしょうか。なんかピンとこないんですよね」
「本当にいた。御神体の前に跪いた時、分かった」
見上げた顔を下ろし、そう言った先輩が今にも泣き出しそうだと、そう感じた。
そんな先輩を視野の端に見つめながら意を決したかのように口にした。
「御神体の前では光浩様の声が聞こえないような気がするんです。沙羅様が阻んでいる、そんな気がします。――ごめんなさい」
少しの沈黙を置いて「私も、そう思う」と先輩は返した。
「やはり、そう感じていましたか」
「美波―― なぜそう思うの?」
「よく分からないけど、なんかとても悲しかったんです。直君や先輩のときと違って覚醒を待つって感じがしないんです」
「――私も同じ。でも、ただあそこに立って、ただ耳を澄ませるしかなかった。――何もできない」
いつも輝いていた。いつも笑っていたそんな先輩がとても小さく感じた。
胸が張り裂けてしまいそう――
「先輩、蒼屋根ノ本家に行ってみませんか。そこに行けばきっと何かが分かる、というか、光浩様の近くに行ける気がするんです」
「場所が分からない」
「心当たりがあります。もし、そこへ行って前に見た景色があったら言ってください」
先輩は戸惑いの表情を浮かべて立ち止まった。
でも、すぐに気を取り直すかのように「行けても、行けなくても散歩にはもってこいだね」と笑みを返してくる。
森に入ると、何気に探りを入れた。
「大欅の向こうに行ったことありますか?」
「うん、小さい頃に貞任兄様と。やはり『本家に行こう!』って何度も行った。でも森の向こうは崖になっていて下りるところすら探せなかった」
「な、何度もって……」
今度は私が立ち止まった。
まずったかなぁ…… と、戸惑いの表情を浮かべた。
が、すぐに「いやッ、きっと何かありますよ」と邪念を振り払うかのように口にした。「さあ、行きましょう!」と歩き出した。「あの夢は、きっと何かを伝えようとしてるはず。っていうか、そんな気がする。そうだよ、きっと純菜先輩が何かを伝えようと……」そう独り言のようにブツブツと言って歩いた。
視線を向けると、先輩は笑みを返して付いて来ている。
胸を撫で下ろした。口元を緩めて前へと向き直った。
大欅の前まで行くと、まるで二人を待っていたかのように山神様が座っていた。
な、なんか睨み付けてる? と直君に、いや、山神様に違和感を持った。
立ち止まった二人に「沙夜、どこへ行く」と、山神様が訝しげな目を向けてくる。
「大欅の向こうに」と返す先輩に『ここから先へは行かせない』と言わんばかりの顔をしている。
思わず「直君、お願いだから行かせて」と口にした。
山神様が徐に顔を向ける。
「美波、沙夜をどこに連れて行こうとしている」
やはり、直君らしからぬ言いようにたじろいだ。
「こ、この先に広くてとてもいい川原があるはずなの。そこはおかっぱ頭の女童さんたちが遊んでいて、海神様が、そう、蒼波様が――」
そこまで言って威圧に負けた。最後まで言えないまま固まった。でも、蒼波という名を聞いた山神様が僅かに表情を変えたように見えた。何も返すことなく向き直り、じっと見ている先輩を見返す。
そして、森に溶け込むかのように少しずつ、少しずつ姿を消していく。
山神様が見えなくなると「先輩、……きっと行っていいってことですよ」と恐る恐る手を掴んだ。少しの間様子を窺った。――で、逃げるかのように足早に歩き出す。手を引きながら「なんか、怖いよ直君」と、動揺が収まらないまま――
少しすると「美波、この先に広い川原なんてないよ」と、先輩が諦め口調に言った。
「はい、ないかも知れません。もしなかったらごめんなさい。そのときは本当にただの散歩にしましょう」
言葉と裏腹に『絶対にあるッ!』という意思が伝わる、そんな風に言った。先輩は「らしいなぁ。もう少し付き合うね」と顔をほころばせた。
ホッとした。胸を撫で下ろしながら歩いた。が、やはりなんか釈然としない。
「それにしても、さっきの直君は怖すぎですよ。先輩のことだって呼び捨てにしてるし」
「……もう、直君じゃなくて蒼樹に代わっているんだと思う」
「そんなの勝手過ぎますよ。絶対、純菜先輩に言いつけてやるッ」
先輩は「そうだね」と、思わず笑ってしまう。
――いい感じである。あながち直君の登場は良かったのかも知れない。
ま、告げ口の件は勘弁してやるか!
大欅から十分程歩くと森の切れ目が見えて周りが明るくなり始めた。
「崖はこんな近くになかったと思ったけど……」
記憶を辿るようにして先輩が口にする。
「ええ、私ももっと遠かった気がしたんですよね」
その言葉に先輩は違和感を持ったようだった。でも、森を出ると私が言ったような広い川原に出た。
「あッ、ここですよ、ここッ! やっぱ、あった」と声を上げた。
傍らの先輩は遠い昔を思い出すかのような表情になっている。
「……ここは知ってる。浩兄様と麟を迎えたところだ」と漏らすように口にした。「この川原の少し前に控えの小屋があって…… そう、そこで待っていたけど言い付けを守らずに兄様と森を出て、ここで母様たちと会った」
「やはり、ここでしたか」
「なぜ、ここを知っているの?」
「夢で見たんです。きっと、純菜先輩が見せてくれたんじゃないかと思うんです。そこの川の辺りで海神様がおかっぱ頭の女童さんたちを遊ばせていて、そして―― あ、あれです! あそこが―― そう、きっとまほろばの丘です。あの一本だけ桜の樹があるところ」
そう言いながら、どこかでみたと思ったけど一本桜だったんだ。と合点がいった。
「まほろばの丘―― 本当にあったんだ」先輩が目を細めている。
……やはり貞任様と一緒で知らないんだ。
「あ、それは後にして」と、我にかえったかのように周りを見回した。「あれだ! あそこですよ先輩。あの草が倒れているところ」と川向こうの獣道を指さした。
「……そういえば、母様たちも川を渡ったようで足が濡れていたわ!」
二人は顔を見合わせた。
可笑しいほどにあたふたとしながら川を渡った。渡り終わると濡れた足を拭きながら顔を見合わせてケラケラと笑った。
対岸に立って近くで見るその獣道は広く、いかにも大きな山犬のつくった道に思えた。
意を決して足を踏み入れると僅か百メートル程登ったところで大きな岩室の前に出た。
「道はここで途切れています。……おそらくここが本家じゃないですか?」
「この岩室が蒼屋根ノ本家……」
「間違いないです。きっとここです。――で、どうしましょう。これってかなり怖いですよね」
岩室を前に私はモチベーションを下げた。予想外だった。おっかなくて入れそうもない。
――えッ! 岩室を前に怯む私を置いて躊躇することなく先輩が歩き出す。
「せ、先輩。少し待ってください。ライトだって持って来てないんですって」そう言いながら追いかけて袖を掴んだ。
立ち止まった先輩は「大丈夫だよ」と笑みを返してくる。
「中に何か居たらどうするんですか」
「ここは山神の巣の中だから危険なモノは居ない。それに、見えるところまで行ってそこでしばらく目をならせばライトだって要らない」
「目をならせばって、光がなければ無理ですって」
「きっと大丈夫。御蔵の室と同じ匂いがするの」
「御蔵の室と同じ匂い?」
周りを見回して匂いを嗅いだ。
先輩は笑って「大丈夫だよ、美波」と手首を掴んだ。
「えッ! だ、だからライトが――」
先輩は人が変わったかのように、まるで少女かのような素振りで私を引っ張って行く。
三十メートル程行くと殆ど見えなくなってしまった。立ち止まって目をならし、その後は手探り足探りでまた十数メートル程進んだ。光のまったくない闇の中で立ち止まった。
「……ここにいて、ホントに見えるようになりますか?」
不安げに言って握られていた手首から先輩の手を外し、自らの手でその手を握った。
「もう少し待って」
そう言うと先輩は何も言わなくなり、じっとして何かを待っている。
一分程だろうか、壁や天井のいたるところに小さく淡い光りの粒が現れ室の続きが見え始めた。
「ほら、見えてきたでしょ」
「……この青い光は?」
「分からない。室に入って少しすると同じような淡くて青い物が壁一面で光り出すの」
「なんか淡くて今にも消えてしまいそうだけど、とても綺麗―― 室の中ってこんなに綺麗なんですね」
二人は夜空の星を見ているかのように室の中を見回した。
「この光が灯ると無かったはずの室の続きが現れて、それを奥へ歩いて行くとものの具の中に入っているの」
「へぇー、……って、私も入るとか!」
「大丈夫よ。ものの具を履く者が二人で入ってもこの光は、室の続きは現れなかった」
「……それって、答えになっています? ――ま、ものの具も履いてみたい気もするし、先輩と二人で履けるなら、それもいいか」
淡い光りの中で笑みを返し、先輩は私の手を引いて歩き出す。――そして二、三分進んだところで「室が終わった」と足を止めた。「ここは、ものの具を脱ぐときに来るところ」と戸惑いの表情で立ち竦む。
「先輩――」不安気な顔を向けた。
「ここで、――この行き止まりの扉に手をあてがうと少しづつ光りが消えていって、気が付くと室に戻っているの」
そう言って先輩はゆっくりと扉に手を伸ばしていく――
――僅かに瞼を開けると止まっていた時間が静かに流れ出した。
漆黒の闇に浮かぶ青くて淡い光は今にも消えてしまいそうなほどに弱い。
先輩か自分の分が消えてしまったのだろうか……
その微かな光を灯す瞳の中に先輩を映そうと持てる全ての感覚を研ぎ澄ました。
闇の中からあてがっていた手を離し、横の壁に身体を預けるように座り込む姿が浮かび上がってくる。
その尽きることなく溢れる涙をそのままに意識を失っていく姿を、沙夜先輩を息を殺して瞳に映した。
どれほどの時間が流れたのだろう――
闇の中へ溶けていったその姿に目を凝らすのをやめた。「沙夜さん」とだけ囁くように言って瞳に灯した微かな光を消した。