三十六 来てよかった

文字数 2,159文字

 各自部屋に荷物を置き、ロビーに隣接したレストランの円卓でミーティングを兼ねた食事が始まった。だが、レストランとその食事の豪華さ、食中酒に出されたワインの美味さに女たちは目の色が変わり、一時間を過ぎても一向にミーティングが始まる気配がない。

 当たり前である。ミーティングは自己紹介だけとのことであり、私以外日頃からお姉とツルんでいる者ばかりでミーティング自体が意味をなさないのだ。

 そう、社内ではお姉以外のメンバーも相当な人気者で自己紹介なんて必要ない。確か、春菜さんと夏海さんが一つか二つ上で美波は同級だと思った。やはり一つか二つ上っていうのは惹かれてしまうものだ。自分は年上に弱いのだと、つくづくそう思う。

 ……ん? 冷ややかな視線を感じた。

 もしやと思い顔を向けると、お姉が見透かすように目を細めていた。いつものことではあるがやはり焦った。あの見透かした目に対し条件反射的に焦るシステムが構築されている。

「また、自分の世界に浸ってるなぁ」

 ふてぶてしく宣われるも聞こえないふりをしていると「じゃ、そろそろミーティングにしようか」と、お姉は諦め顔に向き直った。

 女たちは顔見知りとのことから自己紹介は私だけということになり、その前に私に名前を知ってもらうためにと女性陣が名前だけ言って頭を下げた。要らないお世話だったが春菜、夏海両先輩と互いに見合って会釈をするだけでも顔が緩んだ。これで沙夜さんがいたら間違いなく『我が世の春』である。

 最後はお姉と同じ第二研究室の里絵だった。だが、里絵は美味すぎるワインに「北野室長の自称秘書でーす」と軽はずみなことを言い、今回の業務応援にともないお姉が室長に昇格したことをバラしてしまう。皆初耳だったらしく里絵はここぞとばかりに優越感に浸っている。

 やはり食中酒に出された美味すぎるワインのせいであろう。

 美波が姿勢を正して「純菜先輩、昇格おめでとうございます。サトちゃん、ワイン。一番いいワイン持って来なさい」そう口火を切ると里絵は立ち上がって「了解です!」と敬礼を返した。すると、酔いの早い二人に「待ってました!」と言わんばかりの春菜、夏海両先輩が「サトちゃーん、お爺ちゃんに北野室長の昇格祝いだからって何か美味しいおつまみもお願いしてきてね」と楽しそうに便乗し、里絵は「はーい、おまかせくださーい」と元気な返事を残してキッチンへと消えて行く。

 呆れ顔で見ていた私の表情が戻る間もなくいかにも高価そうなワインを両手に持った里絵が現れると、まるで用意されていたかのように次々と居酒屋メニューのおつまみが運ばれて来た。これまた「待ってました!」と言わんばかりに二次会の様相を呈してくる。

 しかし、それも束の間だった。

 開く予定のなかったホテルのスナックがお姉のために開いたと連絡が入り「やっぱ、カラオケだよね」と、テーブルの上の飲み物やツマミを抱えての引っ越しが始まった。

 ――ったく、俺の紹介はどこいったんだよ。っていうか、仕事終わったのか?

 呆れ顔をそのままにスナックに入ってソファーにもたれると美波と里絵が揉めていた。引っ越しの最中にもお姉に何を歌わせるかで揉めていたが、今度はどちらがお姉と風呂に入るかで揉めている。

 イカの一夜干しを咥えた。

「実にくだらん。皆して入ればいいだろうが」と独り毒づいた。が、ワンテンポ遅れて「俺も?」と口から漏れる。で、テンポよく心地よい動揺と想像を重ねてしまう。

 ……いやいや、さすがに沙夜さんは恐れ多い。しかし、春菜、夏海両先輩は想像に難くない。湯煙の向こうに薄っすらとシルエットが浮かんでいる。なんなら美波や里絵も混ぜてやってもいい。――「いやいや、それほどラテン的には、なれないって」と僅かに照れた。旅の恥はかき捨てと躊躇することなく突進する輩もいるとは聞くが、自分的には……? である。そう、なによりしばらく筋トレもしていない。

 ――唖然とした。空いた口が塞がらなかった。

 歌い始めた春菜、夏美両先輩の歌の上手さは尋常ではない。二人で張り合って歌い、まるで歌謡ショーを観ているかのような錯覚を覚えた。いつものことではあるのだろうが美波と里絵も二人のあまりの歌の上手さに聴き入っている。

 だが、自称秘書と言うだけあって里絵は長けたものだ。知らない間にお姉の十八番を予約に紛れ込ませてあり、曲がかかると室長コールが起こってお姉がステージへ引っ張り出されて行く。

「フフッ、美波の奴、きっと里絵には勝てないなぁ」ニヤけながら眺めていた。

 お姉の歌を聴くのは初めてだった。小さい頃は「私は歌が上手だから聴いててね」と、いつも観客にさせられていたものだが物心ついてからは一度も聴いたことがない。

 照れながら歌い始めたお姉の歌は先の二人とは趣が違った。テクニック的には及ばないもののオペラ歌手がポップスを歌っているかのような心地良さがあった。だが、すぐに構えていた美波と里絵が現れ両脇に張り付いて一緒に歌い始める。

 歌謡ショーは終演を告げた。

 美波と里絵はお姉を、春菜、夏海両先輩は私を取り合ってただの騒がしいデュエット大会に変わっていく。

 ああ、来てよかった―― そう強く思った。

「これを報告書に付けてやる! 誰か写真を」と声なき声を上げた。
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登場人物紹介

北野蒼太《きたの・そうた》(幼名:ポン太)野原家長男

南野方太《みなみの・ほうた》野原家次男

浅田恭子《あさだ・きょうこ》

南野紅《みなみの・べに》野原家次女

東野桜《ひがしの・さくら》野原家長女

西野緑《にしの・りょく》野原家三女

小堀平次郎《こぼり・へいじろう》

日高見直行《ひだかみ・なおゆき》二十五歳

北野純菜《きたの・じゅんな》二十八歳

厨川沙夜《くりやがわ・さや》二十八歳

厨川貞任《くりやがわ・さだとう》三十一歳

川越春菜《かわごえ・はるな》二十三歳

三浦夏海《みうら・なつみ》二十三歳

秋山里絵《あきやま・さとえ》二十三歳

浅田美波《あさだ・みなみ》

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