八十八 夢のはじまり
文字数 3,415文字
秋葉ちゃんは私たちと別れ既にものの具を履いている沙夜先輩の元に向かい、私は塔子さんと一緒に純菜先輩の屋敷に戻った。
シャワーを浴びて身支度を整えると、大事なことを思い出した。
塔子さんがコーヒーを淹れているキッチンへ足早に向かった。
「塔子さん、昨日きっ子ちゃんが話をしてくれたんですよ!」
「えッ! きっ子が」
「はい、普通の子と同じように。いいえ、同年代の子たちより上手に話をしてたかなぁ」
「そうですか―― 私もきっ子の声、聞いてみたかったなぁ」
塔子さんは嬉しそうに返し、淹れたてのコーヒーを手に席に着いた。
私もお気に入りのアーモンドクッキーを戸棚から取り出して座った。
「御社に行くと賄いの人たちと一緒になって話をしていたんだけど、いつしか諦めてもう話さない子なんだって思っていました。やっぱり美波さんは凄いですね」
「私が淋しいって泣き崩れちゃって、見るに見かねて声をかけてくれたんです。きっ子ちゃんの顔を見たらホッとして肩の力が抜けて、そうしたら急に御厨にいることが怖くなってしまって―― 今まで先輩がいてくれたから気にもしてなかったんですけど」
「そうですよね、ここは普通じゃないですものね。――私が知る限り、美波さんときっ子だけなんですよ。五、六年に一度、ここに間違って迷い込む人がいますけど一日か二日で出されちゃうんです」
「出される?」
「ええ。谷内の人の家に停まった後、眠らされたまま谷外に運ばれて診療所で目を覚まします。そして、朦朧とした意識の中『ずっと、眠っていたんですよ』って言われるんです。その後は盛岡に送りながら『よく、狐に化かされることがあるんです』みたいな話をして」
「そんなことが……」
「はい。でも信じられないらしくて幻の御厨を毎年探して三十数年! みたいな人もいるんです。迷い人が来ると皆んな珍しがってそれそれするし、夢を見ているかのような演出とかしたりして結構楽しんじゃうんです。本当にここへ入ったのは、受け入れられたのは二人だけです」
「私も来たての頃そんな感じでした。きっと、みんな妖怪かなんかで化かされてるのかなぁ? って。もう、大丈夫ですけどね。――それと美波でいいです。こっちもかしこまっちゃうので」
「では、美波ちゃんで」
家を出た二人は御所に入る前に谷内の町へと向かった。
朝八時、駅前には人の姿はなく汽車も運行を取り止めている。
「さすがに人影がありませんね」
「ものの具を履く家の者以外では侍所のスタッフだけ残して皆避難していますから」
「そうですか。この前、先輩や秋葉ちゃんと探索して結構お気に入りの町になったのになぁ。――皆さんはどこに避難したんですか」
「雫石です。この前の一件で工場が燃えちゃいましたが、家族村が少し離れたところにあって学校の施設もあるなかなか良いところなんです。緊急時はそこを使うことになっています」
「さすが世界財閥を凌駕するといわれる御厨だけのことはありますね」
「谷内にいると質素な暮らしなのでピンとこないですけどね」
御所に入ると白砂の上に十体のものの具が控えていた。
頭を僅かに下げ胡座をかいて控えるものの具を見上げながら侍所に向かった。
「こうして待機をしているとき中の人たちは何をしてるんですか」
「夢を見ています。浅い眠りの中で」
「仮眠状態ということですか」
「はい、必要に応じて添い人が起こしてくれます」
「添い人って、そんなことまでしてくれるんですか」
「戦いのときのサポートだけではなくて平時もずっと面倒を見てくれます。中で履く者が意識をなくしたり死んだ場合でも添い人が御蔵まで連れて来てくれると云われています」
「その添い人さんとうまが合わないってこともあるんですか」
「厨川家以外のものの具ではありえます。秋葉が前に履いていた紫波家のものの具は平家方の者が履いたのですが、拒絶されてしばらくは稼働できませんでした」
「そのまま使われなかったとか?」
「いいえ、二年程の時間を置いて、十七に成ってものの具を履ける歳になった子が御蔵に入ったら上手く履けたんです。ですが、そのものの具は秋葉の履いていたときとは違うものになっていました。もちろんその家で代々引き継いでいるものは歳に関係なくスムースに世代交代できるものが多いです」
「そうですか―― 秋葉ちゃん、添い人と上手くやれるといいけど」
「美波さん、いいえ美波ちゃんの願いならきっと御蔵が上手くやってくれます」
侍所に入ると道真様が声をかけてきた。
「美波さん、きっ子のところでちゃんと眠れましたか」
「はい、二時間程ですが」
「二時間だけですか」
「ええ。ですがお気遣いは要りません、睡眠時間が短いのはいつものことでお休みに寝だめをしていますので大丈夫です」
「急遽、貞任様以下残りのものの具も全て出すことになりました。今さっき、貞任様も室に入ったところです。『母の気性からすれば一気に来るやもしれん』とのことで。まぁ、その備えを怠らない、ということです。ただ、慣れない美波さんに負担がかからぬようにしてくれと貞任様から言われています。塔子も昨日寝ていないようなので、午前中は私がみます。控え室でも各々の部屋でもいいので少し眠ってください」
二人は侍所から近い東ノ対にある塔子さんの部屋で仮眠を取ることにした。
部屋では備え付けの仮眠用ベッドに私が、ソファには塔子さんが横になった。
「きっ子ちゃんのことはしばらく言わないでおこうと思うんです」
「はい、きっ子のためにもそれがいいかと。おそらく美波ちゃん以外とは口をきかないと思いますから」
「ありがとうございます」
笑みを返して、目を閉じた。
――夢の中にいた――
心配した父が私の住む家を見たいと言い出し二人で連結線に乗った。
連結線が走り出すと車窓に映る私の顔は少しずつ幼くなり、神楽ノ宮の駅に着く頃には七才ぐらいの少女へと変わっていた。
父に手を引かれて谷内行きの汽車に乗った。
汽車の中では「お父さん、御厨は妖怪とか一杯居るから行っちゃダメ!」と必死になって説得していた。しかし、父は「カッパとか会えるといいなぁ。昔、小さなカッパや小さな鬼の子と遊んだことがあるんだ」と嬉しそうに言い、私の言うことを聞こうとしない。
その後も必死になって言ったがその声は届かず、父はただ懐かしそうに車窓から見える山々へ目を向けている。
声が出ていないことに気付いた。
私は声を出さなくてはと思い、父が好きだった幼稚園の頃にうたっていた歌を口ずさみ始めた。でも、途中で歌詞が分からなくなり思い出そうと下を向いた。
ハッ! として、顔を上げた。
既に車窓の向こうは夜に変わっていた。月明かりに父の姿が透き通るように浮かんでいる。
慌てて声をかけた。しかし声をかければかけるほど父の姿は少しずつ消えていく。
泣きながら口を押さえると、汽笛とともに汽車はホームに入った。
視線を動かすとひらがなで『みくりや』と書いてある。
恐る恐るのぞき込んだ。
「お父さんここはダメッ! 谷内じゃない」
慌てて向き直った。が、席にいたはずの姿がない。
父が消えてしまったのか、降りるために席を立ったのかが分からずに窓の外をのぞいたことを悔やんだ。
「外ばかり見ててごめんなさい」
泣きながら何度も何度も謝った。そうすること以外何をすればいいのかが分からずに、ただただ繰り返した。
「どうする、美波ちゃん。降りる? 降りない?」
すぐ横で女の人が話しかけてくる。
俯いたまま「お父さんがいないの」と返した。
「降りたんじゃないの? 降りてみる?」
その優しい声に頷いて、差し出す白くて柔らかな手を掴んだ。
――一人、駅のホームに立っていた。
手を掴んだはずの女の人も、父の姿もない。
ただ言い付けを守るようにして、今にも走り出そうとする汽車の横に立っていた。
その汽車に父が乗っていることを知っていた。
「いい子だ」と言われたくて、頭を撫でてもらいたくて我慢していた。でも、音もなく動き出し始める客車に噤んでいた口が歪んでいく。
堪らえきれなかった。堪らえきれずに駆け出した。
泣きながら声を上げた。
「お父さん、置いて行かないで――」
自分が発した、その声を聞きながら目を開けた。
泣いていた。
涙を拭って身体を起こすとソファに寝ていた塔子さんの姿がない。
「――もう、始まったんだ」
そう呟くように口にしてベッドから下りた。
シャワーを浴びて身支度を整えると、大事なことを思い出した。
塔子さんがコーヒーを淹れているキッチンへ足早に向かった。
「塔子さん、昨日きっ子ちゃんが話をしてくれたんですよ!」
「えッ! きっ子が」
「はい、普通の子と同じように。いいえ、同年代の子たちより上手に話をしてたかなぁ」
「そうですか―― 私もきっ子の声、聞いてみたかったなぁ」
塔子さんは嬉しそうに返し、淹れたてのコーヒーを手に席に着いた。
私もお気に入りのアーモンドクッキーを戸棚から取り出して座った。
「御社に行くと賄いの人たちと一緒になって話をしていたんだけど、いつしか諦めてもう話さない子なんだって思っていました。やっぱり美波さんは凄いですね」
「私が淋しいって泣き崩れちゃって、見るに見かねて声をかけてくれたんです。きっ子ちゃんの顔を見たらホッとして肩の力が抜けて、そうしたら急に御厨にいることが怖くなってしまって―― 今まで先輩がいてくれたから気にもしてなかったんですけど」
「そうですよね、ここは普通じゃないですものね。――私が知る限り、美波さんときっ子だけなんですよ。五、六年に一度、ここに間違って迷い込む人がいますけど一日か二日で出されちゃうんです」
「出される?」
「ええ。谷内の人の家に停まった後、眠らされたまま谷外に運ばれて診療所で目を覚まします。そして、朦朧とした意識の中『ずっと、眠っていたんですよ』って言われるんです。その後は盛岡に送りながら『よく、狐に化かされることがあるんです』みたいな話をして」
「そんなことが……」
「はい。でも信じられないらしくて幻の御厨を毎年探して三十数年! みたいな人もいるんです。迷い人が来ると皆んな珍しがってそれそれするし、夢を見ているかのような演出とかしたりして結構楽しんじゃうんです。本当にここへ入ったのは、受け入れられたのは二人だけです」
「私も来たての頃そんな感じでした。きっと、みんな妖怪かなんかで化かされてるのかなぁ? って。もう、大丈夫ですけどね。――それと美波でいいです。こっちもかしこまっちゃうので」
「では、美波ちゃんで」
家を出た二人は御所に入る前に谷内の町へと向かった。
朝八時、駅前には人の姿はなく汽車も運行を取り止めている。
「さすがに人影がありませんね」
「ものの具を履く家の者以外では侍所のスタッフだけ残して皆避難していますから」
「そうですか。この前、先輩や秋葉ちゃんと探索して結構お気に入りの町になったのになぁ。――皆さんはどこに避難したんですか」
「雫石です。この前の一件で工場が燃えちゃいましたが、家族村が少し離れたところにあって学校の施設もあるなかなか良いところなんです。緊急時はそこを使うことになっています」
「さすが世界財閥を凌駕するといわれる御厨だけのことはありますね」
「谷内にいると質素な暮らしなのでピンとこないですけどね」
御所に入ると白砂の上に十体のものの具が控えていた。
頭を僅かに下げ胡座をかいて控えるものの具を見上げながら侍所に向かった。
「こうして待機をしているとき中の人たちは何をしてるんですか」
「夢を見ています。浅い眠りの中で」
「仮眠状態ということですか」
「はい、必要に応じて添い人が起こしてくれます」
「添い人って、そんなことまでしてくれるんですか」
「戦いのときのサポートだけではなくて平時もずっと面倒を見てくれます。中で履く者が意識をなくしたり死んだ場合でも添い人が御蔵まで連れて来てくれると云われています」
「その添い人さんとうまが合わないってこともあるんですか」
「厨川家以外のものの具ではありえます。秋葉が前に履いていた紫波家のものの具は平家方の者が履いたのですが、拒絶されてしばらくは稼働できませんでした」
「そのまま使われなかったとか?」
「いいえ、二年程の時間を置いて、十七に成ってものの具を履ける歳になった子が御蔵に入ったら上手く履けたんです。ですが、そのものの具は秋葉の履いていたときとは違うものになっていました。もちろんその家で代々引き継いでいるものは歳に関係なくスムースに世代交代できるものが多いです」
「そうですか―― 秋葉ちゃん、添い人と上手くやれるといいけど」
「美波さん、いいえ美波ちゃんの願いならきっと御蔵が上手くやってくれます」
侍所に入ると道真様が声をかけてきた。
「美波さん、きっ子のところでちゃんと眠れましたか」
「はい、二時間程ですが」
「二時間だけですか」
「ええ。ですがお気遣いは要りません、睡眠時間が短いのはいつものことでお休みに寝だめをしていますので大丈夫です」
「急遽、貞任様以下残りのものの具も全て出すことになりました。今さっき、貞任様も室に入ったところです。『母の気性からすれば一気に来るやもしれん』とのことで。まぁ、その備えを怠らない、ということです。ただ、慣れない美波さんに負担がかからぬようにしてくれと貞任様から言われています。塔子も昨日寝ていないようなので、午前中は私がみます。控え室でも各々の部屋でもいいので少し眠ってください」
二人は侍所から近い東ノ対にある塔子さんの部屋で仮眠を取ることにした。
部屋では備え付けの仮眠用ベッドに私が、ソファには塔子さんが横になった。
「きっ子ちゃんのことはしばらく言わないでおこうと思うんです」
「はい、きっ子のためにもそれがいいかと。おそらく美波ちゃん以外とは口をきかないと思いますから」
「ありがとうございます」
笑みを返して、目を閉じた。
――夢の中にいた――
心配した父が私の住む家を見たいと言い出し二人で連結線に乗った。
連結線が走り出すと車窓に映る私の顔は少しずつ幼くなり、神楽ノ宮の駅に着く頃には七才ぐらいの少女へと変わっていた。
父に手を引かれて谷内行きの汽車に乗った。
汽車の中では「お父さん、御厨は妖怪とか一杯居るから行っちゃダメ!」と必死になって説得していた。しかし、父は「カッパとか会えるといいなぁ。昔、小さなカッパや小さな鬼の子と遊んだことがあるんだ」と嬉しそうに言い、私の言うことを聞こうとしない。
その後も必死になって言ったがその声は届かず、父はただ懐かしそうに車窓から見える山々へ目を向けている。
声が出ていないことに気付いた。
私は声を出さなくてはと思い、父が好きだった幼稚園の頃にうたっていた歌を口ずさみ始めた。でも、途中で歌詞が分からなくなり思い出そうと下を向いた。
ハッ! として、顔を上げた。
既に車窓の向こうは夜に変わっていた。月明かりに父の姿が透き通るように浮かんでいる。
慌てて声をかけた。しかし声をかければかけるほど父の姿は少しずつ消えていく。
泣きながら口を押さえると、汽笛とともに汽車はホームに入った。
視線を動かすとひらがなで『みくりや』と書いてある。
恐る恐るのぞき込んだ。
「お父さんここはダメッ! 谷内じゃない」
慌てて向き直った。が、席にいたはずの姿がない。
父が消えてしまったのか、降りるために席を立ったのかが分からずに窓の外をのぞいたことを悔やんだ。
「外ばかり見ててごめんなさい」
泣きながら何度も何度も謝った。そうすること以外何をすればいいのかが分からずに、ただただ繰り返した。
「どうする、美波ちゃん。降りる? 降りない?」
すぐ横で女の人が話しかけてくる。
俯いたまま「お父さんがいないの」と返した。
「降りたんじゃないの? 降りてみる?」
その優しい声に頷いて、差し出す白くて柔らかな手を掴んだ。
――一人、駅のホームに立っていた。
手を掴んだはずの女の人も、父の姿もない。
ただ言い付けを守るようにして、今にも走り出そうとする汽車の横に立っていた。
その汽車に父が乗っていることを知っていた。
「いい子だ」と言われたくて、頭を撫でてもらいたくて我慢していた。でも、音もなく動き出し始める客車に噤んでいた口が歪んでいく。
堪らえきれなかった。堪らえきれずに駆け出した。
泣きながら声を上げた。
「お父さん、置いて行かないで――」
自分が発した、その声を聞きながら目を開けた。
泣いていた。
涙を拭って身体を起こすとソファに寝ていた塔子さんの姿がない。
「――もう、始まったんだ」
そう呟くように口にしてベッドから下りた。