五十六 御神体
文字数 5,106文字
「やっぱ、美味い。……親父どうしてんだろう、この朝飯食わしてあげたいよなぁ」
一人で朝食に舌鼓を打っていると「お早う、今日も早いね」と美波が隣に来て座った。
ま、またかよ。ホント懲りないやつだなぁ。
「昨日はどうした? 誰も夕食に来なかったけど、女だけで酒盛りでもしてたのか」
「悲しいことに、昨日はお昼のところでカラータイマーが赤に変わったの。お茶して、少しだけスイーツ食べて部屋に戻った」
「確かに美味すぎだよな。毎日こんなの食べれるなら、ずっとここにいてもいい」
「はぁ―― いいね、直君は」
相変わらずの呑気さに、美波はため息を吐いた。
「じゃ、俺は一服しに行くよ、サトちゃんが来ないうちに。で、集合時間は?」
「昨日と同じって言ってた。私もすぐ行くから待ってて」
「了解」
席を立ち、膳を下ろしてバルコニーに向かった。
……今日は例の心理作戦を回避できそうだなぁ。僅かにニヤけながら向かった。
バルコニーに出ると、後を追うように美波が現れた。
「早いなぁ、ホントに食べたのか?」
「あまり食欲がないの」
タバコを差し出すと「これあるから」と自前のメンソールを見せた。
「スースーするやつか」
「うん。やっぱ、女はこれでしょう」
火を付けてやると、美波は昨日と同じように手摺のところに行って遠い山々へ顔を向けた。
「ここって、やっぱ気持ちいいね」
「ずっと天気もいいし、ここにいるうちはまだ平穏な時間だからなぁ」
そう言いながら隣に行った。意味ありげな返しに考え込むように俯く、そんな美波を視野の端に置いた。
……もう、昨日のように心の呟きは聞こえてこない。
胸を撫で下ろした。
「直君さぁ、私たち素直に受け入れすぎなのかなぁ。護神兵とか御蔵とか」
「御蔵は分かんない。けど、護神兵は本物だよ。あんな動き機械仕掛けじゃそうそうできない」
「そうだよね。じゃ、光浩様や麟ちゃんは? 光浩様は高校生に見えたり貞任様と同じくらいに見えたりするんだよ」
「美波だって護神兵に飛び付こうとした時はどう見ても小学生ぐらいに見えたぞ」
「えッ、そうだった? じゃ、上は?」
「……二十七ぐらい、かなぁ」
「はぁ? なにも変わってないじゃない」と美波は顔を向けた。が、「そうじゃなくて」と、諦め顔で稜線に向き直った。
そんな美波へ僅かに笑みを零した。
「でも、麟ちゃんは人じゃない気がする。熊の一件の時、山神様が見えた気がした。麟ちゃんが従えていたように見えた。神様を従えるって、そうそうできないだろ」
「……神様の上って、誰? 神様の上の上って、光浩様って何?」
僅かな沈黙を置いた。
「お願いしたら、空飛べるようにしてくれるかなぁ」
そう言って、羨むかのように蒼く晴れ渡った空を見上げた。
「はぁ―― 空ねぇ。いいね、相変わらず呑気で」と、美波も相変わらずのため息を返した。
雫石組は昨日と同じように連結線に乗った。
神楽ノ宮で道真様たちと合流して御所に向かい、途中の御社で降りた。
地上に上がると白砂ノ御所を小さくしたような屋敷の中庭で「ようこそ、御社へ!」と、笑顔の沙夜さんが迎えた。それはまさしく普段着の沙夜さんで、これほど嬉しいことはない! という笑顔も昨日とは違う。化粧もあるのだろうが年下になったようにさえ感じられた。
客殿に通されると、お姉が窓越しに周りを見上げた。
「ここも白砂の御所と同じくらいいいところだね。周りの樹々が大きくて、ちょっと怖いけど――」
「もう少し経って、日がもっと差し込めば雰囲気も随分と変るんだけどね。で、どうする? 森に入る前に御神体を見る?」
浮かれ気味の沙夜さんを前に、お姉が悩む。
「難しい問題ね。怖いの見る前に森に行きたいけど、身体動かしたら、またお昼をバカ食いしそうだし……」
「ですよ、御神体を先にしましょう」
切実な顔を突き合わせる、そんなお姉と里絵に冷笑を向けた。
沙夜さんは、絶対「バカ食い」なんて言わない。言う、はずがないと――
「……そうだね。そうしよう、ここが我慢のしどころ。少し抑えないとだわ」
そう宣うお姉に「そう簡単に行くかしら、今日のお昼もかなりのものよ!」と、沙夜さんが茶目っ気たっぷりに応える。
あぁ、とても楽しそうだ。
顔が緩む私の横「また、ウニの焼いたやつ出ますか!」と美波は懲りない。
「もちろん。昨日好評だったからね。ただ、今日は主菜ではなくて脇役だよ!」
あぁ―― やっぱ、可愛い。まるで、少女の笑顔だ。
顔が緩み続ける私の横「えーッ、あれが、脇役」と、さらに目を輝かせる美波。
「や、やめてよ美波。昨日はあなたの遠慮のなさに皆んながつられて暴走しちゃったんだからね」
お姉は呆れ顔に返した。
「フフッ」鼻で笑った。暴走なんてしない、するはずがない! ゆっくり首を振った。
すると「だって、勝てないんですって」と、反省のハの字もなく美波が宣う。
ホント、欲求に素直なやつだなぁ。そう呟きながら昨日のオヤジ化した美波を思い出した。――もとい、瞼の裏に映し出しているのは、私の視線に恥じらいを見せながらも抵抗を試みる、顔を赤らめるそんなナッちゃんである。さらに加えて思い浮かべるならば下着姿で顔を赤らめるハルちゃんである。
「ハッ!」とした。――恐る恐る周りを窺った。
な、なんだろう、この恐怖感……
沙夜さんに案内されて拝殿に向かった。
客殿を出て敷き詰められた白い小石の上を歩き、右手に曲がると百メートル程先に拝殿が見えた。振り返ると楼門があり、その先は石段で見慣れた神社の風景である。しかし客殿と違いものの具を対象に造られているためか異様に大きい。
近くで見る拝殿もやはり異常な大きさだった。脇には人が使う普通の階段はあるものの、真ん中の拝殿に上がる階段は段差が一メートル近くもある。
脇の階段を上がるとナッちゃんが感激の声を漏らした。
「あぁ、懐かしいなぁ。ここに、よくお泊まりしたよね」
「ホント、泣いちゃいそう。しばらく離れていたから凄く懐かしい」
ナッちゃんとハルちゃんのやり取りに道真様が笑みを零した。
「小さい頃、夏休みは毎年ここに招待されるのです。それ以降は祭り以外余程のことがないと入れません」
理由を求めるかのようにお姉が沙夜さんに顔を向けた。
「子どもたちの招待は昔からの習わし。御厨の者たちに御社ノ森の匂いを脳裏に焼きつかせることと、御神体への信仰を芽生えさせるためだと云われているの」
納得顔で道真様が口にする。
「そうなのです。私たちは幼き頃にここに来て御社ノ森が胸の中に深く刻まれ強い愛郷の念を抱きます。そして、御神体を見て感動し自分たちがここに、御厨にいることに誇りを持つのです」
複雑な思いで聞いていた。基本的に鄙びた村々とやっていることは同じだが、その中身はかなり異形であると。
拝殿に入ると「純菜、この後ろに神殿があって、そこに御神体があるのよ」と、沙夜さんが愉しそうな顔を向けてくる。
お姉は「もう、見れるの?」と戸惑いの表情を返した。
拝殿の後ろには神殿に続く十メートル程の渡殿があり、前戸と云われる神殿の大きな引き戸をナッちゃんとハルちゃんが開け始める。
すぐそこに、御神体はあった。
戦を前に鎧武者が気を静めているかのように胡座をかいて頭を垂れている。
その色合い、造形の美しさからなのかまったく動く気配を感じさせない。護神兵を見た時の恐怖感もない。
御神体の前に進み出たお姉は「なんで、こんなに美しいの」と感嘆の声を漏らした。
「ものの具には男形と女形があるの。昨日見たものは男形でこれは女形。ただ、私や春菜たちが履く女形はこんなに綺麗じゃないけどね」
「これなら本気になって守るよ、護神兵は―― なんか優しい。母さんがそこにいるような、そんな優しさが伝わってくる」
「直君も、そう思う! 私はお婆ちゃんみたいに思えちゃって、小さい頃はいつも膝の上で遊んでいたの」と沙夜さんは嬉しそうに笑った。
その少女のような笑顔に、返す言葉を失った。
いやぁ、ホントに可愛いのだ。そう、ただただ緩んだ顔で見ているしか手立てがないのだ。「先輩、あれ」との美波の声も気にならない。
「相手にしてらんないわ!」
そう言わんばかりの一瞥を残してお姉は向き直った。
「沙夜、このものの具は何って云うものの具だっけ」
「夢現ノ揺れ籠 」
「夢現ノ揺れ籠―― このものの具が御蔵から出ているということは、誰かこの中に?」
「他のものの具と違って御神体は御蔵が造り出すものではないの。――おそらく、中には誰もいない」
「おそらく?」お姉が訝しげに訊き返す。
「御社の古文書には厨川家の巫女が千年周期で入ると書かれている。そして、御神体に入った巫女は二度と出て来ることはないとも」
「千年に一度巫女が入る。……もしかして沙夜、貴女が入るってことなの」
沙夜さんは首を振った。
「私は入れない。適格者かどうかを見定めるためには厨川の室に入れば分かるのだけれど。室の中で衰弱し命を落とす者、ものの具と同化してしまった者には資格がない。私や貞任兄様は同化してものの具を履いたの」
「……もし、その時御神体に入れたなら、それが覚醒ということになるの?」
「いいえ、それは御神体の眠りを守るための贄だと云われている」
「贄…… さ、沙夜。あなた、そのつもりで室に」
沙夜さんは、また首を振った。
「千年周期の巫女は母様だと云われていたの。でも、母様も同化してものの具を履いてしまった。そして、室で受けたお告げを皆に伝えた。『御神体は眠りを拒否なされた』と。私が初めて室に入る時、母様は笑って言ったの『大丈夫よ、帰って来れるから』って」
「眠りを守る巫女を拒んだ……」
お姉がそう言って考え込むと、二人のやり取りを黙って聞いていた美波がなにげに口にした。
「もしかして、純菜先輩なら大丈夫とか」
「えッ! な、何言ってんの美波。眠りたくないって言ってんのよ、眠りを守る巫女は要らないんだってば」
お姉は動揺を隠せないままに返した。
「大丈夫よ、純菜。古文書には厨川家の血筋となっているから」
沙夜さんは笑みを零すと、面持ちを変えてその顔を道真様に向けた。
「はい。純菜殿や直行君には申し訳なかったのですが、お二人の血筋を調べさせて頂きました」と道真様は頭を下げた。
神妙な面持ちで続ける。
「直行君はこの一帯の祭事を司っていた日高見家の末裔です。純菜殿は少し複雑で、お母様はこの地で生まれ育った巫女様ではありますが、血筋としてはここより東へ向かい海に出たところにあった日出ノ国、日出ノ民の末裔からなる巫女様です。貞任様、沙夜様は蒼屋根ノ本家 の血筋になります。純菜殿の出自については四年前ご本人にお知らせし、御厨の主だった者等も承知しております。直行君の出自は新発ノ義のおりに長老とものの具を履く家の長に伝えています」
無表情で聞いていたお姉はいつもの表情に戻っていた。
「直や私のそれは、また、ゆっくり」
「はい、私の分かることでしたらば何なりと――」道真様は深く頭を垂れた。
蒼屋根ノ本家か……
また、怪しいのが出てきたなぁ。思ったより聞かされてないことが多そうだなぁ、お姉も――
「沙夜。蒼屋根ノ本家って?」
「私たち厨川家の本家が蒼屋根というところだと云われている。ただ、いつ分家したかは分からない。少なくとも千年以上前の話だと云われている。そして、その蒼屋根ノ本家から来たのが浩兄様と麟」
「確か、沙夜が八歳の時だよね」
「そう。私が八つの時に浩兄様が厨川の養子に入り、付き人として麟が来たの」
「それって、ちょっと変ですよね」
首を傾げながら美波が割って入る。
「麟ちゃんはどう見ても十歳。無理しても小学校の六年か中一ですよ。沙夜先輩が八つってことは……」
沙夜さんは躊躇いの表情を浮かべた。
「麟と私は、同い年の幼馴染なの。本当は御社ノ森に行って、麟と会ってもらってから話そうと思っていたの」
返す言葉がなかった。
沈黙の中「喉通るかなぁ、焼きウニ……」と、美波が呟くように口にする。
さすがのお姉も難しい顔をしていた。
が、表情を戻して里絵に向けた。
「確かに、このままお昼はキツイわねぇ。どう、サトちゃん。森をお散歩して、それからお昼にしようか」
「はい、少し運動してバカ食いしましょう。夜を抜けばいいだけの話です」
何も考えてないだろう、お前! と言いたいほど、相変わらず里絵はレスポンスがいい。
お姉は「よしッ!」と言って、向き直った。
「ってことで、どう? 沙夜」
「ありがとう、純菜」
「もう、なんでも来いッ! って感じよ」
お姉は気勢を張った。
一人で朝食に舌鼓を打っていると「お早う、今日も早いね」と美波が隣に来て座った。
ま、またかよ。ホント懲りないやつだなぁ。
「昨日はどうした? 誰も夕食に来なかったけど、女だけで酒盛りでもしてたのか」
「悲しいことに、昨日はお昼のところでカラータイマーが赤に変わったの。お茶して、少しだけスイーツ食べて部屋に戻った」
「確かに美味すぎだよな。毎日こんなの食べれるなら、ずっとここにいてもいい」
「はぁ―― いいね、直君は」
相変わらずの呑気さに、美波はため息を吐いた。
「じゃ、俺は一服しに行くよ、サトちゃんが来ないうちに。で、集合時間は?」
「昨日と同じって言ってた。私もすぐ行くから待ってて」
「了解」
席を立ち、膳を下ろしてバルコニーに向かった。
……今日は例の心理作戦を回避できそうだなぁ。僅かにニヤけながら向かった。
バルコニーに出ると、後を追うように美波が現れた。
「早いなぁ、ホントに食べたのか?」
「あまり食欲がないの」
タバコを差し出すと「これあるから」と自前のメンソールを見せた。
「スースーするやつか」
「うん。やっぱ、女はこれでしょう」
火を付けてやると、美波は昨日と同じように手摺のところに行って遠い山々へ顔を向けた。
「ここって、やっぱ気持ちいいね」
「ずっと天気もいいし、ここにいるうちはまだ平穏な時間だからなぁ」
そう言いながら隣に行った。意味ありげな返しに考え込むように俯く、そんな美波を視野の端に置いた。
……もう、昨日のように心の呟きは聞こえてこない。
胸を撫で下ろした。
「直君さぁ、私たち素直に受け入れすぎなのかなぁ。護神兵とか御蔵とか」
「御蔵は分かんない。けど、護神兵は本物だよ。あんな動き機械仕掛けじゃそうそうできない」
「そうだよね。じゃ、光浩様や麟ちゃんは? 光浩様は高校生に見えたり貞任様と同じくらいに見えたりするんだよ」
「美波だって護神兵に飛び付こうとした時はどう見ても小学生ぐらいに見えたぞ」
「えッ、そうだった? じゃ、上は?」
「……二十七ぐらい、かなぁ」
「はぁ? なにも変わってないじゃない」と美波は顔を向けた。が、「そうじゃなくて」と、諦め顔で稜線に向き直った。
そんな美波へ僅かに笑みを零した。
「でも、麟ちゃんは人じゃない気がする。熊の一件の時、山神様が見えた気がした。麟ちゃんが従えていたように見えた。神様を従えるって、そうそうできないだろ」
「……神様の上って、誰? 神様の上の上って、光浩様って何?」
僅かな沈黙を置いた。
「お願いしたら、空飛べるようにしてくれるかなぁ」
そう言って、羨むかのように蒼く晴れ渡った空を見上げた。
「はぁ―― 空ねぇ。いいね、相変わらず呑気で」と、美波も相変わらずのため息を返した。
雫石組は昨日と同じように連結線に乗った。
神楽ノ宮で道真様たちと合流して御所に向かい、途中の御社で降りた。
地上に上がると白砂ノ御所を小さくしたような屋敷の中庭で「ようこそ、御社へ!」と、笑顔の沙夜さんが迎えた。それはまさしく普段着の沙夜さんで、これほど嬉しいことはない! という笑顔も昨日とは違う。化粧もあるのだろうが年下になったようにさえ感じられた。
客殿に通されると、お姉が窓越しに周りを見上げた。
「ここも白砂の御所と同じくらいいいところだね。周りの樹々が大きくて、ちょっと怖いけど――」
「もう少し経って、日がもっと差し込めば雰囲気も随分と変るんだけどね。で、どうする? 森に入る前に御神体を見る?」
浮かれ気味の沙夜さんを前に、お姉が悩む。
「難しい問題ね。怖いの見る前に森に行きたいけど、身体動かしたら、またお昼をバカ食いしそうだし……」
「ですよ、御神体を先にしましょう」
切実な顔を突き合わせる、そんなお姉と里絵に冷笑を向けた。
沙夜さんは、絶対「バカ食い」なんて言わない。言う、はずがないと――
「……そうだね。そうしよう、ここが我慢のしどころ。少し抑えないとだわ」
そう宣うお姉に「そう簡単に行くかしら、今日のお昼もかなりのものよ!」と、沙夜さんが茶目っ気たっぷりに応える。
あぁ、とても楽しそうだ。
顔が緩む私の横「また、ウニの焼いたやつ出ますか!」と美波は懲りない。
「もちろん。昨日好評だったからね。ただ、今日は主菜ではなくて脇役だよ!」
あぁ―― やっぱ、可愛い。まるで、少女の笑顔だ。
顔が緩み続ける私の横「えーッ、あれが、脇役」と、さらに目を輝かせる美波。
「や、やめてよ美波。昨日はあなたの遠慮のなさに皆んながつられて暴走しちゃったんだからね」
お姉は呆れ顔に返した。
「フフッ」鼻で笑った。暴走なんてしない、するはずがない! ゆっくり首を振った。
すると「だって、勝てないんですって」と、反省のハの字もなく美波が宣う。
ホント、欲求に素直なやつだなぁ。そう呟きながら昨日のオヤジ化した美波を思い出した。――もとい、瞼の裏に映し出しているのは、私の視線に恥じらいを見せながらも抵抗を試みる、顔を赤らめるそんなナッちゃんである。さらに加えて思い浮かべるならば下着姿で顔を赤らめるハルちゃんである。
「ハッ!」とした。――恐る恐る周りを窺った。
な、なんだろう、この恐怖感……
沙夜さんに案内されて拝殿に向かった。
客殿を出て敷き詰められた白い小石の上を歩き、右手に曲がると百メートル程先に拝殿が見えた。振り返ると楼門があり、その先は石段で見慣れた神社の風景である。しかし客殿と違いものの具を対象に造られているためか異様に大きい。
近くで見る拝殿もやはり異常な大きさだった。脇には人が使う普通の階段はあるものの、真ん中の拝殿に上がる階段は段差が一メートル近くもある。
脇の階段を上がるとナッちゃんが感激の声を漏らした。
「あぁ、懐かしいなぁ。ここに、よくお泊まりしたよね」
「ホント、泣いちゃいそう。しばらく離れていたから凄く懐かしい」
ナッちゃんとハルちゃんのやり取りに道真様が笑みを零した。
「小さい頃、夏休みは毎年ここに招待されるのです。それ以降は祭り以外余程のことがないと入れません」
理由を求めるかのようにお姉が沙夜さんに顔を向けた。
「子どもたちの招待は昔からの習わし。御厨の者たちに御社ノ森の匂いを脳裏に焼きつかせることと、御神体への信仰を芽生えさせるためだと云われているの」
納得顔で道真様が口にする。
「そうなのです。私たちは幼き頃にここに来て御社ノ森が胸の中に深く刻まれ強い愛郷の念を抱きます。そして、御神体を見て感動し自分たちがここに、御厨にいることに誇りを持つのです」
複雑な思いで聞いていた。基本的に鄙びた村々とやっていることは同じだが、その中身はかなり異形であると。
拝殿に入ると「純菜、この後ろに神殿があって、そこに御神体があるのよ」と、沙夜さんが愉しそうな顔を向けてくる。
お姉は「もう、見れるの?」と戸惑いの表情を返した。
拝殿の後ろには神殿に続く十メートル程の渡殿があり、前戸と云われる神殿の大きな引き戸をナッちゃんとハルちゃんが開け始める。
すぐそこに、御神体はあった。
戦を前に鎧武者が気を静めているかのように胡座をかいて頭を垂れている。
その色合い、造形の美しさからなのかまったく動く気配を感じさせない。護神兵を見た時の恐怖感もない。
御神体の前に進み出たお姉は「なんで、こんなに美しいの」と感嘆の声を漏らした。
「ものの具には男形と女形があるの。昨日見たものは男形でこれは女形。ただ、私や春菜たちが履く女形はこんなに綺麗じゃないけどね」
「これなら本気になって守るよ、護神兵は―― なんか優しい。母さんがそこにいるような、そんな優しさが伝わってくる」
「直君も、そう思う! 私はお婆ちゃんみたいに思えちゃって、小さい頃はいつも膝の上で遊んでいたの」と沙夜さんは嬉しそうに笑った。
その少女のような笑顔に、返す言葉を失った。
いやぁ、ホントに可愛いのだ。そう、ただただ緩んだ顔で見ているしか手立てがないのだ。「先輩、あれ」との美波の声も気にならない。
「相手にしてらんないわ!」
そう言わんばかりの一瞥を残してお姉は向き直った。
「沙夜、このものの具は何って云うものの具だっけ」
「夢現ノ揺れ
「夢現ノ揺れ籠―― このものの具が御蔵から出ているということは、誰かこの中に?」
「他のものの具と違って御神体は御蔵が造り出すものではないの。――おそらく、中には誰もいない」
「おそらく?」お姉が訝しげに訊き返す。
「御社の古文書には厨川家の巫女が千年周期で入ると書かれている。そして、御神体に入った巫女は二度と出て来ることはないとも」
「千年に一度巫女が入る。……もしかして沙夜、貴女が入るってことなの」
沙夜さんは首を振った。
「私は入れない。適格者かどうかを見定めるためには厨川の室に入れば分かるのだけれど。室の中で衰弱し命を落とす者、ものの具と同化してしまった者には資格がない。私や貞任兄様は同化してものの具を履いたの」
「……もし、その時御神体に入れたなら、それが覚醒ということになるの?」
「いいえ、それは御神体の眠りを守るための贄だと云われている」
「贄…… さ、沙夜。あなた、そのつもりで室に」
沙夜さんは、また首を振った。
「千年周期の巫女は母様だと云われていたの。でも、母様も同化してものの具を履いてしまった。そして、室で受けたお告げを皆に伝えた。『御神体は眠りを拒否なされた』と。私が初めて室に入る時、母様は笑って言ったの『大丈夫よ、帰って来れるから』って」
「眠りを守る巫女を拒んだ……」
お姉がそう言って考え込むと、二人のやり取りを黙って聞いていた美波がなにげに口にした。
「もしかして、純菜先輩なら大丈夫とか」
「えッ! な、何言ってんの美波。眠りたくないって言ってんのよ、眠りを守る巫女は要らないんだってば」
お姉は動揺を隠せないままに返した。
「大丈夫よ、純菜。古文書には厨川家の血筋となっているから」
沙夜さんは笑みを零すと、面持ちを変えてその顔を道真様に向けた。
「はい。純菜殿や直行君には申し訳なかったのですが、お二人の血筋を調べさせて頂きました」と道真様は頭を下げた。
神妙な面持ちで続ける。
「直行君はこの一帯の祭事を司っていた日高見家の末裔です。純菜殿は少し複雑で、お母様はこの地で生まれ育った巫女様ではありますが、血筋としてはここより東へ向かい海に出たところにあった日出ノ国、日出ノ民の末裔からなる巫女様です。貞任様、沙夜様は蒼屋根ノ
無表情で聞いていたお姉はいつもの表情に戻っていた。
「直や私のそれは、また、ゆっくり」
「はい、私の分かることでしたらば何なりと――」道真様は深く頭を垂れた。
蒼屋根ノ本家か……
また、怪しいのが出てきたなぁ。思ったより聞かされてないことが多そうだなぁ、お姉も――
「沙夜。蒼屋根ノ本家って?」
「私たち厨川家の本家が蒼屋根というところだと云われている。ただ、いつ分家したかは分からない。少なくとも千年以上前の話だと云われている。そして、その蒼屋根ノ本家から来たのが浩兄様と麟」
「確か、沙夜が八歳の時だよね」
「そう。私が八つの時に浩兄様が厨川の養子に入り、付き人として麟が来たの」
「それって、ちょっと変ですよね」
首を傾げながら美波が割って入る。
「麟ちゃんはどう見ても十歳。無理しても小学校の六年か中一ですよ。沙夜先輩が八つってことは……」
沙夜さんは躊躇いの表情を浮かべた。
「麟と私は、同い年の幼馴染なの。本当は御社ノ森に行って、麟と会ってもらってから話そうと思っていたの」
返す言葉がなかった。
沈黙の中「喉通るかなぁ、焼きウニ……」と、美波が呟くように口にする。
さすがのお姉も難しい顔をしていた。
が、表情を戻して里絵に向けた。
「確かに、このままお昼はキツイわねぇ。どう、サトちゃん。森をお散歩して、それからお昼にしようか」
「はい、少し運動してバカ食いしましょう。夜を抜けばいいだけの話です」
何も考えてないだろう、お前! と言いたいほど、相変わらず里絵はレスポンスがいい。
お姉は「よしッ!」と言って、向き直った。
「ってことで、どう? 沙夜」
「ありがとう、純菜」
「もう、なんでも来いッ! って感じよ」
お姉は気勢を張った。