八十三 兆し(その二)

文字数 2,988文字

「空母は三日で甲板上のディーゼル艦を解体したみたいですよ」

「――」

 コーヒーを淹れる手を止め、椅子に項垂れて眠る先輩へ顔を向けた。

 傍らに行って静かに座った。――溢れ出る涙をそのままに問いかけた。

「ご飯も食べずに、せっかく淹れたコーヒーも飲まずに、今日も眠ってしまうんですか?」

 その寝顔を眺め、少しの時を共に過した。



 涙を拭い、見守っていたアキちゃんと二人で先輩を寝室に運んだ。

 数日前なら途中で目を覚ましていたのに、昨日、今日と目覚めることなく眠っている。

 一週間程前から「なんか、とても眠い」と、先輩は口にし始めた。
 打ち合わせの途中でも意識を失ったかのように眠ってしまい、二、三時間眠ると目を覚ますのだが、また三、四時間程で眠ってしまう。最初の頃は「今までの疲れが出ちゃったんだね」と、アキちゃんと笑みを浮かべてその寝顔を見ていた。でも、起きていられる時間は徐々に短くなり、御所に出向くことすらできなくなった。昨日は朝食の一時間と夕方の二時間程しか起きていられない状態になっている。



 先輩を秋葉ちゃんに任せ、一人で御所に向かった。

 ニノ指示所に入ると、貞任様と沙夜先輩、道真様が待っていた。

「どうだ、純菜は」

「無理そうなので、秋葉ちゃんに頼んで来ました」

「昨日はいつ頃まで眠っていたの?」

「夕方まで眠っていたようです。私が六時頃帰ったら起きたんですけど、夕食を食べる前にまた眠ってしまい、そのまま朝まで―― もう何日も、何も食べてないんです」

 そう口にして、僅かに俯いた。

「――始まっているのでしょうか」

「兆候らしきものは出ていたのか」

「直君が山神様になって、なんというか、穏やかになったというか、向こうにいた頃の異常なほどの鋭さと穏やかさの二面性が消えて、穏やかさだけが残ったような気がしていました。それが、この前の空母の一件で本社にいた頃の鋭さが戻った。そんな感じがしてホッとしていたんです」

 貞任様が返すことなく考え込むと、俯いたまま話を聞いていた沙夜先輩が呟くように口にした。

「もし海神様がいて、私でいいと言うなら、私は海神様の巫女になる」

 貞任様が訝しげな顔を向けた。

「直君が山神様になった次の日、先輩が私たちに言ったことです。私の『先輩が海神様になったら嫌だなぁ』って、言ったことに返した――」

「そうか、巫女になると」

「――」

 意を決した顔を向けた。

「気になって、ずっと御蔵のデータベースで検索していたんです。――直君や先輩のお父様のことが、どれほど調べても何も出てこないんです。検索に工夫さえすれば、適合性がかなり絞り込まれてしまいますが、僅かにでも関連性があれば応えてくる御蔵が、なぜか、その、いつもの感じがないんです。まるで、何かしらのガードをかけられているかのように」

 興奮気味に言っていた。

 貞任様が冷静に返してくる。

「あのデータベースには、御蔵には何の制限もかかっていない」

「美波さん。あれに、御蔵に制限をかけるすべを私たちは知らないのです。情けないのですが」

 道真様が続いた。

 沈黙を置いて、貞任様がらしからぬ顔を向けた。

「美波、お前が探せないのなら誰も探せない。御蔵はある領域まで行くと検索を拒否し始める。そして、その領域に入れるのは私と沙夜だけだった。道真も塔子も、それ以外の者にも反応しない。まるで人を選んでいるかのように―― それが、純菜には反応した。ものの具を履く私と沙夜にはおのずと限界がくる。いざ、ことが起これば御厨にはいない。いたとしても御蔵と対話する時間は到底持てない。母なき後、巫女の血を引く純菜が御蔵と対話できたことがどれほど心強かったか―― だが、純菜はお前が必要だと言った。正直、私はお前をここに入れることを拒んだ。純菜がいて御蔵と対話してくれれば、わざわざ外の者を入れる必要などないと。沙夜に押し切られ泣く泣く了承はしたが、それでも、おそらくは御蔵に拒否されるだろうから――」

「兄様ッ!」沙夜先輩が遮った。

「――言わせてくれ、沙夜。美波に隠し事はしたくない」

 返すことなく見つめていた先輩は、諦めるかのようにして視線を落とした。

 貞任様が向き直る。

 少しの間私を見据え、僅かに視線を外して口にする。

「おそらく、御蔵はお前を拒否するだろう、そう思っていた。そのときは、お前を――亡き者にするつもりだった。すまない、美波」

 貞任様は頭を下げた。

 視線を落とした。

「亡き者――」

 俯く沙夜先輩を視野の端に置いて呟くように口にした。

「ただ、純菜や沙夜、直行、そして秋葉たちのことは信じてやってくれ。それをやろうとしたなら、私はこいつらに殺されていただろう」

「――」

「だがな、美波。初めての昼食の時に釣殿で私が言ったことは本当だ。ものの具を見て触って目を輝かせるお前が御厨の子供たちと重なった。純菜がお前を必要だと言った気持ちが分かった。いて欲しいとも思った。――道真がお前のことを調べた。だが、どうしても御蔵がお前を受け入れる理由が、いまだ分からない」

「――」

 いつもの口調に戻して、貞任様が続ける。

「気遣いは要らない。美波、お前が考えているとおりだ。純菜にも直行にも、私や沙夜にも父親という者が存在しない。それ故、御厨の者たちは巫女の血筋を敬い、絶対の忠誠をくれる」

 秋葉ちゃんが言っていた『私たちにとって、巫女様は神様に準ずる方々なんです』という言葉を思い出していた。

「おそらくは、純菜も直行と同じように失われた御霊だ。海神の元に帰り、海神を覚醒させるのだろう。――兄者が言った。『誰が、どのような理由からかは分からないが、山神と海神から御霊を半分取り出し、その御霊が直行と純菜なのだろう。直行が火ノ司である山神を、純菜が水ノ司である海神を復活させるのだろう』と」

「失われた御霊……」

 純菜先輩の寝顔が目に浮かんだ。止めどなく涙が溢れ出てくる。

 ――遠野に誘われた日、眠れないまま夜を過ごした。

 歓迎の宴、多賀城専務が先輩に言った、あの妖しが人を喰った話を聴いていた。よく聴き取れなかったが、喰われる対象として、――贄になるために生まれてきた者として、すぐに直君の顔が浮かんだ。

 ハルちゃんが眠った日から、研究棟で一緒に過ごす直君はどこか違っていた。その直君をみる貞任様も――

 その夜は、きっ子ちゃんのことを忘れてしまうほどに、直君のことを考えた。そして、私は直君を失った。人に悟られることなく、胸を焦がし続けていた直君を――

 不思議な感じだった。

 先輩の直君を思う気持ちは知っていた。でも、私のそんな気持ちが先輩を裏切るものだとは思えなかった。純菜先輩がいなければ直君への気持ちが成り立たないとさえ感じていた。三人が揃っていなければ、私自身が存在できていない。そう感じても――

 そして、ごめんなさい、純菜さん。

 直君を失った、そのあなたの苦しみが、直君を失った私の苦しみさえ救っていました。

 本当に、ごめんなさい――



 貞任様に言われた「そのときは、お前を――」との言葉。さすがにショックだった。でも、御厨に対してはそれなりの覚悟を持ってやって来たし、なにより先輩や直君がいてくれるから大丈夫だと思っていた。なにがあっても先輩について行きたいと――

 私が殺されることなんかより、純菜先輩を失うことのほうが、ずっと怖い。
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登場人物紹介

北野蒼太《きたの・そうた》(幼名:ポン太)野原家長男

南野方太《みなみの・ほうた》野原家次男

浅田恭子《あさだ・きょうこ》

南野紅《みなみの・べに》野原家次女

東野桜《ひがしの・さくら》野原家長女

西野緑《にしの・りょく》野原家三女

小堀平次郎《こぼり・へいじろう》

日高見直行《ひだかみ・なおゆき》二十五歳

北野純菜《きたの・じゅんな》二十八歳

厨川沙夜《くりやがわ・さや》二十八歳

厨川貞任《くりやがわ・さだとう》三十一歳

川越春菜《かわごえ・はるな》二十三歳

三浦夏海《みうら・なつみ》二十三歳

秋山里絵《あきやま・さとえ》二十三歳

浅田美波《あさだ・みなみ》

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