七十二 暗鬼(三) ―ソウジュの君―
文字数 3,698文字
高齢の語り部は、静かに話し始めた。
「この話は、私が十を少し過ぎた頃に婆さんに聴いた話。とても好きな話っこで、何度も何度もせがんでは聴かせてもらった話。それが何度思い出そうとしても思い出せねえで、この歳まで一度も話したことがないんだ。んだども、こうして語りを辞める時に、ホント何日か前に思い出し始め、もう少しのところまできて最後まで思い出せないでとまってしまったんだ。それが、聴かせたい娘っ子さんが来てくれて、今、やっとみんな思い出したんだ。本当は別の話をすんだども、娘っ子さんに聴かせたくなったんで、これからその話をすっから」
それは、ソウジュの君と云う話し――
昔、あったずもな。
村の裏山の、そのまた裏の山の中腹にソウジュ様と云って見事な大樹があったんだど。そのソウジュ様の枝という枝には一杯モリコさ居て、その中でも一番立派なモリコは子等だけでなく十五、六の年端のいった娘っ子等にも見えたんだずもな。
そのモリコは村の娘っ子等にソウジュの君といわれてで、そのうちにソウジュ様から離れて村まで遊びさ来るようになり、とうとう村の社の大樹に棲まうようになったんだずもな。そしたら村の娘っ子等は社にソウジュの君を見に来るのが流行りごとさなって、畑仕事もしないで毎日毎日社に行くもんで、困り果てた親たちが社の主様に何とかしてくれと頼んだど。んだども、ソウジュの君は大人には見えないもので、何もできなくて困ってたんだ。それが、半年もしたら娘っ子等も大人になり始め段々見えなぐなって、そのうちソウジュ様のところさ帰ったと噂が広がり、村は一年前のように静かになったんだと。
その頃、社の十九になる巫女様が隣村にある大社の躾習いから帰って、社の大樹の上をずっと見ている女童を見つけで、何事かと思って見に行くずうど、十九の巫女様には見えないはずのソウジュの君が見えで、それもたいそう立派な男に見えたんだずもな。
それから、巫女様とソウジュの君は恋仲になって、仲睦まじく過ごしたんだ。
んだども、巫女様が日々歳を重ねる毎にソウジュの君の姿は少しづつ消えで、巫女様は大変悲しみ、ソウジュの君にどうすれば消えないか尋ねっつうど『日高く上がる処の巫女の産んだ男ノ子の御霊を贄とするならば、我を越えた者を得る』と返したんだずもな。
そして、それを聞いた巫女様は――
倒れた椅子がけたたましくなり響いた。
私は、老婆を見つめたまま立ち竦んでいた。
「贄――」
直は皆んなを、私を守ろうとしてる。襲って来たあの男の話を知って、山神の格を上げようとしている。
……ハルは、自分を山神に食べさせた。直が贄として山神の中に入ることを感じ取ったんだ。沙夜も貞任様も知ってる。……母さんと叔母さんは、直が生まれることを感じ取って関東へ逃げたんだ。そして、それを、それを全て知った上で御厨は私に――
この胸の痛みは、ずっと感じていた痛みはこれだったんだ。
美波は何かを感じて、私に――
な、直に会わなくちゃ。直のところに行かなくちゃ。
語り部の老婆に深々と頭を下げた。
溢れかけていた涙はとめどなく土間へと零れ落ちていく。
顔を上げると、何も言わずに車に向かって歩いた。
「あの娘っ子さんには、みんな聴かせてあげねばならね。止めでけで」
そうサトちゃんに言っている老婆の声が聞こえていた。
頭の中は直のことで一杯だった。
……そう、座敷わらしに怯えて私にしがみついてきてくれた。
私が初めて握ったおにぎりを持たされて、それが楽しいと嬉しそうな顔して遠足に出かけて行った。
運動会では私の作ったお弁当が一番凄いと、皆んなに自慢してた。
部活の応援に行くと、誰にも気づかれないように小さく手を上げてた。
私に目を合わせないようにして、同じ会社に決まったと照れながら言った。
あんなにも、あんなにも細い肩が――
小さい頃の、直の匂いに包まれていく。
ずっと、ずっと一緒にいてくれたんだね、直――
車の前まで行くと、凍り付くようにして立ち竦んだ。
昨日、電話でどこにいるか訊いたのは、最後に会おうとしたの? ねぇ、直――
そう呟いて、立ち竦んだ。
「み、御厨に、御社ノ森へ」
震える声で呟くように口にした。
その囁くような呟きを里絵は聞き逃さなかった。
小さく「はい」と返し、車に乗り込んだ私のシートベルトを締めると、ドアを閉めて足早に運転席に着いた。
前を見据え、感情を抑えるように小さく「行きます」と口にして車を出した。
走り出してすぐ、濡れた頬をそのままに言った。
「道が違う、雫石じゃない。ここから、そのまま御厨に入りなさい」
戸惑いの表情を浮かべて里絵は路肩に車を停めた。
「御厨へは雫石の連結線以外、入る手立てがありません」
「雫石に行く時間なんてない。物資を運び入れるための谷外に行きなさい。そこには物資搬入用のトンネルか、何かがあるはずだ」
「そ、そこへは、どのようにして行けば」
視野の橋で俯く里絵を見つめた。
徐に言葉にする。
「――お前なら、分かるだろう」
里絵は僅かに視線を上げた。
が、何も返さない。
「私は一秒でも早く、直のところに行く。言われたとおり最短ルートで御厨に入りなさい」
やはり、里絵は何も返せないまま俯いている。
フロントウインドウの先を見つめたまま続けた。
「紫波秋葉 、お前なら―― 護神兵を履き、沙夜を支える三女筆頭のお前なら、その極秘ルートを通れるだろう」
ハンドルを握る手が震えている。
「い、いつから、お気付きになられて――」
「車を出しなさい。走りながら話す」
里絵は、いや、秋葉は震える手を抑えながら車の方向を変えた。
今来た道を逆方向へと走らせる。
「――も、申し訳ありませんでした」
声を震わせながら、秋葉がやっと言葉にする。
何も返さず、じっと前を見つめた。
「雫石とて安全ではありません。身を偽りお守りしなくてはなりませんでした」
少しの沈黙が流れた。
「沙夜は、隠し事はしないと言った。なのに、嘘だらけだ。私を騙して直を御厨に引き入れた。それも、山神の贄にするために」
秋葉は何も返せなかった。
直の情報はこれまで何もなく、長老と同じように新発ノ義の後に初めて聞かされたのだろう。
護身用の銃を取り出した。
僅かに眺め、ロックを外した。
その銃口を静かに自分の喉元にあてがった。
「なッ、何をなさいます!」
「弾は入ってない。――これから入れる」
「――」
「直が生きているなら死んだりなんかしない。ただ、本当にできるか試している」
「――」
「お前たちが持っている、あの光る太刀を渡しなさい」
「……何に、お使いになられますか」
「沙夜と貞任様を切る」
「は、早まらないでください。お二方は心より純菜様をご家族と思っています」
「もう、どうでもいい。直を、直を連れて家に帰る。――邪魔をするようなら、二人を切ってでも連れて帰る」
「あ、あの太刀は、お渡しできないのです。あれは全てを切り裂きます。手からこぼれ我が身へ切っ先が向けば一瞬で身体が二つになります。そのため持つ者の生体情報が組み込まれ、持つ者だけは切れぬようになっています。純菜様が持つには危険すぎます」
「――」
何も言わない私を視野の端に置き、覚悟を決めたかのように秋葉が口を開く。
「私が切ります。純菜様がそれをお望みになるなら、その時は私が―― お、お二方を」
そう言って、身体を震わせた。
「今更、どうやってそれを信じろと」
「私は―― 紫波家は、日出ノ国を追われた巫女様をお守りして日高見ノ国へ落ち延びた海物部 の末裔です。既にご存知と思いますが、純菜様のお父様は本当のお父様ではなく、父の弟、私の叔父です。――私たちは数十代に渡り日出ノ国の巫女様にお仕えしてきました。小さき頃よりお母様、純菜様を命をかけてもお守りするよう教えられ、それは御厨より優先するとも教えられてきました。故に私がこの任に当てられ、私は顔を変え全てを捨てて純菜様のところに来ました。――このような家柄です。既に将門様に護神兵は取り上げられ、御厨に居るとはいえ紫波家には、私には、もう純菜様のところしか居る場所がありません」
秋葉の目からはとめどなく涙が溢れ出た。
「山神を、麟を切れるのか―― 私はそれをやりに行く」
「――」
「御社ノ森で山神に会った時のお前は、ハルやナツと同じただの御厨の幼子だった。お前が隠せないほど大切な幼い頃の思いを捨てて、山神を、麟をその太刀で切れるかッ」
私の目からも涙が溢れた。
秋葉は口を固く結んで涙を拭う。
「切ります。純菜様が命を失うくらいなら、や、山神様であろうと、麟様であろうと」
やはり、身体を震わせながらやっとの思いで口にしている。
自らに向けた銃を下ろした。
弾の入った銃を持つ手は震えていた。本当に、自分に銃を向けられるのかと思った。
弾が入っていないなどという、そんな嘘など秋葉には通じていない。
秋葉は僅かに緊張を緩め、止まらぬ涙を拭いながら続けた。
「谷外からのルートは閉ざされます。既に私たちの行動は将門様に知られています」
「……いや、通れる」
「この話は、私が十を少し過ぎた頃に婆さんに聴いた話。とても好きな話っこで、何度も何度もせがんでは聴かせてもらった話。それが何度思い出そうとしても思い出せねえで、この歳まで一度も話したことがないんだ。んだども、こうして語りを辞める時に、ホント何日か前に思い出し始め、もう少しのところまできて最後まで思い出せないでとまってしまったんだ。それが、聴かせたい娘っ子さんが来てくれて、今、やっとみんな思い出したんだ。本当は別の話をすんだども、娘っ子さんに聴かせたくなったんで、これからその話をすっから」
それは、ソウジュの君と云う話し――
昔、あったずもな。
村の裏山の、そのまた裏の山の中腹にソウジュ様と云って見事な大樹があったんだど。そのソウジュ様の枝という枝には一杯モリコさ居て、その中でも一番立派なモリコは子等だけでなく十五、六の年端のいった娘っ子等にも見えたんだずもな。
そのモリコは村の娘っ子等にソウジュの君といわれてで、そのうちにソウジュ様から離れて村まで遊びさ来るようになり、とうとう村の社の大樹に棲まうようになったんだずもな。そしたら村の娘っ子等は社にソウジュの君を見に来るのが流行りごとさなって、畑仕事もしないで毎日毎日社に行くもんで、困り果てた親たちが社の主様に何とかしてくれと頼んだど。んだども、ソウジュの君は大人には見えないもので、何もできなくて困ってたんだ。それが、半年もしたら娘っ子等も大人になり始め段々見えなぐなって、そのうちソウジュ様のところさ帰ったと噂が広がり、村は一年前のように静かになったんだと。
その頃、社の十九になる巫女様が隣村にある大社の躾習いから帰って、社の大樹の上をずっと見ている女童を見つけで、何事かと思って見に行くずうど、十九の巫女様には見えないはずのソウジュの君が見えで、それもたいそう立派な男に見えたんだずもな。
それから、巫女様とソウジュの君は恋仲になって、仲睦まじく過ごしたんだ。
んだども、巫女様が日々歳を重ねる毎にソウジュの君の姿は少しづつ消えで、巫女様は大変悲しみ、ソウジュの君にどうすれば消えないか尋ねっつうど『日高く上がる処の巫女の産んだ男ノ子の御霊を贄とするならば、我を越えた者を得る』と返したんだずもな。
そして、それを聞いた巫女様は――
倒れた椅子がけたたましくなり響いた。
私は、老婆を見つめたまま立ち竦んでいた。
「贄――」
直は皆んなを、私を守ろうとしてる。襲って来たあの男の話を知って、山神の格を上げようとしている。
……ハルは、自分を山神に食べさせた。直が贄として山神の中に入ることを感じ取ったんだ。沙夜も貞任様も知ってる。……母さんと叔母さんは、直が生まれることを感じ取って関東へ逃げたんだ。そして、それを、それを全て知った上で御厨は私に――
この胸の痛みは、ずっと感じていた痛みはこれだったんだ。
美波は何かを感じて、私に――
な、直に会わなくちゃ。直のところに行かなくちゃ。
語り部の老婆に深々と頭を下げた。
溢れかけていた涙はとめどなく土間へと零れ落ちていく。
顔を上げると、何も言わずに車に向かって歩いた。
「あの娘っ子さんには、みんな聴かせてあげねばならね。止めでけで」
そうサトちゃんに言っている老婆の声が聞こえていた。
頭の中は直のことで一杯だった。
……そう、座敷わらしに怯えて私にしがみついてきてくれた。
私が初めて握ったおにぎりを持たされて、それが楽しいと嬉しそうな顔して遠足に出かけて行った。
運動会では私の作ったお弁当が一番凄いと、皆んなに自慢してた。
部活の応援に行くと、誰にも気づかれないように小さく手を上げてた。
私に目を合わせないようにして、同じ会社に決まったと照れながら言った。
あんなにも、あんなにも細い肩が――
小さい頃の、直の匂いに包まれていく。
ずっと、ずっと一緒にいてくれたんだね、直――
車の前まで行くと、凍り付くようにして立ち竦んだ。
昨日、電話でどこにいるか訊いたのは、最後に会おうとしたの? ねぇ、直――
そう呟いて、立ち竦んだ。
「み、御厨に、御社ノ森へ」
震える声で呟くように口にした。
その囁くような呟きを里絵は聞き逃さなかった。
小さく「はい」と返し、車に乗り込んだ私のシートベルトを締めると、ドアを閉めて足早に運転席に着いた。
前を見据え、感情を抑えるように小さく「行きます」と口にして車を出した。
走り出してすぐ、濡れた頬をそのままに言った。
「道が違う、雫石じゃない。ここから、そのまま御厨に入りなさい」
戸惑いの表情を浮かべて里絵は路肩に車を停めた。
「御厨へは雫石の連結線以外、入る手立てがありません」
「雫石に行く時間なんてない。物資を運び入れるための谷外に行きなさい。そこには物資搬入用のトンネルか、何かがあるはずだ」
「そ、そこへは、どのようにして行けば」
視野の橋で俯く里絵を見つめた。
徐に言葉にする。
「――お前なら、分かるだろう」
里絵は僅かに視線を上げた。
が、何も返さない。
「私は一秒でも早く、直のところに行く。言われたとおり最短ルートで御厨に入りなさい」
やはり、里絵は何も返せないまま俯いている。
フロントウインドウの先を見つめたまま続けた。
「
ハンドルを握る手が震えている。
「い、いつから、お気付きになられて――」
「車を出しなさい。走りながら話す」
里絵は、いや、秋葉は震える手を抑えながら車の方向を変えた。
今来た道を逆方向へと走らせる。
「――も、申し訳ありませんでした」
声を震わせながら、秋葉がやっと言葉にする。
何も返さず、じっと前を見つめた。
「雫石とて安全ではありません。身を偽りお守りしなくてはなりませんでした」
少しの沈黙が流れた。
「沙夜は、隠し事はしないと言った。なのに、嘘だらけだ。私を騙して直を御厨に引き入れた。それも、山神の贄にするために」
秋葉は何も返せなかった。
直の情報はこれまで何もなく、長老と同じように新発ノ義の後に初めて聞かされたのだろう。
護身用の銃を取り出した。
僅かに眺め、ロックを外した。
その銃口を静かに自分の喉元にあてがった。
「なッ、何をなさいます!」
「弾は入ってない。――これから入れる」
「――」
「直が生きているなら死んだりなんかしない。ただ、本当にできるか試している」
「――」
「お前たちが持っている、あの光る太刀を渡しなさい」
「……何に、お使いになられますか」
「沙夜と貞任様を切る」
「は、早まらないでください。お二方は心より純菜様をご家族と思っています」
「もう、どうでもいい。直を、直を連れて家に帰る。――邪魔をするようなら、二人を切ってでも連れて帰る」
「あ、あの太刀は、お渡しできないのです。あれは全てを切り裂きます。手からこぼれ我が身へ切っ先が向けば一瞬で身体が二つになります。そのため持つ者の生体情報が組み込まれ、持つ者だけは切れぬようになっています。純菜様が持つには危険すぎます」
「――」
何も言わない私を視野の端に置き、覚悟を決めたかのように秋葉が口を開く。
「私が切ります。純菜様がそれをお望みになるなら、その時は私が―― お、お二方を」
そう言って、身体を震わせた。
「今更、どうやってそれを信じろと」
「私は―― 紫波家は、日出ノ国を追われた巫女様をお守りして日高見ノ国へ落ち延びた
秋葉の目からはとめどなく涙が溢れ出た。
「山神を、麟を切れるのか―― 私はそれをやりに行く」
「――」
「御社ノ森で山神に会った時のお前は、ハルやナツと同じただの御厨の幼子だった。お前が隠せないほど大切な幼い頃の思いを捨てて、山神を、麟をその太刀で切れるかッ」
私の目からも涙が溢れた。
秋葉は口を固く結んで涙を拭う。
「切ります。純菜様が命を失うくらいなら、や、山神様であろうと、麟様であろうと」
やはり、身体を震わせながらやっとの思いで口にしている。
自らに向けた銃を下ろした。
弾の入った銃を持つ手は震えていた。本当に、自分に銃を向けられるのかと思った。
弾が入っていないなどという、そんな嘘など秋葉には通じていない。
秋葉は僅かに緊張を緩め、止まらぬ涙を拭いながら続けた。
「谷外からのルートは閉ざされます。既に私たちの行動は将門様に知られています」
「……いや、通れる」