百 厨川貞任
文字数 3,089文字
森から出た沙夜さんが御社の通用門まで来たところでものの具六騎が上空から降り立ち陽馬から飛び降りた。
跪いて首を垂れる五騎を後に義澄様が沙夜さんの前に進み出る。
「なッ、なんというお姿――」
胸が押し潰されそうな声だった。
義澄様がゆっくりと跪く。
「御蔵にお戻りください」
四つん這いになっていた沙夜さんが徐に立ち上がる。
何も返すことなく見据えた。
そして、次の瞬間には義澄様の前に移動し足を上げてその強靱な爪で兜を鷲掴みにし、回し蹴るかのように義澄様を脇へと飛ばした。
慌てた五騎が沙夜さんを阻もうと動き出す。
だがその時、陽馬に騎乗した漆黒のものの具がそれを阻んだ。
「姫様の邪魔をする者はこの将門が切り捨てる」
見張りに就いていた将門様だった。
驚いて動けずにいる五騎と義澄様には目もくれずに沙夜さんが将門様の後ろを御社の中へと進んで行く。
モニタを見据えたままの貞任様が冷静な声で口にする。
「塔子、御社の中に誰か残っているか」
「み、皆避難しています」
何かを感じ取ったかのように塔子さんが震える声で返した。
「そうか―― なら、守りのドームを用意しろ」
その声は胸を締め付けるほどに悲しく響いた。
塔子さんは「さ、沙夜様が」と、縋るような顔を向けた。
「あいつは御神体を切り裂いて兄者を出そうとしている。だが、到底御神体にはかなわぬ。――少しでも御厨に残る者を救いたい」
「で、ですが、それではあまりに」塔子さんの目からは涙が零れていた。
「閉じたら上の要と脇をものの具に押さえさせる。焼け石に水だろうが――」
御社を守るために造られた守りのドームは外からの攻撃に対して施された物であり御社を囲む八方の地中から各片が出て御社の上で繋がる。外力には強いが内からの力には弱い。ものの具が消滅するときの大きな力が内側からかかればドームの上側と側面は開いて破壊してしまう。
貞任様は深く項垂れて涙する塔子さんからモニタに向き直った。
「将門、すまぬが沙夜の供を頼む」
「御意。若、姫とご一緒できるならばこの将門何よりの誉れにござる。向こうで春菜に褒められましょうぞ」
慌てた。あまりの展開の早さに付いていけなかった。塔子さんと同じように「お願いです、やめてください」と縋るように口にしていた。
顔を向けた貞任様は今までに目にしたことがないほどに優しい顔をしていた。
「美波、あいつを、沙夜を止められるか」
「わ、私がやってはいけないことをしてしまったから」涙が溢れ出てくる。
「沙夜は岩室で浩兄の意に触れたのだろう。そして、それはあいつが何よりも欲したこと。お前のせいなどではない」
「――」
「それどころか、あいつはお前に感謝すらしてるだろう」と、静かに手を伸ばした。「もう、これぐらいしかお前にやってやれない。――すまない美波」
そう言って、その指で私の涙を拭った。そして、その優しい顔をそのままに続けた。
「もしあいつが、沙夜が浩兄の意を感じ取れていなかったなら、浩兄が御神体に喰われるようならあいつに代わって私が同じことをやっていただけだ」
「――」
「美波、私は御厨に棲まう鬼だ―― 御神体のために身を捧げ、御神体が望まば人をも喰らう鬼だ。それ故に唯一の救いは浩兄だった。浩兄がそこにいて望むことだからできると―― 物心つく頃より沙夜も俺も浩兄が御神体を履くことを感じ取っていた。それは浩兄が望み、ものの具の中で浩兄として生き続けることだと言い聞かせてきた。もし、それが違うというのなら御神体など糞食らえだ」
「――」
「美波、沙夜はものの具に取り込まれる前にあの悍ましい姿をさらしてまで出て来た。
「――」
「あいつにも俺にも、浩兄が全てなんだ」
涙の向こう、見つめる貞任様に何も返せない――
「大変です、ものの具たちが」塔子さんの愕然とした声が響く。
壊れた蔵の扉の向こうから、漆黒の闇からものの具たちが出て来ていた。
「来たか」と、貞任様はモニタを見据え「その時がきたのだな、沙夜―― せめて、この兄が行くまで待て」と僅かに笑みを浮かべた。
「厨川の、貴方のものの具が皆を呼んでいます」傍らの山吹さんが声を震わせる。
貞任様が履いていたはずのものの具が、貞任様が履かぬままのものの具が手と足で御蔵の口を広げていた。
その横をものの具たちが次から次へと外へ出て行く。
「道真!」
「はッ」
道真様が覚悟したかのように返す。
「今すぐにドームを閉めろ。今、すぐにだ」
「――、御意」
御厨全体にドームを閉じる振動が伝わってきた。メインモニタに御社を包み込んでいく銀色に輝いた各片が映し出されている。
「義澄、ドームが閉じたら上の要をお前が、それ以外の者に脇を固めさせろ」
「御意。お任せくだされ」義澄様は笑って応えた。
モニタから視線を落とした貞任様は「義澄、皆、すまない」と呟くように口にし、視線を徐に上げて塔子さんに身体を向けた。
「塔子、時間がきても沙夜は止まらぬぞ」
「はい」
「美波を頼めるのはお前だけだ。――いつも勝手ばかりですまない」
塔子さんは口元を固く結び涙に濡れた顔を僅かに振った。
そんな塔子さんに貞任様は愛おしむかのような笑みを返した。そして、私へと向き直った。
「美波、お前にまほろばの丘や采ノ河原を教えてもらった。いつも世話になってばかりだった。礼を言う」
静かに頭を下げた。
放心状態のまま「嫌です」と返した。
「どうしても、やらねばならぬことがある」
そう言って貞任様は笑った。
貞任様は面持ちを変え山吹さんに身体を向けた。
山吹さんは手にしていた松葉杖を脇に抱え直して進み出た。肩をかして貞任様を立たせ「ここでいい」との言葉に何も返すことなく震える手で杖を渡す。
杖を脇にあてがい貞任様が顔を向けると、見上げた山吹さんの目から一粒の大きな涙が零れた。
「すまない、もう一人の私にけりを付けてくる」
半歩前に進み出た山吹さんはその胸へと顔を寄せ「お帰りをお待ちしております」と静かにあてがった。
「よくここに、御厨に帰って来てくれた。ずっと待っていた」
そう言って貞任様は山吹さんを抱いた。
僅かな時間だった。
「行って来る」と徐に身体を離し、その言葉を最後に振り返ることなく貞任様が指示所を出て行く。
そんな貞任様を声を出すこともなく山吹さんがじっと見つめている。
どうして、どうして泣いて止めないの山吹さん。貞任様だって、沙夜さんだってもう帰って来ないかも知れない。
お願いです、止めてください―― そんな想いが胸の奥から込み上げてくる。
でも、声にならない。
何も言えないまま、その後ろ姿へと視線を戻した。
御蔵の外では道真様、道直様、義盛様が控え、少しの距離を置いて貞任様が履くものの具が片膝を突いて頭を垂れていた。
「お前たちだけか」
「はい」
貞任様は、遠い故郷を望むかのように谷内の町へ顔を向けた。
「ものの具を履いている者たちは誰一人立てぬか―― 立てたとしても、到底逃げ遂せる類いのモノではないが」
向き直った貞任様の面持ちは変わっていた。
「すぐ御蔵に入れ。ものの具を履く者たちに抗うことなく身を任せるよう下知を出せ。先
に、この貞任が行って待っていると」
「御意」
「道真、御蔵に入ったらここのモニタを切れ。――最後の下知だ」
「ぎょ、御意」
深く頭を垂れた道真様たちは堪らえきれずに漏れる嗚咽を抑えながら立ち上がった。
道真様たちが御蔵に入るのを見届け貞任様は徐ろに歩き出した。跪くものの具の前まで行って見上げた。
そして、言った。
「私を、この御厨ノ貞任を喰いたいか――」
そこで、モニタは消えた。
跪いて首を垂れる五騎を後に義澄様が沙夜さんの前に進み出る。
「なッ、なんというお姿――」
胸が押し潰されそうな声だった。
義澄様がゆっくりと跪く。
「御蔵にお戻りください」
四つん這いになっていた沙夜さんが徐に立ち上がる。
何も返すことなく見据えた。
そして、次の瞬間には義澄様の前に移動し足を上げてその強靱な爪で兜を鷲掴みにし、回し蹴るかのように義澄様を脇へと飛ばした。
慌てた五騎が沙夜さんを阻もうと動き出す。
だがその時、陽馬に騎乗した漆黒のものの具がそれを阻んだ。
「姫様の邪魔をする者はこの将門が切り捨てる」
見張りに就いていた将門様だった。
驚いて動けずにいる五騎と義澄様には目もくれずに沙夜さんが将門様の後ろを御社の中へと進んで行く。
モニタを見据えたままの貞任様が冷静な声で口にする。
「塔子、御社の中に誰か残っているか」
「み、皆避難しています」
何かを感じ取ったかのように塔子さんが震える声で返した。
「そうか―― なら、守りのドームを用意しろ」
その声は胸を締め付けるほどに悲しく響いた。
塔子さんは「さ、沙夜様が」と、縋るような顔を向けた。
「あいつは御神体を切り裂いて兄者を出そうとしている。だが、到底御神体にはかなわぬ。――少しでも御厨に残る者を救いたい」
「で、ですが、それではあまりに」塔子さんの目からは涙が零れていた。
「閉じたら上の要と脇をものの具に押さえさせる。焼け石に水だろうが――」
御社を守るために造られた守りのドームは外からの攻撃に対して施された物であり御社を囲む八方の地中から各片が出て御社の上で繋がる。外力には強いが内からの力には弱い。ものの具が消滅するときの大きな力が内側からかかればドームの上側と側面は開いて破壊してしまう。
貞任様は深く項垂れて涙する塔子さんからモニタに向き直った。
「将門、すまぬが沙夜の供を頼む」
「御意。若、姫とご一緒できるならばこの将門何よりの誉れにござる。向こうで春菜に褒められましょうぞ」
慌てた。あまりの展開の早さに付いていけなかった。塔子さんと同じように「お願いです、やめてください」と縋るように口にしていた。
顔を向けた貞任様は今までに目にしたことがないほどに優しい顔をしていた。
「美波、あいつを、沙夜を止められるか」
「わ、私がやってはいけないことをしてしまったから」涙が溢れ出てくる。
「沙夜は岩室で浩兄の意に触れたのだろう。そして、それはあいつが何よりも欲したこと。お前のせいなどではない」
「――」
「それどころか、あいつはお前に感謝すらしてるだろう」と、静かに手を伸ばした。「もう、これぐらいしかお前にやってやれない。――すまない美波」
そう言って、その指で私の涙を拭った。そして、その優しい顔をそのままに続けた。
「もしあいつが、沙夜が浩兄の意を感じ取れていなかったなら、浩兄が御神体に喰われるようならあいつに代わって私が同じことをやっていただけだ」
「――」
「美波、私は御厨に棲まう鬼だ―― 御神体のために身を捧げ、御神体が望まば人をも喰らう鬼だ。それ故に唯一の救いは浩兄だった。浩兄がそこにいて望むことだからできると―― 物心つく頃より沙夜も俺も浩兄が御神体を履くことを感じ取っていた。それは浩兄が望み、ものの具の中で浩兄として生き続けることだと言い聞かせてきた。もし、それが違うというのなら御神体など糞食らえだ」
「――」
「美波、沙夜はものの具に取り込まれる前にあの悍ましい姿をさらしてまで出て来た。
「――」
「あいつにも俺にも、浩兄が全てなんだ」
涙の向こう、見つめる貞任様に何も返せない――
「大変です、ものの具たちが」塔子さんの愕然とした声が響く。
壊れた蔵の扉の向こうから、漆黒の闇からものの具たちが出て来ていた。
「来たか」と、貞任様はモニタを見据え「その時がきたのだな、沙夜―― せめて、この兄が行くまで待て」と僅かに笑みを浮かべた。
「厨川の、貴方のものの具が皆を呼んでいます」傍らの山吹さんが声を震わせる。
貞任様が履いていたはずのものの具が、貞任様が履かぬままのものの具が手と足で御蔵の口を広げていた。
その横をものの具たちが次から次へと外へ出て行く。
「道真!」
「はッ」
道真様が覚悟したかのように返す。
「今すぐにドームを閉めろ。今、すぐにだ」
「――、御意」
御厨全体にドームを閉じる振動が伝わってきた。メインモニタに御社を包み込んでいく銀色に輝いた各片が映し出されている。
「義澄、ドームが閉じたら上の要をお前が、それ以外の者に脇を固めさせろ」
「御意。お任せくだされ」義澄様は笑って応えた。
モニタから視線を落とした貞任様は「義澄、皆、すまない」と呟くように口にし、視線を徐に上げて塔子さんに身体を向けた。
「塔子、時間がきても沙夜は止まらぬぞ」
「はい」
「美波を頼めるのはお前だけだ。――いつも勝手ばかりですまない」
塔子さんは口元を固く結び涙に濡れた顔を僅かに振った。
そんな塔子さんに貞任様は愛おしむかのような笑みを返した。そして、私へと向き直った。
「美波、お前にまほろばの丘や采ノ河原を教えてもらった。いつも世話になってばかりだった。礼を言う」
静かに頭を下げた。
放心状態のまま「嫌です」と返した。
「どうしても、やらねばならぬことがある」
そう言って貞任様は笑った。
貞任様は面持ちを変え山吹さんに身体を向けた。
山吹さんは手にしていた松葉杖を脇に抱え直して進み出た。肩をかして貞任様を立たせ「ここでいい」との言葉に何も返すことなく震える手で杖を渡す。
杖を脇にあてがい貞任様が顔を向けると、見上げた山吹さんの目から一粒の大きな涙が零れた。
「すまない、もう一人の私にけりを付けてくる」
半歩前に進み出た山吹さんはその胸へと顔を寄せ「お帰りをお待ちしております」と静かにあてがった。
「よくここに、御厨に帰って来てくれた。ずっと待っていた」
そう言って貞任様は山吹さんを抱いた。
僅かな時間だった。
「行って来る」と徐に身体を離し、その言葉を最後に振り返ることなく貞任様が指示所を出て行く。
そんな貞任様を声を出すこともなく山吹さんがじっと見つめている。
どうして、どうして泣いて止めないの山吹さん。貞任様だって、沙夜さんだってもう帰って来ないかも知れない。
お願いです、止めてください―― そんな想いが胸の奥から込み上げてくる。
でも、声にならない。
何も言えないまま、その後ろ姿へと視線を戻した。
御蔵の外では道真様、道直様、義盛様が控え、少しの距離を置いて貞任様が履くものの具が片膝を突いて頭を垂れていた。
「お前たちだけか」
「はい」
貞任様は、遠い故郷を望むかのように谷内の町へ顔を向けた。
「ものの具を履いている者たちは誰一人立てぬか―― 立てたとしても、到底逃げ遂せる類いのモノではないが」
向き直った貞任様の面持ちは変わっていた。
「すぐ御蔵に入れ。ものの具を履く者たちに抗うことなく身を任せるよう下知を出せ。先
に、この貞任が行って待っていると」
「御意」
「道真、御蔵に入ったらここのモニタを切れ。――最後の下知だ」
「ぎょ、御意」
深く頭を垂れた道真様たちは堪らえきれずに漏れる嗚咽を抑えながら立ち上がった。
道真様たちが御蔵に入るのを見届け貞任様は徐ろに歩き出した。跪くものの具の前まで行って見上げた。
そして、言った。
「私を、この御厨ノ貞任を喰いたいか――」
そこで、モニタは消えた。