六十七 文
文字数 5,835文字
祭りが終わりいつもの静けさを取り戻した御社に来ていた。
客殿で用意された朝食を前に二人が席に着くと美波への気遣いなのだろう、手伝いとしてきっ子ちゃんが顔を見せた。
挨拶をすると満面の笑みで可愛らしくお辞儀を返し、声を発することなく下がって行く。
「初めて近くで見たけど、本当に可愛いね」
きっ子ちゃんの後ろ姿を見ながら口にすると「我が意を得たり!」と、言わんばかりに美波も満面の笑みで返してくる。
「そうなんですよ、ホント可愛いんです。もう、食べちゃいたいくらいです」
「あらら、美波ちゃん。なんか犯罪者一歩手前の顔になってるよ」
「えッ! それはダメです。お母さんかお姉ちゃんの顔でないときっ子ちゃんに嫌われちゃう。そうだ! タバコだってやめないとだわ」
「もう、完全にやられちゃってるね」
「なんか、あの笑い顔を見てると胸がキュンときちゃうんです。――もちろん哀れみとかもあるんだと思うんです。でも、なんて言うか、放っておけない衝動というか、沙夜先輩から話を聞く前に、あの子を一目見た時から」
「恋だね」
「やっぱり、そうでしょうか」
否定することなく口にする美波。
なんか一緒だなぁ―― 少しだけ笑った。
「でも、あれだね。やはりハルがいないと寂しいね」
「そうですね。直君を見ないだけ助かってますけど」
「直か―― どこいってんだか」
「調査班の人が御所から御社への道で見かけたって言ってましたけど、ハルちゃんはまだ御社ノ森に居るってことなんでしょうか」
「代々の墓には入らずにあそこを選んだからには、それなりのことがあるんでしょう」
「それなりのこと―― 魂があそこに残っているということ、ですか?」
春菜が御社ノ森で眠りたいと言った時の貞任様と沙夜のことを思い出していた。
らしからぬ態度で「二人の後は追うな」と言い残して光浩様の元に行ってしまった貞任様。その貞任様に問いかけた沙夜の「春菜は何かを感じ取っているのでしょうか」との意味ありげな言葉を――
「先輩?」
「あッ、ごめん」
「先輩も気になっているんでしょ。あの時の貞任様のらしくない態度と沙夜先輩の問いかけた言葉が」
「さすがだね、美波。……おそらくあれは予定外なんだと思う」
「どういう予定でしょう」
「貞任様のあの態度からして私たちに話すとは思えない」
「御厨の今後を左右する沙樹様からの文以上ってことですか」
「重要性は文の方が上でしょうね。きっと私たち四人に関する内容なんだと思う。おそらく直に」
「直君か―― 御厨の巫女、巫 や覡 ってなんなんでしょう。彼らがリスクを負ってでも直君を連れて行こうとした理由ってなんなんでしょう」
「リスクを負ったかどうかは分からない。ついで程度のことだったかもしれない」
そう言いながら視線を落とした。
直は、本当に覡 になるのだろうか……
「お早う。朝早くからすまんな」
貞任様は事件が起こる前と変わらない。いつものように気さくに声をかけてきた。でも、その後ろに佇む沙夜の表情には春菜を失った悲しみが見てとれる。
挨拶を交わして席に着くと、貞任様が陶磁製らしき筒をテーブルの上に置いた。
「早速始めていいか」
「はい、お願いします。――もう、保護色化は解けてしまっているようですね」
「あぁ、祭りが終わると合わせたかのように解けた」
貞任様が意味ありげに返した。
「どうかしたのですか」
「文を見ないまでも素直に開くか怪しいから、事件があった翌日に試してみたんだが開かなかった。その後は祭りで触ってないが、そう簡単には開かんだろうと思案していた」
「それが、今朝起きると保護色化が解けていたの」
「おそらく祭りが終わるまでは開かないようになっていたんだろう。まったくお袋様は何を考えているんだか―― まぁ、先ずは開けてみよう」
貞任様が手に取ると筒は何もなかったように開き、中には一通の文だけが入っていた。
その文を受け取った沙夜は、貞任様が頷くのを待って徐に文を開いた。
沙夜、元気にしていますか。
貞任が会いに来てくれるとのことで山吹と二人で楽しみにしています。ですが、やはり貴女に会えないことがとても寂しいです。
あなたたちがこの文を目にする頃には里の祭りも終わり、山々が新緑につつまれていることでしょうね。この時期になると、神楽ノ宮の一本桜の下で遊ぶあなたたちの笑い声に包まれていた日々を思い出します。
楓のように小さなあなたたちの手の温もり、泣いた時のへの字になった小さな口、縋り付いて来てくれた時の匂い。
そう、あなたたちの笑い声に包まれた私は、まだ、そこに居ます
そして、それは私がこの世に生まれて来た理由
そして、それはあなたたちがこれから何よりも成すべきこと
山吹を里帰りさせようと思っています。貞任は、山吹が私に気遣い、こちらに戻ると言っても決して手元から離さぬよう。何があっても、その手を離さぬよう。
人の理を超える理が動き出そうとしています。沙夜、迷うことがあれば光浩様の意を感じなさい。
そして、貴女にとても大きなものを背負わせてしまう母を許して
読み終えた文を下ろすと、沙夜は何も言わずに俯いた。
貞任様が徐に口を開く。
「短いが、私と沙夜には結構重い内容だ。――しかし、母が兄者を光浩様と呼ぶとはなぁ。繋いでいた手を離された思いだよ。もう、ここへはお戻りになられまい」
私と美波は戸惑いの表情を浮かべた。
「どうやら、この文は私と沙夜への絶縁状のようだ。――文にあった人の理を超えた理とは御神体の覚醒を言っているのだろう。だが、純菜も知ってのとおり我々は御神体の覚醒が何を意味するのか、覚醒の先に何があるのかを知らない。どうすれば覚醒するのかさえ―― その状況下で私と沙夜が出した答えは、蒼君ノ巫女を頂点とした母が統べる世界最大の大国がこの御厨に攻め込み、御神体の覚醒を阻止しに来るというものだ」
「向こうの組織はお母様を人質に取り、そのお母様と御厨グループを利用し大国の強大な戦力を手中にした。そして、ここへ―― ということですか」
貞任様は一呼吸置いた。
「違うんだ、純菜。御厨の者にはそのように言ってあるが、母は自らの意志で向こうへ、蒼君ノ巫女の元へ行ったと私や沙夜はそう思っている。我々御厨グループは母があの大国を統べるにあたってなんの支援もしていない。母は蒼君と二人で強大な戦力を手にし、蒼君はファーストレディーとしての立場を手にした」
「ファーストレディーとしての立場……」訝しげに口にした。
「蒼君は報道には出ないが、ここ数年の間にファーストレディー外交として世界各国を周った。そして、麟が御社ノ森で御厨の者たちを感化するかのように、政界や経済界はもとより街々の市民活動に至るところまで精力的に周って人々を感化せしめた。我々の得た情報では既に世界人口の七割程が蒼君の信者となっている」
「世界人口の七割を!」
私と美波の顔は驚きの表情へと変わった。
「確かに、感化される側は何かしらの力を受けてはいる。しかし、報告によれば麟とは違い、人としての純粋な願いを言葉を持って誠心誠意伝え『全ては、子どもたちの笑い声に包まれた世界へ向かうために』と、説いている」
「全ては、子どもたちの笑い声に包まれた世界……」
「確かに親が泣いていては子は笑わんからな。子を持つ親の身にすれば魅了もされよう。母も共感したのやもしれん」
違和感を覚えた。
妖かしの力を使って直を襲い、なんの躊躇もなく春菜たちの命を奪っていった者たち。その頂点にある蒼君ノ巫女が『子どもたちの笑い声に包まれた世界』を説いていると――
何も言わずにいた美波が問いかける。
「蒼君ノ巫女と云う人の後ろに黒幕がいて利用されているということはないのですか。そのためにお母様も身動きが取れないでいるとか」
「母は文の中で子を愛しみ自分の生まれて来た理由がそこにあると言った。そして、我々がなによりも成すべきことはそれだとも言った。それは蒼君が説いていることと同じだ。その後には、人の理を超えた理が動く時、迷うことがあれば浩兄の意を感じろと沙夜に言い。その沙夜に重荷を負わせる自分を許せと言う。――この文からは母の真意が伝わってくる。間違いなく母は首謀者の一人だろう」
貞任様は確かめるように沙夜へ顔を向けた。でも、沙夜は何も言わずに俯いている。
二人に向き直った貞任様は僅かに笑みを浮かべた。
「御厨に触れたこの数十日と、この文。頭の良いお前たちなら既にある程度の仮説ができているのでは」
その問いかけに二人は何も返すことなく視線を落とした。
貞任様は続けた。
「御厨に棲む者、沙夜や私も含め全ての者がもののけの類いで、御神体の覚醒によって本来の力が解き放たれものの具を履いて同化し、人の世を喰ってもののけの棲まう世に変えてしまう。そして、数千年もの間この地にあって御神体を守り続けてきた厨川家の巫女が、蒼君ノ巫女がその覚醒を前にことの非情さを悟り、人々のために自らの命を賭して御厨の殲滅を図ろうとしている」
美波が徐ろに顔を上げた。
「でも、山神様や麟ちゃん。光浩様をどのように受け止めれば――」
「私は、浩兄と一緒にいる時が一番心が和む。沙夜も同じだ。御厨の者たちも同じように山神や麟を心から欲している。というか、それら八百万の神々とこの御厨に居る自分等を心から欲している。しかし、ものの具を履くということはそれらとは違う。到底人とは思えぬような力を得る。御神体に、この地に仇なす者を尽く駆逐してしまいたい。そんな感情に呑み込まれそうになる。御神体が覚醒すれば、この身が人から鬼へ変わってしまうのではないかと思うほど―― そこには、八百万の神々が持っている穏やかさなど微塵もない。……御神体や御蔵は人が、人神が造ったようにも感じる。何者かと戦うために」
「人神のために何かと戦う…… で、その是非を光浩様に問えということですか」
貞任様は俯いたままの沙夜に顔を向けた。
「確信などはない。ただ、この文を読んで率直にそう感じた。それは沙夜も同じだろう。……母とて迷いがあるのやもしれん。それが故の文なのだろう。とはいえ、間違いなく御厨への宣戦布告といったところだ」
美波は僅かに視線を落とした。
徐ろに話し始める。
「いつかは覚める夢―― 御厨から出て雫石に戻れば覚める夢。でも、それこそ夢で、純菜先輩が、沙夜先輩が見せてくれた御厨は全て現実でした。御厨の方のDNAを調べさせて頂きました。間違いなく人です。護神兵を履いた方々も幾分の変化が診られましたが人の領域を出てはいません。もっと、それとは違う何か別の答えがありませんか」
「それ故、純菜に、皆にここへ来てもらった。御厨を知らず、そして、ここを愛してくれる者たちに――」
貞任様は面持ちを変えた。
「しかし、美波はさすがだなぁ。純菜や沙夜が認めただけのことはある。浩兄と麟は無理だが、是非私や沙夜も調べてもらいたいものだ」
「――純菜先輩や、直君以外の方なら何方でも」
今までに見たことがないほど強張った表情をしていた。
「美波、いいんだよ。直には申し訳ないんだけど私は覚悟してここに来ているから」
美波は返すことなく俯いたままだった。
貞任様に向き直った。
「既に美波も承知かと思いますが、御蔵の情報収集能力は凄くて世界中のあらゆる施設のあらゆるデータにアクセスできました。大国アメリカすら丸裸で、この国の個人情報などはいとも容易く入手できます。もちろん、貞任様や沙夜が承知して見せてくれているからなのですが――」
「――」
「――私や直のお母さん、また、そのお母さんのお母さん。代々山神の巫女の血を引いた者は三十年以上生存することができません。身ごもってその子が生まれ、乳離れをする三年を除いては。――美波。私は私が何なのか、あなたに調べて欲しくてあなたを選んだの。直のこともあるからすぐには無理でも、少し落ち着いたら調べて欲しい」
俯いたままの美波を見つめた。
でも、美波は顔を上げてはくれなかった。
「申し訳ない。余計なことを言い過ぎたようだ。話を本筋へ戻そう。どうだい? 純菜、――沙夜」
沙夜が、ようやく顔を上げた。
私は貞任様に向き直った。
「はい。では、向こうの組織の内容を教えて頂けますか。想像するにかなり大掛かりな組織だと思えるのですが」と、意識的に作戦担当責任者の顔をつくった。
「向こうは母と蒼君、それと蒼君側近の五体の妖かしだけだ」
「たった、それだけですか」
「まぁ、条件が整えば、それにアメリカの軍事力が加わることになる。おそらく、世界の大半の人間が御厨の敵になるだろう」
「世界を相手に――」
そう呟くように言って、美波に顔を向けた。
「なんか、大変なことになってきちゃったね。ね、美波」
美波が、やっと顔を上げた。申し訳なさそうに見ている私に何か言いたげな目を向けている。でも、それは言葉にならず口を真一文字に硬く結んで真っすぐに見つめている。
とめどなく溢れ出てくる涙を、そのままに――
白砂ノ御所に戻るとサトちゃんと直が待っていた。
御社でのことを二人に話した。
「どう? 直。御厨で何が起ころうとしているかは分からない。でも、置かれた状況はあまりいいとは言えない」
直には驚きの表情はなく、ただ淡々と返してくる。
「ここを、皆んなを守りたい。それがハルちゃんの意志だ。俺も山神様と一緒に戦う」
「サトちゃんはどう?」
「私は室長と共にいます。戦うと言われれば共に戦います」
「二人ともありがとう。美波も一緒にいてくれるって言っているから、これからもずっと一緒に行こう」
直の「山神様と一緒に戦う」という言葉が気になった。が、平静を装う。
「今日はこれぐらいにして、私たちの新しいサポート役の歓迎会を、前に泊まった丘の上のホテルで行います」
表情に笑みを加えた。
「ハルちゃんの代わりを妹の夏菜ちゃんが買って出てくれたの。向こうでダブルナッちゃんが待ってる。ちょっと早い気もするけどナツの快気祝いと夏菜ちゃんの歓迎会。ハルに似て夏菜ちゃんもかなり歌が上手いらしいよ。明日は日曜で休みだし、今日は皆んなでパーッとやって、ゆったりと温泉に浸るわよ!」
「はいッ!」
相変わらずレスポンスのいいサトちゃんの返事があり、塞ぎ込むことが多かった直も夏菜ちゃんの名を聞いたせいか久しくなかった笑みを向けていた。
客殿で用意された朝食を前に二人が席に着くと美波への気遣いなのだろう、手伝いとしてきっ子ちゃんが顔を見せた。
挨拶をすると満面の笑みで可愛らしくお辞儀を返し、声を発することなく下がって行く。
「初めて近くで見たけど、本当に可愛いね」
きっ子ちゃんの後ろ姿を見ながら口にすると「我が意を得たり!」と、言わんばかりに美波も満面の笑みで返してくる。
「そうなんですよ、ホント可愛いんです。もう、食べちゃいたいくらいです」
「あらら、美波ちゃん。なんか犯罪者一歩手前の顔になってるよ」
「えッ! それはダメです。お母さんかお姉ちゃんの顔でないときっ子ちゃんに嫌われちゃう。そうだ! タバコだってやめないとだわ」
「もう、完全にやられちゃってるね」
「なんか、あの笑い顔を見てると胸がキュンときちゃうんです。――もちろん哀れみとかもあるんだと思うんです。でも、なんて言うか、放っておけない衝動というか、沙夜先輩から話を聞く前に、あの子を一目見た時から」
「恋だね」
「やっぱり、そうでしょうか」
否定することなく口にする美波。
なんか一緒だなぁ―― 少しだけ笑った。
「でも、あれだね。やはりハルがいないと寂しいね」
「そうですね。直君を見ないだけ助かってますけど」
「直か―― どこいってんだか」
「調査班の人が御所から御社への道で見かけたって言ってましたけど、ハルちゃんはまだ御社ノ森に居るってことなんでしょうか」
「代々の墓には入らずにあそこを選んだからには、それなりのことがあるんでしょう」
「それなりのこと―― 魂があそこに残っているということ、ですか?」
春菜が御社ノ森で眠りたいと言った時の貞任様と沙夜のことを思い出していた。
らしからぬ態度で「二人の後は追うな」と言い残して光浩様の元に行ってしまった貞任様。その貞任様に問いかけた沙夜の「春菜は何かを感じ取っているのでしょうか」との意味ありげな言葉を――
「先輩?」
「あッ、ごめん」
「先輩も気になっているんでしょ。あの時の貞任様のらしくない態度と沙夜先輩の問いかけた言葉が」
「さすがだね、美波。……おそらくあれは予定外なんだと思う」
「どういう予定でしょう」
「貞任様のあの態度からして私たちに話すとは思えない」
「御厨の今後を左右する沙樹様からの文以上ってことですか」
「重要性は文の方が上でしょうね。きっと私たち四人に関する内容なんだと思う。おそらく直に」
「直君か―― 御厨の巫女、
「リスクを負ったかどうかは分からない。ついで程度のことだったかもしれない」
そう言いながら視線を落とした。
直は、本当に
「お早う。朝早くからすまんな」
貞任様は事件が起こる前と変わらない。いつものように気さくに声をかけてきた。でも、その後ろに佇む沙夜の表情には春菜を失った悲しみが見てとれる。
挨拶を交わして席に着くと、貞任様が陶磁製らしき筒をテーブルの上に置いた。
「早速始めていいか」
「はい、お願いします。――もう、保護色化は解けてしまっているようですね」
「あぁ、祭りが終わると合わせたかのように解けた」
貞任様が意味ありげに返した。
「どうかしたのですか」
「文を見ないまでも素直に開くか怪しいから、事件があった翌日に試してみたんだが開かなかった。その後は祭りで触ってないが、そう簡単には開かんだろうと思案していた」
「それが、今朝起きると保護色化が解けていたの」
「おそらく祭りが終わるまでは開かないようになっていたんだろう。まったくお袋様は何を考えているんだか―― まぁ、先ずは開けてみよう」
貞任様が手に取ると筒は何もなかったように開き、中には一通の文だけが入っていた。
その文を受け取った沙夜は、貞任様が頷くのを待って徐に文を開いた。
沙夜、元気にしていますか。
貞任が会いに来てくれるとのことで山吹と二人で楽しみにしています。ですが、やはり貴女に会えないことがとても寂しいです。
あなたたちがこの文を目にする頃には里の祭りも終わり、山々が新緑につつまれていることでしょうね。この時期になると、神楽ノ宮の一本桜の下で遊ぶあなたたちの笑い声に包まれていた日々を思い出します。
楓のように小さなあなたたちの手の温もり、泣いた時のへの字になった小さな口、縋り付いて来てくれた時の匂い。
そう、あなたたちの笑い声に包まれた私は、まだ、そこに居ます
そして、それは私がこの世に生まれて来た理由
そして、それはあなたたちがこれから何よりも成すべきこと
山吹を里帰りさせようと思っています。貞任は、山吹が私に気遣い、こちらに戻ると言っても決して手元から離さぬよう。何があっても、その手を離さぬよう。
人の理を超える理が動き出そうとしています。沙夜、迷うことがあれば光浩様の意を感じなさい。
そして、貴女にとても大きなものを背負わせてしまう母を許して
読み終えた文を下ろすと、沙夜は何も言わずに俯いた。
貞任様が徐に口を開く。
「短いが、私と沙夜には結構重い内容だ。――しかし、母が兄者を光浩様と呼ぶとはなぁ。繋いでいた手を離された思いだよ。もう、ここへはお戻りになられまい」
私と美波は戸惑いの表情を浮かべた。
「どうやら、この文は私と沙夜への絶縁状のようだ。――文にあった人の理を超えた理とは御神体の覚醒を言っているのだろう。だが、純菜も知ってのとおり我々は御神体の覚醒が何を意味するのか、覚醒の先に何があるのかを知らない。どうすれば覚醒するのかさえ―― その状況下で私と沙夜が出した答えは、蒼君ノ巫女を頂点とした母が統べる世界最大の大国がこの御厨に攻め込み、御神体の覚醒を阻止しに来るというものだ」
「向こうの組織はお母様を人質に取り、そのお母様と御厨グループを利用し大国の強大な戦力を手中にした。そして、ここへ―― ということですか」
貞任様は一呼吸置いた。
「違うんだ、純菜。御厨の者にはそのように言ってあるが、母は自らの意志で向こうへ、蒼君ノ巫女の元へ行ったと私や沙夜はそう思っている。我々御厨グループは母があの大国を統べるにあたってなんの支援もしていない。母は蒼君と二人で強大な戦力を手にし、蒼君はファーストレディーとしての立場を手にした」
「ファーストレディーとしての立場……」訝しげに口にした。
「蒼君は報道には出ないが、ここ数年の間にファーストレディー外交として世界各国を周った。そして、麟が御社ノ森で御厨の者たちを感化するかのように、政界や経済界はもとより街々の市民活動に至るところまで精力的に周って人々を感化せしめた。我々の得た情報では既に世界人口の七割程が蒼君の信者となっている」
「世界人口の七割を!」
私と美波の顔は驚きの表情へと変わった。
「確かに、感化される側は何かしらの力を受けてはいる。しかし、報告によれば麟とは違い、人としての純粋な願いを言葉を持って誠心誠意伝え『全ては、子どもたちの笑い声に包まれた世界へ向かうために』と、説いている」
「全ては、子どもたちの笑い声に包まれた世界……」
「確かに親が泣いていては子は笑わんからな。子を持つ親の身にすれば魅了もされよう。母も共感したのやもしれん」
違和感を覚えた。
妖かしの力を使って直を襲い、なんの躊躇もなく春菜たちの命を奪っていった者たち。その頂点にある蒼君ノ巫女が『子どもたちの笑い声に包まれた世界』を説いていると――
何も言わずにいた美波が問いかける。
「蒼君ノ巫女と云う人の後ろに黒幕がいて利用されているということはないのですか。そのためにお母様も身動きが取れないでいるとか」
「母は文の中で子を愛しみ自分の生まれて来た理由がそこにあると言った。そして、我々がなによりも成すべきことはそれだとも言った。それは蒼君が説いていることと同じだ。その後には、人の理を超えた理が動く時、迷うことがあれば浩兄の意を感じろと沙夜に言い。その沙夜に重荷を負わせる自分を許せと言う。――この文からは母の真意が伝わってくる。間違いなく母は首謀者の一人だろう」
貞任様は確かめるように沙夜へ顔を向けた。でも、沙夜は何も言わずに俯いている。
二人に向き直った貞任様は僅かに笑みを浮かべた。
「御厨に触れたこの数十日と、この文。頭の良いお前たちなら既にある程度の仮説ができているのでは」
その問いかけに二人は何も返すことなく視線を落とした。
貞任様は続けた。
「御厨に棲む者、沙夜や私も含め全ての者がもののけの類いで、御神体の覚醒によって本来の力が解き放たれものの具を履いて同化し、人の世を喰ってもののけの棲まう世に変えてしまう。そして、数千年もの間この地にあって御神体を守り続けてきた厨川家の巫女が、蒼君ノ巫女がその覚醒を前にことの非情さを悟り、人々のために自らの命を賭して御厨の殲滅を図ろうとしている」
美波が徐ろに顔を上げた。
「でも、山神様や麟ちゃん。光浩様をどのように受け止めれば――」
「私は、浩兄と一緒にいる時が一番心が和む。沙夜も同じだ。御厨の者たちも同じように山神や麟を心から欲している。というか、それら八百万の神々とこの御厨に居る自分等を心から欲している。しかし、ものの具を履くということはそれらとは違う。到底人とは思えぬような力を得る。御神体に、この地に仇なす者を尽く駆逐してしまいたい。そんな感情に呑み込まれそうになる。御神体が覚醒すれば、この身が人から鬼へ変わってしまうのではないかと思うほど―― そこには、八百万の神々が持っている穏やかさなど微塵もない。……御神体や御蔵は人が、人神が造ったようにも感じる。何者かと戦うために」
「人神のために何かと戦う…… で、その是非を光浩様に問えということですか」
貞任様は俯いたままの沙夜に顔を向けた。
「確信などはない。ただ、この文を読んで率直にそう感じた。それは沙夜も同じだろう。……母とて迷いがあるのやもしれん。それが故の文なのだろう。とはいえ、間違いなく御厨への宣戦布告といったところだ」
美波は僅かに視線を落とした。
徐ろに話し始める。
「いつかは覚める夢―― 御厨から出て雫石に戻れば覚める夢。でも、それこそ夢で、純菜先輩が、沙夜先輩が見せてくれた御厨は全て現実でした。御厨の方のDNAを調べさせて頂きました。間違いなく人です。護神兵を履いた方々も幾分の変化が診られましたが人の領域を出てはいません。もっと、それとは違う何か別の答えがありませんか」
「それ故、純菜に、皆にここへ来てもらった。御厨を知らず、そして、ここを愛してくれる者たちに――」
貞任様は面持ちを変えた。
「しかし、美波はさすがだなぁ。純菜や沙夜が認めただけのことはある。浩兄と麟は無理だが、是非私や沙夜も調べてもらいたいものだ」
「――純菜先輩や、直君以外の方なら何方でも」
今までに見たことがないほど強張った表情をしていた。
「美波、いいんだよ。直には申し訳ないんだけど私は覚悟してここに来ているから」
美波は返すことなく俯いたままだった。
貞任様に向き直った。
「既に美波も承知かと思いますが、御蔵の情報収集能力は凄くて世界中のあらゆる施設のあらゆるデータにアクセスできました。大国アメリカすら丸裸で、この国の個人情報などはいとも容易く入手できます。もちろん、貞任様や沙夜が承知して見せてくれているからなのですが――」
「――」
「――私や直のお母さん、また、そのお母さんのお母さん。代々山神の巫女の血を引いた者は三十年以上生存することができません。身ごもってその子が生まれ、乳離れをする三年を除いては。――美波。私は私が何なのか、あなたに調べて欲しくてあなたを選んだの。直のこともあるからすぐには無理でも、少し落ち着いたら調べて欲しい」
俯いたままの美波を見つめた。
でも、美波は顔を上げてはくれなかった。
「申し訳ない。余計なことを言い過ぎたようだ。話を本筋へ戻そう。どうだい? 純菜、――沙夜」
沙夜が、ようやく顔を上げた。
私は貞任様に向き直った。
「はい。では、向こうの組織の内容を教えて頂けますか。想像するにかなり大掛かりな組織だと思えるのですが」と、意識的に作戦担当責任者の顔をつくった。
「向こうは母と蒼君、それと蒼君側近の五体の妖かしだけだ」
「たった、それだけですか」
「まぁ、条件が整えば、それにアメリカの軍事力が加わることになる。おそらく、世界の大半の人間が御厨の敵になるだろう」
「世界を相手に――」
そう呟くように言って、美波に顔を向けた。
「なんか、大変なことになってきちゃったね。ね、美波」
美波が、やっと顔を上げた。申し訳なさそうに見ている私に何か言いたげな目を向けている。でも、それは言葉にならず口を真一文字に硬く結んで真っすぐに見つめている。
とめどなく溢れ出てくる涙を、そのままに――
白砂ノ御所に戻るとサトちゃんと直が待っていた。
御社でのことを二人に話した。
「どう? 直。御厨で何が起ころうとしているかは分からない。でも、置かれた状況はあまりいいとは言えない」
直には驚きの表情はなく、ただ淡々と返してくる。
「ここを、皆んなを守りたい。それがハルちゃんの意志だ。俺も山神様と一緒に戦う」
「サトちゃんはどう?」
「私は室長と共にいます。戦うと言われれば共に戦います」
「二人ともありがとう。美波も一緒にいてくれるって言っているから、これからもずっと一緒に行こう」
直の「山神様と一緒に戦う」という言葉が気になった。が、平静を装う。
「今日はこれぐらいにして、私たちの新しいサポート役の歓迎会を、前に泊まった丘の上のホテルで行います」
表情に笑みを加えた。
「ハルちゃんの代わりを妹の夏菜ちゃんが買って出てくれたの。向こうでダブルナッちゃんが待ってる。ちょっと早い気もするけどナツの快気祝いと夏菜ちゃんの歓迎会。ハルに似て夏菜ちゃんもかなり歌が上手いらしいよ。明日は日曜で休みだし、今日は皆んなでパーッとやって、ゆったりと温泉に浸るわよ!」
「はいッ!」
相変わらずレスポンスのいいサトちゃんの返事があり、塞ぎ込むことが多かった直も夏菜ちゃんの名を聞いたせいか久しくなかった笑みを向けていた。