七十五 日出ノ国の巫女
文字数 3,431文字
◇
縁側に座って蒼く晴れ渡った空を見上げた。
「ホント、ハルちゃんが言っていたとおり、とってもいいところですね」
「そうだね。爽やかな風とカッコウの鳴く声、のんびり流れていく時間。これ以上何が必要なんだろう、って感じだね」
そう言って、純菜先輩も同じように空を見上げて目を細めた。
「カッコウに続いて、もうすぐ蛙たちが鳴き始めます。そして、突然蝉の声で起こされて夏がきたんだってはしゃいでいると、いつしかヒグラシの声が胸の奥に沁みてきて、気付くと虫の声に包まれているんですよね。――御厨は、これからがとてもいい季節です」
サトちゃん、いや、秋葉ちゃんも嬉しそうに言って蒼い空を見上げた。
直君がいなくなり、私たちの生活は大きく変わった。
雫石研究所の部屋を引き払い、先輩のお母さんが暮らした谷内の家に三人で引越した。
平屋建ての家は結構な広さで玄関の土間だけでも二十畳程あり、家、屋敷ともに主が不在の間でも紫波家によって手入れが行き届いていた。
初めてここを訪れた時、目の前に広がる庭の綺麗さに驚いた。玄関に入った先輩は立ち竦んだまま涙を流した。
開かれた障子の向こうに見える部屋部屋は、いつ帰るとも分からぬ主を片時も忘れずにいたかのように拭き上げられ、先輩から聞いた「私たちは数十代に渡り日出ノ国 の巫女様にお仕えしてきた者です。小さき頃よりお母様、純菜様を命をかけてもお守りするよう教えられ、それは御厨より優先するとも教えられてきました」と、泣きながら口にする秋葉ちゃんの声が聞こえるようだった。紫波家の男たちが額に汗して庭の手入れをし、女たちが部屋部屋を拭き上げる姿が目に浮かんだ。
きっと同じことを思っていたのだろう。
秋葉ちゃんに感謝の言葉をかけようと先輩が振り返ると、いつの間に来ていたのか玄関の前に二十名程の紫波家の人たちが控え、秋葉ちゃんのお父さんである紫波宗時 様を先に秋葉ちゃんとお母さん、先輩のお父さんが跪いて深く頭を垂れていた。
玄関を出た先輩は涙で濡れた顔をお父さんに向けた。
「直がいなくなっちゃった」
そう言って泣き付きたい、そんな顔だった。でも、同じように涙で濡れる顔を上げたお父さんを見て面持ちを変えた。
宗時様の前に進み出て「長い間、ご苦労をおかけ致しました」と、溢れ出る涙をそのままに深々と頭を下げた。
顔を上げた宗時様も、やはり涙していた。
「皆、この日がくるのを心より待ち望んでおりました。お帰りなさいませ」と頭を垂れ、後ろに控える人たちも「お帰りなさいませ」と涙して続いた。
直君のこと、お母さんのこと、お父さんのことや秋葉ちゃんのことが次々に思い浮かんでいたのだと思う。堪らえきれずに俯いたその背からは嗚咽が漏れ聞こえ、そんな娘を見て紫波義時 様が立ち上がった。
先輩の前まで来て優しく引き寄せ「親父として、最後の仕事だな」と抱きしめた。
先輩は幼子に戻ったかのようにして泣いた。
小さい頃から、ずっと見守り続けてきてくれたお父さんとの一日一日を噛みしめるかのように――
そして、この時を最後に、愛する娘の前に義時様が姿を見せることはなかった。
二人を縁側に残し、少し離れたところにある納屋へと先輩は向かった。
直君のバイクをお父さんが家から運び、先輩が預かってガレージ風に改築中の納屋に置いてある。「帰って来たら乗らせる」と、暇を見つけては眺めたり磨いたりしている。
その後ろ姿を切なげな目で追っていた。
「アキちゃん。直君のお父さんも御厨を出たんだよね」
「はい、分を超えたお役目でしたから」
「巫女に仕える家の人たちは大変なんだね」
「私たちにとってはただの巫女様ではなくて、八百万の神々様と相通ずる力をお持ちの神様に準ずるお方なんです。――まさか、直行様が山神様になるとは思いませんでしたけど」
少しだけ笑って返し、遠く山々が織りなす稜線へ顔を向けた。
思いの外早く先輩は戻って来た。
「美波、あなた『バイクに乗っていたから、エンジンをかけるぐらいならしてあげますよ』って言っていたよね」
「かけますか? エンジン」
「いいこと思い付いちゃったの。美波の運転で私が後ろに乗って谷内の町を走るの。アキちゃんは車でついて来て。どう? いいでしょ!」
楽しくてしょうがない、そんな顔をしている。
が、私はビビった。
「えーッ、あれは無理ですって、型はちょっと古いけどリッターSS、千CCスーパースポーツといってかなり危険な乗り物ですよ」と顔を引きつらせた。
そうそう物怖じすることがない私らしからぬ予想外の返しに、先輩はキョトンとした顔を向けている。
「リッター? CC? 納屋で、直のバイクが作業の邪魔になって大工さんがどかしてくれたんだけど『ちょっと前のめりだが、これ軽くていいね。これなら俺でも乗れそうだ。女でも乗れるように造ったやつなんだろうなぁ』って言ってたよ」
「まぁ、確かに軽くは造ってありますけど…… オジさん、何か乗って来てました?」
「ええ、確か、かぶ? リッターかぶ、だったかなぁ。――あッ、赤いから赤かぶだって言ってた」
……リトル・カブだなぁ。
「それはオジさんの大きな勘違いです。んー、どう言えばいいかなぁ…… そう! オジさんの赤カブは一速で十七キロまでしか出ないけど、直君のリッターSSは一速で百七十キロも出ちゃうんです。あっという間に三百キロ出てしまう危険な乗り物なんです。これだけは簡単に『ハイッ』て言えないんです」
「えッ、一速で百七十キロも出ちゃうんですか!」
隣で笑いを堪らえていた秋葉ちゃんが驚きの声を上げた。でも、先輩は相変わらず「いっそく? 一足で百七十キロを持てる?」と彷徨い続けている。
うーん、どう言えば分かって……
このおとぼけキャラと異常なまでの鋭さ。この二面性が本社の叔父様方を瞬殺してきたんだろうなぁ。と、少女のように首を傾げる、その顔をしみじみと見上げた。
そんな時、けたたましい音を響かせながら何かが屋敷の中に入って来た。
二人が慌てた顔をしていると「貞任様です」と、秋葉ちゃんが笑った。
半信半疑で近づいて行くと、トレーラーを牽引した年代物の大きなトラクターが納屋の前に停まっていた。
秋葉ちゃんが言ったとおりだった。
山吹さんを連れた貞任様が「お早う!」と笑顔を向けてくる。
呆気にとられながら「トラクターでデートですか」と訊いた。
「やめてよ、美波ちゃん」山吹さんは顔を赤らめた。
「いやいや、なかなかロマンチックでいいですよ。フェラーリなんかより、この年代物のフォードのトラクターのほうが全然おしゃれです。ホント、ハリウッド映画を観ているようです」
山吹さんはさらに赤くなって、貞任様と顔を見合わせた。
そんな時、けたたましい音を響かせながら何かが屋敷の中に入って来た。先ほどよりは幾らか上品ではあるが、やはりけたたましいことに変わりはない。
それはキャビン付きの真紅に輝くとても大きなトラクターで、トレーラーの後ろに停まり「山吹姉様ごめんなさい。トレーラーに乗せちゃって」と、ジーパン姿の沙夜先輩が飛び降りてくる。
「お早う、朝から驚かせちゃった?」
「お、お早う。もしかして、これってポニー号?」
「そう、純菜と美波に見せたくてね」
空いた口を塞ぐのを忘れてトラクターを見上げる先輩の横、秋葉ちゃんが私に耳打ちしてくる。
「これが沙夜様の愛車ポニー号。フェラーリの最上級トラクターです」
「ふぇ? フェラーリって―― そういう意味じゃない」小さく首を振った。
その大きさに圧倒されながらポニー号を眺めていると、ニコニコしながら「これが直行のR1か」と貞任様が納屋からバイクを出して来た。
キョトンとした顔の先輩が首を傾げる。
「あるお椀? ――いいえ、これはリッターCC。……あ、そうか! 千CCです」
「おッ! 純菜、結構詳しいなぁ」
……な、なんか似てる?
複雑な顔を向けた。
直君から、しばらく走らせていないバイクを走らせて欲しいと頼まれ、無類のバイク好きである貞任様は「任せろ! バッチリ、メンテもしてやる」と、喜び勇んで取りに来たという。
そんな貞任様に「何も要らない。そのままでいい」と急かされ、あれよあれよという間に私たちはバイクと一緒にトレーラーに載せられた。山吹さんが沙夜先輩のフェラーリに乗り込むと、テストコースといわれるところへと向かって走り出して行く。
縁側に座って蒼く晴れ渡った空を見上げた。
「ホント、ハルちゃんが言っていたとおり、とってもいいところですね」
「そうだね。爽やかな風とカッコウの鳴く声、のんびり流れていく時間。これ以上何が必要なんだろう、って感じだね」
そう言って、純菜先輩も同じように空を見上げて目を細めた。
「カッコウに続いて、もうすぐ蛙たちが鳴き始めます。そして、突然蝉の声で起こされて夏がきたんだってはしゃいでいると、いつしかヒグラシの声が胸の奥に沁みてきて、気付くと虫の声に包まれているんですよね。――御厨は、これからがとてもいい季節です」
サトちゃん、いや、秋葉ちゃんも嬉しそうに言って蒼い空を見上げた。
直君がいなくなり、私たちの生活は大きく変わった。
雫石研究所の部屋を引き払い、先輩のお母さんが暮らした谷内の家に三人で引越した。
平屋建ての家は結構な広さで玄関の土間だけでも二十畳程あり、家、屋敷ともに主が不在の間でも紫波家によって手入れが行き届いていた。
初めてここを訪れた時、目の前に広がる庭の綺麗さに驚いた。玄関に入った先輩は立ち竦んだまま涙を流した。
開かれた障子の向こうに見える部屋部屋は、いつ帰るとも分からぬ主を片時も忘れずにいたかのように拭き上げられ、先輩から聞いた「私たちは数十代に渡り日出ノ
きっと同じことを思っていたのだろう。
秋葉ちゃんに感謝の言葉をかけようと先輩が振り返ると、いつの間に来ていたのか玄関の前に二十名程の紫波家の人たちが控え、秋葉ちゃんのお父さんである
玄関を出た先輩は涙で濡れた顔をお父さんに向けた。
「直がいなくなっちゃった」
そう言って泣き付きたい、そんな顔だった。でも、同じように涙で濡れる顔を上げたお父さんを見て面持ちを変えた。
宗時様の前に進み出て「長い間、ご苦労をおかけ致しました」と、溢れ出る涙をそのままに深々と頭を下げた。
顔を上げた宗時様も、やはり涙していた。
「皆、この日がくるのを心より待ち望んでおりました。お帰りなさいませ」と頭を垂れ、後ろに控える人たちも「お帰りなさいませ」と涙して続いた。
直君のこと、お母さんのこと、お父さんのことや秋葉ちゃんのことが次々に思い浮かんでいたのだと思う。堪らえきれずに俯いたその背からは嗚咽が漏れ聞こえ、そんな娘を見て
先輩の前まで来て優しく引き寄せ「親父として、最後の仕事だな」と抱きしめた。
先輩は幼子に戻ったかのようにして泣いた。
小さい頃から、ずっと見守り続けてきてくれたお父さんとの一日一日を噛みしめるかのように――
そして、この時を最後に、愛する娘の前に義時様が姿を見せることはなかった。
二人を縁側に残し、少し離れたところにある納屋へと先輩は向かった。
直君のバイクをお父さんが家から運び、先輩が預かってガレージ風に改築中の納屋に置いてある。「帰って来たら乗らせる」と、暇を見つけては眺めたり磨いたりしている。
その後ろ姿を切なげな目で追っていた。
「アキちゃん。直君のお父さんも御厨を出たんだよね」
「はい、分を超えたお役目でしたから」
「巫女に仕える家の人たちは大変なんだね」
「私たちにとってはただの巫女様ではなくて、八百万の神々様と相通ずる力をお持ちの神様に準ずるお方なんです。――まさか、直行様が山神様になるとは思いませんでしたけど」
少しだけ笑って返し、遠く山々が織りなす稜線へ顔を向けた。
思いの外早く先輩は戻って来た。
「美波、あなた『バイクに乗っていたから、エンジンをかけるぐらいならしてあげますよ』って言っていたよね」
「かけますか? エンジン」
「いいこと思い付いちゃったの。美波の運転で私が後ろに乗って谷内の町を走るの。アキちゃんは車でついて来て。どう? いいでしょ!」
楽しくてしょうがない、そんな顔をしている。
が、私はビビった。
「えーッ、あれは無理ですって、型はちょっと古いけどリッターSS、千CCスーパースポーツといってかなり危険な乗り物ですよ」と顔を引きつらせた。
そうそう物怖じすることがない私らしからぬ予想外の返しに、先輩はキョトンとした顔を向けている。
「リッター? CC? 納屋で、直のバイクが作業の邪魔になって大工さんがどかしてくれたんだけど『ちょっと前のめりだが、これ軽くていいね。これなら俺でも乗れそうだ。女でも乗れるように造ったやつなんだろうなぁ』って言ってたよ」
「まぁ、確かに軽くは造ってありますけど…… オジさん、何か乗って来てました?」
「ええ、確か、かぶ? リッターかぶ、だったかなぁ。――あッ、赤いから赤かぶだって言ってた」
……リトル・カブだなぁ。
「それはオジさんの大きな勘違いです。んー、どう言えばいいかなぁ…… そう! オジさんの赤カブは一速で十七キロまでしか出ないけど、直君のリッターSSは一速で百七十キロも出ちゃうんです。あっという間に三百キロ出てしまう危険な乗り物なんです。これだけは簡単に『ハイッ』て言えないんです」
「えッ、一速で百七十キロも出ちゃうんですか!」
隣で笑いを堪らえていた秋葉ちゃんが驚きの声を上げた。でも、先輩は相変わらず「いっそく? 一足で百七十キロを持てる?」と彷徨い続けている。
うーん、どう言えば分かって……
このおとぼけキャラと異常なまでの鋭さ。この二面性が本社の叔父様方を瞬殺してきたんだろうなぁ。と、少女のように首を傾げる、その顔をしみじみと見上げた。
そんな時、けたたましい音を響かせながら何かが屋敷の中に入って来た。
二人が慌てた顔をしていると「貞任様です」と、秋葉ちゃんが笑った。
半信半疑で近づいて行くと、トレーラーを牽引した年代物の大きなトラクターが納屋の前に停まっていた。
秋葉ちゃんが言ったとおりだった。
山吹さんを連れた貞任様が「お早う!」と笑顔を向けてくる。
呆気にとられながら「トラクターでデートですか」と訊いた。
「やめてよ、美波ちゃん」山吹さんは顔を赤らめた。
「いやいや、なかなかロマンチックでいいですよ。フェラーリなんかより、この年代物のフォードのトラクターのほうが全然おしゃれです。ホント、ハリウッド映画を観ているようです」
山吹さんはさらに赤くなって、貞任様と顔を見合わせた。
そんな時、けたたましい音を響かせながら何かが屋敷の中に入って来た。先ほどよりは幾らか上品ではあるが、やはりけたたましいことに変わりはない。
それはキャビン付きの真紅に輝くとても大きなトラクターで、トレーラーの後ろに停まり「山吹姉様ごめんなさい。トレーラーに乗せちゃって」と、ジーパン姿の沙夜先輩が飛び降りてくる。
「お早う、朝から驚かせちゃった?」
「お、お早う。もしかして、これってポニー号?」
「そう、純菜と美波に見せたくてね」
空いた口を塞ぐのを忘れてトラクターを見上げる先輩の横、秋葉ちゃんが私に耳打ちしてくる。
「これが沙夜様の愛車ポニー号。フェラーリの最上級トラクターです」
「ふぇ? フェラーリって―― そういう意味じゃない」小さく首を振った。
その大きさに圧倒されながらポニー号を眺めていると、ニコニコしながら「これが直行のR1か」と貞任様が納屋からバイクを出して来た。
キョトンとした顔の先輩が首を傾げる。
「あるお椀? ――いいえ、これはリッターCC。……あ、そうか! 千CCです」
「おッ! 純菜、結構詳しいなぁ」
……な、なんか似てる?
複雑な顔を向けた。
直君から、しばらく走らせていないバイクを走らせて欲しいと頼まれ、無類のバイク好きである貞任様は「任せろ! バッチリ、メンテもしてやる」と、喜び勇んで取りに来たという。
そんな貞任様に「何も要らない。そのままでいい」と急かされ、あれよあれよという間に私たちはバイクと一緒にトレーラーに載せられた。山吹さんが沙夜先輩のフェラーリに乗り込むと、テストコースといわれるところへと向かって走り出して行く。