五十八 麟と蒼樹
文字数 5,828文字
一行は沢から森に入り大欅の祠というところに向かった。
少し歩いたところで「あーッ、モリコが一杯!」とハルちゃんが声を上げた。
「ホントだ!」
ナッちゃんも大喜びで「私にも見える。モリコ、見えるよ!」と里絵も興奮している。
前を歩くお姉と美波に目を向けると、戦々恐々といった体で寄り添いながら歩き、その前の沙夜さんと道真様は楽しそうに周りの樹々を見上げながら歩いている。
鳥たちの囀りはさっきよりも大きい。数え切れないほど色々な鳴き声が森に響き渡っている。私も枝の上で首を傾げるようにしているモリコたちを見上げながら歩いた。
突然「美波、何してんの!」と、お姉が声を上げた。後退りして固まっている。
「どうしたんだ」
近くまで行って、目が点になった。
振り返ったまま呆気にとられていた道真様は「モリコが人に触れてますぞ!」と、驚きの声を上げて沙夜さんに向き直った。
そこには、モリコを額に貼り付けたまま立ち竦む美波がいた。
美波のところに駆け寄った沙夜さんも「モリコは人の近くまで来るけど、手を差し伸べるとすぐに消えてしまうんだよ」と驚いている。
美波は「そ、そうなんですか―― でも、な、なんかオチンチンがおでこに当たってる気が…… 取ってもらえます、これ」と、なんとも情けない。
そんな美波を取り囲み、皆んなで感心するかのように見ている中「また、お前か―― 相変わらずやってくれるなぁ、美波」と口にしながらも「フフッ」と嫌らしい笑みを浮かべる男がいた。
そう、私はタマムシで味を占めているのだ。
既にタマムシを手に笑顔を向けるハルちゃんの顔が沙夜さんの顔と重なっている。どちらに渡すかの葛藤を超え、願わくば二匹欲しいとすら思っている。いやいや、目を閉じれば連結線乗り場に連れて行ってくれたあの人の顔さえ思い浮かぶ。
いいか、よく見ておけよ美波。お前のような天然ボケは俺が跡形もなく駆逐してやる!
そう呟きながら、緩んだ顔を引き締めて進み出た。
美波に張り付いたモリコに手を差し伸べる。
一斉に静まりかえり固唾を呑んで皆んなが見守る中、図に乗ってはいけない! 奢りを見せてはいけない! そう戒めて「おいで。さぁおいで、怖くないよ」と――
躊躇うことなく―― というか、まるで当たり前かのようにモリコは腕に乗り移って来た。親の大樹の上にいるかのように肩の上で、頭の上ではしゃぎ始める。気が付けば数も一匹や二匹ではない。私の髪で何か作ってる奴すらいる。
そう、既に羨望の眼差しなどは向けられていない。あの、美波ですら吹き出そうとしている。
沙夜さんがいなければ、何匹かは樹の上へ投げ飛ばしているところだ。
そんな時「この森も最大の歓迎をしています」と聞きなれない声がした。
訝しげに周りを見回すお姉の傍ら「あッ、麟様!」と、ハルちゃんたちが歓喜の声を上げる。
お姉は戸惑いの表情を浮かべた。
そこには白地に淡い桔梗の柄が入ったきものに身を包む十八、九の透き通るような肌をした美しい娘が佇んでいた。そして、五メートル程離れたところに佇む娘の傍ら、静かに山神様が姿を現す。
お姉と美波は慌てて後退った。何も言えずに固まっている。
近くで見るそれは狼と狐を合わせたような白くて大きな獣だった。馬よりも二回り程大きく、顔と身体は痩せた狼のようで異常に長い尾を持ち、その妖艶な顔付きは話しかけてくるようにさえ思えた。
山神様が伏せると、沙夜さんは傍らに行って顔を撫でた。
「紹介します。麟と、日高見の山々の主様です」
麟と呼ばれた娘は、昨日会った麟ちゃんとは違い「ようこそ、御社ノ森に―― 直行、一本桜でのコーヒー牛乳はとても美味しかったですね」と嬉しそうに声をかけてきた。
何も言わずに、笑みだけを返した。
ナッちゃんとハルちゃんは「私たちのこと覚えていますか」と、胸の前で手を合わせながら不安気な顔を向けた。
「護神兵ごっこのナッちゃんとハルちゃんでしょ」
「はい。昔、よくここで抱っこしてもらった夏海です」
既に二人の目には歓喜の涙が滲み、その傍らでは道真様が片膝を突いて控えていた。
「道真もいつ久しく、お元気そうでなによりです。ですが、普段と変わらぬようにしてください。純菜たちが驚きます」
「はい、申し訳ございません。六十年振りの拝謁に感極まわりまして」
そう言った道真様も既に涙していた。
五十メートル程先の大欅がある広い場所に移った。
直径が五メートル程もある大樹の前に麟ちゃんと沙夜さんが座り、その横に山神様が伏せた。私たちも「昨日会った麟ちゃんなのだろうか」と、言いたげな顔を見合わせながらジュウタンのようにきれいな草の上に腰を下ろした。
「驚いた?」
「昨日、連結線で会った麟ちゃんとは違うの?」
「昨日会った麟よ。この森に入ると、麟は娘の姿になるの」
「娘の姿って……」お姉は戸惑いの表情を浮かべた。
「本家の血筋は齢の重ね方が普通とは違うの。浩兄様もそうだけど表面的なものと歳は関係がないみたい」
それって、人じゃないってことじゃ―― との呟きが聞こえてくる。
その呟きを、お姉は呑み込んで返した。
「羨ましい。――ね、美波」
「えッ! は、はい。こんなに綺麗なままで、ずっといられるなんて羨ましいです。――ね、サトちゃん」
「――はい。とても綺麗です。泣いてしまうほど」
里絵は落ち着いた物言いをしていた。
違和感を覚えたのだろう、美波が顔を向けると薄っすら涙を浮かべている。美波は「オイオイ、先輩から麟ちゃんにチェンジかぁ?」とでも言いたげな顔だ。
確かに、女たちがいうように綺麗な娘だった。顔立ちは間違いなく昨日会った麟ちゃんで、私たちに向けている笑顔はなんとも言えないほどに優しい。幼い頃に手を取って遊んでくれたお姉さんが記憶から出て来た。そんなふうにさえ感じる懐かしさがあった。胸の前で手を合わせ、涙するハルちゃんたちの気持ちが分かる気がした。
「直行。どうですか、山神は」麟ちゃんが笑顔を向けてくる。
不思議なほどに落ち着いた声で「はい」と返した。
山神様に顔を向け、声なく見つめた。
そんな私の傍、訝しげに声をかけようとしているお姉。その、視野の端で見上げるお姉に内心笑みを浮かべて立ち上がった。
山神様の前まで行って跪いた。その顔へと静かに顔をあてがった。
ようやく帰って来たよ、母さん―― 意識することなく呟いていた。
お姉のところに戻ると、ハルちゃんとナッちゃんが目を合わせて頷いた。
「今度は、私たち!」と言わんばかりに立ち上がり、そそくさと山神様のところに向かった。躊躇うことなくその身体に顔を埋めて「あぁ、これだよ、ナツ。――このモフモフした感じだよね!」「うん。これ、これッ!」と、はしゃいでいる。
「あららら、直君がおかしいと思ったら、あの娘たちも一緒だわ」
そう言う美波に顔を向けると、既に腰が浮きかかっている。
お姉は顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと美波! 駄目だよ、お願いだからここにいて」と、その手を掴んだ。
「無理、無理ですって。だって、サトちゃんだって行こうとしてますよ」
相変わらずの美波にそう言われ、お姉が焦って顔を向けると里絵も同じ状態だった。
「大丈夫ですよ、先輩も一緒に行きましょう。あの、モフモフしたところに」
「無理無理、私は無理。――あッ」
無理だと首を振った瞬間、緩んだ手をすり抜けるようにして美波は離れて行った。
お姉は「し、信じらんない。物事を素直に受け入れていい状況じゃないでしょッ!」と、心許なさそうに憤慨している。
「お姉、怖いのか?」
「な、何言ってんの、私は沙夜に話があるの。直も皆んなと一緒に遊んで来なさい」
沙夜さんを見ると、お姉が「話を聞きたい」そう言い出すだろうと待っている。
そんな顔をしていた。
◇
私と沙夜は少し離れた倒木のところに行って腰を下ろした。
「驚いたでしょ?」
沙夜は申し訳なさそうに訊いてきた。
「麟ちゃんはある程度予想していた。ただ、あんなに変わっちゃうとはねぇ」
「ここの者は小さい頃から当たり前のように麟と山神に接して育つからあれが普通なの。――そして、十七になって初めて教えられる。ここは、御厨は周りの村々とは違い普通じゃないと、それは決して他言してはいけないことだと。その後、雫石で周りの人たちの暮らしに徐々に接していくことになる。――純菜、さっきはありがとう」
「さすがに言えない。麟ちゃんは人じゃないの? なんて」
「――」
「沙夜、麟ちゃんと光浩様って一体何なの」
「よく分からない。それが、正直なところ。ただ、御厨の者は皆が麟を慕い、皆が麟を守りたい。貞任兄様と私は、ずっと浩兄様と一緒に居たい。ただそれだけなの」
「驚くことがどんどん出てくるね。……でも、光浩様は次元が違う。そんな気がする」
沙夜は小さく頷いた。
そんな沙夜が、まるで幼子のように見えた。
「安心して。美波には、麟ちゃんや光浩様は私に任せて先ずは護神兵や御蔵を調べるよう言っておく。でもね、私たちがどうしても知っておかなければいけないことがある。皆んなが揃っているときに話をして欲しい。向こうの組織やお母様のこと。それと、なぜ今、御厨が動き出そうとしているのかを」
沙夜は落としていた視線を麟ちゃんたちの方へと向けた。
「分かっている。でも、貞任兄様が帰って来てからにして欲しい。今度の兄様との対面で母様から何かしらの意思表示があると思うの」
「――分かった。それまでは御厨の探検でもしてる。――さあ、行こう。皆んなのところに」
二人が戻ると春菜、里絵、美波、夏海の四人が山神様の背に乗ろうとしていた。
「室長! 直先輩や道真様を拒否して室長の分空けてあります。早く乗ってください」
子どもに返ったような目をしてサトちゃんが誘ってくる。
「う、嘘でしょう」
「大丈夫よ、純菜。私もよく乗ったものよ」
「いやいや、この歳で、……まずいよ、やっぱり」
「いやいや純菜殿。お恥ずかしながら次は私も直行君と行きます」
「純菜、山神もそれを望んでいます」
麟ちゃんの、その一言で拒否権を失った。ナッちゃんと美波の間に乗せられた。
「蒼樹 、あまり無理がないように」
ソウキと呼ばれた山神様は静かに立ち上がり、私たちを乗せて樹々の中へと歩き出す。
「ナッちゃん。山神様は『ソウキ』様って云うの?」
「はい。蒼天の蒼に、森の樹々の樹を書いて『そうき』様です」
蒼樹―― なぜだろう、懐かしい響きに感じた。
僅か二、三分だろうか、私たちを乗せた蒼樹様は沙夜たちがいる大欅のところに戻った。
樹々の間から姿を現すと「帰って来た!」と、楽しそうに遊ぶ少女の顔で沙夜が迎えた。
私も「凄いよ! 森の中を駆けたら樹がみんなどいたよ!」と、年甲斐もなく興奮していた。沙夜と同じで幼い少女のように目を輝かせて返した。
「沙夜様、これを見てください!」
ナッちゃんはモリコで溢れている山神様の背ではしゃぐように言った。
「純菜様なんてモリコだらけですよ。私にだって乗ってくれたんです」
ハルちゃんも肩にとまったモリコを見せながら大喜びをしている。
「さあさあ、皆さん降りて。今度は私と直行君の番だからね」
私と同じで、年甲斐もなくはしゃぎ気味の道真様に苦笑しながら皆んなが蒼樹様の背から降り始めると、先頭のハルちゃんが降りるのを待っていた道真様に「直行を前へ」と麟ちゃんが声をかけた。
道真様は「私としたことが年甲斐もなく」と、頭を掻きながら直を前に跨がらせて後ろに乗った。落ちないように山神様の背の毛を掴むのだと教え始める。
でも、直が何かしらの申し入れをすると、戸惑った表情を浮かべた。
「道真、直行の言うとおりに」
躊躇いながらも、道真様は直の背に身体を預けるようにして手を回した。
そんな二人を前に皆んなが呆気に取られたかのように見ていると、徐に走りだした蒼樹様は、次の瞬間には高々と跳ね上がり大きな樹を垂直に駆け上がって行く。
葉が生い茂る樹々の間に消えた。
空いた口を塞ぐのを忘れたまま見上げた。
一気に御社ノ森の上へと躍り出た蒼樹様の背では道真様が必死の形相で直に掴まり、振り返った直は僅かに笑みを浮かべている。そして、向き直って遠くに見える山々を指差した。
躊躇うことなく蒼樹様は勢いよく樹々の上を駆け出し、遠くの山々へ向かって行く。
「だ、大丈夫なの! この森から出てしまって」
「直君は大丈夫。道真は直君に掴まっていられなければ帰って来れない」
「いや、そういう意味じゃ―― えーッ、道真様が帰って来れない!」
「大丈夫よ、純菜。道真が落ちても直君と蒼樹が拾ってくれる」
「あ、あのねぇ……」
引きつったとも、呆れたともいえない複雑な顔で、また樹々の間から見える蒼い空を見上げた。
「いいなぁ。私も山神様の背に乗って飛びたい」と、美波は見上げたまま口にしている。
な、なんか首が痛い――
私たちと同じように三分程で蒼樹様は帰って来た。
なぜだろう…… その間、皆んなでずっと見上げていた。見えなくなった山神様の姿を待って、ずっと見上げていた。
ああ、やっぱ首が変――
直は何事もなかったように蒼樹様の背から降りた。でも、道真様はずり落ちるようにして降りた。
その場へとへたり込んだ。
「大丈夫ですか!」
ハルちゃんたちが駆け寄ると、道真様は「いやいや、参った。早池峰 のお山を一周りして来たよ」と、精も根も尽き果てたかのように口にした。
「早池峰のお山、ですか?」
「ああ、途中で落ちて直行君に助けてもらった」
「飛び出して、三分ぐらいしか経っていませんよ?」ナッちゃんはキョトンと返した。
「……え?」
そんな二人から、私に振り返ったハルちゃんが涙目に深々と頭を下げた。
「御厨の人たちでモリコに触れた人なんていません。聞いたこともありません。ナツと私が初めてだと思います。ありがとうございました。純菜様」
「いやいや、本当に聞いたことがございません。……巫女様方のお陰でございましょう。お恥ずかしながらこの道真めも年甲斐もなくはしゃいでしまいました」
同じように目頭を押さえて頭を下げる道真様に、なんとも言えない違和感を覚えながらも笑みを返した。
「今日のことは他言無用ですよ。話が伝われば皆が森に押し寄せます」
「はい、心得ております」
三人は、沙夜に深々と頭を垂れた。
少し歩いたところで「あーッ、モリコが一杯!」とハルちゃんが声を上げた。
「ホントだ!」
ナッちゃんも大喜びで「私にも見える。モリコ、見えるよ!」と里絵も興奮している。
前を歩くお姉と美波に目を向けると、戦々恐々といった体で寄り添いながら歩き、その前の沙夜さんと道真様は楽しそうに周りの樹々を見上げながら歩いている。
鳥たちの囀りはさっきよりも大きい。数え切れないほど色々な鳴き声が森に響き渡っている。私も枝の上で首を傾げるようにしているモリコたちを見上げながら歩いた。
突然「美波、何してんの!」と、お姉が声を上げた。後退りして固まっている。
「どうしたんだ」
近くまで行って、目が点になった。
振り返ったまま呆気にとられていた道真様は「モリコが人に触れてますぞ!」と、驚きの声を上げて沙夜さんに向き直った。
そこには、モリコを額に貼り付けたまま立ち竦む美波がいた。
美波のところに駆け寄った沙夜さんも「モリコは人の近くまで来るけど、手を差し伸べるとすぐに消えてしまうんだよ」と驚いている。
美波は「そ、そうなんですか―― でも、な、なんかオチンチンがおでこに当たってる気が…… 取ってもらえます、これ」と、なんとも情けない。
そんな美波を取り囲み、皆んなで感心するかのように見ている中「また、お前か―― 相変わらずやってくれるなぁ、美波」と口にしながらも「フフッ」と嫌らしい笑みを浮かべる男がいた。
そう、私はタマムシで味を占めているのだ。
既にタマムシを手に笑顔を向けるハルちゃんの顔が沙夜さんの顔と重なっている。どちらに渡すかの葛藤を超え、願わくば二匹欲しいとすら思っている。いやいや、目を閉じれば連結線乗り場に連れて行ってくれたあの人の顔さえ思い浮かぶ。
いいか、よく見ておけよ美波。お前のような天然ボケは俺が跡形もなく駆逐してやる!
そう呟きながら、緩んだ顔を引き締めて進み出た。
美波に張り付いたモリコに手を差し伸べる。
一斉に静まりかえり固唾を呑んで皆んなが見守る中、図に乗ってはいけない! 奢りを見せてはいけない! そう戒めて「おいで。さぁおいで、怖くないよ」と――
躊躇うことなく―― というか、まるで当たり前かのようにモリコは腕に乗り移って来た。親の大樹の上にいるかのように肩の上で、頭の上ではしゃぎ始める。気が付けば数も一匹や二匹ではない。私の髪で何か作ってる奴すらいる。
そう、既に羨望の眼差しなどは向けられていない。あの、美波ですら吹き出そうとしている。
沙夜さんがいなければ、何匹かは樹の上へ投げ飛ばしているところだ。
そんな時「この森も最大の歓迎をしています」と聞きなれない声がした。
訝しげに周りを見回すお姉の傍ら「あッ、麟様!」と、ハルちゃんたちが歓喜の声を上げる。
お姉は戸惑いの表情を浮かべた。
そこには白地に淡い桔梗の柄が入ったきものに身を包む十八、九の透き通るような肌をした美しい娘が佇んでいた。そして、五メートル程離れたところに佇む娘の傍ら、静かに山神様が姿を現す。
お姉と美波は慌てて後退った。何も言えずに固まっている。
近くで見るそれは狼と狐を合わせたような白くて大きな獣だった。馬よりも二回り程大きく、顔と身体は痩せた狼のようで異常に長い尾を持ち、その妖艶な顔付きは話しかけてくるようにさえ思えた。
山神様が伏せると、沙夜さんは傍らに行って顔を撫でた。
「紹介します。麟と、日高見の山々の主様です」
麟と呼ばれた娘は、昨日会った麟ちゃんとは違い「ようこそ、御社ノ森に―― 直行、一本桜でのコーヒー牛乳はとても美味しかったですね」と嬉しそうに声をかけてきた。
何も言わずに、笑みだけを返した。
ナッちゃんとハルちゃんは「私たちのこと覚えていますか」と、胸の前で手を合わせながら不安気な顔を向けた。
「護神兵ごっこのナッちゃんとハルちゃんでしょ」
「はい。昔、よくここで抱っこしてもらった夏海です」
既に二人の目には歓喜の涙が滲み、その傍らでは道真様が片膝を突いて控えていた。
「道真もいつ久しく、お元気そうでなによりです。ですが、普段と変わらぬようにしてください。純菜たちが驚きます」
「はい、申し訳ございません。六十年振りの拝謁に感極まわりまして」
そう言った道真様も既に涙していた。
五十メートル程先の大欅がある広い場所に移った。
直径が五メートル程もある大樹の前に麟ちゃんと沙夜さんが座り、その横に山神様が伏せた。私たちも「昨日会った麟ちゃんなのだろうか」と、言いたげな顔を見合わせながらジュウタンのようにきれいな草の上に腰を下ろした。
「驚いた?」
「昨日、連結線で会った麟ちゃんとは違うの?」
「昨日会った麟よ。この森に入ると、麟は娘の姿になるの」
「娘の姿って……」お姉は戸惑いの表情を浮かべた。
「本家の血筋は齢の重ね方が普通とは違うの。浩兄様もそうだけど表面的なものと歳は関係がないみたい」
それって、人じゃないってことじゃ―― との呟きが聞こえてくる。
その呟きを、お姉は呑み込んで返した。
「羨ましい。――ね、美波」
「えッ! は、はい。こんなに綺麗なままで、ずっといられるなんて羨ましいです。――ね、サトちゃん」
「――はい。とても綺麗です。泣いてしまうほど」
里絵は落ち着いた物言いをしていた。
違和感を覚えたのだろう、美波が顔を向けると薄っすら涙を浮かべている。美波は「オイオイ、先輩から麟ちゃんにチェンジかぁ?」とでも言いたげな顔だ。
確かに、女たちがいうように綺麗な娘だった。顔立ちは間違いなく昨日会った麟ちゃんで、私たちに向けている笑顔はなんとも言えないほどに優しい。幼い頃に手を取って遊んでくれたお姉さんが記憶から出て来た。そんなふうにさえ感じる懐かしさがあった。胸の前で手を合わせ、涙するハルちゃんたちの気持ちが分かる気がした。
「直行。どうですか、山神は」麟ちゃんが笑顔を向けてくる。
不思議なほどに落ち着いた声で「はい」と返した。
山神様に顔を向け、声なく見つめた。
そんな私の傍、訝しげに声をかけようとしているお姉。その、視野の端で見上げるお姉に内心笑みを浮かべて立ち上がった。
山神様の前まで行って跪いた。その顔へと静かに顔をあてがった。
ようやく帰って来たよ、母さん―― 意識することなく呟いていた。
お姉のところに戻ると、ハルちゃんとナッちゃんが目を合わせて頷いた。
「今度は、私たち!」と言わんばかりに立ち上がり、そそくさと山神様のところに向かった。躊躇うことなくその身体に顔を埋めて「あぁ、これだよ、ナツ。――このモフモフした感じだよね!」「うん。これ、これッ!」と、はしゃいでいる。
「あららら、直君がおかしいと思ったら、あの娘たちも一緒だわ」
そう言う美波に顔を向けると、既に腰が浮きかかっている。
お姉は顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと美波! 駄目だよ、お願いだからここにいて」と、その手を掴んだ。
「無理、無理ですって。だって、サトちゃんだって行こうとしてますよ」
相変わらずの美波にそう言われ、お姉が焦って顔を向けると里絵も同じ状態だった。
「大丈夫ですよ、先輩も一緒に行きましょう。あの、モフモフしたところに」
「無理無理、私は無理。――あッ」
無理だと首を振った瞬間、緩んだ手をすり抜けるようにして美波は離れて行った。
お姉は「し、信じらんない。物事を素直に受け入れていい状況じゃないでしょッ!」と、心許なさそうに憤慨している。
「お姉、怖いのか?」
「な、何言ってんの、私は沙夜に話があるの。直も皆んなと一緒に遊んで来なさい」
沙夜さんを見ると、お姉が「話を聞きたい」そう言い出すだろうと待っている。
そんな顔をしていた。
◇
私と沙夜は少し離れた倒木のところに行って腰を下ろした。
「驚いたでしょ?」
沙夜は申し訳なさそうに訊いてきた。
「麟ちゃんはある程度予想していた。ただ、あんなに変わっちゃうとはねぇ」
「ここの者は小さい頃から当たり前のように麟と山神に接して育つからあれが普通なの。――そして、十七になって初めて教えられる。ここは、御厨は周りの村々とは違い普通じゃないと、それは決して他言してはいけないことだと。その後、雫石で周りの人たちの暮らしに徐々に接していくことになる。――純菜、さっきはありがとう」
「さすがに言えない。麟ちゃんは人じゃないの? なんて」
「――」
「沙夜、麟ちゃんと光浩様って一体何なの」
「よく分からない。それが、正直なところ。ただ、御厨の者は皆が麟を慕い、皆が麟を守りたい。貞任兄様と私は、ずっと浩兄様と一緒に居たい。ただそれだけなの」
「驚くことがどんどん出てくるね。……でも、光浩様は次元が違う。そんな気がする」
沙夜は小さく頷いた。
そんな沙夜が、まるで幼子のように見えた。
「安心して。美波には、麟ちゃんや光浩様は私に任せて先ずは護神兵や御蔵を調べるよう言っておく。でもね、私たちがどうしても知っておかなければいけないことがある。皆んなが揃っているときに話をして欲しい。向こうの組織やお母様のこと。それと、なぜ今、御厨が動き出そうとしているのかを」
沙夜は落としていた視線を麟ちゃんたちの方へと向けた。
「分かっている。でも、貞任兄様が帰って来てからにして欲しい。今度の兄様との対面で母様から何かしらの意思表示があると思うの」
「――分かった。それまでは御厨の探検でもしてる。――さあ、行こう。皆んなのところに」
二人が戻ると春菜、里絵、美波、夏海の四人が山神様の背に乗ろうとしていた。
「室長! 直先輩や道真様を拒否して室長の分空けてあります。早く乗ってください」
子どもに返ったような目をしてサトちゃんが誘ってくる。
「う、嘘でしょう」
「大丈夫よ、純菜。私もよく乗ったものよ」
「いやいや、この歳で、……まずいよ、やっぱり」
「いやいや純菜殿。お恥ずかしながら次は私も直行君と行きます」
「純菜、山神もそれを望んでいます」
麟ちゃんの、その一言で拒否権を失った。ナッちゃんと美波の間に乗せられた。
「
ソウキと呼ばれた山神様は静かに立ち上がり、私たちを乗せて樹々の中へと歩き出す。
「ナッちゃん。山神様は『ソウキ』様って云うの?」
「はい。蒼天の蒼に、森の樹々の樹を書いて『そうき』様です」
蒼樹―― なぜだろう、懐かしい響きに感じた。
僅か二、三分だろうか、私たちを乗せた蒼樹様は沙夜たちがいる大欅のところに戻った。
樹々の間から姿を現すと「帰って来た!」と、楽しそうに遊ぶ少女の顔で沙夜が迎えた。
私も「凄いよ! 森の中を駆けたら樹がみんなどいたよ!」と、年甲斐もなく興奮していた。沙夜と同じで幼い少女のように目を輝かせて返した。
「沙夜様、これを見てください!」
ナッちゃんはモリコで溢れている山神様の背ではしゃぐように言った。
「純菜様なんてモリコだらけですよ。私にだって乗ってくれたんです」
ハルちゃんも肩にとまったモリコを見せながら大喜びをしている。
「さあさあ、皆さん降りて。今度は私と直行君の番だからね」
私と同じで、年甲斐もなくはしゃぎ気味の道真様に苦笑しながら皆んなが蒼樹様の背から降り始めると、先頭のハルちゃんが降りるのを待っていた道真様に「直行を前へ」と麟ちゃんが声をかけた。
道真様は「私としたことが年甲斐もなく」と、頭を掻きながら直を前に跨がらせて後ろに乗った。落ちないように山神様の背の毛を掴むのだと教え始める。
でも、直が何かしらの申し入れをすると、戸惑った表情を浮かべた。
「道真、直行の言うとおりに」
躊躇いながらも、道真様は直の背に身体を預けるようにして手を回した。
そんな二人を前に皆んなが呆気に取られたかのように見ていると、徐に走りだした蒼樹様は、次の瞬間には高々と跳ね上がり大きな樹を垂直に駆け上がって行く。
葉が生い茂る樹々の間に消えた。
空いた口を塞ぐのを忘れたまま見上げた。
一気に御社ノ森の上へと躍り出た蒼樹様の背では道真様が必死の形相で直に掴まり、振り返った直は僅かに笑みを浮かべている。そして、向き直って遠くに見える山々を指差した。
躊躇うことなく蒼樹様は勢いよく樹々の上を駆け出し、遠くの山々へ向かって行く。
「だ、大丈夫なの! この森から出てしまって」
「直君は大丈夫。道真は直君に掴まっていられなければ帰って来れない」
「いや、そういう意味じゃ―― えーッ、道真様が帰って来れない!」
「大丈夫よ、純菜。道真が落ちても直君と蒼樹が拾ってくれる」
「あ、あのねぇ……」
引きつったとも、呆れたともいえない複雑な顔で、また樹々の間から見える蒼い空を見上げた。
「いいなぁ。私も山神様の背に乗って飛びたい」と、美波は見上げたまま口にしている。
な、なんか首が痛い――
私たちと同じように三分程で蒼樹様は帰って来た。
なぜだろう…… その間、皆んなでずっと見上げていた。見えなくなった山神様の姿を待って、ずっと見上げていた。
ああ、やっぱ首が変――
直は何事もなかったように蒼樹様の背から降りた。でも、道真様はずり落ちるようにして降りた。
その場へとへたり込んだ。
「大丈夫ですか!」
ハルちゃんたちが駆け寄ると、道真様は「いやいや、参った。
「早池峰のお山、ですか?」
「ああ、途中で落ちて直行君に助けてもらった」
「飛び出して、三分ぐらいしか経っていませんよ?」ナッちゃんはキョトンと返した。
「……え?」
そんな二人から、私に振り返ったハルちゃんが涙目に深々と頭を下げた。
「御厨の人たちでモリコに触れた人なんていません。聞いたこともありません。ナツと私が初めてだと思います。ありがとうございました。純菜様」
「いやいや、本当に聞いたことがございません。……巫女様方のお陰でございましょう。お恥ずかしながらこの道真めも年甲斐もなくはしゃいでしまいました」
同じように目頭を押さえて頭を下げる道真様に、なんとも言えない違和感を覚えながらも笑みを返した。
「今日のことは他言無用ですよ。話が伝われば皆が森に押し寄せます」
「はい、心得ております」
三人は、沙夜に深々と頭を垂れた。