二十 とある狸の回顧録
文字数 3,258文字
岩手の北上江釣子で高速を下りた。
御厨には管理された車以外は入れず、私の使っている車では入れない。前のように盛岡まで行って登録されたレンタカーに乗り換えてもいいのだが、諦めの悪い平次郎が駅に現れて「蒼太君、頼むッ!」と、手を合わせる顔がちらついた。自慢げに言った狸の作り話はもう聞きたくないと、そう思った。
インターの近くにある御厨系列の運送会社に行って車を預け、書籍を運び入れるトラックに便乗して御厨に向かった。
「随分と車が走っていますね」
滅多に車が通らない遠野から谷外への峠道をかなりの数の車が走っていた。
「ああ、少し前に盛岡と川井の間で工事が始まって渋滞が酷いんだよ。遠野を経由して宮古に向かう車が増えたんだ。新しいトンネルが出来て盛岡からこちらへ迂回しても結構早い。ホントいい迷惑だよ。十分毎に停まって後ろに溜まった奴等に道を譲らなきゃならん」
運転手は憤慨気味に返した。
「これじゃ、つけられていても分からんですね」
「つけられてるのか?」
「いや、今までこの道は車なんてほとんど見ることがなかったんで、少し気になっただけです」
「つけられたところで、木工所のエレベータから先へは進みようがない。大丈夫だよ」
「そうですね――」
谷外に着き、トラックは寂れた大きな木工所へと入った。
ここからは、とある狸の回顧録である。
「なるほどねぇ。あの木工所から入って行くのか。化け狐どもが、関東の化け狸を甘く見ちゃ困るぜ」
と、とある狸は、いや、平次郎は思わず笑みを浮かべたという。
数日前、平次郎は狸に戻り、私たちが借りている家の庭に入り込んで車に発信器を取り付けた。今朝、大通りの交差点で会ったのは偶然などではない。宇都宮で車から降ろされた平次郎はレンタカーで後を追い、北上江釣子から私の乗ったトラックを尾行して谷外まで来ていた。
木工所の前で、僅かに涙ぐんでしまうくらいに感動さえしていたという――
山菜採りに来た車が駐める場所にレンタカーを置き、必要最小限の物を狸用として買った小さなリュックに詰めた。辺りを窺って服を脱ぎ、狸に戻って車を出た。――いや、出ようとして呆気に取られた。狸の前足ではドアのロックが外せないのだ。
「今どき、こんな四角い棒のドアロックを引き上げる車があるのかよ。せめて、丸にしろよ」と数分格闘した挙句「なんだ、人になりゃいいんだ」と化け直してロックを外した。
裸のまま、辺りを窺って素早く外に出た。ドアを締めて狸に戻った。
が、やはり呆気に取られた。
ドアをロックしようとして、鍵を入れたリュックを車の中に忘れたことに気づいた。数十回ジャンプして、ドアノブに前足を入れようとしたが上手くいかない。挙句の果てには、ドアノブに挟まって宙吊りになる始末だった。
――「なんだ、人になりゃいいんだった」と化け直してドアを開けた。
「……?」
助手席にあるだろうと思ったリュックが見当たらない。シートの間からのぞいても後ろの席にも足元にも見当たらない。「確か、助手席に放り投げて……」と向き直ると、助手席の下から僅かに肩紐が見えた。「なんだよ、そこかよ」と、前屈みになってリュックに手を伸ばした。だが、椅子をスライドするレバーに引かかって取れない。「オイオイ、勘弁してくれよ」と寝そべった。
その時だった。
「何しとるんだ? いい大人が、ケツからそんなもんぶら下げて」
「はッ!」とした。背中に拳銃を向けられたときのような戦慄を覚えたという。
寝そべっていた身体を半分起こして、恐る恐る振り返った。
山菜取りの籠を背負った老爺が小さな男の子と手を繋いで立っていた。
「あッ、――いやぁ、これはですね。……そ、そうだ。沢に落ちて服を乾かしてたんです。で、待ってる間タバコが吸いたくて、ハハハ」と繕って見せた。
あたふたとグローブボックスからタバコを取り出し、ついでといっては心もとないが、せめてもの礼儀として先端だけでもと、タバコの箱を貼り付けてドアを締めた。ポカーンと佇む男の子と老爺に照れ笑いらしきものを返し、小走りに沢へ向かい脇の藪に飛び込んだ。
藪の中から窺った。
「……じっちゃん、タバコの箱はどこにでもくっつくのか?」
「あれはテレビでよくやってる表面張力って手品だ。若い娘っ子等を騙すのに使っとるらしい」
「ふぅーん。 ……で、じっちゃん、あのぶら下がってたのはなんだ?」
男の子は老爺を見上げた。
老爺は僅かな間を取り「しかし、デカかったなぁ。まるで信楽焼みてェだった。――ま、ああいうのに限ってご本尊は小せえもんだ。安心しろ」と、まるで自分に言うかのように返した。
「信楽焼って、いうのか――」
「まぁ、なんだ。狐に化かされたと思って忘れろ」
そう口にした老爺は、男の子の手を引いて歩き出して行く。
「ったく、何が安心しろだッ! 信楽焼なんだから狸だろうが」と、言ってやりたかった。そう平次郎は憤慨気味に言っていた。なにかしら琴線に触れるところがあったのだろう。
車に戻ると、リュックを手にドアを閉めた。指先呼称で「ヨシッ!」と確認して狸に戻った。
「はぁ、はぁ」
息を切らした。
「しかし、ここまで苦戦するとは―― サイズを間違ったか」と疲労困憊した。それでも「いや、サイズの問題じゃないなぁ」と冷静に分析もしたという。
そう、狸にはリュックが背負えないのである。
ときには飛び込み、這いずり回っては「こればっかは、人に戻ってもどうにもならんからなぁ」と三十分程だろうか、悪戦苦闘の末にようやく背負った。「決め手は、奴を仰向けにしての背面ダイブよ」と笑っていたが、予想外に体力を消耗してしまったようだ。
木工所に辿り着くと、トラックを地下に降ろすエレベータの近くに隠れて次のトラックを待った。三十分程で次のトラックが来ると、監視カメラに映らないように燃料タンクの隙間に飛び込んだ。が、あろうことか今度は背負ったリュックの存在を忘れていた。
何に引っかかったか分からないが、燃料タンクの脇に平次郎をぶら下げたままトラックが走り出す。初めは焦ったようだが、以外なほどに心地良く「……これってラッキーってことか?」とほくそ笑んだらしい。
――やはり、甘かった。
エレベータから連結線までは良かったが、連結線から降りたトラックは高速道路のトンネルのようなところを百キロぐらいで走る。リュックから身体が外れれば後輪でペチャンコになると、地獄のような時間をぶらぶらと、いや、グルグルと過ごした。
最後のゲートも人に見られることなくやり過ごし、なんとか御厨のドライブインまで辿り着いた。
トラックはエンジンを止めた。
「ふぅ、――えッ」
必死でリュックの肩紐を掴んでいたのだろう。安心して手から力が抜けると、なんの躊躇いもなくストンと地面に落ちた。
「……」
恐怖に打ち拉がれた。だが、平次郎は徐ろに立ち上がった。動きが予測できないブランコに、残った体力のほとんどを使い果たしたその身体に鞭打って―― 後ろの方では、……確かロッキーチャックとかいう洋画のテーマソングが流れていたという。
ま、どうでもいい余談である。
トラックからリュックを外すと「まぁ、ある意味良かった。二度と下ろせる自身がなかったからなぁ」と胸を撫で下ろしたらしい。「しかし、腹減った。上から下から食った物が全部出た。……っていうか、ある意味ツイてた。パンツを履いてたら立ち直れなかった」と、僅かな笑みさえ見せていたという。
リュックを咥えてドライブインの裏手に回り、鍵のかかっていない倉庫の中にリュックを隠すと、人が住んでるんじゃないかと思われるほど立派なトイレの屋根に這い上がった。
立ち上がって谷内の町を望んだ。
「明るいうちは町に行っても食いもんは手に入らんだろうし、今さら虫を食うのもなぁ」と悩み「あっちに行って、何か拝借でもするか」と、公職者にあるまじきことを口にしながらトイレの屋根から恐る恐る這い落ちた。
頭を押さえて神社へと目を向けた。
御厨には管理された車以外は入れず、私の使っている車では入れない。前のように盛岡まで行って登録されたレンタカーに乗り換えてもいいのだが、諦めの悪い平次郎が駅に現れて「蒼太君、頼むッ!」と、手を合わせる顔がちらついた。自慢げに言った狸の作り話はもう聞きたくないと、そう思った。
インターの近くにある御厨系列の運送会社に行って車を預け、書籍を運び入れるトラックに便乗して御厨に向かった。
「随分と車が走っていますね」
滅多に車が通らない遠野から谷外への峠道をかなりの数の車が走っていた。
「ああ、少し前に盛岡と川井の間で工事が始まって渋滞が酷いんだよ。遠野を経由して宮古に向かう車が増えたんだ。新しいトンネルが出来て盛岡からこちらへ迂回しても結構早い。ホントいい迷惑だよ。十分毎に停まって後ろに溜まった奴等に道を譲らなきゃならん」
運転手は憤慨気味に返した。
「これじゃ、つけられていても分からんですね」
「つけられてるのか?」
「いや、今までこの道は車なんてほとんど見ることがなかったんで、少し気になっただけです」
「つけられたところで、木工所のエレベータから先へは進みようがない。大丈夫だよ」
「そうですね――」
谷外に着き、トラックは寂れた大きな木工所へと入った。
ここからは、とある狸の回顧録である。
「なるほどねぇ。あの木工所から入って行くのか。化け狐どもが、関東の化け狸を甘く見ちゃ困るぜ」
と、とある狸は、いや、平次郎は思わず笑みを浮かべたという。
数日前、平次郎は狸に戻り、私たちが借りている家の庭に入り込んで車に発信器を取り付けた。今朝、大通りの交差点で会ったのは偶然などではない。宇都宮で車から降ろされた平次郎はレンタカーで後を追い、北上江釣子から私の乗ったトラックを尾行して谷外まで来ていた。
木工所の前で、僅かに涙ぐんでしまうくらいに感動さえしていたという――
山菜採りに来た車が駐める場所にレンタカーを置き、必要最小限の物を狸用として買った小さなリュックに詰めた。辺りを窺って服を脱ぎ、狸に戻って車を出た。――いや、出ようとして呆気に取られた。狸の前足ではドアのロックが外せないのだ。
「今どき、こんな四角い棒のドアロックを引き上げる車があるのかよ。せめて、丸にしろよ」と数分格闘した挙句「なんだ、人になりゃいいんだ」と化け直してロックを外した。
裸のまま、辺りを窺って素早く外に出た。ドアを締めて狸に戻った。
が、やはり呆気に取られた。
ドアをロックしようとして、鍵を入れたリュックを車の中に忘れたことに気づいた。数十回ジャンプして、ドアノブに前足を入れようとしたが上手くいかない。挙句の果てには、ドアノブに挟まって宙吊りになる始末だった。
――「なんだ、人になりゃいいんだった」と化け直してドアを開けた。
「……?」
助手席にあるだろうと思ったリュックが見当たらない。シートの間からのぞいても後ろの席にも足元にも見当たらない。「確か、助手席に放り投げて……」と向き直ると、助手席の下から僅かに肩紐が見えた。「なんだよ、そこかよ」と、前屈みになってリュックに手を伸ばした。だが、椅子をスライドするレバーに引かかって取れない。「オイオイ、勘弁してくれよ」と寝そべった。
その時だった。
「何しとるんだ? いい大人が、ケツからそんなもんぶら下げて」
「はッ!」とした。背中に拳銃を向けられたときのような戦慄を覚えたという。
寝そべっていた身体を半分起こして、恐る恐る振り返った。
山菜取りの籠を背負った老爺が小さな男の子と手を繋いで立っていた。
「あッ、――いやぁ、これはですね。……そ、そうだ。沢に落ちて服を乾かしてたんです。で、待ってる間タバコが吸いたくて、ハハハ」と繕って見せた。
あたふたとグローブボックスからタバコを取り出し、ついでといっては心もとないが、せめてもの礼儀として先端だけでもと、タバコの箱を貼り付けてドアを締めた。ポカーンと佇む男の子と老爺に照れ笑いらしきものを返し、小走りに沢へ向かい脇の藪に飛び込んだ。
藪の中から窺った。
「……じっちゃん、タバコの箱はどこにでもくっつくのか?」
「あれはテレビでよくやってる表面張力って手品だ。若い娘っ子等を騙すのに使っとるらしい」
「ふぅーん。 ……で、じっちゃん、あのぶら下がってたのはなんだ?」
男の子は老爺を見上げた。
老爺は僅かな間を取り「しかし、デカかったなぁ。まるで信楽焼みてェだった。――ま、ああいうのに限ってご本尊は小せえもんだ。安心しろ」と、まるで自分に言うかのように返した。
「信楽焼って、いうのか――」
「まぁ、なんだ。狐に化かされたと思って忘れろ」
そう口にした老爺は、男の子の手を引いて歩き出して行く。
「ったく、何が安心しろだッ! 信楽焼なんだから狸だろうが」と、言ってやりたかった。そう平次郎は憤慨気味に言っていた。なにかしら琴線に触れるところがあったのだろう。
車に戻ると、リュックを手にドアを閉めた。指先呼称で「ヨシッ!」と確認して狸に戻った。
「はぁ、はぁ」
息を切らした。
「しかし、ここまで苦戦するとは―― サイズを間違ったか」と疲労困憊した。それでも「いや、サイズの問題じゃないなぁ」と冷静に分析もしたという。
そう、狸にはリュックが背負えないのである。
ときには飛び込み、這いずり回っては「こればっかは、人に戻ってもどうにもならんからなぁ」と三十分程だろうか、悪戦苦闘の末にようやく背負った。「決め手は、奴を仰向けにしての背面ダイブよ」と笑っていたが、予想外に体力を消耗してしまったようだ。
木工所に辿り着くと、トラックを地下に降ろすエレベータの近くに隠れて次のトラックを待った。三十分程で次のトラックが来ると、監視カメラに映らないように燃料タンクの隙間に飛び込んだ。が、あろうことか今度は背負ったリュックの存在を忘れていた。
何に引っかかったか分からないが、燃料タンクの脇に平次郎をぶら下げたままトラックが走り出す。初めは焦ったようだが、以外なほどに心地良く「……これってラッキーってことか?」とほくそ笑んだらしい。
――やはり、甘かった。
エレベータから連結線までは良かったが、連結線から降りたトラックは高速道路のトンネルのようなところを百キロぐらいで走る。リュックから身体が外れれば後輪でペチャンコになると、地獄のような時間をぶらぶらと、いや、グルグルと過ごした。
最後のゲートも人に見られることなくやり過ごし、なんとか御厨のドライブインまで辿り着いた。
トラックはエンジンを止めた。
「ふぅ、――えッ」
必死でリュックの肩紐を掴んでいたのだろう。安心して手から力が抜けると、なんの躊躇いもなくストンと地面に落ちた。
「……」
恐怖に打ち拉がれた。だが、平次郎は徐ろに立ち上がった。動きが予測できないブランコに、残った体力のほとんどを使い果たしたその身体に鞭打って―― 後ろの方では、……確かロッキーチャックとかいう洋画のテーマソングが流れていたという。
ま、どうでもいい余談である。
トラックからリュックを外すと「まぁ、ある意味良かった。二度と下ろせる自身がなかったからなぁ」と胸を撫で下ろしたらしい。「しかし、腹減った。上から下から食った物が全部出た。……っていうか、ある意味ツイてた。パンツを履いてたら立ち直れなかった」と、僅かな笑みさえ見せていたという。
リュックを咥えてドライブインの裏手に回り、鍵のかかっていない倉庫の中にリュックを隠すと、人が住んでるんじゃないかと思われるほど立派なトイレの屋根に這い上がった。
立ち上がって谷内の町を望んだ。
「明るいうちは町に行っても食いもんは手に入らんだろうし、今さら虫を食うのもなぁ」と悩み「あっちに行って、何か拝借でもするか」と、公職者にあるまじきことを口にしながらトイレの屋根から恐る恐る這い落ちた。
頭を押さえて神社へと目を向けた。