二十四 別れ
文字数 2,669文字
明るいうちに走った東北道を引き返して盛岡まで一気に走り続けた。無理を言って用意してもらったレンタカーに乗り、夜が明け始めた頃には御厨に入った。
家に帰ると紅姉から連絡を受けていた母が起きて待っていた。
「随分と早かったね」
「ああ。――方太は?」
「久々に駆けてくるって。お前が来ることを言ってないんだ」
「ああ、いいよ探すから。これ暖めて。俺、鬼子様にお話ししてくる。そしたらすぐに出るから、急いで」
鬼子様への報告を済ませ、温めた団子が入ったビニール袋を手に家を出た。
家に帰り「駆けてくる」といえば、御社ノ森を駆け抜け、姉弟だけの秘密の抜け道で彩ノ河原に出てまほろばの丘へと駆け上がる。それは姉弟皆同じだった。
まほろばの丘は谷内の町から十キロ程の神楽ノ宮というところにある。
丘に着くと車を降りて南端にある一本桜という大樹に向かって歩いた。
「ん? 誰だろう……」
一本桜の下、丘向こうの草原に身体を向けた緑姉が佇んでいた。
「緑姉ちゃん、帰っていたのか。――方太は?」
何も返さず緑姉は首を振った。
「久々なんで、寄り道でもしてんのか」
一本桜をくぐり、丘からなだらかに下っていく草原を見ながら緑姉の前に腰を下ろした。
「方太を山へ帰すのをやめるよう蒼樹様と光浩様に頼んでみる。玄明様の件は俺のミスなんだ。俺が焦ってちゃんと指示をしなかったから――」
「蒼太、方太は自分の意思で山に帰ろうとしている」
振り返って緑姉を見上げた。
「方太は人の心が読める。姉様も、その特技が仕事に活かせると沙樹様にお願いしていたの。玄明様の件もお許しをもらった。――でもね、それが、人の心が分かることが、方太には辛いことだったみたい」
何も返さずに、緑姉に向けた顔を丘の下へ戻した。
「人の心なんて分からないから、それだから皆んななんとかやっていける。方太に御厨の外は、半妖になって人の中へ入るってことは想像以上だったみたい」
「でも、もう少し慣れれば―― そう、見ただけで変なこと考えてる奴は分かるって、そんなときは耳を塞ぐんだって言ってた」
「それって、私等には分からないけど辛いことなんじゃないのかな。あの子が、あの子らしく生きていけない。あの可愛い笑い顔を忘れて生きることになっちゃう」
緑姉が俯いたことが、泣いていることが背中越しに伝わってきた。
「方太はね、辛いって言ったの。『恭子様と蒼太兄ちゃんの間にいると辛いんだ』って―― 恭子様が初恋の人になっちゃったみたい」
何も返せなかった。
「思い出してみなよ、この御厨の野を、御社ノ森を駆け回っていた頃のことを。私たち半妖や人とは生きる時間が違うけど、人からみると短い時間だけど狐には狐の時間のほうが幸せに決まってる。あの子に私等のような辛い思いはさせたくない。人を騙してばかりの仕事なんてさせたくない。しないほうがいい」
顔を上げた。丘から見える蒼い山々の稜線へ目を向けた。
「蒼太、私は家に戻るね。引っ越しの用意を手伝ってあげないとだから」
そう言うと、緑姉は私の傍らに置かれたビニール袋をのぞき込んだ。「このお団子を見たら方太は大喜びするね。後で私にもそのお団子屋さん教えてね」と目に涙をためて笑った。
そんな緑姉の後ろ姿を見送る顔を、丘の下の草原へと戻した。
「一番大切な時間は、狐だった頃の時間か――」
意識することなく口にしていた。
五分程すると、丘の下の草むらから蝶を追いかけた方太が高々と飛び跳ねた。後を追うかのように一匹の女狐も楽しそうに飛び出てくる。
「なんだよ、だから遅かったのか」目を細めながら笑みを浮かべた。
私を見つけた方太は、もう一匹をその場に残して駆け出した。丘の上に来ると、ゆっくり歩いて静かに傍らとへ座った。
「まだ、話しはできるのか?」
方太は何も言わずに頷いた。
「良かったのか、ホントに」
「――兄ちゃんや姉ちゃんたちと一緒にいたい。けど、どうしても他の人たちの心が入ってくるんだ。気を緩めると、聞きたくないことばかり聞こえてくる。――ごめん」
俯く方太を見つめながら表情を崩した。
「毎月、蒲焼きを買って来ないとな」
「毎月は無理だよ、恭子様を見守れなくなる」
「そうか、俺一人じゃ辛いなぁ。ま、姉ちゃんたちと代わりばんこにやれば大丈夫だ」
「なら、蒲焼きじゃなくて島田屋の団子がいい」
「さすがに蒲焼きは飽きたか」
「僕、ちっちゃくて分からなかったけど、屋根付き商店街の鰻屋さんの方がもっと美味しかった。母さんが買ってきてくれるって。でも、団子は島田屋の団子が一番好きだなぁ」
「そうか、分かった。団子は俺等に任せておけ」
「うん!」草原を写した方太の目には涙が浮かんでいた。
「――方太、おいで」
その細い身体を抱いた。
「ごめんな、兄ちゃん。ちゃんとお手伝いできなくて」
「謝るのは俺の方だ。雄が半妖になれないことを知らなかった」
「僕が兄ちゃんに会いたい、会いたいって言ってたから、きっと主様が名をくれたんだ。主様にお礼を言って欲しい」
「分かった。ちゃんと言っておく。――そうだ」
その細い身体を離し、傍らにあったビニール袋を持ち上げた。
「これ、なんだか分かるか?」
「分かるよ、兄ちゃんがいるのその団子の匂いで分かったんだ」
「そうか、さすがに狐だな。二八本ある。彼女と一緒に食べな」
「そんなに沢山あるの! でも、彼女じゃないって、ただの幼なじみだよ。さっき、丘の下で会ったんだ」
「分かった分かった。暖かいうちに持って行ってやれ」
「うん、ありがとう」
方太は、その細長い口でビニール袋を咥えようとした。が、やめて徐に顔を上げた。
「兄ちゃん。俺、もう話せなくなって平気かい?」
「――大丈夫だ。こう見えても俺だってれっきとした狐だ。心配すんな」
涙で方太が歪んでいた。
「そうだね。じゃ、俺、行くね」
団子の入った袋を咥えて方太が歩き出すと思わず立ち上がった。
「方太」
方太は足を止めた。
「彼女ができても家を出ずに、巣は家の庭に作るんだぞ。そうしてくれる彼女を見つけて、母さんに孫を見せてやってくれ」
方太は咥えた団子を下ろして向き直った。声を出さずに遠吠えをする仕草を二度、三度と繰り返し、私が頷くと団子を咥え直して丘の下へ駆け出して行く。
「馬鹿野郎。もう話せなくなっても平気かなんて、最後まで人の心配しやがって」
少しずつ遠ざかって行く方太を、涙に霞むその後ろ姿を見ながら口にした。
その夜、光浩様に方太のことを報告した
少しの間だったが、方太を半妖として私のところによこしてくれたことの礼を言った。
家に帰ると紅姉から連絡を受けていた母が起きて待っていた。
「随分と早かったね」
「ああ。――方太は?」
「久々に駆けてくるって。お前が来ることを言ってないんだ」
「ああ、いいよ探すから。これ暖めて。俺、鬼子様にお話ししてくる。そしたらすぐに出るから、急いで」
鬼子様への報告を済ませ、温めた団子が入ったビニール袋を手に家を出た。
家に帰り「駆けてくる」といえば、御社ノ森を駆け抜け、姉弟だけの秘密の抜け道で彩ノ河原に出てまほろばの丘へと駆け上がる。それは姉弟皆同じだった。
まほろばの丘は谷内の町から十キロ程の神楽ノ宮というところにある。
丘に着くと車を降りて南端にある一本桜という大樹に向かって歩いた。
「ん? 誰だろう……」
一本桜の下、丘向こうの草原に身体を向けた緑姉が佇んでいた。
「緑姉ちゃん、帰っていたのか。――方太は?」
何も返さず緑姉は首を振った。
「久々なんで、寄り道でもしてんのか」
一本桜をくぐり、丘からなだらかに下っていく草原を見ながら緑姉の前に腰を下ろした。
「方太を山へ帰すのをやめるよう蒼樹様と光浩様に頼んでみる。玄明様の件は俺のミスなんだ。俺が焦ってちゃんと指示をしなかったから――」
「蒼太、方太は自分の意思で山に帰ろうとしている」
振り返って緑姉を見上げた。
「方太は人の心が読める。姉様も、その特技が仕事に活かせると沙樹様にお願いしていたの。玄明様の件もお許しをもらった。――でもね、それが、人の心が分かることが、方太には辛いことだったみたい」
何も返さずに、緑姉に向けた顔を丘の下へ戻した。
「人の心なんて分からないから、それだから皆んななんとかやっていける。方太に御厨の外は、半妖になって人の中へ入るってことは想像以上だったみたい」
「でも、もう少し慣れれば―― そう、見ただけで変なこと考えてる奴は分かるって、そんなときは耳を塞ぐんだって言ってた」
「それって、私等には分からないけど辛いことなんじゃないのかな。あの子が、あの子らしく生きていけない。あの可愛い笑い顔を忘れて生きることになっちゃう」
緑姉が俯いたことが、泣いていることが背中越しに伝わってきた。
「方太はね、辛いって言ったの。『恭子様と蒼太兄ちゃんの間にいると辛いんだ』って―― 恭子様が初恋の人になっちゃったみたい」
何も返せなかった。
「思い出してみなよ、この御厨の野を、御社ノ森を駆け回っていた頃のことを。私たち半妖や人とは生きる時間が違うけど、人からみると短い時間だけど狐には狐の時間のほうが幸せに決まってる。あの子に私等のような辛い思いはさせたくない。人を騙してばかりの仕事なんてさせたくない。しないほうがいい」
顔を上げた。丘から見える蒼い山々の稜線へ目を向けた。
「蒼太、私は家に戻るね。引っ越しの用意を手伝ってあげないとだから」
そう言うと、緑姉は私の傍らに置かれたビニール袋をのぞき込んだ。「このお団子を見たら方太は大喜びするね。後で私にもそのお団子屋さん教えてね」と目に涙をためて笑った。
そんな緑姉の後ろ姿を見送る顔を、丘の下の草原へと戻した。
「一番大切な時間は、狐だった頃の時間か――」
意識することなく口にしていた。
五分程すると、丘の下の草むらから蝶を追いかけた方太が高々と飛び跳ねた。後を追うかのように一匹の女狐も楽しそうに飛び出てくる。
「なんだよ、だから遅かったのか」目を細めながら笑みを浮かべた。
私を見つけた方太は、もう一匹をその場に残して駆け出した。丘の上に来ると、ゆっくり歩いて静かに傍らとへ座った。
「まだ、話しはできるのか?」
方太は何も言わずに頷いた。
「良かったのか、ホントに」
「――兄ちゃんや姉ちゃんたちと一緒にいたい。けど、どうしても他の人たちの心が入ってくるんだ。気を緩めると、聞きたくないことばかり聞こえてくる。――ごめん」
俯く方太を見つめながら表情を崩した。
「毎月、蒲焼きを買って来ないとな」
「毎月は無理だよ、恭子様を見守れなくなる」
「そうか、俺一人じゃ辛いなぁ。ま、姉ちゃんたちと代わりばんこにやれば大丈夫だ」
「なら、蒲焼きじゃなくて島田屋の団子がいい」
「さすがに蒲焼きは飽きたか」
「僕、ちっちゃくて分からなかったけど、屋根付き商店街の鰻屋さんの方がもっと美味しかった。母さんが買ってきてくれるって。でも、団子は島田屋の団子が一番好きだなぁ」
「そうか、分かった。団子は俺等に任せておけ」
「うん!」草原を写した方太の目には涙が浮かんでいた。
「――方太、おいで」
その細い身体を抱いた。
「ごめんな、兄ちゃん。ちゃんとお手伝いできなくて」
「謝るのは俺の方だ。雄が半妖になれないことを知らなかった」
「僕が兄ちゃんに会いたい、会いたいって言ってたから、きっと主様が名をくれたんだ。主様にお礼を言って欲しい」
「分かった。ちゃんと言っておく。――そうだ」
その細い身体を離し、傍らにあったビニール袋を持ち上げた。
「これ、なんだか分かるか?」
「分かるよ、兄ちゃんがいるのその団子の匂いで分かったんだ」
「そうか、さすがに狐だな。二八本ある。彼女と一緒に食べな」
「そんなに沢山あるの! でも、彼女じゃないって、ただの幼なじみだよ。さっき、丘の下で会ったんだ」
「分かった分かった。暖かいうちに持って行ってやれ」
「うん、ありがとう」
方太は、その細長い口でビニール袋を咥えようとした。が、やめて徐に顔を上げた。
「兄ちゃん。俺、もう話せなくなって平気かい?」
「――大丈夫だ。こう見えても俺だってれっきとした狐だ。心配すんな」
涙で方太が歪んでいた。
「そうだね。じゃ、俺、行くね」
団子の入った袋を咥えて方太が歩き出すと思わず立ち上がった。
「方太」
方太は足を止めた。
「彼女ができても家を出ずに、巣は家の庭に作るんだぞ。そうしてくれる彼女を見つけて、母さんに孫を見せてやってくれ」
方太は咥えた団子を下ろして向き直った。声を出さずに遠吠えをする仕草を二度、三度と繰り返し、私が頷くと団子を咥え直して丘の下へ駆け出して行く。
「馬鹿野郎。もう話せなくなっても平気かなんて、最後まで人の心配しやがって」
少しずつ遠ざかって行く方太を、涙に霞むその後ろ姿を見ながら口にした。
その夜、光浩様に方太のことを報告した
少しの間だったが、方太を半妖として私のところによこしてくれたことの礼を言った。