八十七 初めて聞く、その声――
文字数 3,063文字
次の日からアキちゃんは勘を取り戻すために行平様を相手に稽古に入り、私はいつもの研究棟に戻って御蔵との対話を再開した。
「狭くてすみません」
お茶を淹れてくれた塔子さんに申し訳なさそうな顔を向けた。
「大丈夫ですよ。美波さんが来る前は、ここが私の職場だったんです」
「えッ! もしかして私がここを取っちゃったってことですか」
「いえ、美波さんが来る三ヶ月前にはここから侍所に移っていたから問題ありませんよ」
「あぁ。なら、良かった」
「でも、私が一緒にいても大丈夫?」
「直君とここにこもるわけにもいかないので、ずっと一人でやっていたから反対に助かったって感じです」
「そう、ならいいけど。ただ私がいたのでは御蔵が心を開いてくれないんじゃないかと、ちょっと心配」
「見てるわけじゃないから、大丈夫で――」
そこまで言って口を噤んだ。表情を僅かに変えて二人で目を見合わせた。
「い、嫌だなぁ、そんなことはないですって、絶対に。っていうか、もし態度が変わったら怖くてここにいれない」
部屋の中を見回した。
横の塔子さんは俯き加減に固まっている。
「塔子さん? ――塔子さん」
「えッ! あッ、ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっと考え事を」
「……」
ピンと、きた! ……絶対、連れ込んでたなぁ、男。
と、直感した。
『秋葉ちゃんが、また、ものの具を履いたらどうなりますか』との問いかけに御蔵は即答だった。
私たちは早々に西ノ対の研究棟を出て、早い昼食を摂ろうと離れの喫茶室に入った。
「なんか拍子抜けでしたね」
「でも『了承』って変ですよね。お願いしたつもりもないのに」
「私たちにあんな対応をとることなんてないです―― 御蔵にとって美波さんは特別な存在なんですね。きっと、山神様と海神様に選ばれた人だからです」
塔子さんが笑みを向けてくる。
――話を聞いていなかったかのように、問いかけた。
「塔子さん。きっ子ちゃんのこと、どう思います」
思いの外、その真剣な眼差しに戸惑った表情を浮かべた塔子さんだったが、すぐにいつもの顔つきに戻った。
「私はきっ子のこと好きですよ。あの子はとても優しい。私と父は光浩様とお仕事をさせて頂くことが多いので時々御社に行くのですが、きっ子はいつもニコニコして迎えてくれます」
「とってもいい子ですよね」
ホッとした顔で返した。
塔子さんは僅かに表情を変えた。
「ただ、御社以外できっ子に好意を持っている者はいません」
「……やはり、そうでしたか。鬼の子じゃないかと思っている人たちは忌み嫌ってしまいますよね」
「そうではないです。ここは外とは違い御神体が祀られ、皆護神兵がいることに皆誇りを持っています。鬼に対しての恐怖はありません。憧れの対象でしかありません。ですが――」
「……ですが?」
「――麟様です」
塔子さんは、周りを気にして声をひそめた。
「麟ちゃん?」同じように声をひそめて返した。
麟ちゃんの名が出てきたのは予想外のことだった。
「はい、ここでは麟様と山神様への信仰は絶対です。山神様からは感じないのですが、麟様からは――」
そこまで言って、塔子さんはテーブルの紅茶に視線を落とした。
そんな塔子さんが続けるのを何も言わずに待った。
塔子さんが徐ろに口を開く。
「なぜか、伝わってくるんです。麟様の鬼子への恐れというか、そんなものが」
想像すらしていなかった。衝撃的ですらあった。
私にとって塔子さんは重要な人になっていると、そう強く感じている。
これまで、ずっと純菜先輩を中心に置いてやってきた。不安と覚悟、驚きとときめき、迷いと希望。その全てを先輩と共有してきた。でも、先輩が直君を失うのではないかと思い始めた頃から違和感を覚え、それは昨日の夜かたちになって現れてしまった。あまりにも異質な御厨にあって、その異様さを共有できる唯一の人を失った。
信仰心よりも理屈が、理性が上回っているように感じられたのは貞任様と道真様、あの幼いきっ子ちゃんぐらいだった。でも、貞任様は無論としても道真様にも年齢の壁があった。きっ子ちゃんに至っては私が一方的に愚痴を言い、きっ子ちゃんは言葉を返すことなくただ優しく笑ってくれるだけだった。
塔子さんにも話せるのではないかとの期待はあったが護神兵を履くのでは無理だと諦めていた。
純菜先輩と沙夜先輩が私のために塔子さんを……
俯いていた顔を上げた。
「きっ子ちゃんと仲良くなってからなんです。きっ子ちゃんに接してから御蔵の態度が変わり始めました。それまでは凄いコンピュータだとは思っていましたが、きっ子ちゃんと仲良くなっていくにつれ、まるで人と接してるかのように返してくるようになりました」
「……も、もしかして、きっ子が護神兵に成るということですか」
「分かりません。でも、きっ子ちゃんと接して御蔵が変わったのは確かです」
「きっ子と御蔵が…… ですが、間違いなく麟様のきっ子に対する恐れのようなものは感じます。おそらく貞任様や沙夜様、御社のまかない以外、ここの者は皆感じているかと――」
「そう、ですか……」
私の報告を受けてアキちゃんは室に入った。
稽古のほうは行平様を以ってしても相手にならず、貞任様と互角に戦ったとのことで『純菜を守ろうと、ここを出ても必死に稽古を重ねたのだろう』と、貞任様が感心していたらしい。
ものの具の中のアキちゃんと話せるのは半日以上かかり、塔子さんと私は早めに家に帰って未明に御所へ戻ることにした。
私は誰もいない家に戻る気にはなれず、きっ子ちゃんのところに行くと言って塔子さんと別れた。いつもはきっ子ちゃんが淋しかろうと足を運んだが、今日は私が一緒にいて欲しいと思った。
塔子さんから山吹さんに話がいっていたのか、御社の賄いを取り仕切り始めた山吹さんの配慮だろう、夕餉の支度をしているはずのきっ子ちゃんが屋敷の門の前で待っていた。
「早いね。待っていてくれたの?」
きっ子ちゃんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
私も笑みを返して、二人は母屋に向かった。
いつものように手を繋いで歩き始めた。
でも、その小さな手から温もりが伝わってくると、少しずつ、少しずつ母屋が歪んでいった。玄関の前まで行って立ち止まった。
堪らえることができずに膝を突いた。きっ子ちゃんを抱きしめて泣いてしまう。
「とうとう、独りになっちゃった。先輩も直君も、サトちゃんもどっか行っちゃった」と幼子のようにして泣いた。
そして、きっ子ちゃんを抱いた腕を解き、その場に座り込んだ。
「こんな怖いところで、独りになっちゃった」
先輩を失った思いが堰を切って溢れ出した。きっ子ちゃんがいることを忘れてしまったかのように泣いた。
「美波ちゃん、僕では駄目?」
「――」
初めて聞く、その声――
静かに顔を上げた。
「――」
涙に歪むきっ子ちゃんの顔には、その目には私と同じだけの涙が溢れていた。
腰を上げて、その小さく細い肩を震える身体へ静かに引き寄せた。
その夜、二人は沢山話をした。
話し疲れてきっ子ちゃんが眠りかけると、そのうつらうつらする顔を愛でながら優しくお尻を叩いて寝かせつけた。
二時間程一緒に眠り、夜が明ける前に御所に行こうと、きっ子ちゃんに薄掛けをかけて起こさぬよう静かに玄関に向かった。玄関では息を殺してきっ子ちゃんが眠る居間を振り返り、起きていないことを確かめてから戸を開けた。
――塔子さんと、ものの具を履いた秋葉ちゃんがいた。
進み出て、跪いている秋葉ちゃんを見上げた。
「良かったね」
また、泣いた。
「狭くてすみません」
お茶を淹れてくれた塔子さんに申し訳なさそうな顔を向けた。
「大丈夫ですよ。美波さんが来る前は、ここが私の職場だったんです」
「えッ! もしかして私がここを取っちゃったってことですか」
「いえ、美波さんが来る三ヶ月前にはここから侍所に移っていたから問題ありませんよ」
「あぁ。なら、良かった」
「でも、私が一緒にいても大丈夫?」
「直君とここにこもるわけにもいかないので、ずっと一人でやっていたから反対に助かったって感じです」
「そう、ならいいけど。ただ私がいたのでは御蔵が心を開いてくれないんじゃないかと、ちょっと心配」
「見てるわけじゃないから、大丈夫で――」
そこまで言って口を噤んだ。表情を僅かに変えて二人で目を見合わせた。
「い、嫌だなぁ、そんなことはないですって、絶対に。っていうか、もし態度が変わったら怖くてここにいれない」
部屋の中を見回した。
横の塔子さんは俯き加減に固まっている。
「塔子さん? ――塔子さん」
「えッ! あッ、ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっと考え事を」
「……」
ピンと、きた! ……絶対、連れ込んでたなぁ、男。
と、直感した。
『秋葉ちゃんが、また、ものの具を履いたらどうなりますか』との問いかけに御蔵は即答だった。
私たちは早々に西ノ対の研究棟を出て、早い昼食を摂ろうと離れの喫茶室に入った。
「なんか拍子抜けでしたね」
「でも『了承』って変ですよね。お願いしたつもりもないのに」
「私たちにあんな対応をとることなんてないです―― 御蔵にとって美波さんは特別な存在なんですね。きっと、山神様と海神様に選ばれた人だからです」
塔子さんが笑みを向けてくる。
――話を聞いていなかったかのように、問いかけた。
「塔子さん。きっ子ちゃんのこと、どう思います」
思いの外、その真剣な眼差しに戸惑った表情を浮かべた塔子さんだったが、すぐにいつもの顔つきに戻った。
「私はきっ子のこと好きですよ。あの子はとても優しい。私と父は光浩様とお仕事をさせて頂くことが多いので時々御社に行くのですが、きっ子はいつもニコニコして迎えてくれます」
「とってもいい子ですよね」
ホッとした顔で返した。
塔子さんは僅かに表情を変えた。
「ただ、御社以外できっ子に好意を持っている者はいません」
「……やはり、そうでしたか。鬼の子じゃないかと思っている人たちは忌み嫌ってしまいますよね」
「そうではないです。ここは外とは違い御神体が祀られ、皆護神兵がいることに皆誇りを持っています。鬼に対しての恐怖はありません。憧れの対象でしかありません。ですが――」
「……ですが?」
「――麟様です」
塔子さんは、周りを気にして声をひそめた。
「麟ちゃん?」同じように声をひそめて返した。
麟ちゃんの名が出てきたのは予想外のことだった。
「はい、ここでは麟様と山神様への信仰は絶対です。山神様からは感じないのですが、麟様からは――」
そこまで言って、塔子さんはテーブルの紅茶に視線を落とした。
そんな塔子さんが続けるのを何も言わずに待った。
塔子さんが徐ろに口を開く。
「なぜか、伝わってくるんです。麟様の鬼子への恐れというか、そんなものが」
想像すらしていなかった。衝撃的ですらあった。
私にとって塔子さんは重要な人になっていると、そう強く感じている。
これまで、ずっと純菜先輩を中心に置いてやってきた。不安と覚悟、驚きとときめき、迷いと希望。その全てを先輩と共有してきた。でも、先輩が直君を失うのではないかと思い始めた頃から違和感を覚え、それは昨日の夜かたちになって現れてしまった。あまりにも異質な御厨にあって、その異様さを共有できる唯一の人を失った。
信仰心よりも理屈が、理性が上回っているように感じられたのは貞任様と道真様、あの幼いきっ子ちゃんぐらいだった。でも、貞任様は無論としても道真様にも年齢の壁があった。きっ子ちゃんに至っては私が一方的に愚痴を言い、きっ子ちゃんは言葉を返すことなくただ優しく笑ってくれるだけだった。
塔子さんにも話せるのではないかとの期待はあったが護神兵を履くのでは無理だと諦めていた。
純菜先輩と沙夜先輩が私のために塔子さんを……
俯いていた顔を上げた。
「きっ子ちゃんと仲良くなってからなんです。きっ子ちゃんに接してから御蔵の態度が変わり始めました。それまでは凄いコンピュータだとは思っていましたが、きっ子ちゃんと仲良くなっていくにつれ、まるで人と接してるかのように返してくるようになりました」
「……も、もしかして、きっ子が護神兵に成るということですか」
「分かりません。でも、きっ子ちゃんと接して御蔵が変わったのは確かです」
「きっ子と御蔵が…… ですが、間違いなく麟様のきっ子に対する恐れのようなものは感じます。おそらく貞任様や沙夜様、御社のまかない以外、ここの者は皆感じているかと――」
「そう、ですか……」
私の報告を受けてアキちゃんは室に入った。
稽古のほうは行平様を以ってしても相手にならず、貞任様と互角に戦ったとのことで『純菜を守ろうと、ここを出ても必死に稽古を重ねたのだろう』と、貞任様が感心していたらしい。
ものの具の中のアキちゃんと話せるのは半日以上かかり、塔子さんと私は早めに家に帰って未明に御所へ戻ることにした。
私は誰もいない家に戻る気にはなれず、きっ子ちゃんのところに行くと言って塔子さんと別れた。いつもはきっ子ちゃんが淋しかろうと足を運んだが、今日は私が一緒にいて欲しいと思った。
塔子さんから山吹さんに話がいっていたのか、御社の賄いを取り仕切り始めた山吹さんの配慮だろう、夕餉の支度をしているはずのきっ子ちゃんが屋敷の門の前で待っていた。
「早いね。待っていてくれたの?」
きっ子ちゃんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
私も笑みを返して、二人は母屋に向かった。
いつものように手を繋いで歩き始めた。
でも、その小さな手から温もりが伝わってくると、少しずつ、少しずつ母屋が歪んでいった。玄関の前まで行って立ち止まった。
堪らえることができずに膝を突いた。きっ子ちゃんを抱きしめて泣いてしまう。
「とうとう、独りになっちゃった。先輩も直君も、サトちゃんもどっか行っちゃった」と幼子のようにして泣いた。
そして、きっ子ちゃんを抱いた腕を解き、その場に座り込んだ。
「こんな怖いところで、独りになっちゃった」
先輩を失った思いが堰を切って溢れ出した。きっ子ちゃんがいることを忘れてしまったかのように泣いた。
「美波ちゃん、僕では駄目?」
「――」
初めて聞く、その声――
静かに顔を上げた。
「――」
涙に歪むきっ子ちゃんの顔には、その目には私と同じだけの涙が溢れていた。
腰を上げて、その小さく細い肩を震える身体へ静かに引き寄せた。
その夜、二人は沢山話をした。
話し疲れてきっ子ちゃんが眠りかけると、そのうつらうつらする顔を愛でながら優しくお尻を叩いて寝かせつけた。
二時間程一緒に眠り、夜が明ける前に御所に行こうと、きっ子ちゃんに薄掛けをかけて起こさぬよう静かに玄関に向かった。玄関では息を殺してきっ子ちゃんが眠る居間を振り返り、起きていないことを確かめてから戸を開けた。
――塔子さんと、ものの具を履いた秋葉ちゃんがいた。
進み出て、跪いている秋葉ちゃんを見上げた。
「良かったね」
また、泣いた。