十二 方太なるもの
文字数 2,084文字
◇
見守っていた恭子様が専門学校の門をくぐると、蒼太兄ちゃんがいつも使っている近くの喫茶店―― 間違った、茶店に入った。
校門が見える窓際は三席あり、左端の席にお婆ちゃんが一人で座っていた。
僕は真ん中の席に座り「ここなら、校門がよく見える」と口にした。少し驚いた顔をしていたお婆ちゃんを真似て同じアイスコーヒーを頼んだ。
まずったかなぁ、苦かったらどうしよう…… と緊張していた。
少し経つと「ここは空いていますか?」と老夫婦が声をかけてきた。
「はい、空いています」
そう返すと、老夫婦は満面の笑みで頭を下げて右端の席に着いた。
……やっぱ、こっちは豊かなんだなぁ。朝は働かないで、こうやってゆったりと時間を過ごしてるんだ。御厨とは違うんだなぁ。と、関東の豊かさに感動した。
老夫婦は互いにオレンジジュースを頼み、思いついたかのようにお爺ちゃんが立ち上がった。
「梅さんや、私はトイレに行って来るよ」
「はい、分かりました。でも、また迷っちゃ嫌ですよ」
「ハハハ、分かっとる。わしとて人生に迷うほど、もう若くもないよ」
お爺ちゃんの『迷う』は、違う! と直感した。でも、お婆ちゃんが言った迷うが引っかかった。
何に迷うんだろう、こんなちっちゃな店で――
五分程でお爺ちゃんは戻って来た。――が、あろうことか席を間違えた。反対側の一人で来ていたお婆ちゃんが座るテーブルの席に着いてしまう。思わず「お爺ちゃん、間違ってるよ!」と、声なき声を上げた。
……でも、僕以外はなんの違和感も持っていない。
すぐに気づくのだろうと、知らないふりをした。
「いやぁ、梅さんや、ここのトイレは下から水が出てくるんだよ」
お爺ちゃんは、濡れた白髪をハンカチで拭いながら一人で来ていたお婆ちゃんに言った。
なんで頭濡れてんだろう…… 横目で見ていた。
「家のトイレも、この前から水が出るやつに換えましたよ」
えーッ、お婆ちゃん、応えるの!
僕は戸惑いの表情を隠せなかった。
「そうだったか?」そう言いながら、お爺ちゃんはお婆ちゃんの頼んだアイスコーヒーに手を伸ばした。
そッ、それはお婆ちゃんのやつだって!
焦る僕を横に、アイスコーヒーを手にしたお爺ちゃんは穏やかな顔つきで問いかけた。
「しかし、なんで水を出すようにしたんだったかなぁ」
「あなたがそうしたいって言ったんですよ、……確か、呼び水がどうとかこうとか言ってましたよ」
「呼び水かぁ……」
お爺ちゃんはアイスコーヒーを手前に置いて腕を組んだ。
呼び水…… 一緒に考えた。
「そうそう、心を開くことが肝要だって、そう言ってましたね」
「心を開く―― いい言葉だなぁ」お爺ちゃんはしみじみと返した。
心を開く…… さらに考えた。
「確か、うごうごせずに、気持ちを穏やかにして心を開けば、……そう、腸までとどくと言っていましたね」
蝶までとどく…… 手がかりを失った気がした。
「早朝までに届く、か―― で、それが呼び水と…… あッ、苦いな、これは」
「そ、それは、私のアイスコーヒーですよ」
お婆ちゃんは憤慨気味に言った。
ようやく気づいたと、僕は胸を撫で下ろした。が、お婆ちゃんは「あなたは水でいいって言ってましたよ」と、お爺ちゃんの手からアイスコーヒーを取り、飲みかけの水を持たせた。
――固まった。
お爺ちゃんは持たされた水を持ち上げた。感慨深げに眺めている。「なんか、わしは水が好きなんだなぁ。周りは、水だらけだ」と、やはりしみじみと口にする。
「はいはい、随分と水商売の女へも貢ぎましたしね」
僅かな沈黙が置かれた。
「いやぁ、一本取られたなぁ」お爺ちゃんは恥じらうように濡れた頭を掻いた。
そんなお爺ちゃんに、ワンテンポ遅れの照れた返しに、忘れかけた往年の敵意が沸々と湧き上がってくる。そんなお婆ちゃんの怒りが伝わってきた。でも、一人で来ていたお婆ちゃんは、ふと思い出したかのように、壁に掛けられた時計へと目を向けた。
諦め顔に「のんびりしてると、バスに置いて行かれますよ」と、静かに席を立った。
やはり、ワンテンポ遅れた。「それは大変だ」と、お爺ちゃんも慌てて後を追った。
そんなお爺ちゃんを僕も目で追った。――胸がキュンとしていた。放ってはおけないと、そう思った。そして「お爺ちゃん、お金払わないで出て行っちゃう」と困惑顔を向ける僕に、お爺ちゃんと一緒に来たお婆ちゃんが妖しく微笑む。
「このオレンジジュースをどうぞ、私は一つでいいから」と――
どれほどの時間が経ったのだろう。僕は店の中に一人取り残されたように茫然と座っていた。
「……、あッ! これって、あの半妖の仕掛けた術だ。人が狐を化かすはずなんてない」
慌てて立ち上がり、専門学校の校門に目を向けた。
「クソッ!」
やはり、校門は開いていた。授業を終えた生徒たちが溢れ出てきている。
「そうだ。兄ちゃんは、いつもコンビニに寄るって言ってた」
僅かな可能性に縋った。
急いでお金を払って、お釣りをもらって、アイスコーヒーをほとんど飲めなかったことのお詫びをして、店を飛び出した。
見守っていた恭子様が専門学校の門をくぐると、蒼太兄ちゃんがいつも使っている近くの喫茶店―― 間違った、茶店に入った。
校門が見える窓際は三席あり、左端の席にお婆ちゃんが一人で座っていた。
僕は真ん中の席に座り「ここなら、校門がよく見える」と口にした。少し驚いた顔をしていたお婆ちゃんを真似て同じアイスコーヒーを頼んだ。
まずったかなぁ、苦かったらどうしよう…… と緊張していた。
少し経つと「ここは空いていますか?」と老夫婦が声をかけてきた。
「はい、空いています」
そう返すと、老夫婦は満面の笑みで頭を下げて右端の席に着いた。
……やっぱ、こっちは豊かなんだなぁ。朝は働かないで、こうやってゆったりと時間を過ごしてるんだ。御厨とは違うんだなぁ。と、関東の豊かさに感動した。
老夫婦は互いにオレンジジュースを頼み、思いついたかのようにお爺ちゃんが立ち上がった。
「梅さんや、私はトイレに行って来るよ」
「はい、分かりました。でも、また迷っちゃ嫌ですよ」
「ハハハ、分かっとる。わしとて人生に迷うほど、もう若くもないよ」
お爺ちゃんの『迷う』は、違う! と直感した。でも、お婆ちゃんが言った迷うが引っかかった。
何に迷うんだろう、こんなちっちゃな店で――
五分程でお爺ちゃんは戻って来た。――が、あろうことか席を間違えた。反対側の一人で来ていたお婆ちゃんが座るテーブルの席に着いてしまう。思わず「お爺ちゃん、間違ってるよ!」と、声なき声を上げた。
……でも、僕以外はなんの違和感も持っていない。
すぐに気づくのだろうと、知らないふりをした。
「いやぁ、梅さんや、ここのトイレは下から水が出てくるんだよ」
お爺ちゃんは、濡れた白髪をハンカチで拭いながら一人で来ていたお婆ちゃんに言った。
なんで頭濡れてんだろう…… 横目で見ていた。
「家のトイレも、この前から水が出るやつに換えましたよ」
えーッ、お婆ちゃん、応えるの!
僕は戸惑いの表情を隠せなかった。
「そうだったか?」そう言いながら、お爺ちゃんはお婆ちゃんの頼んだアイスコーヒーに手を伸ばした。
そッ、それはお婆ちゃんのやつだって!
焦る僕を横に、アイスコーヒーを手にしたお爺ちゃんは穏やかな顔つきで問いかけた。
「しかし、なんで水を出すようにしたんだったかなぁ」
「あなたがそうしたいって言ったんですよ、……確か、呼び水がどうとかこうとか言ってましたよ」
「呼び水かぁ……」
お爺ちゃんはアイスコーヒーを手前に置いて腕を組んだ。
呼び水…… 一緒に考えた。
「そうそう、心を開くことが肝要だって、そう言ってましたね」
「心を開く―― いい言葉だなぁ」お爺ちゃんはしみじみと返した。
心を開く…… さらに考えた。
「確か、うごうごせずに、気持ちを穏やかにして心を開けば、……そう、腸までとどくと言っていましたね」
蝶までとどく…… 手がかりを失った気がした。
「早朝までに届く、か―― で、それが呼び水と…… あッ、苦いな、これは」
「そ、それは、私のアイスコーヒーですよ」
お婆ちゃんは憤慨気味に言った。
ようやく気づいたと、僕は胸を撫で下ろした。が、お婆ちゃんは「あなたは水でいいって言ってましたよ」と、お爺ちゃんの手からアイスコーヒーを取り、飲みかけの水を持たせた。
――固まった。
お爺ちゃんは持たされた水を持ち上げた。感慨深げに眺めている。「なんか、わしは水が好きなんだなぁ。周りは、水だらけだ」と、やはりしみじみと口にする。
「はいはい、随分と水商売の女へも貢ぎましたしね」
僅かな沈黙が置かれた。
「いやぁ、一本取られたなぁ」お爺ちゃんは恥じらうように濡れた頭を掻いた。
そんなお爺ちゃんに、ワンテンポ遅れの照れた返しに、忘れかけた往年の敵意が沸々と湧き上がってくる。そんなお婆ちゃんの怒りが伝わってきた。でも、一人で来ていたお婆ちゃんは、ふと思い出したかのように、壁に掛けられた時計へと目を向けた。
諦め顔に「のんびりしてると、バスに置いて行かれますよ」と、静かに席を立った。
やはり、ワンテンポ遅れた。「それは大変だ」と、お爺ちゃんも慌てて後を追った。
そんなお爺ちゃんを僕も目で追った。――胸がキュンとしていた。放ってはおけないと、そう思った。そして「お爺ちゃん、お金払わないで出て行っちゃう」と困惑顔を向ける僕に、お爺ちゃんと一緒に来たお婆ちゃんが妖しく微笑む。
「このオレンジジュースをどうぞ、私は一つでいいから」と――
どれほどの時間が経ったのだろう。僕は店の中に一人取り残されたように茫然と座っていた。
「……、あッ! これって、あの半妖の仕掛けた術だ。人が狐を化かすはずなんてない」
慌てて立ち上がり、専門学校の校門に目を向けた。
「クソッ!」
やはり、校門は開いていた。授業を終えた生徒たちが溢れ出てきている。
「そうだ。兄ちゃんは、いつもコンビニに寄るって言ってた」
僅かな可能性に縋った。
急いでお金を払って、お釣りをもらって、アイスコーヒーをほとんど飲めなかったことのお詫びをして、店を飛び出した。