三十二 蒼き空の下で(一)
文字数 1,756文字
次の日、恭子様は私の家の呼び鈴を鳴らした。
履きかけて思わず止めた足を靴に入れ、立ち上がって姿勢を正した。覚悟を決めた顔で「光浩様、鬼子様行ってきます」そう言ってドアを開けた。
駅までの道を並んで歩いた。
「スッキリ晴れて湿気もない。凄くいい日ですね」
「はい、空が蒼くてとても気持ちのいい日です。まるで御厨で見た空のようです」
「あの時の、あの蒼い空ですか」
「はい。あの時の、どこまでも澄み渡った蒼い空です」
恭子様は嬉しそうに返した。
だが、すぐに表情を変えた。
「――蒼太さん」
緊張を隠せない声だった。
「今日、学校で退学の手続きをしてきます。叔母さんや叔父さんにも家に帰ると言いました。一度帰って、今度は都内に住もうと思います」
少しの沈黙を置いて「一緒に、来てくれますか」と、不安気に問いかけてくる。
「はい」
「――あぁ、良かった。断られたらどうしようかと思っていました。良かった」
安心して胸を撫で下ろす、その顔に笑みを返した。
不安な思いを隠して問いかけた。
「恭子様は光浩様のことを思い出したりしますか?」
「え?」
不思議そうに見上げてくる。
もしかして、もう光浩様の記憶が……
「はい。光浩様のことは毎日のように思い出しています。――でも、恭子様は変ですよね。恭子と呼んでください」
胸を撫で下ろした。「いやぁ、急にそう言われても」と、頭をかきながら。
「じゃ、恭子ッチ、恭子リン、恭子ちゃんの中から選んでください。あッ、きっ子でもいいですよ。恭子ヤンは嫌ですけど」
屈託のない笑い顔だった。だが『きっ子』という名を聞いて動揺した。
御印を渡した時は覚えていたが、玄明様と同じように……
「小さい頃、父から『きっ子』って呼ばれていたんです。でも、私はきっ子ちゃんみたいに可愛くないから没ですね」
張り裂けそうになった胸を、また撫で下ろした。「じゃ、恭子ちゃんで」と、照れるように言った。
「私も蒼ちゃんでいいですか」
「はい。――ん?」
恭子様は足を止めた。
俯いて「――蒼太さん」と、口にした。
どうしたのだろうと思いながら次の言葉を待つと、恭子様は静かにお腹へと手をあてがった。
「この子は、光浩様から授かりました。――ですが、お父さんは蒼太さんになって欲しいと、そう思っています。すごく勝手なことを言っています。ごめんなさい」
「私も、そうしたいと思っています」
「本当にごめんなさい」
「そんなことはありません。ずっと一緒にいれたらと―― ずっと、そう思っていましたから」
「ありがとうございます。とても、とっても嬉しいです」
恭子様は涙目にホッとした顔で返した。そして、その顔を空へと向けた。
思わず、息を呑んだ。
五年前と変わらない横顔―― その見上げる瞳にはまほろばの丘と同じ空を、晴れ渡って蒼く澄んだ空を映している。
「――蒼太さん。『いつか、あの丘で』待ち侘びているきっ子ちゃんを、この子が、あの時の私のように抱きしめてくれるって、そう思うんです」
涙が零れぬよう、空を見上げた。
「女の子なんですね」
「はい、きっ子ちゃんがお嫁さんにしたくなるような、とっても可愛い女の子です」
「鬼子様のお嫁さんになるのかぁ。じゃ、頑張ってお父さんをやらないといけないですね」
「はいッ、お願いします」
笑った恭子様の目は、溢れんばかりの涙で一杯になっていた。
慌ただしく仙台と東京を行き来し、恭子様のお腹が目立ち始めた頃に仙台のアパートを引き払って都内へ越した。
仙台にいた頃に「この子に名前を付けて欲しい」と言われ、光浩様が月を愛でるお姿を思い浮かべて美月 と名付けた。恭子様は「光浩様のお姿が見えてきそう。きっと、きっ子ちゃんも喜んでくれます」と笑顔を返していた。
都内に越して数日が経ち、最後の荷物を押入れの上棚になんとか押し込んだ。
「これで、やっと落ち着く」
肩の荷を下ろすかのようにソファーに腰を下ろすと、隣の恭子様が大きくなったお腹に手をあてがった。
茶目っ気気味に美月に話しかける。
「とっても素敵なお名前だけど、どうしてパパは美月とつけたんでしょうね。昔、お付き合いした彼女さんとデートした時のこと思い出しちゃったりしたのかなぁ。彼女さんが綺麗なお月様を見上げる顔を思い出してつけちゃったのかな? ね、美月ちゃん」
履きかけて思わず止めた足を靴に入れ、立ち上がって姿勢を正した。覚悟を決めた顔で「光浩様、鬼子様行ってきます」そう言ってドアを開けた。
駅までの道を並んで歩いた。
「スッキリ晴れて湿気もない。凄くいい日ですね」
「はい、空が蒼くてとても気持ちのいい日です。まるで御厨で見た空のようです」
「あの時の、あの蒼い空ですか」
「はい。あの時の、どこまでも澄み渡った蒼い空です」
恭子様は嬉しそうに返した。
だが、すぐに表情を変えた。
「――蒼太さん」
緊張を隠せない声だった。
「今日、学校で退学の手続きをしてきます。叔母さんや叔父さんにも家に帰ると言いました。一度帰って、今度は都内に住もうと思います」
少しの沈黙を置いて「一緒に、来てくれますか」と、不安気に問いかけてくる。
「はい」
「――あぁ、良かった。断られたらどうしようかと思っていました。良かった」
安心して胸を撫で下ろす、その顔に笑みを返した。
不安な思いを隠して問いかけた。
「恭子様は光浩様のことを思い出したりしますか?」
「え?」
不思議そうに見上げてくる。
もしかして、もう光浩様の記憶が……
「はい。光浩様のことは毎日のように思い出しています。――でも、恭子様は変ですよね。恭子と呼んでください」
胸を撫で下ろした。「いやぁ、急にそう言われても」と、頭をかきながら。
「じゃ、恭子ッチ、恭子リン、恭子ちゃんの中から選んでください。あッ、きっ子でもいいですよ。恭子ヤンは嫌ですけど」
屈託のない笑い顔だった。だが『きっ子』という名を聞いて動揺した。
御印を渡した時は覚えていたが、玄明様と同じように……
「小さい頃、父から『きっ子』って呼ばれていたんです。でも、私はきっ子ちゃんみたいに可愛くないから没ですね」
張り裂けそうになった胸を、また撫で下ろした。「じゃ、恭子ちゃんで」と、照れるように言った。
「私も蒼ちゃんでいいですか」
「はい。――ん?」
恭子様は足を止めた。
俯いて「――蒼太さん」と、口にした。
どうしたのだろうと思いながら次の言葉を待つと、恭子様は静かにお腹へと手をあてがった。
「この子は、光浩様から授かりました。――ですが、お父さんは蒼太さんになって欲しいと、そう思っています。すごく勝手なことを言っています。ごめんなさい」
「私も、そうしたいと思っています」
「本当にごめんなさい」
「そんなことはありません。ずっと一緒にいれたらと―― ずっと、そう思っていましたから」
「ありがとうございます。とても、とっても嬉しいです」
恭子様は涙目にホッとした顔で返した。そして、その顔を空へと向けた。
思わず、息を呑んだ。
五年前と変わらない横顔―― その見上げる瞳にはまほろばの丘と同じ空を、晴れ渡って蒼く澄んだ空を映している。
「――蒼太さん。『いつか、あの丘で』待ち侘びているきっ子ちゃんを、この子が、あの時の私のように抱きしめてくれるって、そう思うんです」
涙が零れぬよう、空を見上げた。
「女の子なんですね」
「はい、きっ子ちゃんがお嫁さんにしたくなるような、とっても可愛い女の子です」
「鬼子様のお嫁さんになるのかぁ。じゃ、頑張ってお父さんをやらないといけないですね」
「はいッ、お願いします」
笑った恭子様の目は、溢れんばかりの涙で一杯になっていた。
慌ただしく仙台と東京を行き来し、恭子様のお腹が目立ち始めた頃に仙台のアパートを引き払って都内へ越した。
仙台にいた頃に「この子に名前を付けて欲しい」と言われ、光浩様が月を愛でるお姿を思い浮かべて
都内に越して数日が経ち、最後の荷物を押入れの上棚になんとか押し込んだ。
「これで、やっと落ち着く」
肩の荷を下ろすかのようにソファーに腰を下ろすと、隣の恭子様が大きくなったお腹に手をあてがった。
茶目っ気気味に美月に話しかける。
「とっても素敵なお名前だけど、どうしてパパは美月とつけたんでしょうね。昔、お付き合いした彼女さんとデートした時のこと思い出しちゃったりしたのかなぁ。彼女さんが綺麗なお月様を見上げる顔を思い出してつけちゃったのかな? ね、美月ちゃん」