四十 一本桜の咲く丘
文字数 1,773文字
車両は走り始めたときと同じように気付かないうちに停車していた。
待合室は雫石と同じつくりで喫煙コーナーは見当たらず、ろくに吸えていないタバコを吸おうと早々にエレベータへ乗り込んだ。
地上に着いて扉が開くと、なんとも古めかしい廊下とトイレの入口が見えた。
エレベータを降りて廊下の角を恐る恐る曲がって行くと「何、これ……」と呆気にとられた。そこはタイムスリップしたのではないかと思わせる空間で昭和初期の田舎町にある駅舎そのものだった。目に映る殆どの物が木製である。
出て来たところは駅舎の入り口付近にある売店の脇で既に改札を出た風であり、そのまま恐る恐るといった体で駅舎を出た。
「この駅舎は憩いの場所的なところなんだろう。外には立派な施設が……」
目が点になった。
駅舎と変わらぬ昭和初期の風景が広がっていた。近代的な建物等どこをどう見回しても無い。バスがギリギリ回れるほどの広場とバス停、県道らしき道の向こうに古びた食堂と数件の民家が点在しているだけである。唖然と立ち竦む私の前、濃い緑色のボンネットトラックが伐採したての木を溢れんばかりに積んで通り過ぎて行く――
「あれって、昔の六輪駆動だよなぁ…… ま、何はともあれ先ずは一服だ」と、タバコが吸える場所を探した。
しかし、見渡す限りではそれらしきところは無い。「しょうがない、戻って訊いてみるか」そう言って振り返ると、駅舎から少し腰の曲がった老婆が出て来るのが見えた。
「きっと、あれだな。親父が言ってたモンペって」
昭和の作業用ボトムスに感動しながら傍まで行って「すみません。近くに喫煙所はありませんか」と訊いた。
が、老婆は何も言わない。ただキョトンと見上げている。
聞こえてない? 私もキョトンと見返した。
少しの沈黙を置いて「そうかいそうかい。初めてかい、ここは」と、いかにも親切心に火が付いたかのように老婆が返してくる。
「駅向こうの一本桜の下がいいよ。葉桜になり始めたけど、あの下での一服が気持ちいいんだと。死んだ爺様もいつもあそこだった。そうそう、これを持って行きなさい」
と言って、手に持っていたビン入りのコーヒー牛乳を渡してくる。申し訳ないので結構だと断ったが、年寄りは駅の売店でただでもらえるからと無理やり手に持たされた。
「そこの線路を渡れば一本桜はすぐに見えるから。吸い殻はビンに入れときゃいいよ」
駅舎に引き返す老婆の後ろ姿を見ながら「なんか、いきなり畳み込んできたなぁ」と頭をかいた。手にしたビンを持ち上げて「コーヒー牛乳もらっちゃったしなぁ」と渋々といった体で歩き出し、駅を迂回するようにして線路内に足を踏み入れた。
生まれて初めて線路を渡った。
轢かれた枕木の匂い、盛土のように敷き詰められた石の数に一々感動し、これだけあっても星の数のほうが多いんだろうか…… そう呟きながら渡った。
「いやいや、世界中の砂粒を全て集めても星の数には遠く及ばない。それどころか、宇宙の数にさえ遠く――」
口を噤んだ。
線路の中で立ち竦んだ。
恐る恐る振り返ったが、周りには誰もいない。
今のは、俺が……
ま、殆ど寝てない。どうかしてても、しょうがないか――
渡った先には芝の手入れがいき届いたかなり広い場所があり、その広場の向こう端に一本だけポツンと桜の樹が立っていた。
近づいて行くと、遠目で見るよりも一回り以上大きくて「でかいなぁ」と見上げた。
今まで見た桜の中で一番立派だった。
見渡せば駅や集落自体が小高い丘の上にあり、その丘の南の端に一本桜はある。丘の北側は裾野になっていて手前に小さな里と県道を挟んで駅が、西には小高い山とその手前に小さな社が見える。東には少しの距離を置いて同じく小高い山があり、その裾野を回り込むように線路が続いている。一本桜の下をくぐれば丘の端になり、そこから見下ろす青々とした草原はゆるやかに下って遠くで吸い込まれるように森に消えていく。
「どこかで見たことある気がするなぁ。――それにしても、いいところだ。季節もいいし最高だなぁ」
蒼く晴れ渡った空を見上げ、ふと研究所のバルコニーを思い出した。
「あの女童はなんだったんだろう。凄く懐かしい感じだった。しかし、昨日といい今日といい、なんか疲れた。ここで寝てたら、お姉は俺のこと見つけてくれるんだろうか」
待合室は雫石と同じつくりで喫煙コーナーは見当たらず、ろくに吸えていないタバコを吸おうと早々にエレベータへ乗り込んだ。
地上に着いて扉が開くと、なんとも古めかしい廊下とトイレの入口が見えた。
エレベータを降りて廊下の角を恐る恐る曲がって行くと「何、これ……」と呆気にとられた。そこはタイムスリップしたのではないかと思わせる空間で昭和初期の田舎町にある駅舎そのものだった。目に映る殆どの物が木製である。
出て来たところは駅舎の入り口付近にある売店の脇で既に改札を出た風であり、そのまま恐る恐るといった体で駅舎を出た。
「この駅舎は憩いの場所的なところなんだろう。外には立派な施設が……」
目が点になった。
駅舎と変わらぬ昭和初期の風景が広がっていた。近代的な建物等どこをどう見回しても無い。バスがギリギリ回れるほどの広場とバス停、県道らしき道の向こうに古びた食堂と数件の民家が点在しているだけである。唖然と立ち竦む私の前、濃い緑色のボンネットトラックが伐採したての木を溢れんばかりに積んで通り過ぎて行く――
「あれって、昔の六輪駆動だよなぁ…… ま、何はともあれ先ずは一服だ」と、タバコが吸える場所を探した。
しかし、見渡す限りではそれらしきところは無い。「しょうがない、戻って訊いてみるか」そう言って振り返ると、駅舎から少し腰の曲がった老婆が出て来るのが見えた。
「きっと、あれだな。親父が言ってたモンペって」
昭和の作業用ボトムスに感動しながら傍まで行って「すみません。近くに喫煙所はありませんか」と訊いた。
が、老婆は何も言わない。ただキョトンと見上げている。
聞こえてない? 私もキョトンと見返した。
少しの沈黙を置いて「そうかいそうかい。初めてかい、ここは」と、いかにも親切心に火が付いたかのように老婆が返してくる。
「駅向こうの一本桜の下がいいよ。葉桜になり始めたけど、あの下での一服が気持ちいいんだと。死んだ爺様もいつもあそこだった。そうそう、これを持って行きなさい」
と言って、手に持っていたビン入りのコーヒー牛乳を渡してくる。申し訳ないので結構だと断ったが、年寄りは駅の売店でただでもらえるからと無理やり手に持たされた。
「そこの線路を渡れば一本桜はすぐに見えるから。吸い殻はビンに入れときゃいいよ」
駅舎に引き返す老婆の後ろ姿を見ながら「なんか、いきなり畳み込んできたなぁ」と頭をかいた。手にしたビンを持ち上げて「コーヒー牛乳もらっちゃったしなぁ」と渋々といった体で歩き出し、駅を迂回するようにして線路内に足を踏み入れた。
生まれて初めて線路を渡った。
轢かれた枕木の匂い、盛土のように敷き詰められた石の数に一々感動し、これだけあっても星の数のほうが多いんだろうか…… そう呟きながら渡った。
「いやいや、世界中の砂粒を全て集めても星の数には遠く及ばない。それどころか、宇宙の数にさえ遠く――」
口を噤んだ。
線路の中で立ち竦んだ。
恐る恐る振り返ったが、周りには誰もいない。
今のは、俺が……
ま、殆ど寝てない。どうかしてても、しょうがないか――
渡った先には芝の手入れがいき届いたかなり広い場所があり、その広場の向こう端に一本だけポツンと桜の樹が立っていた。
近づいて行くと、遠目で見るよりも一回り以上大きくて「でかいなぁ」と見上げた。
今まで見た桜の中で一番立派だった。
見渡せば駅や集落自体が小高い丘の上にあり、その丘の南の端に一本桜はある。丘の北側は裾野になっていて手前に小さな里と県道を挟んで駅が、西には小高い山とその手前に小さな社が見える。東には少しの距離を置いて同じく小高い山があり、その裾野を回り込むように線路が続いている。一本桜の下をくぐれば丘の端になり、そこから見下ろす青々とした草原はゆるやかに下って遠くで吸い込まれるように森に消えていく。
「どこかで見たことある気がするなぁ。――それにしても、いいところだ。季節もいいし最高だなぁ」
蒼く晴れ渡った空を見上げ、ふと研究所のバルコニーを思い出した。
「あの女童はなんだったんだろう。凄く懐かしい感じだった。しかし、昨日といい今日といい、なんか疲れた。ここで寝てたら、お姉は俺のこと見つけてくれるんだろうか」