九 女狐たち
文字数 3,027文字
一週間後、恭子様と下宿先の叔母様一家は飯能に引っ越した。
叔母様は恭子様のお母様の妹で、仙台の実家が閑静なところにあったことから実家に似かよったところに引っ越そうと数年前から家を探し、今年の初めに同じ埼玉の秩父寄りにある飯能というところに家を買った。引っ越しは手を回して御厨系列の業者に格安で請け負わせ、アルバイトとして方太を潜り込ませた。
引っ越した先は閑静な住宅地で、周りには警察署や市役所があり「少しは安心できそうだなぁ」と胸を撫で下ろした。ただ、駅からは結構な距離があり、方太の報告では通学用の自転車を買ったとのことだった。
「自転車か、俺等も今日中に買わないとなぁ。しかし、紅姉の奴遅いなぁ」
――「さっきから後ろにいるって」
慌てて振り返った。
「だから、もう、それやめてくれよ」
「何言ってんだ。この程度の気配を感じ取れなくて、どうやって恭子様を守るんだ」
「はいはい、ごもっともです」
四日前、恭子様の家の近くにある一軒家にかたちばかりの引っ越しをした。そして、二日前に原付スクーターを盗まれたと管轄の東飯能署に被害届を出した。それは、恭子様を守る上で重要となる警察に探りを入れるためで、署内に半妖がいるかどうかを視ようと紅姉に応援を要請していた。
署内に入ると受付で事情を話し、担当窓口に向かう間にトイレに行く振りをして署内を視て回った。
「どうだった?」
一足先に担当窓口の長椅子に座り、一回りしてきた紅姉に問いかけた。
「いやはや想像以上だな。十人に一匹はいるだろうと思ってたけど三匹以上はいるぞ。狸だらけだよ、ここは」
「だよなぁ、きっと方太でも分かると思うよ。で、驚いたことに狐も一匹いた」
「ホントか」
「まだ、二十代の若い男に化けてた。なんとかこっちに引き込めないかな」
「おそらく狸たちとは通じてないだろうから可能性はあるな」
何も返さずに紅姉の顔を見ていた。
「俺のハニートラップ、期待してるのか」
頷いた。
「無理無理、それは無理だわ」
「だろうなぁ『俺のハニートラップ』って言ってるようじゃ」
「俺って、言った?」
二人が窓口で順番を待っていると「高清水署長、お早うございます」と言う声が聞こえてきた。高清水と呼ばれた男は五十代後半の中肉中背で、いかにも人の良さそうな狸的風貌をしていた。
「あららら、半妖もどきだわ」
「ああ、あれなら俺でも分かる。どうしようもないぐらいの古狸だ」
「そうか、高清水っていったらここら辺りの化け狸共の総元締めだ。狸だらけなはずだよ」
紅姉は呆れ顔に言った。
「あの半妖の仲間かなぁ」
「五分五分って、ところだな」
「そうだ。大姉 ちゃん呼んであの化け狐を落としてもらうか」
「ね、姉様はダメだよ、あんな小物なら緑でいいって」
紅姉はあたふたと返した。
怖い物知らずの紅姉だったが、大姉ちゃんこと長女の東野桜 姉ちゃんだけは怖いのだ。さっきまでの威勢の良さは消え、俯いたまま何かにおびえるように考え込み始めている。
長女の桜姉ちゃんは紅姉と違いおっとりした性格をしている。幼い頃、そんな大姉ちゃんを紅姉は甘く見ていた。まるで、自分の子分かのように好き勝手を言っていた。だが、ある時紅姉のなんでもない一言に大姉ちゃんは突然切れてしまい、紅姉はボコボコにされてしまったのだ。その時の余りにも違いすぎる大姉ちゃんの顔の変化がトラウマになっている。いまだに、目を閉じればその変わりゆく様が動画を観るかのように生々しく甦っているのだ。
で、その大姉ちゃんを異常なまでに駆り立てた一言をいまだ紅姉は知らず、それ以来薄氷を踏むかのようにしてその一言を探っている。
が、今もって見当すらついていない。
「なんだよ、まだ『その一言』が分かんないのかよ」
「ああ。……え? な、なんで、お前がそれ知ってんの」
我に返ったように紅姉が返してくる。
「母さんが教えてくれた。『それ以来、桜が怖いのよ』って母さんも言ってた」
「あぁぁぁ、やだやだ。あの顔の変化を思い出しただけでちんちんが縮み上がる」
「って、ついてないだろうが!」と、いつもの突っ込みを入れた。
不安気に続けた。
「でも、緑姉は苦手だな。人のことなんて我関せずだしさぁ」
「方太が頼めば飛んでくるよ、緑は」
三女の西野緑 姉ちゃんは、どちらかというと大姉ちゃんに似ている。だが、人当たりの良い大姉ちゃんと違い物静かすぎて反応がない。話しかけなければハシビロコウのようにただじっとしている。話しかけても、ほとんどは見返すだけで何も言わない。他人はおろか姉弟への干渉もない。ただ、そんな緑姉ではあったが末っ子の方太だけには異常に反応し、方太のためとなると我が子かのように世話を焼く。
「蒼太、なんで緑が方太のことだけあんなにかまうか知ってるか?」
トラウマに引きつった顔は、すでに怪しげな笑みを浮かべていた。
嫌らしく目を細めている。
「ウマが合うんだろ」
「違うんだなぁ……」
やっぱ、いつもの陰口か――
「俺、じゃなくて、あたしは見たんだよ。方太が生まれた時、母さんの目を盗んで乳あげてんの」
「ちょこっと、まねっこしただけだろ」
「母さんの目を盗んで毎日やってた。母さん言ってたろ『この子は乳の飲みが足りない、大丈夫かしら』って」
「ああ、確かそんなこと言ってたなぁ。……えッ、緑姉、乳が出たってことか! 子も産んでないのに」
「声がでかい」紅姉は周りを見回した。
そして、耳打ちするかのように続けた。
「あたしは出なかった。――じゃなくて、そんなことしてないけど、きっと緑は出たんだよ。だから、方太が可愛くてしょうがないんだ」
「あのねェ、そんな馬鹿なことがあるかよ。緑姉だって、まだ子供だったろうが」
「アイツはちっちゃい頃からマセてたんだよ」
「ホントかよ」
「あのなぁ、あたし等格好は人だけど元は獣だぞ。乳飲み子の、あの匂いを嗅いだら出ちゃうんだ」
「そ、そうなのか」
そう返すも、
まったく、出るわけないだろうが、何やってんだ女共は! と、失いかけた正気を取り戻した。
が、紅姉は続ける。
「母さんは姉様疑ってたけど、絶対緑だよ。まちがいない。――お前には分かんないだろうが、母親ってけっこう大変なんだ。生まれたてはおしっこだって出せないから舐めて出してやるんだ」
「そ、そうなのか! もしかして、うんちも」
「ば、馬鹿、そんなことできるか。出てきたら大変だろうが。あたしは吸ってみただけだ」
――ど、どっちを吸ったんだ?
が、失いかけた正気を、再度取り戻す。
目を細め返し、そろそろいいかと話を切り上げる。
「マセてたって言うけど、紅姉と違ってその母性本能が仕事に活きてんじゃないのか」と――
「え、……」
紅姉は僅かに視線を落とした。一点をじっと見つめるようにして考え込み始める。
マセ方の違い…… 母性本能…… それが成功率の違いになってるってこと? そう考えていることが手に取るように分かる。おそらく、私が生まれてすぐに引き取られ「せっかく男の子が生まれたのに」と、ブツブツ言いながら鬼子様のお屋敷に足を運んでいた自分を思い出しているのだ。
ふと、正面に座っていた五十代後半の親父に目を向けると、何かを誇示するかのように徐ろに足を広げた。腕を組んで胸を張った。
向き直ると、やはりである。――紅姉が、真剣な眼差しを一点に集中させていた。ジーッと光線を、これでもか! といわんばかりに股間に当てている。
斜めに、俯いた――
叔母様は恭子様のお母様の妹で、仙台の実家が閑静なところにあったことから実家に似かよったところに引っ越そうと数年前から家を探し、今年の初めに同じ埼玉の秩父寄りにある飯能というところに家を買った。引っ越しは手を回して御厨系列の業者に格安で請け負わせ、アルバイトとして方太を潜り込ませた。
引っ越した先は閑静な住宅地で、周りには警察署や市役所があり「少しは安心できそうだなぁ」と胸を撫で下ろした。ただ、駅からは結構な距離があり、方太の報告では通学用の自転車を買ったとのことだった。
「自転車か、俺等も今日中に買わないとなぁ。しかし、紅姉の奴遅いなぁ」
――「さっきから後ろにいるって」
慌てて振り返った。
「だから、もう、それやめてくれよ」
「何言ってんだ。この程度の気配を感じ取れなくて、どうやって恭子様を守るんだ」
「はいはい、ごもっともです」
四日前、恭子様の家の近くにある一軒家にかたちばかりの引っ越しをした。そして、二日前に原付スクーターを盗まれたと管轄の東飯能署に被害届を出した。それは、恭子様を守る上で重要となる警察に探りを入れるためで、署内に半妖がいるかどうかを視ようと紅姉に応援を要請していた。
署内に入ると受付で事情を話し、担当窓口に向かう間にトイレに行く振りをして署内を視て回った。
「どうだった?」
一足先に担当窓口の長椅子に座り、一回りしてきた紅姉に問いかけた。
「いやはや想像以上だな。十人に一匹はいるだろうと思ってたけど三匹以上はいるぞ。狸だらけだよ、ここは」
「だよなぁ、きっと方太でも分かると思うよ。で、驚いたことに狐も一匹いた」
「ホントか」
「まだ、二十代の若い男に化けてた。なんとかこっちに引き込めないかな」
「おそらく狸たちとは通じてないだろうから可能性はあるな」
何も返さずに紅姉の顔を見ていた。
「俺のハニートラップ、期待してるのか」
頷いた。
「無理無理、それは無理だわ」
「だろうなぁ『俺のハニートラップ』って言ってるようじゃ」
「俺って、言った?」
二人が窓口で順番を待っていると「高清水署長、お早うございます」と言う声が聞こえてきた。高清水と呼ばれた男は五十代後半の中肉中背で、いかにも人の良さそうな狸的風貌をしていた。
「あららら、半妖もどきだわ」
「ああ、あれなら俺でも分かる。どうしようもないぐらいの古狸だ」
「そうか、高清水っていったらここら辺りの化け狸共の総元締めだ。狸だらけなはずだよ」
紅姉は呆れ顔に言った。
「あの半妖の仲間かなぁ」
「五分五分って、ところだな」
「そうだ。
「ね、姉様はダメだよ、あんな小物なら緑でいいって」
紅姉はあたふたと返した。
怖い物知らずの紅姉だったが、大姉ちゃんこと長女の
長女の桜姉ちゃんは紅姉と違いおっとりした性格をしている。幼い頃、そんな大姉ちゃんを紅姉は甘く見ていた。まるで、自分の子分かのように好き勝手を言っていた。だが、ある時紅姉のなんでもない一言に大姉ちゃんは突然切れてしまい、紅姉はボコボコにされてしまったのだ。その時の余りにも違いすぎる大姉ちゃんの顔の変化がトラウマになっている。いまだに、目を閉じればその変わりゆく様が動画を観るかのように生々しく甦っているのだ。
で、その大姉ちゃんを異常なまでに駆り立てた一言をいまだ紅姉は知らず、それ以来薄氷を踏むかのようにしてその一言を探っている。
が、今もって見当すらついていない。
「なんだよ、まだ『その一言』が分かんないのかよ」
「ああ。……え? な、なんで、お前がそれ知ってんの」
我に返ったように紅姉が返してくる。
「母さんが教えてくれた。『それ以来、桜が怖いのよ』って母さんも言ってた」
「あぁぁぁ、やだやだ。あの顔の変化を思い出しただけでちんちんが縮み上がる」
「って、ついてないだろうが!」と、いつもの突っ込みを入れた。
不安気に続けた。
「でも、緑姉は苦手だな。人のことなんて我関せずだしさぁ」
「方太が頼めば飛んでくるよ、緑は」
三女の
「蒼太、なんで緑が方太のことだけあんなにかまうか知ってるか?」
トラウマに引きつった顔は、すでに怪しげな笑みを浮かべていた。
嫌らしく目を細めている。
「ウマが合うんだろ」
「違うんだなぁ……」
やっぱ、いつもの陰口か――
「俺、じゃなくて、あたしは見たんだよ。方太が生まれた時、母さんの目を盗んで乳あげてんの」
「ちょこっと、まねっこしただけだろ」
「母さんの目を盗んで毎日やってた。母さん言ってたろ『この子は乳の飲みが足りない、大丈夫かしら』って」
「ああ、確かそんなこと言ってたなぁ。……えッ、緑姉、乳が出たってことか! 子も産んでないのに」
「声がでかい」紅姉は周りを見回した。
そして、耳打ちするかのように続けた。
「あたしは出なかった。――じゃなくて、そんなことしてないけど、きっと緑は出たんだよ。だから、方太が可愛くてしょうがないんだ」
「あのねェ、そんな馬鹿なことがあるかよ。緑姉だって、まだ子供だったろうが」
「アイツはちっちゃい頃からマセてたんだよ」
「ホントかよ」
「あのなぁ、あたし等格好は人だけど元は獣だぞ。乳飲み子の、あの匂いを嗅いだら出ちゃうんだ」
「そ、そうなのか」
そう返すも、
まったく、出るわけないだろうが、何やってんだ女共は! と、失いかけた正気を取り戻した。
が、紅姉は続ける。
「母さんは姉様疑ってたけど、絶対緑だよ。まちがいない。――お前には分かんないだろうが、母親ってけっこう大変なんだ。生まれたてはおしっこだって出せないから舐めて出してやるんだ」
「そ、そうなのか! もしかして、うんちも」
「ば、馬鹿、そんなことできるか。出てきたら大変だろうが。あたしは吸ってみただけだ」
――ど、どっちを吸ったんだ?
が、失いかけた正気を、再度取り戻す。
目を細め返し、そろそろいいかと話を切り上げる。
「マセてたって言うけど、紅姉と違ってその母性本能が仕事に活きてんじゃないのか」と――
「え、……」
紅姉は僅かに視線を落とした。一点をじっと見つめるようにして考え込み始める。
マセ方の違い…… 母性本能…… それが成功率の違いになってるってこと? そう考えていることが手に取るように分かる。おそらく、私が生まれてすぐに引き取られ「せっかく男の子が生まれたのに」と、ブツブツ言いながら鬼子様のお屋敷に足を運んでいた自分を思い出しているのだ。
ふと、正面に座っていた五十代後半の親父に目を向けると、何かを誇示するかのように徐ろに足を広げた。腕を組んで胸を張った。
向き直ると、やはりである。――紅姉が、真剣な眼差しを一点に集中させていた。ジーッと光線を、これでもか! といわんばかりに股間に当てている。
斜めに、俯いた――