四十五 白狼、佳卓を欺こうとする

文字数 6,098文字

 連日続くうだるような暑さの中、蝉しぐれもいい加減聞き飽きたとうんざりしていた午後、佳卓(かたく)が来るという連絡が竹の宮にもたらされた 。

 姫君が簀子(すのこ)高欄(こうらん)の傍、(ひさし)の中の女房には聞こえないほど小さな声で白狼に話す。

「佳卓は時折挨拶に来ますが、いつもならその日のうちに竹の宮を出ます。泊まったことはありません。なのに今回は一晩ここで過ごしたいと言っています」

 白狼は特に気に留めない。

「へえ……。俺とあいつは友というほど大した仲ではないが、一応あいつは俺のことを買ってはくれているようだから。久しぶりに酒を酌み交わして話をしたいんだろう」

「佳卓にとって白狼が良き友人なのは私もそう思います。ただ……」

 ああ、と白狼は姫君を遮った。別に話の腰を折るつもりはなく、姫君も同じことを気に掛けていると思ったからだった。

「そうだな。佳卓が泊まりに来るなら、あんたの『寝かしつけ』をどうするかだな」

「佳卓の来る夜は、わたくし一人で眠ります」

「何……?」

「白狼をいつも通りに寝殿に上げてしまうと、あらぬ誤解を招きます。しきたりでは、白狼のような男を殿上に侍らすことは……あってはならないことなのです。ましてや、わたくしは白狼に身体を預けている。それが人に知れれば……」

 白狼は眉を(ひそ)める。

「俺は……俺に(やま)しい気持ちなんかない」

「ええ、分かっています。けれども初めて目にした者は驚くでしょう。それに……」

「それに?」

 姫君は邸内にいる女房達に聞かれぬようさらに声を潜めた。

「わたくしたちのことが既に女房から外に伝わってしまっているかもしれません。人の口に戸は立てられぬものです。もし、佳卓がそれを耳にしていたら、私たちが二人でいる様子を見て、やはり噂は本当であったかと思うでしょう」

 白狼は苛立たし気に声を荒げる。

「だから俺は何も!」

「ええ、もちろんです。ですが、白狼に要らぬ疑いが掛かるような事態は避けねばなりません。佳卓が来る日は、わたくし一人で眠ります」

「だが……」

「佳卓は近衛大将であり朝廷の重臣です。帝の御代が変わり新しい東宮が京の外から迎えられたばかりで落ち着かぬ頃でしょうに、わざわざこんな竹林の中に泊りがけで来るのは……少し妙です。佳卓の用向きは実は私たちの様子を探りに来ることではないでしょうか」

 白狼は胸の中を何か重いものが落ちて行くような気がした。自分とこの女に何かあるとなると、佳卓は白狼をここの護衛から罷免しなくてはならなくなる。その上、右大将の趙元ともども白狼の上官として非難を浴びることになるだろう。

 今はまだこの女のもとを離れたくないし、佳卓に何の迷惑もかけたくない。だから、少なくとも今は佳卓に何も気づかれてはならない。となると……。

 姫君が先ほどの言葉を繰り返す。

「わたくし一人で眠ります」

「……だが……」

 白狼の中の迷いを見透かしたように、姫君は別の理由も挙げた。

「わたくしたちがどう見られるかだけでなく……。わたくしも一人で眠れないか頑張ってみたいのです。以前ほど夜は怖くなくなりましたから」

「……」

「いつまでも白狼を頼りにしているわけにはいきません。わたくしも自分で眠れるようにならなければ」

「そうか……。分かった」

 彼は少し時機が早い気もしたが、本人が頑張りたいと言っているのに水を差すべきでもないと考えた。

 佳卓が来たその日、白狼は本来の身分に相応しく庭の地面にいた。寝殿の正面の(きざはし)の下に膝をついていると、床の上を佳卓が女房に案内されて歩いて来る。

「やあ、白狼」

 佳卓は白狼を見て殿上からいつも通りに声を掛け、白狼は顔を上げて応じた。だが……佳卓の視線にはどこか自分を探るような気配があるように感じる。

 ──佳卓が何か変だ……。あの女の心配は当たっているのだろうか。

 邸内に通された佳卓の折り目正しい口調が、庭に(ひざまず)く白狼の耳にも聞こえてきた。

「先日は近衛の舎人がとんでもない不始末をいたしましたこと。深くお詫び申し上げる」

 あの猥談男が姫君を襲ったあの事件をまず謝罪し、そしてその後のご様子を伺う。

「あれから姫君に置かれましてはお心安んじてお過ごしでしょうか?」

 自然な話の流れであるはずなのに、佳卓の声にはどこか含むところがあるように感じられる。気のせいだろうか。それとも……。

 姫君が佳卓に声をかけた。近衛大将である貴公子ゆえ、御簾越しとはいえ直々に会話する。

「恐ろしい思いもしましたが、他の近衛舎人に助けられています。頼もしい従者ですから、その者の任期は、わたくしの方で決めたく思っています」

 姫君は白狼の名を出さないが、自分が望む間は彼を手元に置きたいとはっきり主張した。

「……分かりました」

 佳卓が一瞬とはいえ言葉に詰まった。白狼はそれも気にかかる。頭が切れる佳卓にしては珍しいことだ。

「姫君におかれては白狼をお気に召されましたか?」

「ええ……。佳卓も知ってのとおり、彼は私を襲った男を捕らえてくれましたから」

 佳卓は「ですが……」続けた。その声が常になく固い。

「白狼はとても優秀な武人です。そのような人材は宮城の近衛府でも必要とするもの。私の判断で呼び戻さざるを得ないことがあることもどうかお含みおきいただきたく」

「……」

 姫君は無言のままだ。彼女もまた佳卓の言動の何かを警戒しているようだった。

 佳卓は涼やかな声で話の流れを変える。

「白狼は、なかなか面白い男でございましょう?」

「……」

「姫君の元に置く間、私も白狼と酒を酌み交わす機会もございません。今夜は私の相手を務めさせてもよろしゅうございましょうや?」

 そう問われた姫君は「よろしいでしょう。酒肴の用意はしてあります」と受けた。

 東の対の南廂に佳卓の寝所が整えられる。姫君が過ごす寝殿からは東南の、最も距離の離れた場所だ。

 廂の更に外側の簀子に酒肴が並べられ、その席に佳卓が白狼を招く。白狼が差し向かいに腰を下ろすやいなや、佳卓が単刀直入に問いかけた。

「さて……何がどうなっているんだね?」

 こう訊かれてしまっては、もはや佳卓の竹の宮訪問が単なる姫宮の様子伺いではないことは明らかだ。

 女房達から何らかの噂が漏れ出てしまい、佳卓もそれを耳にしたからここに来たのだろう。心の中にヒヤリとしたものが落ちて行くのを感じながら、白狼もまた簡潔に問い返す。

「何がどう伝わっているんだ?」

 白狼はゆっくりと酒の瓶を引き寄せて盃に注ぎながら、自分に「落ち着け」と言い聞かせた。
 あの女と自分には何もない。醜聞になるような関係でもなく、ゆえに、自分たちを引き裂く理由も佳卓が困ることもないはずだ。

 己の心の内に疼くものがあるのは確かだが、そんなものは自分一人の胸の内に秘めておく。あの女が十分に一人でやっていけるようになったら早々にここを離れるつもりだが、今はまだ早い。

「お前と姫君が男女の仲だという話になっている。御帳台(みちょうだい)の中ではないものの、廂で抱き合っているという話だが?」

「中途半端に事実だな」

 佳卓は盃に伸ばしかけた手を止めた。

「おいおい、抱き合っているのかい?」

「意味が違う。寝付けない子供をあやしているだけだ」

「それは姫君のことか? 姫君はすでに成人された女君だぞ?」

「年齢は関係ない。あの女は眠るのに人の手が必要だ」

 男女の醜聞の有無を懸念してここに来た佳卓は、白狼の説明にやや戸惑った様子でいる。

「そうは言ってもね……。妙齢の男女がそうも(むつ)ましいのに何もないとは、納得する方に説明が要る」

 白狼は佳卓の目の前に置かれた膳から何かをつまむ振りをして、佳卓に顔を寄せ小声で囁いた。

「女房達を下がらせてくれ。あんたと二人きりで話がしたい」

 自分とあの女が男女の仲ということはない。それ相応の理由があってのことだ。佳卓ならきっとわかってくれるはずだ。

 佳卓は「承知した」と小声で短く言った後、盃を手に取り口にあてつつ、女房に聞えよがしに朗々とした声を出す。

「この間右大将と揉めてね。私としては自分の左近衛に白狼を迎えたいが、右大将が『うん』と言わない。お前が左近衛に転属したいと願い出てくれれば右大将も折れるかもしれん。今日はお前を口説きに来たんだよ」

 そう言い終わると、佳卓は女房に向かってそつのない笑みを浮かべた。

「ここの美しい女君達に会えるのも竹の宮での楽しみなのだがね。ただ、ここからは人事(じんじ)の話だ。残念だが席を外してもらえるかね? 済まないね」

 左大臣家の貴公子にそう言われて切り返すほど才長けた女房はおらず、彼女達は微妙な顔のまま一礼だけして立ち去って行った。

 彼女達が姿を消すのを見届けた後、白狼が苦々しげに吐き捨てた。

「ここの女房連中は別に美しくもないし性根だって醜い。女主公にきちんと仕えない」

「まあ、どんな女君でも『美しい』と褒めとけば無難なものだよ」という佳卓の軽口をさっさと無視して、白狼はここの女房達が姫君にしてきた仕打ちを語る。

「あの女は未だ過去に襲われた恐怖が抜けきっていない。その記憶が蘇ると錯乱してしまうんだ。そして、あの女が暴れるたびに、ここの女房は彼女を牢に繋いできた」

 佳卓が盃を口に運ぶ手を止め、眉間に皺を寄せて聞き返してきた。

「何だって? ロウに繋ぐ……? ロウとは……牢獄の牢か? 人を閉じ込めるための……」

「そうだ。母屋(もや)塗籠(ぬりこめ)に格子戸をつけて牢獄としている」

「……」

 佳卓は手を下ろしたきり暫く呆けたように絶句する。物事に動じない彼にとっても、さすがにこれは驚きであるに違いなかった。

「俺がここに来た日、下衆野郎に襲われたあの女は走り回って逃げた。逃げたのは、あの男からだけじゃない。女房達の姿を見ると彼女達からも逃げた。そこであの女を俺が取り押さえたんだ。しかも、あの男がきっかけになって、過去の事件の記憶も蘇ってしまい、暫く泣きわめきながら外に走り出る日が続いた……」

「走り回る? 女君が……? 竹の宮の姫君ほど高貴な御方がご自分の足で……?」

 そんなところに驚くのを白狼は奇妙に思うが、貴族の男には考えられないことなのだろう。

「別に誰だろうと自分の足で走って逃げればいいと思うが。そして、捕まえられる奴が必要に応じて捕まえてやればいい。ここの女房達には出来ないが、俺にはあの女がどこに走ろうと抱き留めてやることが出来る。だから、塗籠の牢を使う代わりに、俺をあの女の傍に置くことにしたんだ」

「近衛府は、そんな話など全く聞いていない……」

 細かく首を振る佳卓に、白狼は肩を竦めて応じた。

「女房達は内侍司に所属してるんだろ。その内侍司に知られたくないんじゃないか。あの女が言っていたが、女房達は『自分たちが誠心誠意お仕えしているから姫君は回復している』ということにしたい。だから、仕えている主公を牢に繋いでいるなど絶対に知られたくない」

 佳卓はふうと息を吐いた。

「なるほど……。それで今まで伏せられてきたのか……。姫君はお気の毒であった……それで今は?」

「俺はこの異形な風貌だ。あの女は俺のことを幻の恐怖を食べてしまう不思議な妖だと思っている。俺の姿があれば落ち着くんだ。……そう、あの女が錯乱するたびに、俺が抱きかかえて背中を叩いて寝かしつけてやっている」

「しかし……」

 白狼は笑って見せた。佳卓が何を言いたいのかは分かる。だが、そんな懸念などない。

「俺は仕事をしているだけだ。賊と戦う武人なら近衛府に掃いて捨てるほどほどいるが、妖として目に見えない恐怖を退治できるなんぞ、俺くらいのものだ。俺にうってつけの仕事だろう?」

「お前がいくら仕事と言い張っても、(はた)から見れば男女の仲が疑われるのは……」

「そんな感情はないっ」

 つい白狼は声を荒げてしまった。佳卓は軽く顎をあげて驚いた顔をしている。
 
──いけない。笑って見せた途端に怒鳴るようでは、自分の心の揺れを佳卓に教えているようなものだ

 白狼は息を深く吸い込んで呼吸を整える。

「あの女は俺が嫌いだ。最初は俺だけ京に戻そうとしたほどだ」

「なぜ? お前はただの近衛舎人の一人だ。竹の宮の姫君のような貴人にとって物の数にも入らない。殿上に籠る姫君と地を這うように過ごす下級衛士とでは接点自体が普通ならばないはず。わざわざお前を嫌うようになった経緯が分からない」

「向こうが俺のこの容貌を遠目から見ても薄気味悪いと嫌がった」

「そうか……」

「それから、俺の口のききかたを無礼だと思ったらしい。俺も器の小さな女だと思った。そう言ったら余計に気分を害したようだ」

 佳卓が呆れたとも安堵したともいえる表情で、頷いた。

「それは容易に想像つくね。目に浮かぶようだ。深窓の姫君なら見慣れないものを遠ざけようとするだろうし、お前も自分に嫌悪感を抱く人間への反発を隠さないからね。さもありなんという話だ」

 あの女が自分を嫌っている事実が佳卓に伝わったようで、白狼は少し息をついた。けれども佳卓はまだ追求する。

「険悪になったことは分かった。だが、それから姫君を牢に繋ぐ代わりにお前が姫君の側に侍り、今では抱き合うほどに親しい……」

「別に親しくはない」

 白狼は佳卓に皆まで言わせなかった。確かに身体を近づけるようになりはしたが、心は近くない。それを佳卓にわかってもらわなくてはならない。

 白狼は意識して冷静な声で説明した。

「あの女が俺を近づけるのは俺を男として見ていないからだ。あの女のこれまでの人生を考えて見ろ。女を欲望のまなざしで見る男なぞ、あいつには恐怖と嫌悪の対象でしかない」

「……」

「あの女は従者の俺に仕事をさせているだけだ。妖の俺に幻の恐怖を食わせてる。あの女は俺が嫌いで、そしてもちろん俺もあの女が嫌いだ。だからあいつは安心できる」

 白狼は付け加えた。

「あの女も言っていた、『お前が私を嫌いなら安心だ』と。俺だって、この風貌を受け入れる度量もない女主公など嫌いだ」

 佳卓は少しの間視線を宙に彷徨わせると、それから小さく頷いた。

「なるほどね……姫君は性を感じさせるような男など確かに汚らわしくお思いだろう。双方で嫌いあってなければ成り立たない仲ではあるわけだ……」

 佳卓は一応納得がいった様子だった。「だいたい事情は分かったよ」と息を吐くと、目の前にある肴に箸を伸ばし、上品な手つきでそれらを口に運び始める。

「私が質問ばかりしていたから、白狼はさっきからあまり食事が進んでいない。腹が空いてるんじゃないか? まあ、この話は終わりだから、もっと食っていいぞ」

「ああ……」

 どうやら佳卓をごまかすことは出来たようだと白狼はほっとする。

 佳卓ほどの慧眼であれば、いずれ白狼の中の邪な欲望に気づくこともあるかもしれない。だが、白狼は今さえ切り抜けられればそれでいい。あの女が一人でやっていけるようになった時には自分は自分でこの竹の宮を去るのだから。

 そうやって二人ともどうということのない雑談をしながら、一口、二口と口に含んだものを噛み締める。白狼はようやく酒や肴の味がするような気がした。

 しかし、その時。
 けたたましい騒ぎ声が夜闇を切り裂いた。

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