四十六 白狼、佳卓に頭を下げる(一)

文字数 7,856文字

 白狼のいる場所から北西にあたる正殿、そこで何か異変が起こっているようだ。

 特段意識を向けるまでもなく、その声の内容が次第に明瞭になる。

「姫宮! お静まりを!」

「誰か! 裾を踏め! 姫宮を取り押さえるのじゃ!」

 その騒々しい物音は庭の空気を震わせて白狼たちの耳に届く。

 白狼は「あの女、南庭に飛び出したのか」と口にすると同時に、何も考えることなく腰を浮かせて駆けだした。
 簀子(すのこ)の角を折れ、走りながら庭に視線を巡らす。

 ここしばらく姫君が邸の外にまで飛び出すほど錯乱することはなかった。彼は心の中で女に問いかける、「どうした? 何が怖かったのだ?」と。

 心の傷は一朝一夕に治りはしない。何かのきっかけであっという間に酷かった時期に戻ってしまう。そう、近衛の猥談男に襲われたことが十年以上前の記憶を毒々しいほど鮮やかに蘇らせてしまったように。 

 おとつい望月を終えたばかりの歪に円い月が雲のない空に煌々と光る。樹木もない南庭の白い砂の上を、女がこちらに走り寄ろうとしていた。紅い唇を引き結んで目に涙をこらえているその表情が、月の明かりでよく見える。

「あんた! 俺はここだ!」

 姫君は確かに白狼の声に一瞬安堵の表情を浮かべた。そのはずだった。しかし、次の瞬間、彼女はくしゃりと顔を歪め、いやいやをするように首を振る。

「……?」

 彼女はばっと身を翻した。池の畔を白狼とは反対方向、西へ走り出ようとする。

「おい、あんた!」

 白狼は階を降りる時間も惜しんで、その場から高欄を踏み越え庭に飛び降りた。そして、池に続く遣り水の浅い流れなど蹴散らして、西の竹林に向かう女を追う。

「危ないだろう!」

 全速力で追いついた彼は、竹藪が目の前に迫った所で彼女の腕を掴んだ。
 地に引きずられた髪や衣の裾を踏めば捕らえることは容易かったかもしれないが、彼は彼女の腕を取ってやりたかった。たとえ、以前のように、その腕を「嫌あ!」と叫んで振り払われることになったとしても。

 竹の宮の姫君は何も言わなかった。白狼に取られた腕をそのままに、足を止めて崩れ落ちる。

「大丈夫か、あんた……」

 白狼も姫君の腕を放して、その傍らに膝をついた。姫宮は両手で顔を覆う。

「ごめんなさい……」

「何を謝る?」

「一人で眠れなかったのです。どうしても怖かった……。せめて今夜は我慢しようと思っていたのに……」

「俺のところに来ればいいだろう。佳卓なら事情を汲んでくれる……」

 ちょうど白狼は佳卓に姫君に「寝かしつけ」が必要だと説いていたところだった。そして、彼女が白狼を近づけるのは彼を男として見てはいないからだとも説明したし、佳卓もそれで納得した。

 その佳卓も白狼の後を追って二人の近くまで来ていた。彼も武人だから地を走ることには慣れている。

「都から客人がある日ぐらい、白狼を頼らずにいなければならないのに……」

 竹林の葉をざわめかせて一陣の風が吹いた。その風が姫君の顔の側の髪も揺らす。

 白狼は姫君を抱き取って立ち上がった。気力が萎えた彼女はなすがままで、その身体はいつも以上に弱々しく、そして軽く感じた。彼は彼女の体をしっかり抱え直すと正殿の方に歩き出した。

 佳卓が、地面に届きそのまま引きずられかけていた姫君の長い髪をすくい上げてついてくる。

 白狼は少し時間をかけて言葉を選んだ。この女には一人で過ごしてみたいという意欲はある。それが上手くいかなくてさぞ気落ちしているだろう。だが、一進一退でも前を向いて走ることが大事なのだ。

 彼女を励ますのに必要な言葉は何度でも、彼女の心身に沁みとおるまで繰り返し伝えなければならない。特に今、このような場面では。たとえ傍で佳卓が聞いていたとしても。

 白狼は腕の中の女君に語りかけた。

「俺に依存するな、とは言う」

「……ごめんなさい」

「違う。あんたを責めているわけじゃない。あんたは俺の主公だろ? あんたは俺を頼っているんじゃない、使っているんだ。当然だ。あんたは俺を雇っている主公なんだから。俺を使いこなせるようになれ。それは依存じゃない」

「……」

「あんたは一人で眠りにつこうと挑んでみた。それはいい。そして、物事は一本調子でよくなるわけじゃない。試してみて上手く行くときも行かないときもある。今日はまだ成功する時じゃなかった。ただそれだけだ。だから今夜は俺を使って眠ればいい」

 彼は笑って見せた。

「走っただろう? 疲れてきっとよく眠れる」

 寝殿から庭の隅まで移動しただけだが、貴族の女には大した運動量だろう。

「私はいつまでこうなのかしら……」

「分からない。だが、前も言ったはずだ。一日走ればそれだけ過去から遠ざかる。いいか、その先に希望があると信じて走れ」

 彼はもう一度笑って「さっきの言葉を取り消す」と言った。

「俺のところに来ればいいと言ったが、それは別にいい。逃げたいところに逃げろ。俺の方があんたに追いついてやるから。何しろ俺はあんたの従者なんだからな」

 姫君はその白く嫋やかな手首をそうっと白狼の逞しい首筋に回す。

「迷惑をかけて済まなく思っています」

「そんな弱々しいことを言うな。迷惑をかけているとしょげて謝るくらいなら、受けている恩は返して見せると意地を張るようにしろ。何も今の俺に返さなくてもいい。だが、いつかは誰かに返すんだと胸を張って毅然としていろ。その気概を持つことが、今のあんたのためになる」

「私のため……」

「ああ、そうだ。しかし、焦りは禁物だ。今日も、俺が飯を食い終わったらあんたの所へ行く。それまでに寝付けそうなら寝ていればいいし、そうでないなら落ち着いて俺が来るのを待ってろ。できるか?」

「ええ……。でも、白狼」

 姫君は白狼の碧い瞳を見つめる。

「なんだ?」

「別に急ぎませんから。ゆっくり食べていらっしゃい」

「ああ、ありがとよ」

 彼らは正殿の前にまで来ていた。姫君を抱きかかえた白狼が階を上ろうとしたところで、白狼の胸元から、さやかな、そして玲瓏(れいろう)とした声がした。

「ありがとう、白狼。もうここからは自分で歩けます」

 白狼が丁寧に姫君を地におろした。姫君は自分の脚で立ち、白狼はその場に跪く。そして、自分の女主公を見上げてにやりと笑んだ。

「しおらしいあんたなんか見たくない。高慢ちきでいろ。そっちの方が似合うから」

 姫君は苦く笑って背筋を伸ばし、「分かりました」という声を残して正殿に向かった。そして、一歩一歩自分一人で階を上って簀子から母屋(もや)の中に消えていく。

 佳卓も姫君の歩みに合わせて持っていた髪をそっと手放した。そして、姫君が歩く姿を不思議なものを見るように目を(すが)めて見つめていた。

 姫君が母屋にまで入るのを見届けてから、白狼は佳卓に振り向く。

「悪かったな、客のあんたをほったらかしで」

 佳卓は静かに首を振って「いや……」と呟き、そして踵を返して東の対へ歩き出した。その後を白狼もついて行く。

 その背中に白狼は説明する。

「聞いていたと思うが。俺は飯を食ったら、あの女の寝かしつけをしなけりゃならん。悪いが、酒はあまり飲めないぞ」

 佳卓は「ん……」と答えたきり、沈黙するばかりだった。

 再び、東の対の南廂で酒肴の膳を挟み、佳卓と白狼の二人は腰を下ろす。佳卓は白狼を見ず、やはり無言で外の庭木の陰に顔を向けていた。

 ややあってから、佳卓は目を瞑り、ふうと長く時間をかけて一息ついた。そして白狼をどこか痛ましげに見る。 

「ここで話をしていた時には、お前と姫君は互いに嫌いあっているという話だった。だが、さっきの様子では……。今は嫌ってはいないだろう……どちらも」

「そりゃ、顔を突き合わせていれば多少は互いに情が湧く」

「……」

「さっきの様子というなら、あの女の行動を思い出せ。あいつは俺を信頼している。俺に男としての欲望があるのなら、あの女はあんな風に俺を近づける訳がない」

 そうだった。白狼がどれほど身の内に荒々しいほどの渇望を抱えようと、あの女は自分をそのような意味では求めてはいない。

 今度は白狼が顔を佳卓の視線から外して外を見た。

 事実を佳卓に告げているだけなのに、そしてそれは必要な説明のはずなのに、白狼の心の中をすうすうと冷たい隙間風が吹いているような気がする。

 もし、相手があの女でなかったら。佳卓が近衛大将ではなくただの友人であったなら。俺のこの自分でもどうにかできない心を打ち明けることもできるのだろうか……。

 だが、白狼は胸倉を掴まれたかのように佳卓に振り向くことになる。佳卓が、人の心の奥の奥まで覗き込もうとする、鋭く刺すような視線を白狼に向けていたからだ。
 それに気づいた白狼もまた、玻璃玉のような瞳に力を込めて睨み返す。

「何だ?」

 ──何を探る気だ。

 火花が飛び散るほど双方が双方に向ける視線の圧は強い。それなのに、佳卓はどこか悲しげにも見える。

「危なっかしいね」

「何が?」

「お前は今自分がどんな顔をしているのか分かっているか?」

「俺の顔……?」

 佳卓は再び深々と息を吐いて正面から白狼を見つめた。あの匕首(あいくち)をつきつけるかのような剣呑な気配は消え、静かな口調で問うてきた。

「……本気か?」

「だから……何がだ?」

 佳卓はもう自分の胸の内を何かしらの形で見抜いているのかもしれない。だが、それをここで認めるわけにはいかない。

 今度は白狼が佳卓を睨んだ。この玻璃玉の瞳を砕けるものなら砕いて見ろという気持ちを込めた。
 一方で、自分の心の片隅で叫ぶ声が聞こえる。佳卓、俺の瞳を砕き、そして俺を救ってくれ──。

 佳卓は軽く目を瞑って首を左右に振った。

「もう無理してとぼけなくていい。姫君を愛しているんだろう?」

 白狼はきっぱりと否定する。

「いや、俺は何とも思っちゃいない。あの女に惚れてなんかいない」

 だが、その声は弱々しくて小さいものにしかならない。

 佳卓はふっと口の片方の端を上げて見せた。

「京の都を荒らしまわるお前を捕らえるのに色んなことを調べさせた。お前の周囲の人間によれば、お前は噓をつくとき左眉を上げる癖があるらしい」

「何だと……」

「さっきお前は左眉をぴくんと跳ね上げていた」

「……」

 白狼は言葉を失う。そうか、この男はこうして俺を見抜くのか……。

 白狼は喉仏を大きく動かしてごくりと唾を飲みこみ、そしてがばりと頭を下げる。

「佳卓、頼む……」

 下げた位置よりもなお一層深く、白狼は自分の頭を垂れた。自分の見栄などどうでもいい。

「あの女には決して言わないでくれ。それから、あの女のために、俺のこんな気持ちなんか聞かなかったことにしてくれ」

「……」

「あの女はまだ俺の助けが必要だ。さっき、あんたも見ただろう? だいぶ良くなったがちょっとしたきっかけで、また心が不安定になってしまう。あの女にはもう少し傷を癒す時間が要るんだ。その間、俺はあいつの父や兄のような安心で無害な妖でいてやらなけりゃならない。俺に欲望があるなど絶対にあの女に知られるわけにはいかないんだ」

「だがね……」

「いや、いつまでもとは言わない。あの女は弱そうに見えて奥底に強さがある。気概が……俺から恩を受けてもいつかは返すという気概があれば、より着実に立ち直れる。それまでの間だけだ。その間、俺もあの女に惚れていることは隠して見せる。だからあんたも黙っててくれ」

「白狼……。私が黙っているとしても、姫君についてはもう一つ考えなくてはならないことがあるだろう?」

「なんだ?」

「姫君がお前に恋をする可能性だ」

「は?」

 白狼が今まで考えても見なかったことだ。だから狼狽してしまう。

「それは……ないだろう……。あいつが男に惚れるということはない。過去が過去だったからな」

 白狼は首を捻る。

「いや……先のことは分からんが……。だが、その相手は身分が釣り合った男となるだろうよ、そりゃ……。それまでに男に対する不信感が拭えていればいいと思っているが……」

「お前が姫君の気持ちを得ようとは思わないのか?」

「俺か? 俺がいくら傲岸不遜でもあの女と身分が違い過ぎるくらいのことは分かってるさ」

「だが……」

「報われるなら……。そうだな……。後から振り返ったときに、俺が安全な男だったといつまでも思っていて欲しい。俺がいなくなって会えなくなっても時々思い出してくれれば嬉しい」

 白狼は目を瞑る。

「あの女が御伽話(おとぎばなし)のように考えてくれればいい。父や兄が自分の代わりに竹の宮に妖を遣わしてくれたとか、そんな風に……。そして、その妖が幻の恐怖を食い終えて山にでも帰った、とでも……。そんな風にあの女が俺のことを美しくて大切な思い出として心に留めてくれれば俺は十分だ」

 本音を言えば、今の白狼はそこまで達観できているわけではない。だが、そうしなくてはならないと思う。もし、どうしても自分の気持ちを断つことができないなら、あの女が落ち着いたことだけ見届けて、どこか遠く離れた地へと旅立とう。

「だから、俺のことは気にするな」と白狼は言おうとしたが、佳卓が先んじる。

「先ほどの姫君の様子を拝見していると、そういう段階は通り過ぎているんじゃないかと思う」

「どういう意味だ?」

「姫君がお前に惚れる日が来る。それも遠くない時期に、だ」

 白狼は大きく首を振る。

「それはない。あいつにとって俺は父か兄のようなものだ。だから俺はあの女の側にいられる」

「お前は父でも兄でもない」

「俺はそのつもりだ。あの女も!」

「お前は父君でも兄君でもないよ。別の言い方をしようか。父君と兄君以外に、初めて姫君が自分の心の内に踏み入れることを許した男だ」

「……」

「あれほどのご身分の方、あれほど男性を嫌悪していた方が、お前にはあんなにも無防備でいらっしゃる。信頼は愛情に変わりやすい」

 白狼は片手で空気を薙いだ。そこに華奢な白い手があるかのように。

「なら、俺はあの女の手を振り払う。まだ駄目だ。自分を助けてくれるからという理由で男に惚れるべきじゃない」

「そうだね。私でも同じことをするだろう」

「ああ……。依存の果てにある愛情なんぞろくなものじゃない。相手の弱さに付け込んで惚れさせるなぞ卑怯者のすることだ。俺はそんな男に成り下がるのはごめんだ」

 佳卓はゆっくりと息を飲みこみ、そして眩しいものを見るような目つきをした。

「お前は良い男だね」

「はあ? 何だ急に? 何の冗談だ?」

「いや、私は真面目に言っている。男が惚れる男がいるなら、それはお前だろう。さきほどの光景も美しくて……見ていて動悸がするほどだった」

「美しい? ああ、あの女は確かに美人だな」

「いや……。確かに姫君のお姿もこうして直に拝見すると噂通りの佳人だと思うが、私が言いたいのはそれだけじゃない。お前たちの関係性が美しい」

「かんけ……何だって? 小難しい言葉は分からん」

「……」

 佳卓は空気を変えようと、皮肉気な笑みを浮かべる。

「さて、そんな惚れ惚れするような白狼という男にいつまでも嘘をついているのは心苦しいからね。白状しよう」

「何をだ?」

「お前が嘘をつくときに眉を上げる癖があるなど、そんな話を私は聞いたことがない。さっきのは口から出まかせだ。つまり……私はただカマをかけただけだよ」

 白狼はいきり立つ。

「あんた!」

「言っておくが、最初に嘘をつこうとしたのはお前だ。違うか?」

「……違わない……。確かに俺の方が先に嘘をついていた。済まん」

「その嘘は、まあどうでもいいよ。私たちは幼い子供どうしじゃない。お前と私とは賊と近衛として出会った。以来、お前との付き合いは、どうやって相手を出し抜くかという競り合いだった」

「そうだったな」

「ただ……追う者と追われる者と立場は敵対していても、私はお前の器量に惚れていた。今日も──。惚れ直したよ、白狼」

「尻がむずがゆくなるようなことを言うな。あんたが惚れているのは翠令だろうが」

「……」

「あんたが翠令に何も言わないのは、俺と同じ理由か?」

 佳卓がさっと表情を消した。

「翠令がどうかしたかね?」

 ことさらに無垢な表情を作って見せる相手に、白狼は内心で「ばればれだぜ」と呟く。

「すっとぼけるな。あんた、翠令に惚れてるだろ。俺が今のあの女に手を差し出されても振り払うと言ったら、あんたは自分もそうするだろうと言った。翠令に何も言わないのは、翠令が麾下で自分より弱い立場だからか」

 佳卓も白狼に隠し事は出来ないと思ったらしい。

「……まあ、そうだね」

「惚れていることは否定しないんだな?」

「まあ、お前に嘘は言わんさ。私はお前と違って正直者なんでね」

「よく言う」

「率直に言えば私は翠令が好きだよ。もし条件が整うなら夫問い《つまどい》だってしたいと思ってる、だが……」

「だが……? 何だ? さっさとくっつきゃいいだろう。似合いの二人だと思うぜ」

「理由はいろいろある。まず、お前が言ったように彼女は麾下だ。上官で権門の子息に言い寄られては逃げ道がない。断るのも負担となるだろう」

「翠令はあんたに剣を向けるような女だが?」

「彼女が強くなれるのは他者を守る時だけだ。自分のためだけとなると話は違って来る。むしろ、錦濤の姫宮のために上官の意に沿わなければという義務感にかられて、私の誘いを受け容れようとするかもしれない。だが、そんな理由で……」

 その先は聞くまでもない。

「ああ、そりゃ嫌だな。あんたは自分の立場を使って女を手に入れたいと思う男じゃない」

「まあね……。それに私は彼女にとって良い相手ではない」

 これについては、反論が口をついて出る。

「なんでだ? あんたはいい男だ。男が惚れる男、というのならあんただって……」

「お? じゃあ白狼は私に惚れてくれるのかい?」

「話を混ぜっ返すな。今は翠令の話をしている。あんたはまるで翠令に振られる前提で話すが、それはおかしい。俺の目から見てあんたはいい男だ」

「ありがとう。だが……ね」

「なんだ?」

「私は色々と面倒な立場だ。下手をすると左大臣家の家督が回ってくるかもしれない」

「あんた、兄貴がいるんじゃなかったのか?」

「御子がいないんだ。このまま私がいつまでも比較的自由な近衛大将ならいいんだが、そうとは限らない……」

「別に左大臣になろうが翠令には関係ないだろう?」

「私の立場が重くなるにつれ、妻となる女君に注目が集まる。その妻は子を産めるのかどうか、その産む子は男か女か、果たして母親の出自からしてその子に家督を引き継がせて良いものか……」

 佳卓は立て板に水を流すかのように一息で喋るが、白狼は後半からもうついていけない。

「なんだ、それは? 面倒くさいな……」

 佳卓が苦笑する。

「な? 面倒くさいだろう? こんな面倒な男と添ってくれるかどうか……。いや……添って欲しいと相手に頼む資格が私にあるかどうか……」

 目の前にいる若い男は悲しそうにも寂しそうにも見える。鬼神のごとき近衛大将ではなく、気弱で不器用なただの若造に。
 白狼はこの男を力づけてやりたいと思う。これが手下なら、白狼は間違いなく相手の背中を叩いてどやしつけているだろう。

「悲観的すぎやしないか? あんたはいい男だ。翠令が傍にいれば、彼女の方から惚れてくれる可能性は決して低くない。そして、あの翠令は惚れてしまえばたいていの障壁は乗り越える女だろう」

「……」

「ま、せいぜい理想の上官を気取ってろ。そのうち惚れられて上手く行く」

「……」

 佳卓は何も言わずに考え込む。

「実は……私は翠令と距離を置くことにした」

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