二十二 翠令、佳卓を気遣う

文字数 4,387文字

 姫宮のことばかり考えていて、佳卓(かたく)のことを放ったらかしにしたままだ。
 今日、街へ出かけた際に乗っていた馬はどうしただろう……。

 公務であれば出迎えがあるものだし、そうでなくとも佳卓ほどの貴人であれば陽明門の誰かに馬の世話など気軽に申し付けるのが普通だ。
 だが、今回は姫宮のお忍びの外出だったし、佳卓は妙に潔癖なところがあって私用で他人の手を煩わすことを好まない。

 となると、ご自分が厩まで連れて行った可能性が高い。翠令は自分に舌打ちをした。上官であり、近衛大将ともあろう御方に馬番のような用事をさせてしまうとは。

 翠令は慌てて姫宮の御帳台から滑り出た。母屋(もや)の中も(ひさし)簀子(すのこ)も燭台や釣燈籠で明々(あかあか)と照らされている。一方で、庭の外に目を転じるとすっかり夜の(とばり)がおりていた。

 翠令は(きざはし)を降りて走り出す。今から陽明門に向かっても、もう佳卓はその場にいないだろう。正確な時刻は分からないが、夏至の近いこの時期にこの暗さでは相当な時間が経っているはずだ。

 けれど、佳卓はいなくても門番か厩番に聞けばその後の事情が分かるかもしれない。

 ──彼らが交代してしまわない内に会っておかなくては。そして明日朝一番に佳卓様に謝罪しなくては……。

 宣陽門と建春門の近辺では篝火が辺りを朱色に染めているが、その光が届かぬ先はひっそりと暗闇が横たわっていた。

 その黒さに翠令は一瞬怯む。だが、目が慣れてくるにしたがい、火影の先に、白い砂利と明るい色の築地塀がほんのりと浮かんでいるのが見て取れた。

 仄白い道筋を走れば陽明門までたどり着くことはできるだろう。ただ、もう少し明るければもっといいのだが……。そう願って翠令は夜空を見上げた。

 それなのに虚空に月はない。今宵は新月であったかと翠令は息を吐く。
 そして砂利を蹴って駆けだした。外記庁の角を曲がると、前方に遠く灯が見えた。あれが陽明門だ。翠令はそこを目指して走り続ける。

 夜の静寂(しじま)の中、ざりざりと砂利を踏む自分の足音だけが耳に入る。築地塀に沿って、翠令は陽明門の朱色の灯りを目指した。

「……!」

 陽明門の手前、左近衛の官衙の築地塀に黒い人影があった。顔の造作まで見て取ることは出来ないが、その影の輪郭から男が腕を組んで身をもたせかけているのだと分かる。そして、やや細身ながら逞しい長身は佳卓のものに違いなかった。

 翠令は足を止めた。佳卓であればいつもどおりの軽快な口調で「やあ」とでも声を掛けてくると思っていたが、彼はじっと動かぬままだ。
 どうなされたのか伺おうとして翠令が近づくと、彼は低い声でぼそりと質問を投げかけた。

「姫宮は?」

 今まで佳卓の口から聞いたことのない固い声音に、翠令はそこで歩みを止めた。

「もうお休みです。あの……ずっとここにいらしたのですか?」

「一度馬を戻しに離れたが……。それからは。ここで翠令を待っていた」

「……」

 それはかなり長時間であったはずだ。いったいなぜ……?

 やはりどこか緊張を孕んだ声で彼は問うた。

「私を怒らないのか?」

「は?」

「今日の私は随分と危なっかしいことをしたのではないかと案じている。姫宮のご様子を見ながら話を進めたつもりだが……姫宮が翠令に抱き付いていらっしゃるのを見て、私の言葉が過ぎたかと……」

 確かにそうだと思うが、佳卓は佳卓なりにこれが好機と判断したはずだ。

「佳卓様は何もかも見越したうえでお話されていると思っておりました」

 人影は吐息を漏らした。

「翠令は私が何でも出来ると思っているのかもしれないが、出来ることと出来ないこととでは出来ないことの方が多い。御年十の少女の心の機微など、何が正解なのかさっぱりだ。そのために姫宮の御心を必要以上に傷つけてしまったのではと怖れている」

 翠令は、自分にぴたりと視線が当てられたのを感じる。

「翠令が私を諫めるのなら、甘んじて受けようと思う」

 翠令は慌てて答えた。

「いえ……そのようなこと……。姫宮は大丈夫でございますから……」

 そう聞いた佳卓の気配が緩み、ふう……と長く吐き出された息が空気を震わせた。佳卓は相当に身構えていたようで、翠令は苦笑する。

「姫宮は楽しかったとお話しでした。もちろん身の引き締まる思いもなさったようですが、同じ年頃の子どもをご覧になったのが励みになられたご様子。大人たちに支えられながらこれから一歩一歩進んでいこうと意気込んでおられ、そして、そうすることで竹の宮の姫君をゆっくりご静養させて差し上げることが出来るのだとお考えになられたようです。いつもどおりの前向きな姿勢を取り戻されて、私も安心致しました」

 人影の顎が上向いた。軽く夜空を見上げたようだった。

「そうか、それは良かった……」

 安堵が混じった声に、翠令はさらに詳しく説明して差し上げようと思う。

「姫宮は『子供だから何も分からないだろうという大人の方が嫌』ともおっしゃいました。『大人になれると信頼されているのだから、その佳卓の信頼に応えなくては』とも……」

 佳卓はふふっと笑いを含んだ声を出す。

「姫宮はそのような御子ではないかと思っていた。この点は私の読みが当たっていたことになるね。私自身がそういう性格の子どもだったから、畏れ多いことながら姫宮もそうであろうと拝察したのだが……」

 だが、しかし……と彼は続けた。

「姫宮が翠令にしがみついていらっしゃる様子を見て、私はかなり慌てたよ。私もあれくらいの年頃には幼いところだってあったのだろうけれども、人は自分の幼さを忘れてしまいがちだからね……」

 彼は少し間を開けた。

「……翠令がいて良かった」

「……」

「怖くても不安でも姫宮は翠令に抱きしめてもらえば落ち着くことが出来る。そのように頼る先があるのは幼い子供にとって重要なことだろう。姫宮にとって翠令は姉のようでも母のようでもあるんだろうな」

 翠令も寝具の中から差し出された、姫宮のぷくぷくした御手の感触を思い出した。

「畏れ多いことながら……。幼い頃から何かございましたら私に抱き付いて来て下さる御子でした」

 そう、今なら翠令が安心を与えて差し上げることが出来る。翠令ならできる。今日はこれで良かった。

「佳卓様からお話を聞かれたのが今で良かったのではないかと思います」

「ほう?」

「今はまだ姫宮は御年十歳。怖い時や不安な時には躊躇いなく私に抱き付くほどに幼くていらっしゃる。しかし、これが一年後、二年後となると事情は異なって参ります。もうそんな子供じみたことはなさらなくなる。かといってまだ大人になるには間があるご年齢……。そのような年頃は周囲にとってもご自身にとっても難しい年齢です。そのような年頃に差し掛かる前で良かったのではないかと思います」

「つまり、時機が今でよかったと」

「ええ。それに……お話し申し上げるのが私でなく佳卓様で良かったと思います。もし、私が姫宮の恐怖や不安を煽ることを口にしてしまえば、今度は姫宮が逃げ込む相手がいなくなる……」

「なるほど」

「重い内容でもありましたが、東宮となられるからにはいつかは知らねばならないことではありました。今、佳卓様の口からお聞かせいただいたこと、これで良かったと思います」

 佳卓は凭れていた壁からしなやかに身を起こした。

「そう言ってもらえてよかった。今回は翠令に怒られなくて済んだようだね。また刀を突きつけられるのかとびくびくしていたんだよ」

 翠令は笑んで答えた。

「姫宮から『佳卓を怒らないであげてね』とのお達しがございました」

 佳卓もいつもの軽い口ぶりで返す。

「そうか。姫宮のご厚情に感謝だね」

 彼は陽明門に向かいながら言い置いた。

「姫宮も今夜はよくお休みになれるだろう。翠令も疲れただろうからゆっくりお休み」

 その彼の姿に、翠令が何気なく声を掛ける。

「佳卓様も――。どうぞ安心して今夜はお休みなさいまし」

 これまで姫宮を思い描いていたため、その口調は子どもに向けるような柔らかさを含んでいたかもしれない。

 翠令の言葉に佳卓はぴたりと動きを止めた。

「……」

 そしてゆっくりと体ごと翠令に振り返る。ただ新月の闇夜の中では暗すぎて佳卓の表情が分からない。

 彼は翠令を見つめている。そう感じる。その視線には重さがあった。そして、これまで気にしていなかった静寂が急に濃密さを増したように思われた。

 何かを言わなければと……翠令がそう感じて唇を動かしかけた時、佳卓が口にした。

「誰かにそんな風に気遣われるのは、私が童子の頃以来かな」

 佳卓の声は男性にしてはやや高い方に入るが、そこに何か感慨めいた複雑な響きが含まれている。

「……」

「責任ある近衛大将という立場では、他人にそう言うことはあっても、自分が人からそう言われることもなくなるからね。翠令ほど強くて優しい女君が側にいて私は果報者だ」

 佳卓はそう言うとゆっくり砂利を踏んで陽明門に向かって歩き出した。数歩進んで立ち止まる。そして、片脚を翠令に向け半身を返した。

「この近衛大将に刀を向けて諫めることも辞さない、そんな勇ましい女武人の言だ。その言葉を抱きしめて今夜はぐっすり眠ることにするよ」

「……」

 再び彼は前に向かってゆっくりと歩いて行った。

 その夜、翠令は上手く眠れなかった。
 夢を見たからだった。
 その夜の夢は幻のようで、しかし、その幻は現実以上に生々しかった。

 梔子色の狩衣の美しい若者が馬を駆る。的と的の間を騎乗して駆け抜ける間に、無駄のない流れるような動作で弓を構える。

 現実に目にしたのはあっという間だったし、乗り手の佳卓の顔など分からなかった。それなのに、夢の中ではつぶさに見て取ることが出来る。

 鬼火のような恐ろしさはなく、どこか透明感のある空気を纏った端正な顔立ちに涼しい目許、ほどよく引き締まった表情で彼は的を見据える。男にしては細く長く節高の指を弦に絡め、額に幾筋か零れた髪が何かを誘うように宙をそよぐ。

 馬が駆け抜け、彼が袖を翻して視野から消えると、かーんと澄んだ音が森の中に響く。白木の的が砕かれ、緑の木立の中で木屑がゆっくりと中空を舞う。

 馬場を駆け抜けた彼は馬を返して翠令にゆっくり近づいてくる。鬼神のような人を竦ませる圧もなく、そしていつもの皮肉気な様子でもない。真面目で少し柔らかい表情だ。

 新月の暗闇の中で、翠令の気遣いを童子の頃以来だと穏やかに喜んでいた彼の顔は、きっとこのようなものだったのだろうと夢の中の翠令は思う。

 そして――。

「……!」

 突然はっと目が覚めた。その直前、夢の終わりに何か鮮烈に感じたものがあったはずだが、醒めてしまうともう思い出せない。それを惜しむ気持ちが胸を焼く。

 翠令は身を起こして額に手をやった。昨日の騎射はあまりにも美しかった。こうして夢に見るほどに、そして夢で見ただけでこうも鼓動が早くなるほどに――。
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