八 翠令、再び激昂する(二)

文字数 3,196文字

「白狼を一言で表現すれば『義賊』だ。彼は場末の娼婦街で生まれ育ったのだが……」

 佳卓(かたく)の説明を翠令が遮った。

「娼婦街? この京の都にそのような場所があるのですか?」

「ああ、翠令は朱雀大路しか通っていないから知らないのだろうね」

佳卓は表情を改め居住まいを正した。

「翠令の目にこの都はさぞ整然としたものに見えるのだろう。だが、それはこの街の取り澄ました表の顔に過ぎない。裏通りには、世の理からはみ出した人々があふれかえっている猥雑な世界がある。白狼はその中で人を束ね、盗賊として奪う一方で、貧しい者にそれを惜しみなく分け与えてきた」

「……」

「誰もが正しく生きられるわけではない。田畑を耕し続ける健康や、商売で身を立てる才覚は全ての民に常に当然に備わっているものではない。誰にだって貧困に陥る可能性がある。そして貧しく何も売るものが無ければ女を売り、そして人を襲って物を奪う。このように生きるしかない人間は、翠令が思うよりずっとたくさんいるんだ」

「公にも貧民対策はなさいますでしょう? 賑給(しんごう)という制度もあったはずです」

「今上帝ならこれからなさるだろうね、思いやり深い方だから。私もご提案申し上げるつもりだ。ただ、つい先日まで玉座に居た先帝は全く民に関心が無くてね」

「……」

「先帝も、先帝に追従する貴族たちも贅を凝らした遊びに耽るばかりだった」

 佳卓の顔が険しくなる。その顔を見て、この御方にも真面目なところがあったのかと翠令は少し意外な気がした。

「先の御代では民の困窮は募った。日々生きるための食糧も手に入らず飢えた腹を抱え、垢まみれの不潔な襤褸(ぼろ)(まと)う。病を得ても薬や滋養のある食物など全く手が届かず、あとは死を待つばかり。その境遇から這い上がる気力など、疾うに打ち砕かれてただ無気力に生きているだけの民──」

 その語り口は具体的で詳細だ。民の疲労と絶望を書面や麾下からの報告で間接的に知ったのではなく、佳卓自身が直接目にしてきたことが(うかが)える。そして、彼もまた心を痛め義憤にかられていたのだろうということも。

「自分たちの日用を(まかな)っても使えきれないほど富が余っている者がいる。彼らは貧しい人々の神経を逆なでするようにそれらを遊んで費やす。そういった驕り高ぶった富める者から余った財を奪い、そして貧しい者に分け与える者が現れたら……どうなると思う?」

「民から絶大な人気を得ることでしょう。……それが白狼のことだと?」

「その通り。私だって見ての通りの美男で、武芸に優れ、それなりに民に人気はあるつもりだがね。しかし、白狼に対する人々の人気と信頼は比べ物にならないほど大きい」

 軽口を交えながらも、佳卓の白狼に対する評価は揺るぎない。

「京の民には朝廷の権威が通じないのですか?」

「人は正義よりも明日の飯の方が大事だ。それを恵んでくれる義賊の方を味方だと考える。それも道理だろう」


「……」

「私がいくら白狼を追い詰めても、どこかの誰かが彼を(かくま)う。どこへ逃げたか尋ねても、白狼を官吏に売る者はいない。手下もそうだ。捕えても首領の不利になるような情報は絶対に口を割らない。要するに白狼は人望篤いんだ、それもかなり」

「……賊が民の支持を得るなど……。白狼という白人が衆望に応えて来た義賊なのは分かりましたが、望ましいことでもないはずです……」

「じゃあ、どうすればいいと翠令は思う?」

「それは……」

 佳卓がにやりと笑う。

「こちらに引き入れればいい」

 それが彼を近衛に引き入れた理由か、と翠令も理解した。しかし……。

「相手は朝廷に歯向かうことで生きて来た男です。再び裏切らない保証は?」

「白狼は手下思いだ。彼に代わって手下の面倒を見てやれば、その問題は解決する」

「いやあ、この算段を付けるのに骨が折れてねえ」と佳卓は首を振って見せるが、その顔は愉快げだ。

「男の手下については、まず近衛を始めとする大内裏の官庁で雇い入れる段取りをつけた。それから私が赴任していた東国にも都からの人手は要らないか問い合わせてみた。いくつか受け入れ先も見つかったんでね。行きたい者には東国までの旅支度を私が整えて送り出してやる。手下の妻女達についても、官庁や知り合いに渡りをつけて雇い口は確保した」

 それで佳卓は「賊のためにあちこちの役所に話を通さねばならない」と言っていたのか。

「近衛大将ともあろう御方が、賊の職の斡旋(あっせん)など細かなことまで世話を焼くのですか?」

「まあね。私は近衛大将として京の治安を回復しなくちゃならない。それが帝や東宮の御為(おんため)だ。この先も、白狼の手下達が病気かなんかで働けなくなってもその後の面倒だってきっちり見るさ。何故なら――」

 ここで佳卓はきっぱりと言い切った。

「白狼ならそうする。白狼が手下にしそうなことを、私が代わってやらなければならない」

「……」

「私が『手下の今後は保証する』とこれだけ説明したことで、白狼がやっと折れた。これを条件に私の麾下になることを了承したんだ。賊の一味より堅気の世界で生活できる方が手下にとっても幸せだからね」

「白狼が手下思いなのは確かなんですね」

 佳卓がにこりと笑んだ。

「さて。翠令の質問に答えよう。白狼が裏切る可能性はない。もし白狼が裏切れば、手下たちが手に入れた堅気の生活基盤も失われる。だから白狼は私を裏切らない」

「……」

 佳卓は心底誇らしげに言う。

「賊を退治し、民から慕われる人材を配下に収めた。敵に回している分には厄介な男だったが、麾下となってくれるなら非常に頼もしい。大収穫だよ。近衛大将として我ながら手柄を立てたものだと自画自賛しているところだ」

 公の報酬には結びつかなくとも、佳卓は一仕事終えた充実感を晴れ晴れとした思いで噛み締めているようだった。

「説明は以上だ。翠令の怒りは解けたかね?」

 翠令は我に返った。そうだ、ここへは(いきどお)りに駆られて押し掛けたのだった。
 この自分を盗賊などと一緒にするなと思った。しかし、あの賊は有益だ。あの男を手中に収めることで京の大衆を味方にできる。佳卓の説明でよく分かった。

 それでは、自分は――?
 山崎津でも思ったことだ。これから姫宮は近衛大将をはじめとする一流の武人に守られてお過ごしになる。
 それも、この佳卓は単に武芸だけの人物ではない。智謀を巡らし、これから姫宮がお過ごしになる京の街全体を味方につけて見せた。
 奇矯に見えても、それだけの能力のある人物だと翠令は改めて感嘆する。

 それに引き換え、地方のお転婆娘に過ぎないだけの自分にできることなど限られている……。

「佳卓様の深慮遠謀にも思い至らず、お恥ずかしいかぎりです。所詮、私などせいぜい刀を振り回すことが出来る程度のつまらぬ者です。真に姫宮の御為を思えば、あの賊の方がよほど役に立つ……」

 佳卓が面食らった顔をした。

「怒ったりしょげたり忙しいことだね。翠令には翠令にしかできない役回りがあると私は期待しているのだが……」

 そして彼は息を継いで何かを言いかける。

 しかし、その時、執務室に置かれた衝立から官人が顔をのぞかせた。一人だけではない。さらに奥にも人が溜まっているようだった。

「あの……そろそろ……」

 多忙を極める近衛大将の時間は貴重だ。多くの人々が面会を待っている。
 翠令は黙って一礼をすると、静かに部屋を出た。

 石の床をこつんこつんと弱々しく叩く沓音がする。そのとぼとぼとした自分の足音に気付いて翠令は立ち止まった。

 日暮れ時に差し掛かった近衛府の外には、築地塀と濃灰色の瓦が見えるばかりだ。その色彩に乏しい風景の向こうに、内裏の殿舎の檜皮葺の屋根が連なっている。
 だが、あの中に自分の居場所はない。女武人、翠令はもう必要ではないのだ……。

 見慣れぬ場所。見通せない将来。
 無言で立ち尽くしているうちに、翠令は自分がどこかに漂っていくかのようなそんな寄る辺なさを感じた。

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