八十一 翠令、都の人々に策を伝える(二)

文字数 5,077文字

 その翌日。翠令は一人で襲芳舎(しゅうほうしゃ)を訪れた。佳卓の兄はついてこない。

 前回は佳卓が用意してくれた海賦文様の青系統の(かさね)。今回は北の方が紅葉を思わせる襲の装束を貸してくれた。

 襲芳舎に続く渡廊で出迎えてくれた梨の典侍が驚く。

「翠令殿か? 以前とも感じが変わられて……」

「今回は赤い衣を着て参内しておりますから」

 姫君は前回と同じく御簾内に翠令を招き入れてくれた。姫君もまた少し憔悴した様子だったが、翠令の方を気遣う。

「翠令は随分と疲れた様子です。苦労を掛けました。済まなく思っています」

 梨の典侍も言い添える。

「あとで甘い菓子でも差し上げましょう。頬が削げていらっしゃるゆえ、もう少しふっくらなさった方が……」

 翠令は「後で馳走になります。それよりも佳卓様より預かって参りました策を申し上げます」と両手をついた。

 ここでも翠令は正確に伝えた。

「……」

 姫君は驚きのあまり言葉が出ない様子だ。一方で、梨の典侍が即座に言い返す。

「何と言うことを! 翠令殿、貴女は錦濤の宮様と気安くお過ごしであったゆえ、何か心得違いをしているようじゃ。帝の血を引く貴い御方がそんな真似など出来るはずがなかろう!」

「……」

「下賤の女とて、そのようなふざけた真似など嫌がるに決まっておる!」

 このように激昂する彼女の姿は初めてだ。その表情、口調、言葉遣い……痛罵に近い。

「……申し訳ありません」

 翠令が考え付いたわけではないが、典侍の怒りも分かる。無茶苦茶を言っているのは自分なのだ。
 素直に謝った翠令を見て、典侍は一息つく。そもそもこの奇策を提案したのは佳卓であることを思い起こしたようだった。

「佳卓殿も何をお考えか。鬼神のごとき為人と聞き及ぶが、まことに鬼のようなことを言う!」

「窮余の一策でございます。どうかご寛恕を……」

「ならば、その役割、この典侍が引き受けよう」

「は?」

「確かに清涼殿の中に入って関契を直接に手に取ることがお出来になるのは、帝以外に姫宮様くらいのものであろう。じゃが、姫宮様はお独りで後宮を歩かれぬ。典侍である私が姫宮様に伴われて清涼殿に入ってもおかしいことなど何もない」

「しかし、どうやって外に持ち出しますか……?」

「そこが大問題であろう。佳卓殿の奇策、この典侍が引き受けよう」

「……」

 このような成り行きは翠令の全くの想定外だった。確かにそれなら竹の宮の姫君に無理難題をこなしていただかなくて済む。だが、佳卓の策はあくまで竹の宮の姫君を前提にしたものだ。ここで翠令の一存で変更して大丈夫だろうか……。

「されど……」

「姫宮様にとんでもないことをさせておいて、この典侍が殿上でのうのうと過ごせようか。それくらいなら、私自身が動き申す!」

「梨の典侍」

 静かな声がした。
 姫君が典侍に目を向けていた。

 その視線が心なしか優しいと翠令は感じる。

「そなたが私を案じてくれること、よく分かりました。安全な場所にいる自分が他人を危険に晒すのは心苦しいと思うのでしょう。私とて翠令を東国に使者に送るときに同じように思いましたから分かります」

「ならば、姫宮様!」

「けれども、典侍が関契を外に持ち出したとして。その後、私はどうなるのですか?」

「……」

「それでは私はいつまでもこの後宮から出られないではありませんか」

「……」

「そなたが関契をもって姿を消せば、円偉は私の近辺の警護を厳しくするでしょう」

「関契さえあれば佳卓殿が兵を率いて都にお戻りです。何もかも落ち着きましたら、改めて姫宮様のことも良いように取り計らって下さいましょう……」

「首尾よく佳卓が円偉を排することができたとて、私はこたびのことで世間の注目を集めてしまった。竹の宮で隠遁していただけなら世間も忘れてくれたでしょうけれども、こうして錦濤の御方の叔母として人目を引いた以上、世が落ち着いても私は目立つ行動が取れません」

 それはそうだと翠令も思う。

「佳卓は、この私が関契を持ち出すことで、後宮を永遠に離れて白狼の元に行けるように策を組み立ててくれたのでしょう。関契を手に佳卓が東国から戻ってくれば、朝廷の混乱は必至。失踪した私の捜索どころではなくなる……」

 翠令も改めて口を引き締めた。そうだ。ここは姫君が後宮を抜け出すことに意味がある。

 姫君は典侍に向き直った。

「梨の典侍、私はこのような魔窟に一日たりともいたくない。ここにいると、忘れたいことも思い出してしまう……」

 姫君は、苦しそうに顔を歪めて耳を覆う。

「あの豺虎(けだもの)の声が柱の影から聞こえてくる。『お前が悪いのだ』『お前が美しいから男を誘うのだ』と」

 翠令の口から思わず問いがこぼれる。

「それは……?」

「あの豺虎は私のことを魔性だと言った。男を誘う美貌がいけない、と」

「勝手なことを……。十の童に襲い掛かって置いて、その責を転嫁するとは……どこまでも卑劣な!」

 姫君は唇を嚙み締めながら目を伏せた。その黒くて長い睫毛が、透き通るほど白い肌の上で小刻みに震えている。いくら襲芳舎が昭陽舎から遠くとも、後宮全体が帝の私的な邸宅だ。昔の傷は否応なしに抉られてしまう。

「あの豺虎だけではない。誰もかれも私の外側を……容貌だけを褒めて、隙あらば蹂躙しようと望む。竹の宮に来たあの男も……」

「……」

 姫君の顔色が青ざめたものになっている。

 ──姫君は、ここにいらっしゃってはならない。

 翠令は強く思う。ここに居る限り、姫君は童の頃に叔父に襲われた忌まわしい記憶から逃れられない。さらに、竹の宮で猥談好きの男に襲われた恐怖も忘れられない。

 ──円偉はなんと無神経なのだ!

 竹の宮の姫君の詳しい病状が分からずとも、この御所は姫君が口にする通り魔窟であろう。それくらいのことも思い及ばないのか。

 翠令は改めて円偉の他人への想像力の欠如に呆れる。
 何が真面目な男の淡い初恋か。君子の徳だの仁だの口先だけは立派だが、人並みの思いやりすらない思慮のない男ではないか。

 姫君は肩を震わせながら続ける。

「私は好きでこのような容貌に生まれついたわけではない。私の外側がどうであるかなど、私にとって鏡でしか知ることのできぬもの。だが、男はその外側ばかりを見る。そして、私の身体は私自身のものであるはずなのに、己の欲望のはけ口として蹂躙しようとする。だけど……私にだって、心がある!」

 翠令も叫んだ。

「もちろんでございます!」

 姫君は翠令を見た。

「翠令、私は白狼のもとに行きたい。白狼は、私の身分でも容貌でもなく、私の内にある気概を褒めてくれた。口こそぶっきらぼうでしたが、私を本当の意味で大切に扱ってくれた。そして、私という人間が人間であることを取り戻せるように、ずっと心を砕いてくれました」

 翠令は大きく頷いた。その通りだ。姫君も翠令に頷き返す。

「佳卓の奇策、私は引き受けます」

 典侍が悲鳴のような声を上げる。

「姫宮様!」

「私は白狼に添いたい。白狼の元に駆け付けたいのです──自分の足で!」

「ですが……!」

「私が関契を持ち出すことで円偉の専横を挫き、私よりもずっと帝の適性のある錦濤の御方にお戻り頂く。朝廷を整えることが、民のため。帝の直宮として私は民のために最善を選ばねばならぬ。私は、この身をもってこの国の民のためとなり、生きた証をこの都に残し、そうして己を全うした後に別の人生に進みたい」

「なれど……」

 姫君の決意を前にして、典侍の声は弱くなったが、それでも同意することはできないようだった。姫君の気高い志に心打たれても、現実に実行することを考えると竦む思いも捨てられるものではない。その気持ちは翠令にも分かる。ましてや幼少時から姫君を愛し、かつてその身を守って差し上げられなかった悔恨がある典侍は身の危険が案じられて不安でたまらないのだろう。

 だが、武人の翠令の勘が告げる。ここは勝負所だ、と。真に大切なものを守るために、ここは思い切らねばならない局面なのだ。

「典侍殿。ここは姫君がご自身の運命に挑むべき場面です。でなければ──一生、後悔することになる」

 想像したくないが、もちろん失敗に終わる可能性だってある。だが、それでも、ここで挑戦し全力を尽くしたかどうかで、今後の自分が自分をどう評価するかが大きく異ってくるだろう。お心の病を乗り越えようとしている姫君にとって大切なことだ。

「……」

 だが、典侍は顔を強張らせたままでいる。

 この時、姫君が信じられない行動に出た。つっと典侍に身を向けると、両手をついて頭を下げたのだ。

 翠令も驚く。この方のご身分で頭を下げる相手など、今上帝ただお一人であろう。
 頭を下げられた典侍もひどく狼狽えた。

「ひ、姫宮様!」

「典侍が私を案じてくれること嬉しく思う。だが、私は佳卓の策を用いて、自分の運命に反撃したい。お願いじゃ、私に協力して欲しい」

 典侍は年齢を重ねた初老の顔をくしゃりと歪めると、そのまま身を床に突っ伏して泣き始めた。後宮の最高女官は普段の落ち着いた威厳など忘れてしまったかのように、激する感情のままに肩を震わせて嗚咽する。

「……梨の」

「姫君、今はしばらく……」

 何かを言いかけた姫君を、翠令が制した。

 典侍は動転しているだけだ。聡明な典侍のこと、落ち着けば何が本当に姫君のためか分かるだろう。いや、今だって分かっているはずだ、典侍の感情がついて行かないだけで。

 やがて典侍は顔を上げ、身を起こすと袖で涙を拭った。

「姫宮様を……あれほど愛らしかった……姫宮様をお守り申し上げることができなかったことが心残りでたまりませんでした……」

 そして、典侍は苦渋を含ませながらも、折れた。

「姫宮様が己の足で進むと仰るなら、この典侍も不安など捨てて能うる限りお力をお貸申し上げます……」

「有難う……梨の典侍……」

 梨の典侍と呼ばれた白髪交じりの女官は再び、けれども今度は静かに涙を一筋流す。

「姫宮様がご無事でこの御所の外でお暮しになられましたら……梨の季節に花を贈って下さいませ……。お小さい頃に、私に梨の典侍と名を与えてくださいましたように……」

 姫君も口の端を上げて微笑んで応じられた。

「ええ……。必ず……」

 姫君は次に翠令に向き直った。それだけでなく、いざり寄って翠令の右の手を取る。出立前にそうしたのと同じように。

「姫君……」

「翠令にも礼を言いましょう。この手……出発前から随分と痩せてしまった。苦労をさせましたね。よくこのような起死回生の策を佳卓から引き出して無事に京に戻ってきてくれました。ありがとう」

「いえ、苦労などと……」

 そう言えば、これまで佳卓の策を翠令から聞いた者は皆それぞれに驚き、呆れ、困惑していた。考え付いた当の佳卓自身が「ろくでもない策」と呼んでいたのだから、その反応も仕方ない。

 佳卓の案を耳にして、そして、それを持ち帰った翠令を労わる言葉を掛けてくれたのはこの姫君だけだ。

「翠令が錦濤の御方に対して忠義を尽くす武人だとは白狼から聞いていました。一度会ったきりの私にもかように力を貸してくれたこと、有難く思っています」

 翠令からも自分の右手を取る姫君の手に、自分の方から左手を重ねた。

「私も、白狼から姫君のことを伺っておりました。白狼は意地を重んじる性格をしております。姫君は、その白狼が『気概のある女』と評した御方です。お会いして、私も姫君なら、錦濤の姫宮や佳卓様とその麾下、朝廷や民のために力を尽くして下さると思ったのです」

 姫君が翠令の手を握る手に力を込める。

「翠令が苦しい思いをしながら佳卓の奇策を京に持ち帰ってきてくれたのは、翠令が私の気概を信じてくれたからですね。そして佳卓も。私は貴女たちの期待に応えなくてはなりません」

「期待申し上げているのは、私と佳卓様だけではありません。白狼も……」

「白狼?」

「白狼に会いました。彼は貴女様がきっと引き受けるに違いないと言っていました。それだけの気概のある方だから、と……。そして、以前に貴女様にお話した言葉を申しておりました──『その先に希望があると信じて走れ』という言葉を……」

 姫君の瞳にぱっと光が輝く。

「ええ……ええ! 覚えています。白狼は確かにそう言ってくれました」

 姫君は襲芳舎から南東の方角を見た。後宮七殿五舎を視野に入れ、御所の中心紫宸殿を望む方角だ。そして、首をくいっと高く上げて決然と宣言する。

「私は自身の運命に挑み、打ち勝って見せます。この御所から関契を持ち出し、皆を救うための道を必ず走り抜いてみせる──その先に希望があると、そう信じて!」

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