十三 翠令、大学寮に赴く
文字数 7,393文字
御所には雑用係の童 があちこちにいる。男の童もその辺りをうろうろしているが、女の童もそれぞれに色んな用事をしているものだ。
姫宮はその女童 の一人に変装して大学寮に向かわれる。格好だけ見れば、まさか貴き東宮と誰も思うまいが、それでも万が一にもばれないよう、内裏の中では顔を見られないようずっと俯いておられた。
畏れ多くも翠令が手を繋いで横を歩く。誰かに問われたら、昭陽舎の女童を連れて翠令が大学寮まで本を借りに行くのだと答えることになっていた。
内裏を抜けて、翠令が「もう、よろしゅうございますよ」とお声がけすると、姫宮はパッと顔を上げてキョロキョロ辺りをご覧になる。
「
大内裏の中は官衙が並び、朝服を着た官人たちがそれぞれの仕事のために歩き回っている。確かに壮年の男性が多い。若い男もちらほらいるが、御年十の姫宮はあまり大人の年齢の区別がよくお分かりではないだろう。大人の男性はみな「おじさん」なのだ。
翠令は苦笑しながら姫宮に話しかけた。
「お疲れではありませんか?」
「どうして? ちょっと歩いただけじゃない」
確かに姫宮にとって大した距離ではない。ただ、竹の宮の姫君であれば自分の足で内裏の外にすら出ることは難しい──いや、到底出来ないだろう。
少しぼんやりとしていた翠令の手を、姫宮ははしゃぐように引っ張られた。
「それよりもっと急ぎましょうよ。何があるのかわくわくするもの!」
姫宮が小走りされるので、翠令も引きずられるように大股の早足で姫宮に並ぶ。
その姫宮の足がぱたりと止まった。
「あれはなあに?」
七間五戸の壮麗な楼閣が姫宮の視線の先に聳 え立つ。
「あれが朱雀門でございます。その先は宮城の外となりますよ」
「……凄い……。前に通ったときは車の御簾から外を覗いていただけで見上げることなんてできなかったから、こんなに立派な建物だって分からなかったわ。大きい屋根ねえ。組物だってこんなに派手で……。丹塗りの赤と白壁で目に眩しいくらい……」
翠令は、「お口が回る」姫宮が饒舌にその感動をお続けになると思っていた。けれども、姫宮はきゅっと口元を引き締めてお黙りになる。
「どうなさいました?」
姫宮は一言一言を区切りながら口にされた。
「この大きな御門も、どの建物も、みんな帝のためなのよね……」
「……」
「帝になるって大変なことね……。うん、来てよかった。ちゃんと大きさを知ることが出来て良かった」
姫宮はご自分に一つ頷いてから再び歩き出された。きゅっと翠令の手を握る御手に力がこもっている。
帝の位の重さを改めてお感じになったのかと、翠令は姫宮のこのような聡明さを少し痛々しく感じた。その一方、ここで単に「大きい、凄い」で済ませないところこそ未来の帝の器だと身びいきなことも思う。
朱雀門の辺りに衛門府の武人がいたが、そこを過ぎると公の武人はいなくなる。姫宮の御身の護衛は翠令の双肩にかかっており、彼女は気を引き締めて姫宮のお手をぎゅっと握りしめた。
翠令は姫宮の周囲に細心の注意を払いつつ、視線で大学寮の入り口を探して敷地の中に入る。
しかしながら、翠令にとって初めて訪れる場所なので勝手が分からない。大小さまざまな建物はそれぞれ何なのか……。突き当たりにある築地塀の左右どちらに行けば、その向こう側に行くことができるのか……。
歩き回ろうにも敷地の全体像が分からないため身動きが取りづらい。そこで、行き交う学生たちに声を掛けて案内を乞おうとするのだが……。女童連れの女武人という場違いな存在を、皆は珍しそうに一瞥するだけでさっさと歩み去ってしまう。
困惑して立ち尽くす翠令の背に声がかかった。
「おやまあ、翠令殿じゃありませんか」
ふりむくと白髪頭に髭を長く伸ばした老人が立っている。
「ああ!」
先日、佳卓 に付き従って昭陽舎を訪れた正智 という文官だった。確か元は尾治国 の地方官吏で、今は佳卓の軍吏として大学寮で調べ物を任されていたはず……。
「正智殿、助かりました。読みたい本があって大学寮まで来たのですが、どこへどう行けばいいのか分からず困っていたんです」
「ほうほう、それは翠令殿が読むんですか? それとも、こちらの……」
正智は声に大げさな抑揚をつけながら屈みこんで姫宮のお顔を覗き込んだ。そして、声を潜めて白い髭の中からそうっと悪戯っぽく囁く。
「女童のふりをした……姫宮がお読みになる?」
姫宮は首を竦めてクスクスお笑いになられた。
「ばれちゃった?」
「ほほ。あまり年寄りを驚かせるものじゃあありませんよ」
別に正智には驚いた風もないのに……と翠令は苦笑する。
姫宮は正智を覚えていらっしゃらなかった。彼が昭陽舎に来た時は、姫宮が初めて御所風の装束をお召しになったり愛犬ハクと再会されたりで殿上が慌ただしかったのだ。
「あなたは大学寮の先生?」
自分について問われた正智はその場にしゃがみ、そして姫宮を見上げた。
「いやいや、私は近衛大将佳卓様の軍吏を務める正智と申します。私は頭脳であの方をお支えしなければなりませんから、こちらで一生懸命勉強しておりますよ。これからは姫宮とご学友になりますな」
「お友達、なのね?」
「書物を読む仲間という意味では、そうなりますな。さて、姫宮は何をお読みなりたいのでございます?」
「ええと、私、風土記を読みたいの」
「ほう、風土記」
正智は破顔した。
「それではあちらの建物でございますね。さあ、ついておいでなさいまし」
正智がにこやかに問いかける。
「なんでまた姫宮は風土記を読みたいとお思いになられたんです?」
「円偉 が紀行文をくれたのだけれど……。あちこちの国に旅行に行ったのは分かるんだけど、その地方のことが今一つ良く分からなくて」
「なるほど、姫宮はあちこちの土地についてお知りになりたいとお思いですか……。では、説話集などもいかがです?」
「説話集は子供向けよ。大人のためのこんな立派な学問所に置いてあるの?」
「ああ、確かに大学寮にはございません。ですが、爺の私宅にいっぱいございますよ」
姫君は何気なくお尋ねになられた。
「あら、小さい子供が家に居るの? お孫さん?」
正智は足を止め、腹を抱えて笑い始めた。
「ふふふ……。この爺はいまだに所帯の一つも持ったことはございません。なんせ、人使いの荒い佳卓様にくっついて東国とこの京の都を行ったり来たりしておりましたのでね。孫などもいないのでございますよ。説話集は、この爺が蒐集したものです」
「貴方が読むの?」
「さようでございますとも。軍というのは世間で嫌われるものですからね。相手に好かれるにはこちらから相手のことを知らねばなりません。そのためには、その土地のことを語り伝えた話を読むのが一番です。説話集は、庶民の暮らしを伝える第一級の資料と申せましょう」
姫宮はうんうんと頷かれる。翠令もなるほどと納得した。そして、国が公に集めずとも私費を投じて揃える点に、正智の仕事への誇りと意気込みを感じる。
風土記をおさめた小さな書庫に着くと、正智が扉を開けた。人の気配がなく黴臭い。開いた扉から差し込んだ春の陽光にはしゃぐように、埃がきらきら輝きながら宙を舞う。
「どうぞ」と正智が風土記の並べられた書架の前までご案内差し上げ、姫宮は何冊かを手に取られた。ぱらぱらとご覧になられて、明るい顔で正智におっしゃる。
「こういうのを読みたかったの! その土地の産物とか言い伝えとか……。そうそう、この頁にある土地が肥えているかどうかって記録は、税を納めさせる側からするとすごく重要なことじゃない?」
「さようでございますとも」
「なのにこの部屋には来る人が少ないの? なんだか埃っぽいけど」
正智は肩を竦めた。
「大学では高尚な学問が好まれますのでね。学生は天道がどうとか哲学的な内容が好きで、風土記なんぞに用があるのは今時この爺くらいなものでしょうかねえ……」
「みんな、『天子は徳を備えて仁政を敷くように』って言うわね」
「そうそう、立派な書物が『武力で民をねじ伏せるのは覇道に過ぎず、王の徳でもって民をおさめる王道こそが重要』と言いますからね。そして『王が徳を備え仁政を施せば、民は王を慕って心服する』ってことになってますねえ……まあ一応は」
どこか含みのある正智の言い方に、姫宮も共犯めいた忍び笑いを漏らされた。
「そうみたいね。私がそれを聞くのは四回目よ。円偉から二回、左大臣から一回聞いたもの」
「これからも延々同じ事が聞けますよ。何しろ大学寮で学んだ文官たちには円偉様の心酔者が多くおりますからね」
「正智はそう思わないの?」
「理想としては立派なんじゃないでしょうかね。ほら、先帝が暴君でしたから、その反動もあるでしょうし」
「正智はああいうご本分かる?」
彼はは気持ちいいほどからからと笑った。
「いいえ、ちーっとも。爺は実用書ばかり読みますのでね」
「実用書?」
未来の帝は、この元地方官吏に興味を惹かれていくようだ。
「こういう風土記も哲学よりは実用的ですし。他にも爺は医術や灌漑なんかの土木技術も調べてますよ」
翠令が尋ねた。
「医術や土木術まで? 軍吏殿が戦場の地形や有力豪族の勢力分布を知るのに、その地方の歴史地理を把握するのは分かりますが……」
正智が微笑む。
「戦は終わってからが大変なんですよ」
「……?」
「もともと戦ってのは相手を統治するためにするもんですし、そして統治が上手くいかなければ戦になるんです」
「……」
「統治するというのは平たく言えば税を取るってことです。その税に見合う何かを与えなければなりません。東国に赴いて平定したら、そこで何か具体的に役に立って見せなくてはならんのですよ」
翠令にも答えが見えて来た。
「つまり病人を治したり灌漑設備を作ったり?」
「そうそう。民がまず望んでいるのは安寧と豊かさです。それをもたらさないまま、武力で居座っていても限界があります。限界が来るとどうなると思います?」
「ええと……」
「見返りを与えなければ不満が募る。口喧嘩で済んでくれりゃあ結構ですが、刀を交えて命の遣り取りになります。爺は武芸が出来るわけでなし、戦になっては困るんですよ。だから必死で実用的な知識を搔き集めて東国に持っていくんです」
「なるほど」
姫宮も真面目な顔をなさっている。
「そうね、そういうのも大事よね……」
「まあ、徳も大事かもしれませんがね。ただ、佳卓様は徳とはあまり縁のない御仁。あんな方でも東国統治はなかなかお上手なんでございますよ」
翠令は吹き出した。
「上官をあんな方とおっしゃるか」
姫宮も同調して転げるような笑い声を立てた。
「ひどいわねえ」
その可愛らしいお声が人の注意を引いたのだろうか。建物の戸口で男の声がした。
「なんだあ? 開けっ放しだぞ?」
連れらしき別の男の声もする。
「妙だな」
そして、がたがたと戸を閉めようとする音が聞こえた。敏捷な翠令が素早く声を上げながらそちらに向かう。
「済みません。人が中にいるんです。戸は開けておいてください」
翠令が外に出ると、戸口には二人の男がいた。
「お前は誰だ? 何をしている?」
「私は翠令と申す東宮様の護衛です。東宮様のために本を借りに参りました」
相手は揃って怪訝そうな顔をする。
「東宮様が読むような本はここにはないがね」
「風土記をお借りしに来ました」
「風土記ぃ?」
彼らは顔を見合わせ、仲間同士で頷き合う。
「東宮は子どもだそうじゃないか。まだ、ちゃんとした本は読めないんだよ」
「女なんだろ。仮名しか読めないから、とりあえず単純な事実しか書かれていない風土記から読んでみようと思ったんじゃないか」
一人が翠令に向き直った。
「おい、女、天子には徳が必要なんだ。仁政でもって民に慕われなくちゃならん。もっと内容のある本を読むよう東宮様に言っておけ」
翠令は心の中だけで「それを聞くのはもう五度目だ」と呟いた。
男の一人が顎をしゃくって見せる。
「ほら、哲学書はあっちの建物にある。ついてこい」
「いえ、私は今日のところは風土記を借り受けに来ただけですので」
「だからそんなくだらないものは必要ないって言ってるだろ」
ですが、と翠令は抗議した。
「もちろん徳についてしっかり学ぶことも大事だと思います。けれど、それだけでは現実の民の姿が見えないのではないですか?」
意外なことに、その翠令の言葉に相手は大きく頷く。
「もちろんだ。我々は書物の世界に閉じこもっていては駄目だ」
「京の都にじっとしてるのではなく、鄙に出て民たちと触れ合わなければならん」
そして、彼らは円偉の名を挙げた。
「今の朝廷には円偉様という素晴らしい方がいらっしゃるぞ。燕の難解な書籍に通暁してらっしゃる上で、実地に民と交流を持とうとなされる」
「円偉は大学寮で目覚ましい成績を上げられたにもかかわらず、ご自分の学識に驕り高ぶることがない。むしろ無学な民の心の中にこそ正義や善があるとお思いだ」
「あの方の紀行文こそ読むべきだ。円偉様が純粋な心をお持ちだから、鄙に住む素朴な人々とも心温まる交流が生まれる。うん、仁の心があれば民に慕われるという哲学の素晴らしい実践例だ」
翠令はため息をついた。円偉の紀行文なら読んだ。円偉が善良な鄙の民を愛しているのも分かった。だが、彼の愛情は一方的で、相互の理解に欠けているように思える。円偉の思い入れは分かるが、その土地のことは分からない。姫宮のお言葉でいえば「あちこちの国に旅行に行ったのは分かるんだけど、その土地のことが今一つ良く分からない」のだ。
「東宮様も民の暮らしを知りたいとお思いです、だから風土記を借りようと……」
男達がせせら笑う。
「円偉様はそんな実用書を読む暇があれば燕の優れた君主論を読むよう後輩の学生におっしゃるね。風土記などのような冷たい観察ではなく、民にどのように温かい気持ちを持つかが、国の政治を行う上で大事なことだからね」
「うんうん。民を心で理解しなければね。地図や数字なんかの資料ばかり眺めていても、そこに仁は説かれていないのだし」
事実を客観的に記述する史資料を冷たい観察に過ぎないといい、そんな観察者の立場を離れて民と心のこもった交流をするべきだと学生たちは言うが……。だが、そういう者達は相手を観察すらしていないと翠令は感じる。
自分たちがいかに徳を備えた人物であり得るかが直接の関心事であり、民は自分たちの徳の高さを彩る脇役だとしか思っていないのではないか。そして、それを独善と言わないだろうか。もっと、現実の民が必要としていることに思いを致すべきではないのか。
「実用的な知識も必要ではないですか? 民に安寧と豊かさをもたらすためには」
翠令の問いかけは、ここでも相手と噛み合わない。
「安寧や豊かさ? 鄙びた土地は京の都のように俗にまみれていなくて、人間らしい暮らしが息づいているじゃないか。確かに着るものや食べ物が粗末だったりするかもしれないが、人間の幸せは物質的な豊かさじゃない。便利で快適になれば表面上の幸せは得られるかもしれないが、本当の人間らしさを忘れてしまうものだよ」
「そうだそうだ。本当に大事なのは心の豊かさだよ」
翠令は徒労感を覚え始めるが、賛成できない意見には賛成できかねると返すしかない。
「心の豊かさも大事でしょう。ですが……」
苛立っているのは相手も同じようだった。
「さっきから口答えばっかりだな、女」
相手は、これまでの話題と関係がない翠令の服装に気を留めた。
「お前、その格好は武人のつもりか?」
「ああ、聞いたぞ。女武人が東宮と一緒にいるって」
そして、話は翠令の思ってもみなかった方向に向かう。
「武人だから佳卓びいきなのか?」
「は?」
「円偉様の立派さを理解できないなんて。佳卓側の人間だな」
「……」
円偉自身は佳卓に好意的であり、佳卓も円偉を評価している。しかし、下っ端連中はこの二人を対立させて考えがちだとは翠令も聞いていた。
──そうか、こういうことか。
自分たちに同調しない人間を前にしたとき、そこで自分たちの方に改善点があると考えるよりも、相手が誰かに唆されていたり騙されていたりすると考える方が快適なのだ。円偉と対立する誰かを仮想敵と見立てて攻撃することで、自分たちの欠けたところから目を逸らそうそしている。
「佳卓は大学寮で円偉様と同じような成績を上げたこともあったそうだが、学問に背を向けて下らぬ戦ごっこに精を出している」
「同じ土俵で争いたくないから逃げているんだ」
「身分で劣る円偉様が自分以上の才能の持ち主なのが妬ましいんだろうな」
佳卓は奇矯な人物だが、そうだからこそ、そんな分かりやすくありきたりな感情など持ちそうにない。彼が皮肉な笑みを浮かべて「嫉妬?」と鼻で笑う光景が目に浮かぶようだ。
「あのお方はそんなつまらぬ嫉妬はなさらない」
男達は取り合わない。
「お前は武人だから佳卓の息がかかっているんだろう。まあ、お前はどうでもいい。だが、お前みたいなのがいると東宮まで佳卓びいきになるんじゃないか」
「そんな……。東宮様は依怙贔屓すまいとお考えだ」
男は翠令を指さし、低い声で唸るように言った。
「いいや。既にお前が東宮の『守刀』などと持ち上げられて特別扱いされている」
もう一人も妙に据わった目を翠令に向ける。
「女の身で武人になろうとするくらいだから、武人の長に阿 るだろう。東宮にも佳卓を引き立てろと頼むに違いない」
彼らの目の色と口調が最初の頃から変わっていることに翠令は気づいた。翠令を学のない相手と見下していたその余裕が今は消え、自分たちの何かが脅かされているという不安と緊張が態度に滲む。
円偉と双璧と称される佳卓。その佳卓が、東宮と結びついて権力を掌握したらどうなるか。彼らが円偉に追従することで得られるはずの地位や名望、それに収入……つまり安寧と豊かさが失われてしまうのだ。彼らはそんな恐怖に取りつかれているに違いない。
「……」
「……」
先程まで滑らかに動いていた彼らの口が閉ざされている。その沈黙が不穏なものをはらむ。
しかし、翠令にも発すべき言葉は見つからない……。
姫宮はその
畏れ多くも翠令が手を繋いで横を歩く。誰かに問われたら、昭陽舎の女童を連れて翠令が大学寮まで本を借りに行くのだと答えることになっていた。
内裏を抜けて、翠令が「もう、よろしゅうございますよ」とお声がけすると、姫宮はパッと顔を上げてキョロキョロ辺りをご覧になる。
「
おじさん
ばかりね……」大内裏の中は官衙が並び、朝服を着た官人たちがそれぞれの仕事のために歩き回っている。確かに壮年の男性が多い。若い男もちらほらいるが、御年十の姫宮はあまり大人の年齢の区別がよくお分かりではないだろう。大人の男性はみな「おじさん」なのだ。
翠令は苦笑しながら姫宮に話しかけた。
「お疲れではありませんか?」
「どうして? ちょっと歩いただけじゃない」
確かに姫宮にとって大した距離ではない。ただ、竹の宮の姫君であれば自分の足で内裏の外にすら出ることは難しい──いや、到底出来ないだろう。
少しぼんやりとしていた翠令の手を、姫宮ははしゃぐように引っ張られた。
「それよりもっと急ぎましょうよ。何があるのかわくわくするもの!」
姫宮が小走りされるので、翠令も引きずられるように大股の早足で姫宮に並ぶ。
その姫宮の足がぱたりと止まった。
「あれはなあに?」
七間五戸の壮麗な楼閣が姫宮の視線の先に
「あれが朱雀門でございます。その先は宮城の外となりますよ」
「……凄い……。前に通ったときは車の御簾から外を覗いていただけで見上げることなんてできなかったから、こんなに立派な建物だって分からなかったわ。大きい屋根ねえ。組物だってこんなに派手で……。丹塗りの赤と白壁で目に眩しいくらい……」
翠令は、「お口が回る」姫宮が饒舌にその感動をお続けになると思っていた。けれども、姫宮はきゅっと口元を引き締めてお黙りになる。
「どうなさいました?」
姫宮は一言一言を区切りながら口にされた。
「この大きな御門も、どの建物も、みんな帝のためなのよね……」
「……」
「帝になるって大変なことね……。うん、来てよかった。ちゃんと大きさを知ることが出来て良かった」
姫宮はご自分に一つ頷いてから再び歩き出された。きゅっと翠令の手を握る御手に力がこもっている。
帝の位の重さを改めてお感じになったのかと、翠令は姫宮のこのような聡明さを少し痛々しく感じた。その一方、ここで単に「大きい、凄い」で済ませないところこそ未来の帝の器だと身びいきなことも思う。
朱雀門の辺りに衛門府の武人がいたが、そこを過ぎると公の武人はいなくなる。姫宮の御身の護衛は翠令の双肩にかかっており、彼女は気を引き締めて姫宮のお手をぎゅっと握りしめた。
翠令は姫宮の周囲に細心の注意を払いつつ、視線で大学寮の入り口を探して敷地の中に入る。
しかしながら、翠令にとって初めて訪れる場所なので勝手が分からない。大小さまざまな建物はそれぞれ何なのか……。突き当たりにある築地塀の左右どちらに行けば、その向こう側に行くことができるのか……。
歩き回ろうにも敷地の全体像が分からないため身動きが取りづらい。そこで、行き交う学生たちに声を掛けて案内を乞おうとするのだが……。女童連れの女武人という場違いな存在を、皆は珍しそうに一瞥するだけでさっさと歩み去ってしまう。
困惑して立ち尽くす翠令の背に声がかかった。
「おやまあ、翠令殿じゃありませんか」
ふりむくと白髪頭に髭を長く伸ばした老人が立っている。
「ああ!」
先日、
「正智殿、助かりました。読みたい本があって大学寮まで来たのですが、どこへどう行けばいいのか分からず困っていたんです」
「ほうほう、それは翠令殿が読むんですか? それとも、こちらの……」
正智は声に大げさな抑揚をつけながら屈みこんで姫宮のお顔を覗き込んだ。そして、声を潜めて白い髭の中からそうっと悪戯っぽく囁く。
「女童のふりをした……姫宮がお読みになる?」
姫宮は首を竦めてクスクスお笑いになられた。
「ばれちゃった?」
「ほほ。あまり年寄りを驚かせるものじゃあありませんよ」
別に正智には驚いた風もないのに……と翠令は苦笑する。
あの
佳卓の麾下なら、常識外れの事態に直面しても、もう慣れっこなのかもしれない。姫宮は正智を覚えていらっしゃらなかった。彼が昭陽舎に来た時は、姫宮が初めて御所風の装束をお召しになったり愛犬ハクと再会されたりで殿上が慌ただしかったのだ。
「あなたは大学寮の先生?」
自分について問われた正智はその場にしゃがみ、そして姫宮を見上げた。
「いやいや、私は近衛大将佳卓様の軍吏を務める正智と申します。私は頭脳であの方をお支えしなければなりませんから、こちらで一生懸命勉強しておりますよ。これからは姫宮とご学友になりますな」
「お友達、なのね?」
「書物を読む仲間という意味では、そうなりますな。さて、姫宮は何をお読みなりたいのでございます?」
「ええと、私、風土記を読みたいの」
「ほう、風土記」
正智は破顔した。
「それではあちらの建物でございますね。さあ、ついておいでなさいまし」
正智がにこやかに問いかける。
「なんでまた姫宮は風土記を読みたいとお思いになられたんです?」
「
「なるほど、姫宮はあちこちの土地についてお知りになりたいとお思いですか……。では、説話集などもいかがです?」
「説話集は子供向けよ。大人のためのこんな立派な学問所に置いてあるの?」
「ああ、確かに大学寮にはございません。ですが、爺の私宅にいっぱいございますよ」
姫君は何気なくお尋ねになられた。
「あら、小さい子供が家に居るの? お孫さん?」
正智は足を止め、腹を抱えて笑い始めた。
「ふふふ……。この爺はいまだに所帯の一つも持ったことはございません。なんせ、人使いの荒い佳卓様にくっついて東国とこの京の都を行ったり来たりしておりましたのでね。孫などもいないのでございますよ。説話集は、この爺が蒐集したものです」
「貴方が読むの?」
「さようでございますとも。軍というのは世間で嫌われるものですからね。相手に好かれるにはこちらから相手のことを知らねばなりません。そのためには、その土地のことを語り伝えた話を読むのが一番です。説話集は、庶民の暮らしを伝える第一級の資料と申せましょう」
姫宮はうんうんと頷かれる。翠令もなるほどと納得した。そして、国が公に集めずとも私費を投じて揃える点に、正智の仕事への誇りと意気込みを感じる。
風土記をおさめた小さな書庫に着くと、正智が扉を開けた。人の気配がなく黴臭い。開いた扉から差し込んだ春の陽光にはしゃぐように、埃がきらきら輝きながら宙を舞う。
「どうぞ」と正智が風土記の並べられた書架の前までご案内差し上げ、姫宮は何冊かを手に取られた。ぱらぱらとご覧になられて、明るい顔で正智におっしゃる。
「こういうのを読みたかったの! その土地の産物とか言い伝えとか……。そうそう、この頁にある土地が肥えているかどうかって記録は、税を納めさせる側からするとすごく重要なことじゃない?」
「さようでございますとも」
「なのにこの部屋には来る人が少ないの? なんだか埃っぽいけど」
正智は肩を竦めた。
「大学では高尚な学問が好まれますのでね。学生は天道がどうとか哲学的な内容が好きで、風土記なんぞに用があるのは今時この爺くらいなものでしょうかねえ……」
「みんな、『天子は徳を備えて仁政を敷くように』って言うわね」
「そうそう、立派な書物が『武力で民をねじ伏せるのは覇道に過ぎず、王の徳でもって民をおさめる王道こそが重要』と言いますからね。そして『王が徳を備え仁政を施せば、民は王を慕って心服する』ってことになってますねえ……まあ一応は」
どこか含みのある正智の言い方に、姫宮も共犯めいた忍び笑いを漏らされた。
「そうみたいね。私がそれを聞くのは四回目よ。円偉から二回、左大臣から一回聞いたもの」
「これからも延々同じ事が聞けますよ。何しろ大学寮で学んだ文官たちには円偉様の心酔者が多くおりますからね」
「正智はそう思わないの?」
「理想としては立派なんじゃないでしょうかね。ほら、先帝が暴君でしたから、その反動もあるでしょうし」
「正智はああいうご本分かる?」
彼はは気持ちいいほどからからと笑った。
「いいえ、ちーっとも。爺は実用書ばかり読みますのでね」
「実用書?」
未来の帝は、この元地方官吏に興味を惹かれていくようだ。
「こういう風土記も哲学よりは実用的ですし。他にも爺は医術や灌漑なんかの土木技術も調べてますよ」
翠令が尋ねた。
「医術や土木術まで? 軍吏殿が戦場の地形や有力豪族の勢力分布を知るのに、その地方の歴史地理を把握するのは分かりますが……」
正智が微笑む。
「戦は終わってからが大変なんですよ」
「……?」
「もともと戦ってのは相手を統治するためにするもんですし、そして統治が上手くいかなければ戦になるんです」
「……」
「統治するというのは平たく言えば税を取るってことです。その税に見合う何かを与えなければなりません。東国に赴いて平定したら、そこで何か具体的に役に立って見せなくてはならんのですよ」
翠令にも答えが見えて来た。
「つまり病人を治したり灌漑設備を作ったり?」
「そうそう。民がまず望んでいるのは安寧と豊かさです。それをもたらさないまま、武力で居座っていても限界があります。限界が来るとどうなると思います?」
「ええと……」
「見返りを与えなければ不満が募る。口喧嘩で済んでくれりゃあ結構ですが、刀を交えて命の遣り取りになります。爺は武芸が出来るわけでなし、戦になっては困るんですよ。だから必死で実用的な知識を搔き集めて東国に持っていくんです」
「なるほど」
姫宮も真面目な顔をなさっている。
「そうね、そういうのも大事よね……」
「まあ、徳も大事かもしれませんがね。ただ、佳卓様は徳とはあまり縁のない御仁。あんな方でも東国統治はなかなかお上手なんでございますよ」
翠令は吹き出した。
「上官をあんな方とおっしゃるか」
姫宮も同調して転げるような笑い声を立てた。
「ひどいわねえ」
その可愛らしいお声が人の注意を引いたのだろうか。建物の戸口で男の声がした。
「なんだあ? 開けっ放しだぞ?」
連れらしき別の男の声もする。
「妙だな」
そして、がたがたと戸を閉めようとする音が聞こえた。敏捷な翠令が素早く声を上げながらそちらに向かう。
「済みません。人が中にいるんです。戸は開けておいてください」
翠令が外に出ると、戸口には二人の男がいた。
「お前は誰だ? 何をしている?」
「私は翠令と申す東宮様の護衛です。東宮様のために本を借りに参りました」
相手は揃って怪訝そうな顔をする。
「東宮様が読むような本はここにはないがね」
「風土記をお借りしに来ました」
「風土記ぃ?」
彼らは顔を見合わせ、仲間同士で頷き合う。
「東宮は子どもだそうじゃないか。まだ、ちゃんとした本は読めないんだよ」
「女なんだろ。仮名しか読めないから、とりあえず単純な事実しか書かれていない風土記から読んでみようと思ったんじゃないか」
一人が翠令に向き直った。
「おい、女、天子には徳が必要なんだ。仁政でもって民に慕われなくちゃならん。もっと内容のある本を読むよう東宮様に言っておけ」
翠令は心の中だけで「それを聞くのはもう五度目だ」と呟いた。
男の一人が顎をしゃくって見せる。
「ほら、哲学書はあっちの建物にある。ついてこい」
「いえ、私は今日のところは風土記を借り受けに来ただけですので」
「だからそんなくだらないものは必要ないって言ってるだろ」
ですが、と翠令は抗議した。
「もちろん徳についてしっかり学ぶことも大事だと思います。けれど、それだけでは現実の民の姿が見えないのではないですか?」
意外なことに、その翠令の言葉に相手は大きく頷く。
「もちろんだ。我々は書物の世界に閉じこもっていては駄目だ」
「京の都にじっとしてるのではなく、鄙に出て民たちと触れ合わなければならん」
そして、彼らは円偉の名を挙げた。
「今の朝廷には円偉様という素晴らしい方がいらっしゃるぞ。燕の難解な書籍に通暁してらっしゃる上で、実地に民と交流を持とうとなされる」
「円偉は大学寮で目覚ましい成績を上げられたにもかかわらず、ご自分の学識に驕り高ぶることがない。むしろ無学な民の心の中にこそ正義や善があるとお思いだ」
「あの方の紀行文こそ読むべきだ。円偉様が純粋な心をお持ちだから、鄙に住む素朴な人々とも心温まる交流が生まれる。うん、仁の心があれば民に慕われるという哲学の素晴らしい実践例だ」
翠令はため息をついた。円偉の紀行文なら読んだ。円偉が善良な鄙の民を愛しているのも分かった。だが、彼の愛情は一方的で、相互の理解に欠けているように思える。円偉の思い入れは分かるが、その土地のことは分からない。姫宮のお言葉でいえば「あちこちの国に旅行に行ったのは分かるんだけど、その土地のことが今一つ良く分からない」のだ。
「東宮様も民の暮らしを知りたいとお思いです、だから風土記を借りようと……」
男達がせせら笑う。
「円偉様はそんな実用書を読む暇があれば燕の優れた君主論を読むよう後輩の学生におっしゃるね。風土記などのような冷たい観察ではなく、民にどのように温かい気持ちを持つかが、国の政治を行う上で大事なことだからね」
「うんうん。民を心で理解しなければね。地図や数字なんかの資料ばかり眺めていても、そこに仁は説かれていないのだし」
事実を客観的に記述する史資料を冷たい観察に過ぎないといい、そんな観察者の立場を離れて民と心のこもった交流をするべきだと学生たちは言うが……。だが、そういう者達は相手を観察すらしていないと翠令は感じる。
自分たちがいかに徳を備えた人物であり得るかが直接の関心事であり、民は自分たちの徳の高さを彩る脇役だとしか思っていないのではないか。そして、それを独善と言わないだろうか。もっと、現実の民が必要としていることに思いを致すべきではないのか。
「実用的な知識も必要ではないですか? 民に安寧と豊かさをもたらすためには」
翠令の問いかけは、ここでも相手と噛み合わない。
「安寧や豊かさ? 鄙びた土地は京の都のように俗にまみれていなくて、人間らしい暮らしが息づいているじゃないか。確かに着るものや食べ物が粗末だったりするかもしれないが、人間の幸せは物質的な豊かさじゃない。便利で快適になれば表面上の幸せは得られるかもしれないが、本当の人間らしさを忘れてしまうものだよ」
「そうだそうだ。本当に大事なのは心の豊かさだよ」
翠令は徒労感を覚え始めるが、賛成できない意見には賛成できかねると返すしかない。
「心の豊かさも大事でしょう。ですが……」
苛立っているのは相手も同じようだった。
「さっきから口答えばっかりだな、女」
相手は、これまでの話題と関係がない翠令の服装に気を留めた。
「お前、その格好は武人のつもりか?」
「ああ、聞いたぞ。女武人が東宮と一緒にいるって」
そして、話は翠令の思ってもみなかった方向に向かう。
「武人だから佳卓びいきなのか?」
「は?」
「円偉様の立派さを理解できないなんて。佳卓側の人間だな」
「……」
円偉自身は佳卓に好意的であり、佳卓も円偉を評価している。しかし、下っ端連中はこの二人を対立させて考えがちだとは翠令も聞いていた。
──そうか、こういうことか。
自分たちに同調しない人間を前にしたとき、そこで自分たちの方に改善点があると考えるよりも、相手が誰かに唆されていたり騙されていたりすると考える方が快適なのだ。円偉と対立する誰かを仮想敵と見立てて攻撃することで、自分たちの欠けたところから目を逸らそうそしている。
「佳卓は大学寮で円偉様と同じような成績を上げたこともあったそうだが、学問に背を向けて下らぬ戦ごっこに精を出している」
「同じ土俵で争いたくないから逃げているんだ」
「身分で劣る円偉様が自分以上の才能の持ち主なのが妬ましいんだろうな」
佳卓は奇矯な人物だが、そうだからこそ、そんな分かりやすくありきたりな感情など持ちそうにない。彼が皮肉な笑みを浮かべて「嫉妬?」と鼻で笑う光景が目に浮かぶようだ。
「あのお方はそんなつまらぬ嫉妬はなさらない」
男達は取り合わない。
「お前は武人だから佳卓の息がかかっているんだろう。まあ、お前はどうでもいい。だが、お前みたいなのがいると東宮まで佳卓びいきになるんじゃないか」
「そんな……。東宮様は依怙贔屓すまいとお考えだ」
男は翠令を指さし、低い声で唸るように言った。
「いいや。既にお前が東宮の『守刀』などと持ち上げられて特別扱いされている」
もう一人も妙に据わった目を翠令に向ける。
「女の身で武人になろうとするくらいだから、武人の長に
彼らの目の色と口調が最初の頃から変わっていることに翠令は気づいた。翠令を学のない相手と見下していたその余裕が今は消え、自分たちの何かが脅かされているという不安と緊張が態度に滲む。
円偉と双璧と称される佳卓。その佳卓が、東宮と結びついて権力を掌握したらどうなるか。彼らが円偉に追従することで得られるはずの地位や名望、それに収入……つまり安寧と豊かさが失われてしまうのだ。彼らはそんな恐怖に取りつかれているに違いない。
「……」
「……」
先程まで滑らかに動いていた彼らの口が閉ざされている。その沈黙が不穏なものをはらむ。
しかし、翠令にも発すべき言葉は見つからない……。