四十七 白狼、佳卓に頭を下げる(二)
文字数 4,464文字
「はあ? なんでだ?」
佳卓は正面からは答えない。
「貴族社会というのはとことん面倒にできていてね。当面は翠令と顔を合わせないようにしないといけない。少なくとも周囲に翠令と全く会っていないという体裁を取らなければならない」
「だからそれはなぜかと問うている。あんたたちは左近衛の上司と麾下だろ?」
「……だからだよ」
佳卓が酒杯に酒を注ぐ。白狼は「おい……」と声を掛けようとしたが、思いとどまった。これは深刻に何か考えを巡らせている顔だ。集中を途切れさせるようなことはしない方がいい。
白狼も黙って自分の酒瓶を傾けた。
佳卓がついっと視線を向け、ためらいがちに話し始める。
「錦濤 の姫宮と円偉 殿とが対立してね……」
何の話だ……とは思うが、佳卓のことだ、全く無関係な話題のはずがない。
「円偉ってのは朝廷であんたと並んで偉いと言われる、あの円偉か?」
「ああ、そうだ。文官の長の円偉殿だ。会議の席で姫宮と険悪になって、そこに翠令が割って入ろうとしたんだが……」
「なるほど、頭に血が上った翠令が嬢ちゃんを守ろうとしたんだな。その光景、目に浮かぶぜ」
「まあ、翠令の気持ちは分かるが。朝廷の重臣が顔を揃えている厳粛な場に一介の近衛舎人が怒鳴り込んで、後々、錦濤の姫宮にも翠令自身にも良いことは何一つないんでね」
「……」
「それで私が翠令を止めて、姫宮にもご意見を引っ込められるように説得申し上げた。姫宮は理が通れば、それは聞き分けられる聡明な方だ。しかし……」
「なんだ? どうした?」
「姫宮が私の言うことなら素直に聞いたという点が邪推を生んでね。私が、翠令と通じることで姫宮の寵を得て、円偉殿を勢力争いから蹴落とそうとしている……そう勘繰る空気がある……」
白狼は少し視線を中空に上げてから、嘆息とともに頷く。
「なるほどな……まあ、よくある状況だ」
「ほう?」
「同じくらいの器の人間が並び立っていると、どちらかがどちらかを出し抜くのではないかと疑心暗鬼 を生じる。あんたと翠令が親しくなると、嬢ちゃんがあんたを依怙贔屓 するんじゃないかと思われるわけだな」
「そうだ。翠令が私と姫宮の仲立ちをしているのではないかと疑われる。だから私は暫く彼女と接触しない。少なくともそう見えるようにはする。……それから……」
佳卓は何かを言いさして、やはり軽く俯いて視線を床に彷徨わせている。
「どうした、佳卓。あんたの中じゃ、俺に話すべき内容は決まってるんだろ? はっきり口にしちゃどうだ?」
「……」
「おい、聞こえてるか?」
佳卓は深く息を吐くと、意を決したように話し始めた。
「ここから先の話はお前も少し関係する」
白狼にとっては全くの想像の埒外だった。
「俺が? なぜ?」
「お前と竹の宮の姫君の間の何かあるのではないかという噂は京の貴族にも届いている」
白狼は眉を顰めた。
「何もない。何も起こりはしない」
「そうだろうとも。だが、円偉殿は不快だと思うだろうし、そして私やその周囲が白狼をけしかけて円偉殿を愚弄していると思うかもしれない」
「どういうことだ? 確かに、あのお姫様が俺なんかと噂になれば貴族に愉快じゃないだろうとは思う。あんたにも何かの迷惑がかかりそうで心苦しいとは感じてる。だが……円偉って奴がそこまで特別に神経を尖らせる理由が分からない」
「竹の宮の姫君は円偉殿の初恋の相手なのだ。だからだよ」
「……は?」
白狼は暫くぽかんとした後、指を数え始めた。
「おい、ちょっと待て。ええと……あの女は十歳くらいの頃に御所からこの竹の宮に移ったと聞いているぞ。円偉って奴が朝廷で顔を合わせたとしても十年近く昔のことじゃないのか?」
「真面目な方だから初恋を引きずっておいでだろう」
「いや、その初恋がどうだって話だが。その円偉って奴は今いくつだ?」
「私より一回りくらい年上だね」
「おい……。あの女と円偉とでは全然年齢が違うだろう……。いや、大人になってから年の離れた男女でくっつくこともあるが……。円偉があの女を見て惚れたってのは、あの女がまだ小さな餓鬼だったころじゃないか」
「餓鬼と言うな。『姫君』だ。本来なら『姫宮』とお呼びすべき皇女であらせられるぞ」
「要は童だってことだ。で、そんな女童に初恋だと?」
「禍々しいほどお美しい少女でいらしたからね」
「は!」
白狼は太くて大きい声を出した。
「気色の悪い男だな。美しいからってだけで年端も行かない餓鬼に惚れるのか?」
「餓鬼と言うな……」
「餓鬼は餓鬼でしかないさ。例えば、俺は錦濤の嬢ちゃんのことを大器だと期待はしてるが、いかんせんまだ幼い。箒で賊をやっつけられると思っている可愛い餓鬼だ。餓鬼ってのはまだ大人の相手じゃない。そんな未熟者相手に周囲の大人のするべきことは見守ってやり、間違えそうなときに正してやることだ」
「……」
「それなのに円偉って奴は……。餓鬼の見た目がきれいだからっていい年こいた大の男が惚れただと? そんなに美しい女童が好きなら物言わぬ人形でも抱いて寝てればいいだろうに」
「まあ、ね……」
「それから、そいつはかなり頭が悪い」
佳卓がこめかみを指で押さえる。
「円偉殿は頭が悪いどころか……当代随一の知識人でいらっしゃるが……」
白狼は大きく首を振った。
「いいや、馬鹿だとしか思えんな。あの女が何で心を病んでこの竹の宮に来たか、そいつは分かってるのか? 十歳になるかならないかの時に男に襲われたからだぞ」
白狼は声を大にする。きっと、あの女もこう考えるはずだ。
「美しいからって理由だけで子どもの自分に惚れるなんて、あの女からすれば気色悪いに決まっているだろう! あの女が一番嫌う話だ。いったい円偉って奴は、あの女を襲った醜い豺虎 と何が違うって言うんだ?」
佳卓が顎を引く。
「そう……そうだな。……余り考えたことがなかったが……確かにそうだ」
白狼が首を傾げた。
「考えたことがない? 何でだ? 円偉もあんたも、ちょっとでもあの女の気持ち思いやればすぐに分かることだろうに」
「それは……そうだ。そう言われればなぜだろう……?」
こんな当たり前のことを考えたことがないというのは、白狼には不思議でならない。
「あんたにも分からないことがあるのか」
「そりゃそうさ。分かることと分からないこととでは分からないことの方が多いさ」
「……」
佳卓は少し考えた。
「なんとなく四角四面な円偉殿の悲恋という感じでとらえていた。しかし、白狼の言うとおり、姫君の立場に視点を移してみれば、円偉殿にとっては美しい初恋でも姫君はにとっては……いや、傍 から見ても”気色悪い”話ではあるな、うん……」
「だろう?」
「それに思い至らなかったのは……私が姫君を『餓鬼』とお呼びしようなんて到底思わなかったからというのもあるだろうね。餓鬼という言葉はともかく、姫君が御年十歳であられたことに想像力が及ばなかった。自分ではそのつもりだったが、何かが足りなかった……」
「そうだ。十歳と言えば、あの嬢ちゃんと同じくらいの齢だ。あの嬢ちゃんののびのびとした様子と比べて見ろ。餓鬼には、餓鬼でいる間は、餓鬼でいられる自由も権利もあるはずだ。なのに、美しいからってだけで男から欲望の眼差しで見られるのは、あの女が不憫だろう」
「餓鬼餓鬼と連呼するな……と言いたいが。姫君を餓鬼呼ばわりするお前が現れたことは姫君にとって幸いなのかもしれないな」
「今までが不幸で今が普通だ。……あの女には幸せだった時期の方がうんと少ないんだな……」
あの女が心安らかに幸せで過ごせたのは、父と兄に守られていた幼少期だけだろう。父親と少女の内に死に別れるのはまだしも、自分を狙う叔父に兄を奪われたのは理不尽なことだ。
「あの女は、餓鬼でいられる時間まで奪われたんだな……。だから、今でも『父様 、兄様 』と口にする……。そいつらに守られていた子どもの頃を取り戻したいんだろう……」
「それは……あるだろうね。何とも痛ましい話だ……」
白狼はたまらず頭を下げた。
「もう一度、改めてお前に頼む」
「白狼……」
「あの女に、もう少しだけこの時間を楽しませてやってくれ。本当の父も兄もいないが、今から暫く間、俺を父や兄代わりして子ども時代を取り戻そうとしたって、あの女に罰は当たらないだろう」
「……」
佳卓が黙っているのは、いつまでも続けられることではないと思うから返事を渋っているのかもしれない。だが、白狼だってそれくらいは分かっている。
「この先ずっとという訳じゃない。俺もそれは良くないと思う。事情が事情とは言え、いつまでも大人が子供時代を懐かしむものじゃないからな。それに俺は父でも兄でもない。だから、この親子ごっこもいつかは終わる」
涼風が吹き過ぎて行った。昼日中 の気温が高くとも、夜が更ければこんな風も立つ。夏はいつまでも続くわけではない。
「秋までだ。秋になったら。木の葉が色づくようになる頃には……。そうだな、佳卓が近衛で俺に仕事が出来たとかなんとか理由を付けて、京に俺を呼び戻してくれ」
「それは……いずれ……。だが、お前は? お前だって姫君を恋……」
白狼はきっぱりと佳卓を遮った。
「俺のことは構わない」
「……」
自分に代わって辛そうな顔をする佳卓を励ましてやりたいと、白狼は思う。
「俺は小役人なんぞに向いていない。俺はついこの間まで手下を率いて好き勝手に生きていた。あんまり暮らしが変わっちまったんで、正直、疲れた。あの女が落ち着いて暮らせるようになるのを見届けたら、少し自由になりたい」
佳卓は小さく息を吐いた。
「そうか。そうだな。お前に似合わない生活で窮屈だったろう。少し休暇を取った方がいいかもしれないな。私の方もお前が過ごしやすそうな職を探しておく」
白狼は自分の杯をくいっと干した。
「よろしく頼むぜ」
佳卓も「ああ」と返してから、自分の杯を卓に置いた。
「まあ、当面は大丈夫だ。まだ円偉殿と姫宮とで小さな対立があったというだけだからね。翠令も謹慎させているし、静観していれば時間が解決してくれるかもしれない。朝廷の方が落ち着けば、竹の宮のお前の噂もそう耳目を集めなくて済むだろう」
「そうか……」
「少なくとも季節が変わるまで、お前と姫君との間を誰も引き裂かないよ。それまで……どういったらいいのか分からないが……悔いのないよう過ごしてくれ……」
「おう……」
白狼は杯を重ねる。胸の奥からこんこんと湧き出る寂しい気持ちを飲み下しながら。
一方で、自分を慰めるために頭の中で独り言ちる。
──しかし、何も今すぐあの女と別れなければならないわけではない。
この竹の宮に来たのは緑の香り高い初夏の頃。梅雨を過ぎ、盛夏が終わると、あとは秋の訪れとともに日々の気温が少しずつ下がっていくようになる。それに合わせて、己の気持ちと徐々に折り合いをつけていけばいい。
そして、終わりの気配を涼風に感じ取れるとは言え、まだまだ草いきれが残る晩夏の夜。未来の秋を想像するのはどこか遠くて実感の湧かない話でもあった。
佳卓は正面からは答えない。
「貴族社会というのはとことん面倒にできていてね。当面は翠令と顔を合わせないようにしないといけない。少なくとも周囲に翠令と全く会っていないという体裁を取らなければならない」
「だからそれはなぜかと問うている。あんたたちは左近衛の上司と麾下だろ?」
「……だからだよ」
佳卓が酒杯に酒を注ぐ。白狼は「おい……」と声を掛けようとしたが、思いとどまった。これは深刻に何か考えを巡らせている顔だ。集中を途切れさせるようなことはしない方がいい。
白狼も黙って自分の酒瓶を傾けた。
佳卓がついっと視線を向け、ためらいがちに話し始める。
「
何の話だ……とは思うが、佳卓のことだ、全く無関係な話題のはずがない。
「円偉ってのは朝廷であんたと並んで偉いと言われる、あの円偉か?」
「ああ、そうだ。文官の長の円偉殿だ。会議の席で姫宮と険悪になって、そこに翠令が割って入ろうとしたんだが……」
「なるほど、頭に血が上った翠令が嬢ちゃんを守ろうとしたんだな。その光景、目に浮かぶぜ」
「まあ、翠令の気持ちは分かるが。朝廷の重臣が顔を揃えている厳粛な場に一介の近衛舎人が怒鳴り込んで、後々、錦濤の姫宮にも翠令自身にも良いことは何一つないんでね」
「……」
「それで私が翠令を止めて、姫宮にもご意見を引っ込められるように説得申し上げた。姫宮は理が通れば、それは聞き分けられる聡明な方だ。しかし……」
「なんだ? どうした?」
「姫宮が私の言うことなら素直に聞いたという点が邪推を生んでね。私が、翠令と通じることで姫宮の寵を得て、円偉殿を勢力争いから蹴落とそうとしている……そう勘繰る空気がある……」
白狼は少し視線を中空に上げてから、嘆息とともに頷く。
「なるほどな……まあ、よくある状況だ」
「ほう?」
「同じくらいの器の人間が並び立っていると、どちらかがどちらかを出し抜くのではないかと
「そうだ。翠令が私と姫宮の仲立ちをしているのではないかと疑われる。だから私は暫く彼女と接触しない。少なくともそう見えるようにはする。……それから……」
佳卓は何かを言いさして、やはり軽く俯いて視線を床に彷徨わせている。
「どうした、佳卓。あんたの中じゃ、俺に話すべき内容は決まってるんだろ? はっきり口にしちゃどうだ?」
「……」
「おい、聞こえてるか?」
佳卓は深く息を吐くと、意を決したように話し始めた。
「ここから先の話はお前も少し関係する」
白狼にとっては全くの想像の埒外だった。
「俺が? なぜ?」
「お前と竹の宮の姫君の間の何かあるのではないかという噂は京の貴族にも届いている」
白狼は眉を顰めた。
「何もない。何も起こりはしない」
「そうだろうとも。だが、円偉殿は不快だと思うだろうし、そして私やその周囲が白狼をけしかけて円偉殿を愚弄していると思うかもしれない」
「どういうことだ? 確かに、あのお姫様が俺なんかと噂になれば貴族に愉快じゃないだろうとは思う。あんたにも何かの迷惑がかかりそうで心苦しいとは感じてる。だが……円偉って奴がそこまで特別に神経を尖らせる理由が分からない」
「竹の宮の姫君は円偉殿の初恋の相手なのだ。だからだよ」
「……は?」
白狼は暫くぽかんとした後、指を数え始めた。
「おい、ちょっと待て。ええと……あの女は十歳くらいの頃に御所からこの竹の宮に移ったと聞いているぞ。円偉って奴が朝廷で顔を合わせたとしても十年近く昔のことじゃないのか?」
「真面目な方だから初恋を引きずっておいでだろう」
「いや、その初恋がどうだって話だが。その円偉って奴は今いくつだ?」
「私より一回りくらい年上だね」
「おい……。あの女と円偉とでは全然年齢が違うだろう……。いや、大人になってから年の離れた男女でくっつくこともあるが……。円偉があの女を見て惚れたってのは、あの女がまだ小さな餓鬼だったころじゃないか」
「餓鬼と言うな。『姫君』だ。本来なら『姫宮』とお呼びすべき皇女であらせられるぞ」
「要は童だってことだ。で、そんな女童に初恋だと?」
「禍々しいほどお美しい少女でいらしたからね」
「は!」
白狼は太くて大きい声を出した。
「気色の悪い男だな。美しいからってだけで年端も行かない餓鬼に惚れるのか?」
「餓鬼と言うな……」
「餓鬼は餓鬼でしかないさ。例えば、俺は錦濤の嬢ちゃんのことを大器だと期待はしてるが、いかんせんまだ幼い。箒で賊をやっつけられると思っている可愛い餓鬼だ。餓鬼ってのはまだ大人の相手じゃない。そんな未熟者相手に周囲の大人のするべきことは見守ってやり、間違えそうなときに正してやることだ」
「……」
「それなのに円偉って奴は……。餓鬼の見た目がきれいだからっていい年こいた大の男が惚れただと? そんなに美しい女童が好きなら物言わぬ人形でも抱いて寝てればいいだろうに」
「まあ、ね……」
「それから、そいつはかなり頭が悪い」
佳卓がこめかみを指で押さえる。
「円偉殿は頭が悪いどころか……当代随一の知識人でいらっしゃるが……」
白狼は大きく首を振った。
「いいや、馬鹿だとしか思えんな。あの女が何で心を病んでこの竹の宮に来たか、そいつは分かってるのか? 十歳になるかならないかの時に男に襲われたからだぞ」
白狼は声を大にする。きっと、あの女もこう考えるはずだ。
「美しいからって理由だけで子どもの自分に惚れるなんて、あの女からすれば気色悪いに決まっているだろう! あの女が一番嫌う話だ。いったい円偉って奴は、あの女を襲った醜い
佳卓が顎を引く。
「そう……そうだな。……余り考えたことがなかったが……確かにそうだ」
白狼が首を傾げた。
「考えたことがない? 何でだ? 円偉もあんたも、ちょっとでもあの女の気持ち思いやればすぐに分かることだろうに」
「それは……そうだ。そう言われればなぜだろう……?」
こんな当たり前のことを考えたことがないというのは、白狼には不思議でならない。
「あんたにも分からないことがあるのか」
「そりゃそうさ。分かることと分からないこととでは分からないことの方が多いさ」
「……」
佳卓は少し考えた。
「なんとなく四角四面な円偉殿の悲恋という感じでとらえていた。しかし、白狼の言うとおり、姫君の立場に視点を移してみれば、円偉殿にとっては美しい初恋でも姫君はにとっては……いや、
「だろう?」
「それに思い至らなかったのは……私が姫君を『餓鬼』とお呼びしようなんて到底思わなかったからというのもあるだろうね。餓鬼という言葉はともかく、姫君が御年十歳であられたことに想像力が及ばなかった。自分ではそのつもりだったが、何かが足りなかった……」
「そうだ。十歳と言えば、あの嬢ちゃんと同じくらいの齢だ。あの嬢ちゃんののびのびとした様子と比べて見ろ。餓鬼には、餓鬼でいる間は、餓鬼でいられる自由も権利もあるはずだ。なのに、美しいからってだけで男から欲望の眼差しで見られるのは、あの女が不憫だろう」
「餓鬼餓鬼と連呼するな……と言いたいが。姫君を餓鬼呼ばわりするお前が現れたことは姫君にとって幸いなのかもしれないな」
「今までが不幸で今が普通だ。……あの女には幸せだった時期の方がうんと少ないんだな……」
あの女が心安らかに幸せで過ごせたのは、父と兄に守られていた幼少期だけだろう。父親と少女の内に死に別れるのはまだしも、自分を狙う叔父に兄を奪われたのは理不尽なことだ。
「あの女は、餓鬼でいられる時間まで奪われたんだな……。だから、今でも『
「それは……あるだろうね。何とも痛ましい話だ……」
白狼はたまらず頭を下げた。
「もう一度、改めてお前に頼む」
「白狼……」
「あの女に、もう少しだけこの時間を楽しませてやってくれ。本当の父も兄もいないが、今から暫く間、俺を父や兄代わりして子ども時代を取り戻そうとしたって、あの女に罰は当たらないだろう」
「……」
佳卓が黙っているのは、いつまでも続けられることではないと思うから返事を渋っているのかもしれない。だが、白狼だってそれくらいは分かっている。
「この先ずっとという訳じゃない。俺もそれは良くないと思う。事情が事情とは言え、いつまでも大人が子供時代を懐かしむものじゃないからな。それに俺は父でも兄でもない。だから、この親子ごっこもいつかは終わる」
涼風が吹き過ぎて行った。
「秋までだ。秋になったら。木の葉が色づくようになる頃には……。そうだな、佳卓が近衛で俺に仕事が出来たとかなんとか理由を付けて、京に俺を呼び戻してくれ」
「それは……いずれ……。だが、お前は? お前だって姫君を恋……」
白狼はきっぱりと佳卓を遮った。
「俺のことは構わない」
「……」
自分に代わって辛そうな顔をする佳卓を励ましてやりたいと、白狼は思う。
「俺は小役人なんぞに向いていない。俺はついこの間まで手下を率いて好き勝手に生きていた。あんまり暮らしが変わっちまったんで、正直、疲れた。あの女が落ち着いて暮らせるようになるのを見届けたら、少し自由になりたい」
佳卓は小さく息を吐いた。
「そうか。そうだな。お前に似合わない生活で窮屈だったろう。少し休暇を取った方がいいかもしれないな。私の方もお前が過ごしやすそうな職を探しておく」
白狼は自分の杯をくいっと干した。
「よろしく頼むぜ」
佳卓も「ああ」と返してから、自分の杯を卓に置いた。
「まあ、当面は大丈夫だ。まだ円偉殿と姫宮とで小さな対立があったというだけだからね。翠令も謹慎させているし、静観していれば時間が解決してくれるかもしれない。朝廷の方が落ち着けば、竹の宮のお前の噂もそう耳目を集めなくて済むだろう」
「そうか……」
「少なくとも季節が変わるまで、お前と姫君との間を誰も引き裂かないよ。それまで……どういったらいいのか分からないが……悔いのないよう過ごしてくれ……」
「おう……」
白狼は杯を重ねる。胸の奥からこんこんと湧き出る寂しい気持ちを飲み下しながら。
一方で、自分を慰めるために頭の中で独り言ちる。
──しかし、何も今すぐあの女と別れなければならないわけではない。
この竹の宮に来たのは緑の香り高い初夏の頃。梅雨を過ぎ、盛夏が終わると、あとは秋の訪れとともに日々の気温が少しずつ下がっていくようになる。それに合わせて、己の気持ちと徐々に折り合いをつけていけばいい。
そして、終わりの気配を涼風に感じ取れるとは言え、まだまだ草いきれが残る晩夏の夜。未来の秋を想像するのはどこか遠くて実感の湧かない話でもあった。