十七 翠令、失せ物騒動に遭う(二)

文字数 3,664文字

「本当ですか! 白狼のためになることがあるんですね!」

 佳卓(かたく)が腕を組んで見せた。

「ほう。翠令がそんなに白狼を気に掛けるとはね。妬けるったらありゃしない」

「佳卓様!」

 佳卓は椅子の背に凭れかかり、肘掛けに肘をつくと、翠令を見上げた。

「さて。私は左大臣家の貴公子なのだが。どう装えば知的に見えるかね?」

「はああ?」

 佳卓の顔も口調も真面目そのものだが、翠令の思考を置き去りにしてさっさと話を進める癖には未だ慣れない。そんな翠令に佳卓が続ける。

「私は人徳が無いせいか、どうも人の反発を招きやすくてね。白狼に向ける冷たい視線には、近衛に引き入れた私への反感も混じっていると思う。済まぬことだ」

「……」

 佳卓に直接の責はないことだが……。現実としてそのような面はあるだろう。
 彼が続ける。

「そして、私を嫌う人間は円偉(えんい)殿を慕って集まる。だから、円偉殿に直接私が働きかけて、白狼たちを蔑む空気を改めてもらうように頼んでみる」

「……なるほど」

 翠令自身も円偉の信奉者に襲われかけたことがある。円偉を褒めない者は佳卓側だと彼らは決めつけた。佳卓か円偉のどちらにつくのかと、問題をそこに集約させがちな雰囲気が確かに朝廷にある。

 しかしながら実際のところ双璧をなす二人は互いに好意的だ。この二人が親しく交流し、それを周知させれば、この朝廷の対立も解けることが期待できるだろう。

 佳卓だけでなく円偉も白狼たちに好意的だと知られれば、なるほど、いずれ彼らへの偏見が変わっていく可能性は高くなる。

 佳卓は飄々と立ち上がる。

「では私は自邸に戻る。これから自室にある哲学書をおさらいしておくよ」

 彼は視線を少し上にさまよわせながら何事かを思案した。

「二、三日は徹夜が続きそうだがね」

「は……?」

 話の全体像が見えない翠令を置いて、佳卓はさっさと部屋を出て行ってしまった。

 趙元(ちょうげん)が苦笑いしながら翠令に教えてくれる。

「佳卓様は近日中に円偉様と会う席を設けるおつもりだ。そこで円偉様が大変好む学問の話で盛り上がれば、ぐっと心象が良くなる」

「……それはそうですね……確かに」

 納得した翠令に趙元が請け合った。

「あの方はなかなかの働き者だ。麾下のために労を厭わない。よい主公でいらっしゃる」

 その数日後。
 雨が降ったりやんだりするやや不安定な天候の中の午後、昭陽舎に円偉がやってきた。

 円偉が清涼殿で帝にお会いした帰りに、こうして姫宮にも挨拶に来ることが習慣になりつつあった。

 昼だというのに室内は暗く、湿気を含んだ生温い風が几帳越しに入ってくるあまり快適ではない日だったが、この時の円偉は明るい顔で上機嫌だった。
 その理由は佳卓と楽しい酒宴を持てたからだだという。

「佳卓殿は武人としての雑事に追われ、私の相手をなかなかして下さいませんのでね。久しぶりにゆっくりお話ができて楽しゅうございました」

 姫宮が話を合わせる。

「円偉は佳卓と話せたのがとっても楽しかったみたいね」

 今日の姫君は天気が悪いので御所風の装束をお召しだった。季節らしい襲の色目の衣に、手には蝙蝠を持っていらっしゃる。例の紛失騒ぎの発端となったものだ。

 ただ、円偉は今日の姫宮が燕服でないことにも、紛失騒ぎのあった蝙蝠を手にされていることにも興味がなさそうだった。

 姫宮から佳卓の名を聞いた円偉は、ますます笑みを深める。

「それははもう……。佳卓殿は大変教養深い方ですから、学問の話が実に弾みました。佳卓殿と私しか読み通せていない書物が多くございますが、これらについてじっくり語り合えまして、本当に充実した時間でございました」

 翠令は端近に座って円偉と姫宮のやりとりを聞く。彼の口から白狼の話題が出るのを待っているのだが、彼が饒舌に語るのは佳卓のことばかりだ。

 白狼やその手下がいわれない疑いをかけられていることは、翠令が姫宮に申し上げている。姫宮もまた白狼たちを心配しておられた。

 いつまで経っても円偉は白狼のことを口にしない。そこで姫宮が水をむけてみられた。

「ねえ、円偉。佳卓は何の用事で円偉のおうちに来たのだったっけ?」

「……は……」

 円偉はやや勢いを削がれた口ぶりとなる。

「姫宮にはご不快な話かもしれません。山崎津で姫宮を襲った賊を佳卓殿が近衛に召し抱えたのでございます。そのような素性の怪しい者が禁裏をうろつくなど私は反対したのですが……」

 姫宮と翠令は大学寮から帰る途中で危ない所を白狼に助けてもらったことがある。ただ、あの一件は外出自体が秘密だから円偉に明かすわけにはいかない。

 円偉は渋い顔をしていた。

「昨日まで敵として追いかけていた賊を、今日から同僚として迎えよというのは……。納得いかない者が多いのも当然でしょう」

 翠令自身も同じ理由で激昂したのでそれは分かる。

 しかし、白狼をはじめ彼らを近衛に引き入れる利点は大きいし、何より今の彼らはその恩に報いるために分別ある行動をとっている。もとが盗賊だから疑いたくなるだろうが、今回の扇については紛失などしていないのだから、そもそもの根拠がない。

「とはいえ……」と円偉は続けたので、翠令は少しほっとした。しかし、その先に続く円偉の言葉には当惑するよりない。

「君子たるもの、弱く愚かな者をも許す度量も持つべきです。佳卓殿によると、あの白人は、あの妖のような容貌や賤しき生まれを蔑まれているとか。それは哀れなことです。本人は好き好んでそのように生まれてきたわけでもありますまい。こういった者にも情けを恵んでやるのが君子の務め。帝の御物に手を掛けても、教え諭し改心を促すべきでありましょう」

「ちょっと待って、円偉」

 姫宮は、ことの発端となった蝙蝠をかざして見せた。

「教え諭すも何も……。後宮の物は何も盗まれていないわ。ほら、この扇はここにちゃんとあるでしょう?」

 円偉は興味なさげに返答する。

「まあ、今回はそのようですな。盗賊であっても佳卓殿の情けで多少は物事を弁えるようになったのでしょう。これからも朝廷の威徳にふれれば従順な者となるでしょうな。そう、姫宮の飼い犬と同じように。ほら、ハクと呼んで可愛がってらっしゃるでしょう?」

「ええと……?」

 姫宮が戸惑われる。翠令にも白狼と飼い犬との話の繋がりが分からない。

 円偉が続ける。

「ああ、肌が白い畜生ということで連想したのです。犬であっても情けを掛ければ主に懐く。あの白人にも情け深く接してやれば、もとは粗暴であってもいずれ人間らしくなりましょう」

「……」

 姫宮は暫く絶句し、それからおっしゃった。

「彼は人間であって、犬ではないわ……」

 円偉はその言葉の方に意外そうな顔をし、それから笑みを浮かべた。壮年の男性が女子どもに向けて浮かべがちな、苦笑のような表情を。

「姫宮は慈悲深い。結構なことです。差別はよろしくありませんからな。姫宮は普段から飼い犬のことを可愛がっていらっしゃるとか。身分卑しき者にも飼い犬にも心優しいお気持ち、仁の基でございます」

「……」

 円偉はいつも通り、ひとしきり天子は徳を備えて仁政を施すようにと述べ立てて帰って行った。


 翠令と二人きりになった姫君が、手にした蝙蝠に視線を落として呟かれた。

「なんていうか……円偉とは話が噛み合わないわね……」

 どこか疲れたお顔をなさっている。

「白狼たちは何も盗んでいないし、元から人間なんだから犬とは立場が違うんだけど……」

「まことに……」

 翠令も姫宮の言葉に同意する。
 貴族の男であれば白狼のような身分の者を賤しいものだと見下すのが当たり前なのかもしれない。ただ、円偉の場合は、自分は普通の貴族と違って情け深い言動を取っていると思い込んでいる。そこが独善的でいやらしい。

 姫宮はため息をつかれた。

「ハクのこと、色が白いから単純にハクって呼んでたけど……。白狼を連想してしまうのなら名前を変えましょう。そうね、ビャクにしましょう。文字は『百』よ。数が多くて縁起もいいし」

「さようでございますね……。ハク、いやビャクにはとんだとばっちりですが、新しい名前に慣れてもらいましょう」

 姫宮は困った顔で微笑まれた。

 その夜、翠令は白狼の言葉を思い返していた。彼は言っていた。「情け」は一方的に上から施されるもの、「恩」は対等な立場で交わされるものだと。
 佳卓と白狼は確かに対等だ。その前提でまるで友人であるかのように酒を酌み交わす。いや、友人であるかのように、ではなく本物の友人と言ってもいいだろう。彼らの間では、あれほど血の通った会話が交わされるのだから。

 ──もし、この二人の友情を円偉が知ったら何と思うだろう?

 円偉は佳卓の学才を愛している。確かに自分と佳卓にしか読めない書物があれば、共通の話題がある得難い相手として、佳卓を求める気持ちが強くなるだろう。

 しかし、当の佳卓が、自分が見下している賊の白狼とこそ友情を育んでいることを知ったなら……。円偉が佳卓に寄せる親愛の情は、嫉妬や羞恥のあまり、全く違った方向に暴走するのではないだろうか。
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