五十五 翠令、下級の文官を案内する(一)

文字数 3,279文字

 翠令は表向き謹慎中だから、近衛府に出向くのも人目に付かないよう黄昏時を選ぶ。こんな時刻にこの辺りをうろつく者はまずいない。
 にもかかわらず、左近衛の出入り口の辺りで一人の官人と行き会った。

 装束といい巻物を数本胸に抱いているところといい、どこかの下級文官に違いないのだろうが、こんな時間に文官が訪ねて来るのは珍しい。警戒しながら翠令は声を掛けた。

「もし。失礼ながら貴方は左近衛の誰に何の用なのですか?」

 相手は翠令を見てにこりと笑んだ。翠令は首を傾げる。下級官吏というにはあまりに気品がありすぎ、そしてその顔はどこかで見かけたような気がしてならない。

「女武人、翠令殿ですね。お話をするのは初めてです。私は左近衛大将佳卓殿を訪ねて参りました。ご案内頼めましょうや?」

 不案内な場所に来たというのに、全く物怖じしない態度だった。

「え、ええ……」

 何か居心地の悪い思いで翠令はその男を連れて、佳卓の執務机に向かう。いつも通り机に向かっていた佳卓が、人の気配に顔を上げた。そして、ぎょっと驚くと慌てふためいて立ち上がる。こんなに何かに動転している佳卓の姿は初めてだ。

「兄上⁈」

「……!」

 そうか──。
 この顔は佳卓に似ており、そして昭陽舎での合議でもちらりとお見かけしたことがあるのだ。

 されど、なぜ佳卓の兄上が近衛府に、しかも下級官人に身をやつして来られたのだろう? 

「兄上、どうなさいました? こんなところにお越しいただかなくとも、父上の邸におられる折にでも私が部屋まで出向きますのに」

 佳卓は父の左大臣邸に住んでいる。結婚している兄君は妻方の邸宅で過ごすことが多いが、父邸に来ることもよくあり、兄弟で酒を飲んだりするとは翠令も佳卓から聞いたことがある。

 佳卓の兄が首を振った。

「父の邸内では話せない。人目があるからね。ここならお前の麾下ばかりだろうから内密の話ができる」

「分かりました。ええと翠令、兄上に椅子を」

「はい!」

 しかし、翠令が隣の部屋から立派な椅子を取って戻ると、佳卓の兄はその辺にあった腰掛を自分で適当に選んで既に座っていた。そして翠令ににこりと微笑む。

「私はこれでいいよ。その椅子には貴女がお座りなさい」

「いえ、そのような……」

「まあまあ。それから椅子の譲り合いをする間も惜しいのでね。本題に入っていいかな?」

 これには佳卓が自分の席から答えた。

「そうですね、兄上がこうして人目を忍んでこられた。誰かに見られてお困りなら、さっさと話を済ませましょう。翠令はその椅子に座っていてくれ」

 確かに翠令の椅子どころの話ではなさそうだった。
 佳卓の兄は息を一つ吐いて、話し始める。

「お前が庇っている白人の件だ。何度か話を聞いているが、確か名を白狼と言ったね」

 左大臣家の嫡男がこっそり近衛府に来たのも驚きだが、出てきた話題も全くの予想外だ。
 佳卓もぐっと背筋を伸ばし、無言で兄に続きを促す。

「単刀直入に言おう。円偉殿が白狼を殺害しようとしている」

「は?」
「えっ⁉」

 驚きの声が、佳卓と翠令のそれぞれの口から同時に出た。
 直情径行な翠令は、佳卓より先に叫ぶ。

「そんな! 白狼が何をしたと言うんですか!」

 佳卓の兄は、厳しい表情でさらに衝撃的なことを口にする。

「理由などどうでもいいんだよ、円偉殿には。ただ白狼には死んでもらわないと都合が悪いから殺害しようとしているだけだ」

 佳卓が鋭い目を向けた。

「どういうことです? そして、情報の出どころは?」

 佳卓の兄もぐっと声を低める。

「情報の出どころは、猥談好きの男だ」

「は?」

「私は元々円偉殿とつきあいがあるし、昭陽舎での一件以来務めて円偉殿の邸宅を訪問している。その円偉邸の下男が聞くに堪えない猥談を大声でしていたのが耳に入ってね」

「はあ……」

「まあ、猥談の一つや二つくらいする男はざらにいるが。日もまだ暮れぬうちに、大声で、屋敷の主人の客にまで聞こえるほど大っぴらというのはね……。妙な奴だと気になった」

「それが……」

「そう。白狼と竹の宮に赴任し、そして姫君に乱暴しようとした奴だ」

「なぜその男が円偉の下男に? 私が罰を与えた上で、近衛から放り出したはずですが?」

「私もどういうことか不審に思ってね。信頼できる手の者を使ってその男に接近させた。ああいう露悪的な手合いは、刺激的な話題で人の気を惹こうとしていることが多い。つまり、他人との交流に飢えている。だから、私の手の者ともあっという間に酒を飲みかわす仲になって事情をぺらぺら話すようになった」

 佳卓の兄はさらりと説明するが、人間に対する観察眼の鋭さと言い、秘密裏に手を回す手腕と言い、さすがは佳卓の兄にして左大臣家の嫡男らしい振舞いだと翠令は感じ入る。

「そうして、その下衆が主張するには、佳卓に追われたのだから円偉殿に取り入るのが当然なのだそうだ」

 佳卓が椅子の背もたれに身を預けて腕を組む。

「そいつの身勝手な望みはともかく、円偉殿があんな下郎を受け入れたのが解せません」

「その猥談好きは、近衛を辞めさせられたことで佳卓と白狼を逆恨みし、さらに、竹の宮で姫君を襲ったのは白狼だと触れ回っている」

 翠令が叫んだ。

「嘘です! 白狼はそんなことをする男じゃない!」

「もちろんだ。私の弟が信頼を寄せている男なのだから、私も彼のことは信じているよ」

 佳卓が今度は机に両肘をつき、指を組み合わせて、顎を乗せて呟く。

「円偉殿はなぜそんな奴を雇ったのです?」

「私も色々考えを巡らせているが、その全ては分からない。ただ、円偉殿は白狼ではなく、お前が狙いなのではないかと思う」

「私?」

佳卓の兄は、弟の訝し気な声に正面からは答えずに続けた。

「あの男以外にも、お前に反感を持っていた者が近衛にもいるだろう?」

「いますね、近衛府内の主流派ではありませんが」

「そういった反佳卓派と円偉殿が接触しているらしい。下衆野郎が『これで佳卓も白狼もおしまいだ』と機嫌よく話していたそうだ」

「もともと私に反感を持つ者が円偉殿の元に集うということはありましたが……」

「今までは当の円偉殿が相手にしなかった。だが、最近は違う。円偉殿が求めて彼らと接触しているようなんだ」

 佳卓が軽く首を振り、「私もとうとう円偉殿に愛想をつかされましたか」と苦笑した。

 佳卓の兄ははっきりと首を振った。

「いや、そうじゃない……。円偉殿がお前を重んじる理由はもっと深いものがある。本当に円偉殿はお前に好意を……もう、好意というより執着と言っていいほどの強い感情をお持ちだと思う」

 翠令も傍から言い添える。

「私もそうだと思います。先日の円偉殿の邸でも改めて思いました」

 佳卓と語りあう円偉は本当に上機嫌だった。

「円偉殿はお前に敵対的な者を近づける一方で、お前に肩入れしている姿勢は一貫してお変わりにならない」

 佳卓の兄は、ついっと連子窓の向こうを見た。暗い夜空に星が一つだけ瞬いている。

「お前を見ていても思うが、天才というのは孤独なものだ。天才にとって当たり前でも凡才には理解が及ばない。孤高の天才には共に語り合う仲間がいない。それは、とても寂しいことなんだろう……」

 佳卓が自然に口にした。

「円偉殿の周囲にも才人が集まっています。兄上とて秀才であられる……」

「私に気を遣ってくれるのは嬉しいが、あの方はそう思っていまいよ。私を含め、円偉殿の側にいる皆は、円偉殿やお前ほど抜きんでて出来るわけじゃない。円偉殿があからさまにされることは決してないが、心の底では我らを蔑んでおられるのだろう……」

「蔑むなど……」

「これは私の言葉が過ぎたな。蔑むは言い過ぎかもしれないが、まあ軽く見ているのは確かだ。円偉殿が心から自分の近くに置きたいと願っているのは佳卓、お前だけだ。もう少し具体的に言うと、武人などやめて自分と同じ文官になって欲しいと思っていらっしゃる」

「それは私自身も何度か円偉殿にそう言われたことがあります。武官の仕事などせずに文官の道に進めと……」

「それだ。それが今回の白狼殺害計画に結びつく」

「どういうことです?」

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