三十一 翠令、謹慎を命じられる(二)

文字数 3,619文字

「姫宮」

 円偉はこれまでと全く異なる声を出した。姫宮よりさらに幼い子供に話しかけるような、そんな猫なで声だった。

「どうなさいました? 姫宮。普段はとても素直で子供らしくていらっしゃるのに。今日はご様子がおかしくていらっしゃる。このように大勢の大人との合議に臨まれて緊張なさいましたかな? 何か立派なことを言わなくてはと気負いこまれていらっしゃるのかもしれませんが……」

 幼児扱いされた姫宮も不満げな声をお上げになる。

「私は錦濤(きんとう)で大人の集まりには慣れているわ。燕からとか珍しいお客様が来たら、私が主宰者になって歓迎の集まりとか開かれたりしていたし……」

「いえいえ、今日の姫宮はいつもと違っておいでです。子どもが口にするような内容ではありません。中級官吏あたりにそのようなことを考える者もいるやもしれませんが。姫宮は、どうやら、借り物の知識を使ってでも、大人に混じって何かを言わなければと焦っておいでなのでしょう。背伸びをなさりたいお気持ちは分かりますが、その必要はございません」

「借り物なんかじゃないわ。私が風土記とか説話集とか読んで、いろんな土地があるなあってことを知って、そして自分でそれが民のためだと考えたから言っているの」

「姫宮。君子と言うお立場は、徳を備えるのが第一です。君子としての器があれば、自ずと民は君主を慕います。そして、そのために税を差し上げようと思うのです。今までの帝の御代でも、賢帝と呼ばれた方々はそのようにして安定した治世をなさいました。姫宮には理想の君主を論じた書物はまだ難しいとお感じなのでしょう。しかし、どうすれば税を上手く取り立てられるかなどという徴税ありきのお考えに染まってはなりません。それは、偽物の学識でございます。どんなに口が回ろうと、そこに真実などありません」

「哲学的な真理があるかどうかは、確かに今の私には難しすぎては分からないけど……。珍しいものを売れば利益が出るのは事実よね? 話がすり替わってない?」

 円偉が再び聞えよがしに大きく溜息をつく。

 誰かがぼそりと口にした。

「ひょっとして姫宮は月のものが近いのでは?」

 他の声が続く。潜められているが、この場の誰もが聞き取れる程度にははっきりした大きさの声が。

「竹の宮の姫君は同じお年の頃に身ごもられていたからな。そろそろ……」

「身体が成熟するまではなかなか月のものも安定しないとか。聞き分けなくていらっしゃるが、初めての月のものを控えてお心が濁ってらっしゃるのかもしれぬな」

 姫宮が「なっ……」と小さなお声を上げられたのが翠令の耳にも届く。
 翠令は何度か経験はあるが、姫宮はこのような扱われ方に全く慣れていらっしゃらないだろう。

 月のもののある女性がその期間心落ち着かなく過ごす場合もあるということは翠令も知ってはいるし、姫宮も存知だ。

 だけれども、「その土地では珍しくない産物を、それを珍しいと思う土地で売れば利益が出る」という事実は、それを主張する少女に月のものがあるかどうかなどと全く関係なく存在するものだろうに。それなのに、存在する事実と月のものの有無と関連付ける方が完全に破綻した主張のはずだ。

 いくら円偉とその取り巻きが姫宮の言葉に不快になったとしても、今は国政について論じるときではないのか。

 姫宮の民を思い遣るが故の提言が、どうしてこのような形で取るに足らないものとしてあしらわれようとするのか。この大人の男たちはどうして、根拠のない出鱈目な言葉を、さも自分の方が優れているかのように上から教え諭すような態度で口にするのか。

 彼らの態度は、国の政そっちのけで姫宮に制裁を加えることを優先しているように翠令には思われた。朝臣たちが東宮たる姫宮よりも円偉を尊んでいるのかと思うと憤りが湧き上がる。

 ──我が姫宮を侮るか!

 翠令は思わず立ち上がり、そして階に足を掛けた。

 この時の翠令に何か明確な目的があったわけではない。姫宮のお傍に近寄って力づけて差し上げたかった。
 もし姫宮が抱き付いてこられたらそのまま二人で席を蹴ってやろうくらいにしか思っていない。

 翠令が三段目を踏みしめ、中に居並ぶ公卿たちの姿を眼下に見渡した時。そして、それは中にいる人々にとっても、突然の闖入者を見上げるようになった時。
 鋭い声が翠令の耳に突き刺さった。

「翠令! 控えていろ!」

 翠令は足を止め、そして重心を後ろに戻した。そうしなければならないと思った。   
 その佳卓の声は、あの山崎津の闘いで見た時同様に、相手を従わせる強い圧のあるものだった。

 佳卓が一堂に頭を下げる。

「近衛の舎人が無礼を致した。お詫び申し上げる」

 佳卓の迫力は高位の貴人達にも通じるらしい。誰もが身動き一つせず、何も言わない。

「姫宮」

 佳卓が初めて姫宮に声をお掛けした。翠令はそれを聞きながら階を降り再びその足元に膝をつく。

「姫宮のご主張は、全国の品物と金銭を自由に交換できるかなり大規模な市場が存在していることを前提としなければ成り立ちません」

 姫宮の声が少し震えていた。佳卓まで反対に回るのかと泣きたい気持ちでおられるのだろう。

「……錦濤に大きな市場があるわ」

「税を金銭に変え、それを使うのは主に京の都でございます。比較的近いとはいえ錦濤とでは船で二、三日の距離がある。大量の銭貨は重量があり、しかも多数の警備を要します。錦濤で売買して貨幣に変えても、それを京まで運搬するのは現実的に困難です」

「京の市場では売れないの?」

「錦濤と比べて市の規模が小さすぎます。錦濤では商人同士が荷を売買しますが、京の市と言うのは都に暮らす人々が生活に必要なこまごまとしたものを揃えるためのものですから」

 ああ、と翠令は思う。七条の市は確かに小規模な商店が日用品を扱う店が多かった。姫宮もまた「京の市は可愛らしいお店が多いのね」とおっしゃったはずだ。

 あのような小規模な市では、全国の津々浦々から集まった荷をさばくことなどできない。それを、錦濤と京の市とを実際に見比べた姫宮は良くお分かりだろう。

「さらに申し上げれば……。古来、朝廷は銭を鋳造しその普及に努めてきましたが、銭を使う文化が定着しているのは都に近いところに限られがちです。地方の民には品物を銭に変えることに馴れていない者もおりましょうし、銭を持ち帰っても使い道のない地方もありましょう」

「そう、そうなのね……」

 理知的な姫宮は、ご自分の主張の前提に不備があればもちろんご意見を取り下げられる。

「いい案だと思ったけど、そういう問題があれば仕方ないわね。わかりました」

 末席からぼそりと「やれやれ、やっと聞き分けられましたか」いう声が聞こえ、その言い草に翠令はこぶしを握り締める。

 求められてもいない朝臣たちの発言は続く。

「それでも徳の何たるかはお分かりではないご様子だが」

「仕方あるまい。十の女の子どもではのう……」

 話はまずい方向に向かう。

「円偉様が諭そうとなさっても聞き入れないのに、佳卓殿には従うのか……」

「ほら、先ほどの女武人……」

「ああ、錦濤から連れて来たという……姫宮お気に入りの……」

「佳卓殿は、さっきの女武人の上官だ」

「ああ、それで」

「姫宮、女武人、佳卓殿とで繋がっているのか……」

 ごほん、と咳払いの音がし、そして円偉が皆に呼びかけた。

「皆さま、税はこれまで通りの納め方で。そして立太子の礼に必要な分を加えて課税するということでよろしゅうございますか」

 円偉自身が佳卓に好意的なのはここでも変わりなく、まるで佳卓を庇うかのような振る舞いだった。

 誰も何も言わず、衣擦れの音だけが庭先で平伏する翠令の耳に届く。合議の出席者全員が黙って頷いて賛意を示したものらしい。
 「では、今日はこれにて」と左大臣の声が散会を告げた。

 それを合図に人々が立ち上がる。その中から足早に翠令の蹲る(きざはし)に近寄って来る足音があった。

「翠令!」

 翠令の予想通り、佳卓の声は厳しかった。

「ただの近衛舎人が朝臣の合議に乗り込もうとしたこと、無礼千万。近衛大将として厳しく処断を下す。一月の間謹慎せよ。また、事情を問うゆえ今日の夕刻には左近衛府にまで来るように」

 良く通る大声を出したのは、その場に居合わせた人々に聞かせるためだろう。

 姫宮が佳卓の説明でご自分の主張を引っ込めたのは、円偉に比べて佳卓を贔屓したからではない。佳卓は翠令の上官であり、翠令は姫宮の特別な従者だが、翠令が間にいるからといって姫宮が佳卓に寵を与えているわけではないのだ。
 佳卓もまた、翠令を贔屓することで姫宮に取り入っているわけではない。
 
 この点を、昭陽舎に居並ぶ朝臣にはっきり示す必要がある。

 だから、ここは佳卓が衆目の前で翠令を厳しく叱責してみせねばならない場面であった。翠令もまた両手をついて額を地にこすりつける。

「非礼の限り、まことに申し訳ございませんでした……」

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