一 翠令、異変に覚悟を決める

文字数 5,678文字

 春の夜。
 水面を渡る生暖かく湿った風が、扉を閉じた船室の中にも入りこんでくる。
 
 温んだ水の中で種々の生き物が蠢き始めた気配が河に漂い、その上から運ばれてくる空気にも生の息吹が感じられる。しかし、それは同時にどこか不穏な香りもしていた。

 ――妙だな。

 武人姿の女が座ったまま首を巡らして、船室内を見回した。錦濤(きんとう)から姫宮を乗せて来た船の中、姫宮はすやすやとお眠りで、その寝具の側で女武人が一人で護衛をしている。

 女武人は姫宮の寝顔をもう一度見た。子どもらしいふっくらした頬の肉は柔らかい稜線を描き、その中に低めのお鼻がちょこんと付いている。瞼はそっと閉じられている一方で、珊瑚色の唇は軽く開かれ寝息がすうすうと漏れている。その顔の横に、ぷくぷくと丸く肥えた掌が投げ出されていた。

 女武人は姫宮の御手をそっと掛布の中に戻して差し上げてから、また視線を上げ、床から天井を舐めまわすようにして異変の原因を探る。

 ――波のせいだろうか? これまでと揺れ方が違うようだ……。

 ここは京の都への入り口となる山崎津。夕刻にこの港に到着した後、船の停泊位置を定めてから姫宮が就寝なさった。河の流れが生み出す波はゆったりと規則的で、河面に浮かぶこの船は姫宮のための揺り籠のようだった。

 ところが、そこに先ほどからぴちゃぴちゃと甲高い波音が不規則に混じるようになっている。それに合わせて船が小刻みに揺れ、柱や天井がキイキイと軋む。

 ――並んでいる他の船からの横波だろうか。だとしたら何が起こっているのだろう?

 外洋に面した錦濤港から内陸の京の都へ遡上する航海は順調だった。いや、あまりに順調に過ぎた。

 船乗りたちは心得顔で巧みに帆を操り、滑るように河の流れをかき分けた。大河の両岸はみるみる狭くなり、錦濤の平野部で見たことのない山々の姿がだんだんと近づき、ここ山崎津に至っては、その斜面が見上げるほど傍まで迫っている。

 ここで姫宮は船を降りて、その先は京の都まで陸路を行くことになっている。しかしながら、それは明日の朝の話だ。
 翌朝ならば、近衛大将が手勢を率いて迎えに来ることになっている。それなのに姫宮の船列は前日の夕暮れ前に到着してしまった。早く着き過ぎたこの時点で予定が狂ってしまったのだ。

 仕方がないので船を山崎津の船溜まりに浮かべて夜を明かすことにした。念のため、直に接岸するのは他の船だけにし、姫宮の船はその外側に停泊させている。

 女武人は傍に置いていた自分の剣を手に取り、そして考え込む。
 賊の可能性は──ある。だが、岸から離れたこの船が襲われるまでに途中で他の護衛の者達が防ぐはずだ。その間に誰かが知らせに来るだろう……。

 姫宮の護衛である彼女自身がそう簡単に御前を離れることは避けるべきだった。誰かに状況を知らされるまで動かずにいるのが賢明だと彼女は考える。

 その知らせが飛び込んできた。
 
 船室に近寄ってくる人の気配に気づくと同時に、ばんっと大きな音がして勢いよく扉が開けられた。外の喧騒が一気に船室になだれ込んでくる。女の悲鳴に男の怒号、刀と刀がぶつかり合うきんきんという金属の音。ただ事ではない。

翠令(すいれい)!」

 女武人の名を呼びながら、中年の女が転がるように駆け寄ってきた。

「乳母殿!」

 姫宮の乳母は、他の侍女とお喋りをしに隣の船に乗り移っていたはずだった。

「翠令! 大変! 賊です、賊!」

「やはり賊か。どこにいますか?」

「す、す、すぐそこまで来ています!」

「なぜこんな近くまで?」という問いを翠令は飲み込んだ。そんなことを尋ねている時間も惜しい。彼女はしっかりと剣を握ると、床を蹴って乳母と入れ違いに外へ出た。

 甲板に出た翠令の目に奇妙に明るい光が入る。乳母の言うとおり一隻隔てた隣の隣の船にまで賊が入り込み、彼らの掲げる無数の松明が船溜まりのそこかしらを橙色に染めていた。

 猛々しく夜空を照らす火灯りの中を見慣れぬ風体の賊が悠々と動く。
 松明をかざして歩くだけの者もいれば、片手に灯り片手に積荷を抱えている者もいる。さらには、これだけ明るければもう十分だと言わんばかりに両腕で櫃を持ち出そうとしている者までいる。

 翠令は唇をかみしめた。ここで賊に襲われるのか。

 ――ここまで来て……。やっと姫宮が日陰の身から日の当たる道を歩き始めた、この時に!

 錦濤の姫宮は先々帝の孫娘であられる。しかし父君は帝になれなかった。父君は先々帝の長子で東宮であったが、父帝が危篤に陥った際に謀反の罪をでっちあげられて廃されてしまったのだ。

 先々帝には弟がいた。その弟が兄から帝位を奪うため、兄帝の病が東宮の呪いのせいだと言い始めた。馬鹿馬鹿しい話だと翠令は思う。父を看取ればそのまま帝になる東宮が、わざわざ呪詛などする理由がない。

 当時でも冤罪だと広く認識されていたそうだが、弟がその声を武力でねじ伏せ、東宮は捕らえられた挙句に西の果ての島へ流罪となった。そしてそこでお生まれになったのが姫宮である。

 出産で母君が命を落とし、父君も失意のうちに亡くなり、赤子の姫宮は西国の国司の手によって錦濤の港に送られた。そのまま京にまで上るという話もあったが、帝位に就いた男が度を越した色好みゆえ、女君を送ることを周囲が憚ったという。そして、姫宮はこの年齢まで錦濤でお育ちになられた。

 「なあ、おい」という耳障りな濁声が翠令に聞こえた。
 翠令がその声の方を見ると、男たちが二人がかりで船倉から大きな櫃を運び出すところだった。中年の男が「錦濤ってのは金がうなってるんだろうなあ」と感嘆したように続け、若く軽い声が「こんだけ盗めば、あと一年は遊んでくらせますぜ」と答える。

 翠令が「この船の財宝は、錦濤の街が姫宮に差し上げたものだ!」と叫んだが、彼らの耳には届かなかったようだ。悔しいが、姫宮の船を離れられない彼女にそれ以上できることはない。生まれ故郷の錦濤で用意された船荷が見知らぬ賊に渡る、この場面でも指をくわえて見ていることしかできないのだ。

 錦濤は国際港湾都市として貿易が盛んで、翠令の父も街の豪商の一人だ。姫宮は錦濤の有力者の邸宅を転々とされ、そして三歳になられる頃、翠令の父の許に身を寄せることになった。

 その時の翠令は十歳になる少し手前だっただろうか。幼少時から男子のように武芸を好んでいたが、そろそろ女君らしい振る舞いが求められるようになっていた。武芸と縁遠くなっていくのを諦めかけていたあの頃。

 姫宮を邸宅にお迎えしたその夜。父が翠令を自室に呼び出して正面から尋ねてきた。「お前はこの女宮をお守りできるか」と。「できます!やらせてください!」と大声で即答したこの時のことを、翠令は今でもよく覚えている。

 以来、邸宅に忍び込んできた賊を何度も斬って捨ててきた。今や、翠令の武勇は「錦濤の姫宮の守刀」として錦濤の街に鳴り響いている。

 いや、その評判は錦濤だけではなく京の都にまで届いていたという。だから、先々帝から帝位を奪ったあの暴君がとうとう亡くなって、その親王が即位なさり、姫宮が新しく東宮に迎え入れられる今、翠令もまた従者として京へ招かれたのだ。

 ――姫宮をお守り申し上げる。それがこの私の選んだ使命だ。

「翠令様!」

 姫宮の下男が刀を片手に船を飛び移ってきた。彼は普段、錦濤の邸宅の雑用係だ。

「無事か? 怪我はないか?」

「大丈夫です。……申し訳ありません、私には賊を止めることが出来ず……」

 翠令は首を振った。

「いや、よく頑張った」

 商家の下男に過ぎない彼は、今まで刀を振り回した経験などないだろう。持ち慣れない手つきで剣を握り、姫宮を護ろうとしている意気だけでも褒めてやるべきだ。

 下男は苦しげな顔をした。

「いえ、姫宮をお守りしなければ。……こうなったのも自分たちのせいですから!」

 そして叫ぶ。

「申し訳ありませんっ! 翠令様の方が正しかった……」

 予定より半日早く山崎津に来ても、港に接岸せずに夜を過ごすべきだ、と翠令は主張した。まさに、このように陸から賊に襲われる事態を懸念したからに他ならない。
 しかし、下男や侍女たちが限界だと訴えた。狭い船室に籠る時間が長く続き、揺れない地面で寛ぎたくてたまらないと悲鳴を上げたのだ。確かに、船酔いでぐったりしている者もいた中、岸を目前にして苦痛に耐えろと命じるのは翠令にも酷に思えた。

 姫宮も彼らにご同情なされ、「私だってずっと座りっぱなしで、そろそろ地面を駆け回りたいくらいだもの。皆も辛いわよね」とおっしゃった。
 そして、翠令の意見も容れながら「他の船は接岸して各々適当に地面で休む。姫宮の船はその外側に停める」という折衷案を示されたのだった。

 下男が言葉を絞り出す。

「翠令様は危険だと分かっていらした。それが……姫宮が私たちを気遣って下さったばかりにこのようなことに……」

 松明の朱い光に背を向けて立つ下男の顔色は、夜目にも分かるほど蒼白だ。

 翠令は彼にも自分にも言い聞かせるように、強い口調で言い切った。

「過去は変えようがない。今を最善の状態にすることを考えよう」

 それよりも、と彼女は下男の肩を左手で掴んだ。

「他の武人はどこにいる?」

 下男のような素人に頼らずとも他に護衛はいたはずだ。陸から襲われても対応できるよう、翠令が武人を配置しておいたのだから。

「山崎津の兵士はどうした?」

 今夜は山崎津の官府から、警護の兵士たちを数十人借り受けていた。

「それが……先ほどから彼らの姿が見えなくて……」

「何?」

 翠令は眉を顰め、下男の肩をゆすって確かめる。

「たまたま見かけないのではなく?」

 下男は真剣な顔で首を横に振り、翠令は驚きの余り声を張り上げる。

「まさか! 誰もいないのか? 誰一人?」

「いないんです、本当に。助けて欲しくてあちこち探したんです。それなのに誰も見つからない……」

 下男は嗚咽混じりに言い終えるとその場にへたり込んだ。彼が手にしていた剣もまた、からんと弱々しい音をたてて甲板に倒れる。

「……」

 翠令は息を呑んだ。官府の兵士が賊と戦うことを厭い、姫宮を放り出して逃げたとは……。彼女は愕然と立ち尽くすよりない。

 ――姫宮は侮られている

 御所に呼ばれた姫宮のお立場は必ずしも盤石ではない。

 先帝は漁色家であったにもかかわらず、子はただ一人。その親王が即位して今上帝となられたが、ご病弱で若いこの方には御子はおらず、他に相応しい血筋の皇族もいないゆえに、先々帝の孫である姫宮が東宮となった。
 
 だが、もし今の帝に皇子が生まれればそちらに東宮の地位が移るだろうと、誰でも容易に想像がつく。だから、今から既に「錦濤の姫宮など仮の東宮に過ぎない」という陰口も囁かれているのだ。

 翠令は唇を噛む。

 ――将来が不安定な女宮など身を挺してまで守る価値がないとでも思っているのか!

 憤る翠令の耳にカタカタと床が鳴る音が聞こえた。

「……?」

 下男が腰を抜かしたまま、自分が取り落とした刀を引き寄せていた。体が震えているので手にした剣も甲板の上で音を立てる。

「す、翠令様。残っている我々だけでも姫宮をお守りしないと……」

「ああ、そうだな」

 翠令は片手で下男の肘を掴んで立ち上がるのを助けてやった。

「よし、姫宮の船室に向かってくれ。今は乳母殿と二人だけだから」

「は、はい……」

 下男が自分の足で奥へ入って行ったのを見届けて、翠令は外から扉を閉めた。
 彼の意気は評価するが、賊に立ち向かう役割は期待できない。
 山崎津の兵士が逃げたなら、この船に武人は翠令ただ一人。

 何としても姫宮を京にお届けして差し上げたい。
 そのためにはどうすればいい? できることは? やらなければならないことは?

  ――明日、明日まで踏みとどまればいい。明日の朝にさえなれば……。

 朝が来れば近衛大将が麾下を引き連れて山崎津までやってくる。いくら何でも近衛大将の身分で東宮を無視するはずはなく、そしてその職を拝命する人物の驍名は錦濤でもよく知られている。確か──佳卓(かたく)というお名前だったはず。

 ――その為人、鬼神のごとし

 彼は先年まで朝廷に何かと盾突く東国に派遣され、見事に平定して名を上げた。そして先帝の暴政で荒れた京に呼び戻され、跋扈する盗賊の退治に乗り出している。

 近衛とは文字通り帝の近くをお守りするものだが、他に佳卓に比肩する武人はいないゆえ、武門の長 として内裏の外の盗賊退治も担っている。

 京の街の盗賊では、”白い妖”が率いる集団が最も恐れられているという。しかし、鬼神のごとき佳卓が京に戻ってきたことで、その妖の盗賊団もめっきり鳴りを潜めているらしい。

 ――これほどの武将が京を護っているのなら姫宮のことは安心だ。

 帝が住まう内裏の奥。平時であればとうてい賊など忍び込めるような場所ではない。

 姫宮は今後、国を代表するような秀でた武人に護られてお過ごしになる。姫宮にはもう、たかが地方のお転婆娘に過ぎなかった翠令など必要ない。そろそろ姫宮の守刀としてのお役目も終わりだ。近衛大将になら安心して姫宮を託すことができる。

 翠令は都の方角に一礼した。

 ――どうか、姫宮をお願い申し上げる。

 翠令は剣の切っ先を挙げた。柄 の部分を両手で強く握りしめる。

 ――私はここで息絶えても構わない。この局面さえ切り抜けることができたなら!

 この大勢を自分一人の力で退けられるとは思えない。力尽き、そして敵の刃に倒れて果てるのかもしれない。だが、ここで姫宮を護らぬ女武人翠令などありえない。

 翠令が覚悟を決めて駆けだそうとしたとき、視界にひっかかるものがあった。

 ――誰だ?

 船溜まりの光が届かぬ闇の中、姫宮の船の舳先に長身の男が立っていた。

 火の灯りは男の足元の暗い水面に落ち、船の揺れがつくる不規則な波に朱色の光を添えるのみで消えていく。船の上に立つ男を照らすのは空から注ぐ青白い月の光のみ。

 翠令は「ああ」という声を漏らす。

 ――これが白い妖か……。

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