二十三 翠令、弓を習う

文字数 5,268文字

 翌朝、翠令が近衛府に出向くと、常と同じく佳卓(かたく)は机仕事に向かっていた。翠令が朝の挨拶を述べると、手を休めて彼女を見上げる。

「おはよう、翠令。夕べは気遣いありがとう。おかげでぐっすり眠れたよ」

 昨日の一件に触れてくれているのに、その口調がいつも通りで、翠令はどこか寂しい。

「どうしたね? 翠令の方は寝不足かい?」

 翠令は事実だけを述べる。

「昨日の騎射が本当にお見事でいらっしゃいましたので、夢にまで出てきました」

「ほう」と佳卓は受けた後、翠令の思いもしなかったことを言いだした。

「他人事ではないよ。来年は翠令にやってもらいたいからね。そのつもりで昨日私は翠令に手本を見せた」

「は?」

「今年はともかく、来年の端午の節会では翠令に騎射の射手を務めてもらいたい。翠令は凛々しい女君だからさぞ見栄えがするだろう。見物に来た女君達が黄色い声を上げる様が今から楽しみだ」

「あの……私には、できません」

「いや、必ずしも全ての的を射抜く必要はないよ。儀式だからね」

 いえ、と翠令は首を振った。振らざるを得ないのだ、この話題は。赤面ものの恥だと分かっていても。

「私は弓が出来ないのです。馬上どころか普通に立った状態でも……。ろくに練習したこともございません」

「……」

「佳卓様が呆れてしまわれるのは分かります。弓が出来ないのなら、女武人とは名ばかりかと謗られても仕方がないことだと承知しております」

 佳卓は机上に両肘をついて指を組み、その親指に顎を当てて翠令を見上げた。

「理由を聞こう」

「……」

「錦濤の姫宮が東宮にお決まりになられた時に、側に仕える翠令についても調べさせた。私邸に押し入った賊を刀で退けて来た腕の確かな武人だと報告書が上がっていたが、そう言えば弓のことについては何の記載もなかったな。まあ、邸内で賊を退治するなら確かに弓を使う場面はないだろう。とはいえ、翠令は真面目な性格だ。それに姫宮への忠義が厚い。少しでも武芸の腕を磨いておきたいと願っているだろうに、弓の鍛錬を全くしていないというのは妙な話だ」

「申し訳ありません」

「別に責めている訳じゃない。不思議に思っているだけだ。何か理由があるなら無理強いはしない。ただ、弓を射るのは儀礼でも必要とされるものなのでね……できれば翠令もある程度形を身につけておいてもらった方が、任せられる仕事の幅が広がるんだが」

「それでは……これから頑張りたいと思います。錦濤ではずっと独りで行動しておりましたので、それに甘えておりました……」

「甘え?」

「錦濤では邸内のみで働く私のような立場の者が他におりませんでした。特殊な立場故に誰とも比べられずに済み、他の武人と同じような鍛錬を受けなくても言い訳ができました。今まで己の特殊さに甘えて逃げていたのです」

「逃げる? 何から? 別に翠令は己に鍛錬を課すことから逃げるような人間ではないだろう?」

「鍛錬というより、男性と立ち混じる場面を避けていたと言いますか……」

「……」

 翠令は説明したいと思う。けれども、舌が上手く動いてくれない。大丈夫だ、佳卓になら話すことができるはず……。

「私が……、その……子どもの身体でなくなった頃から……男に触られることが増えました……」

 佳卓が卓上に組んでいた手から身を起こした。

「それは……」

「竹の宮の姫君と違って大人になってからのことですし、大したことがあったわけでもないのですが……」

 佳卓が眉を顰めた。

「比べてどうというものではない。大人になってからでも嫌なものは嫌だろう。もし、私の承知する場面でその様な事が起こったなら、ただでは済まなさない」

「……」

「そんな卑劣漢には相応の処罰が必要だ」

 佳卓の表情は、鬼神を思わせるほど厳しかった。それが彼女には心強かった。だから彼女は語ることが出来る。

 錦濤の国衙で武術を教える男達、その全てがそうだったわけではないにしろ、翠令に苦痛と屈辱を味合わせる輩は多かった。手を握ってくる……、尻を触る……、中には露骨に胸を揉む輩もいた。

「弓の構えを指導してやろうと後ろから抱きつかれてそのまま胸を鷲掴みにした男がいて……。それで顔を合わせないようにしていたら、一度、夜に呼び出されて、人気のない建物に引きずり込まれそうになりました……」

 佳卓が鋭く問う。

「それで?」

「全力で逃げました。……ただ、もう怖くなってしまって……。男性の集団に混じっての鍛錬に足を向けることが減りました。弓については邸内で使わないものですから、これを境に全く練習しなくなってしまいました」

 勇敢な女武人と人は私を誉めてくれますが、と彼女は苦く笑った。

「賊と切り結んでいる方が楽だったのです。相手は完全に敵ですから。同輩の男たちの方がやり辛かった……仲間であるはずなのにいつ自分に牙をむくか分からない……」

「そのように考える時点で、相手は翠令の仲間でも何でもない」

 佳卓は組んでいた手をほどき、卓上に量の拳を揃えて重々しく宣言した。

「仲間であるかのような顔で女に襲いかかるような男たちが間違っている。身を守ろうとする翠令が正しい。自分を守ろうとする意識がなくて、どうして他の者を守れようか。ましてや、守る対象は女君だ」

 翠令は淡く笑んで「ありがとう存じます」と礼を返した。佳卓がきっぱりと強い口調で言い切ってくれたことが嬉しかった。

 佳卓は右肘をつき軽く握った指先を口元に当てて、翠令に質問した。

「弓そのものに嫌悪感はあるかね?」

「いえ……特に……。これからでも身につけられるなら身につけたいと思います。昨日の騎射は本当に……」

 翠令は視線を上げて記憶を呼び出した。新緑の中を駆ける梔子色の射手の姿を。

「美しいものを拝見したと思います。到底真似などできますまいが、やってみたいという気になりました」

 佳卓もふっと笑んだ。

「それは良かった。今日の夕方時間はあるか? 私を信頼してくれるなら私が教えようと思うが」

「信頼……それはもちろん信頼申し上げておりますとも。ですが、近衛大将から直々に教えていただくなど……」

「場所は武徳殿の広場だ。右近衛府の隣の屋外で衆目がある。もちろん私はけしからぬことなど何もしない。その様子、つまり近衛大将である私がきちんと女君を遇していることを皆に見せれば今後も模範となるだろう」

「有難いことです。されど、ご多忙では?」

「ちょうどぽっかり手が空いている。本来近衛大将と言うのは宮中警備だけが職務なんだ。それが最近まで白狼と京の街で追いかけっこする羽目になっていた。白狼が捕まって、その残務処理も片付いて、今は時間が空いているんだ。書類仕事は多いが、夕刻までには片づけられる」

「それでは……」

「夕刻に武徳殿前に。弓は私の手持ちの中から小ぶりのものを選んで持っていくからそれを使うといい」

「恐れ入ります」

 実際佳卓は優れた指導者だった。
 翠令からちょっと離れた場所で腕を組んで立ち、指一本触れることなく、言葉だけで翠令の身体の動きを整えていく。

「矢の番え方はそれでいい。背筋を伸ばし、大木を抱え込むように腕を曲げて弓矢を持つ。一度、額の少し上の高さにまで両の拳を上げて……。顎は引く。胸を張って……弦を引く右と弓を握る左は均等に引き分けろ。弦を引くときは手首ではなく、肘を使うように。さあ、上下左右に力が十分伸び合ったら気合いに合わせて射てみよう」

 翠令の手から弦が放たれ、美しい細工が施された弓から矢が飛んでいく。しかし的まで届かない。

「もう少し強く引かなくては。矢を持つ右の拳を、手のひら一枚分ほどさらに後ろに」

「はい」

 今度は矢の距離が出た。やったと翠令は思ったが、佳卓は「ふむ……」と顎に手を当てる。

「翠令はまだ腕の筋肉がついていないから、腕の重みで弦を引こうとする。すると肘が下がりすぎて、翠令の場合は矢の先が空に向いてしまう。距離は出るが、どこに当たるか制御できない」

「はい……」

 問題は肘の角度だ。次は肘を上げてみるが、過ぎたようで今度は矢が下を向き、的に届かず地面を擦りながら落ちる。それでは……と肘を下げると今度は佳卓が首を振る。

 これを繰り返しているうち、翠令にも焦りが生まれて来た。
 浅緋(あさあけ)色だった西の空の赤みが深くなり、そして東の空の青も濃くなっていく。今に紺から群青、そして黒へ。そうして星も浮かぶだろう。時間ばかりが経っていく。

 佳卓が真面目な顔つきで、組んでいた腕をほどいた。

「人差し指一本だけ、触れても構わないか?」

「はい……」

 佳卓は人差し指の先で翠令の肘を軽く持ち上げた。そして肩からごくわずかに低いくらいの位置でそっと止めると、指先でとんとんと叩いた。

「ここだ。この位置を保つんだ。分かるかい? 」

 翠令はぎゅっと目を瞑って自分の身体の形を覚え込んだ。

「では、私は指を放すよ。肘は動かさず、その位置を保って……うん、それでいい。その構えで射てごらん」

 次の矢はまっすぐ飛んだ。自分で射ていても「ああ、これが正しい飛び方だ」と納得いく思いがある。ただ、距離は十分でもだいぶ右に逸れたのが悔しい。

「今は的に当たるかどうかよりも、正しい構えであるかどうかに集中してくれ。左右に逸れるのは、右手で矢を放した瞬間に弓を持つ左手を素早く返せば解決するから」

 翠令は自分に呟く。肘は上げ過ぎず下げ過ぎず、先ほど佳卓が教えてくれた位置を保つ。そして、できれば矢を射る瞬間に左手を返す……。

 次の矢は的の片隅に当たった。

「お、当たった」

 佳卓は何の含みもなく嬉しそうな声を出した。

「翠令は飲み込みが早い。左手を返すことは言葉だけで理解したか。なるほどね……勘がいいんだな。これまで武芸に上達してきた過程が見えるようだよ。よし、続けてみようか」

 次の矢も、的の縁ギリギリに刺さった。ああ、そうかと翠令も要領がつかめて来た手ごたえがある。

「うん、いいね」

 翠令は五回続けて的に当てた。中心とはいかず、的のあちこちに散らばっているが、かなりの上達だと思う。

 佳卓がぱんぱんと軽い拍手を贈ってくれた。

「素晴らしい。初日でこれだけ出来るとはね。これからだって、自分でもこうすればいいというのがもう分かってるんじゃないか?」

「はい、この構えを体に染み込ませていくよう回数を重ねていけばいいのだろうと思います」

「そうだ。翠令は真面目だからきちんと鍛錬を積むだろう。弓の腕ももう心配いらないね」

 期待を込めた見通しだが、弓術について習得の目途が立ったと言えるだろう。長年、不快な記憶と共に遠ざけつつも気がかりだった懸案が一つ解決して翠令は嬉しい。
 そして、その心のままに大きな笑み佳卓に向けた。しかし、それを見た佳卓が少し驚いた顔で固まってしまう。

「何か?」

「いや、本当に嬉しそうに笑うものだと思ったのでね……」

「武芸の一つ一つが出来るようになるのは喜びです。暫く忘れておりました」

「まあ達成感というのは確かに嬉しいものだからね……」

 佳卓は翠令にそう話を合わせながら、ふと何かを思いついて表情を改めた。

「翠令はこれまで武人として楽しいことばかりではなく、辛いこともあった。一方、お仕えする錦濤の姫宮は今でこそ東宮として京に戻られたが、流罪人の子として先行きの見えないお立場だった。なぜ、翠令は姫宮を主と定め忠義を尽くすことにしたのかね?」

 翠令は、なぜ……と呟いたきり、言葉に詰まる。答えそのものを言い表す言葉は見つかりそうにない。それは、翠令にとって言葉で説明するものではない。

「……理由など考えたことがございません」

「ほう?」

「姫宮は愛らしい御子でいらっしゃる」

「……」

「とても愛らしい……だから守って差し上げなくてはと思います。その願いを踏みにじるような賊が現れれば退けたい。ただそれだけです。別に栄達など望んだことなどありません……。愛おしいと思った気持ちのままに生きて参りましたし、それで幸せでございました」

 佳卓は、降参するように軽く両手を上げた。

「分かった。愚問だった。武人を志す理由など『守ってやりたい』という気持ちだけで十分だ。愛おしいという気持ちだけでここまで強くなれたのは情の濃い翠令ならではのことだね」

 納得した様子の佳卓は辺りを見回した。

「さて。だいぶ暗くなってしまった。翠令ならこのまま練習して行けば的の中心を射抜くようになれるさ。それが出来るようになったら馬の方も教えよう。とりあえずは……そうだね、秋ごろまでに狙った的を外さないよう腕を上げておいてくれ」

「精進いたします」

 大内裏の中にポツリポツリと篝火が焚かれるようになった中、翠令は左近衛の方角に向かって帰る佳卓の背を見送った。

 本当は彼を呼び止めて一つだけ聞いてみたいことがあった。佳卓もまた「誰かを守ってやりたい」という理由で武人を続けているのだろうか。
 その相手を尋ねたらどんな言葉が返ってくるのだろう。もし、彼の口から恋人かそれに近い相手が挙げられたら、自分はきっと切なくなるのだろうと思った。
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