二十八 翠令、佳卓の昔の恋を聞く(二)

文字数 4,495文字

「彼がいない戦いは本当に厳しいものだった。死闘とはあのような場面を指す言葉だと思う。私は初めて心の底から相手を倒したいと思って剣を振るったし、当たってくれと祈るような気持ちで矢を射た。自分の安全だけじゃない。私が無理を通したのだから、それを受け入れてくれた皆を守らねばならない。──必死だった」

 佳卓は額に手をやった。その当時と同じように冷や汗が流れ出ているかのように。

「よく切り抜けられましたね……」

「人間、追い込まれると底力が出るようでね。趙元にも『戦をしながら時々刻々と上達していっている』と感嘆されたよ。うん、集中すると相手の動きが緩慢に見え、戦況の全体が俯瞰できるようになるものだね……。そのうち集中すれば相手の動きが止まって見えるようになった」

 それは、佳卓の天賦の才がその時に一時(いっとき)に開花したのではないだろうか。彼女に夫を会わせてやりたい、そしてその願いをかなえてくれた者たちを守り抜きたい。若き佳卓はそのとき切実に自分の変身を望んだのだ。

「薄氷を踏むような勝利だった。辛うじて死地を潜り抜けて帰京した際、兄上に顔が変わった』と言われたものだ。趙元と朗風もどれほど危なかったか。いや、本当に彼らには頭が上がらない。こうして彼らに助けられて、それから私は彼らの主公らしくあらねばと強く思った。時機が遅いのには我ながら呆れるが……」

「今の佳卓様は麾下にとって良き主公だと思います」

「ありがとう。以来、私は誰かの良き主でありたいと希求しながら生きるようになった。そこで、まずは彼女の夫君に『貴方を見習いたい』と言った。随分驚かれたが……」

 それはそうだろう。その夫君は見上げた人物だと思うが、そもそもはただの地方の豪族だ。都に住む権門の貴公子に尊ばれる立場では全くない。

「彼は治水に汗をかき、薬草などの医術も取り入れて民に尽くす。それに加えて実戦で鍛え抜かれた確かな武芸の腕がある。私生活では妻を大切に慈しみ……。私も彼のような男になりたいと思ったのだ」

「その、妻女であった女君は……」

「夫君に看取られて安らかに眠りについたそうだ」

「そうですか……」

「そう言えば、夫君が私に礼を言ってくれたね」

「何を……?」

「私が彼女に出来たことは燕弓を弾いてやるだけだったし、そんなつまらぬことしかできない自分が不甲斐なかったのだが……。夫君が言うには、自分がありとあらゆるものを愛妻に与えても、ただ一つ『美』を与えることはできなかったのが悔やまれる、と。それを私がもたらしてくれたと喜んでいた」

「……『美』ですか?」

「都の洗練された文化のことだろう。私はそのようなものが何の役に立つのかと思ったが、夫君は違う考えがあった。私が来るまで彼女は闘病に倦み疲れていたそうだ。来る日も来る日も体は重く辛く、癒えない病と闘うのは本人も辛い。そして、見守る夫君も苦しかったと言っていた。そこに現れた私は別世界から来たかのようで、彼らにとって随分と明るい存在だったらしい」

 翠令はそれも分かるような気がした。色鮮やかで優雅な装束、精密な細工の施された豪華な品々、魅惑的な楽器の音色……確かに鄙の単調な暮らしを繰り返す人々にとってそれらはまばゆいものであっただろう。

「錦濤育ちの私にも分かる感覚のような気がします。燕を始めとする舶来のものに興奮することと同じなのでしょう。美しく、珍しいものは心を浮き立たせてくれるものですから」

「そうだね……」

 佳卓は燕と聞いて別の挿話も思い出したようだった。

「私は夫君と領地の統治についてよく話をするようになってね。何か私に役立てることはないかと尋ねたところ、日立(ひたちの)国の役人を呼び寄せて欲しいと言われた。その役人は灌漑や医術に詳しく、その者から夫君は伝聞で新しい知識を得ていたという。その本人を領地に招きたいとの希望だった。もちろん私は、権門の御曹司の立場を使ってそう手配したとも。ただ、元々その役人も日立国より更に東国の奥に行くことにはなっていたそうで、私の要請はその時期を早めただけではあったんだけどね」

「その役人はどこでそれらの知識を得たのですか?」

 佳卓は笑い始めた。

「日立国よりずっと京に近い尾治(おわりの)国の地方官吏と文を遣り取りしていた。その人物はたいそう実用的な知識に詳しいというのでね、私も帰京するときに尾治国を通るからその者に会った。そしたら、彼──尾治国の地方官吏に呆れられたよ。『私は京の都に上るたびに大学寮などで知識を搔き集めて参ります。大学寮には燕からの知識や、この国での事例がまとめられた資料がございます。なのに、大学寮の正式な学生である左大臣家のご子息は何もご存知なかったのですか』とね」

「貴人相手にずけずけ物を言う御仁ですね……。尾治国の地方官吏……そしてその性格……正智殿ですか?」

 佳卓はからからと笑いながら肯定した。

「その通り。当時の正智は正式な学生ではなかったから閲覧できる資料に限りがあった。けれど他の誰よりも大学寮の知識を民の役に立てている。こんな人材こそ活用すべきだと思った。私的な家人にして私の代理を務めさせれば、大学寮の蔵書全て借りだせる。それで彼を召し抱えるようにしたんだ」

「なるほど……」

「私は」と言いながら佳卓は燕弓を構えた。

「正式な学生でありながら学問をきちんと知ろうとしなかった。武人に憧れていても、周囲が手加減していることにさえ気づかなかった。この国の朝臣の筆頭を為す家に生まれておきながら、土地と民を預かることの重みもろくに考えることがなかった。何も知らず、何もできない愚かで非力な人間に過ぎなかった。そこから少しでもましになろうと努力を重ねて来たが、私という人間の本質は変わっていないと思う」

「そうでしょうか? 東国統治の手腕は高く評価されていますし、学問もそれを専門とする円偉様が一目置くほど。武芸が素晴らしいのは、私も武人の端くれですから力量のほどは分かります」

「確かに、近年の私は鬼神の域などと過分なお褒めも頂戴するね……。だが、そんな環境が私は怖いんだよ。地位が上がれば上がるほど、私を褒める人間ばかりになるだろう。その中で、自分は自分の至らなさをきちんと自覚し続けることが出来るか不安になる」

 佳卓は弓を翻して一音出した。子供の哭く声を遠くで耳にしたような音色だった。

「だから、時おり燕弓を弾くんだ。特に東国の女君に偽りの愛を誓った、あの日のような月夜にね。軽佻浮薄で己の無力ささえ知らずにいた若い頃を思い出すために。そして、新しく麾下になった人物に私という人間がどうであったか説明する。私は、本質的には愚かで無力な人間なのだよ。崇めてなんか欲しくない。鍛えてくれ。私が再び思い上がることのないように──」

「……」

「錦濤の姫宮を囮としてしまったことで、翠令に刀を突きつけられて良かったと思っている。私はまた愚かにも増長していたから。策に溺れ、人間を盤上の駒のように眺めるようになってしまっていた。十の少女をただ盗賊を捕らえる餌としか認識していなかった。姫宮ご自身の人間性や、翠令をはじめとする錦濤の人々が注いできた愛情に想いを致すことが乏しかった。翠令が怒ったのも当然だ」

「その件は何度も詫びてくださいましたし、姫宮もお許しです」

「確かに姫宮ご自身が『貴人は誰かの役に立つためにいるのだから』とおっしゃって下さったね。だが、もし囮役をお引き受けいただくにしても、姫宮とその周囲にあらかじめ話を通しておくべきだった」

 佳卓は肘を下ろし、翠令をまっすぐに見つめた。

「翠令に感謝していると同時に、頼もしく思っている。近衛大将に刃を向けて、ただで済むとは思っていまい。けれども、翠令は誰かのためや自分の大義のために、身を捨ててでも相手を諫める強さがある。そこに甘えて済まないが、これからも私を諫める役割を担って欲しい」

「……」

「自分はこんな愚かな自分が嫌いだ。しかし、他人に支えて貰えば少しはましになれるだろう。翠令には、こんな私を助けて、そして守って欲しいんだ」

 月の光を映す彼の瞳は、静かに澄んでいた。人を食った皮肉気なあの佳卓はどこに行ったのかと思うほど、真摯で、どこか厳かな儀式に臨んでいるかのような神妙な表情だった。

 その、「助けて守って欲しい」という言葉が翠令の胸に沁みた。

 これまでの佳卓には無謬の存在にねじ伏せられるような畏敬の念があった。また美しい公達への胸のときめきも感じた。けれど、今ある感情はそれらと少し違う。この人にこのような瞳で見つめられていたい、それが身を震わせるほどに嬉しい。その喜びは深くそして切ない。

 今まで恋をしなかったわけではない。ただ、これほど強い想いを経験したことはない。そして、その相手がこうも身分が高い貴人であったことも。

 そしてそれが手に届かない相手であることが、とてもとても哀しい。

 翠令は身の引き締まる思いと、一抹の寂しさで一瞬目を閉じてから答えた。

「私にできることなら何なりと」

 佳卓はゆっくりと瞬きをし、深い響きで礼を述べた。

「ありがとう……」

 そして、燕弓を構え直しながら翠令に問う。

「私の昔語りは以上だ。翠令の方から何か聞きたいことはあるかね?」

 とっさに翠令は答えてしまった。

「一つだけ……」

 尋ねたいことが一つあった。佳卓にとって、そこまで佳卓を変えた東国の女君はいかなる存在だったのだろう。話の途中から彼は女君ではなく、その夫君に話の重点を移したように思う。それは、意図的だったのだろうか、それならなぜ……、それとも……。

 翠令は佳卓を見つめた。彼は目を逸らすことなく、翠令を見つめ返す。

 翠令はため息を一つ吐いた。誰の心にも聖域というものはある。自分が知りたいというだけで足を踏み入れるべきではない。

 翠令は頼んだ。

「一曲お願いできますか?」

「……? いいよ、もちろん」

「その燕弓では哀しい曲しか奏でられないのでしょうか?」

「いや……音色にはあまり似合わないが、明るい曲も演奏できるよ、ほら」

 彼は弓を小刻みに動かして、子どもが歌う戯れ歌の旋律を燕弓に歌わせた。

「できれば、そのような明るく楽しい曲を弾いていただければと思います」

「それが翠令の好みかね。じゃあ、翠令の好きそうな曲を弾こう……」

 彼が昔をしのんで哀しい曲を切なげに奏でるのは嫌だった。過去は誰かのものであっても、これからはそうであってほしくない。

 過去を悔いながら、能力と地位が高いために多くのものを背負う佳卓。自分は良き麾下として、その助けと守りを務めよう。いつまでも彼が彼自身を嫌いにならなくて済むように──。
 生きていればずっとそのような形で彼を見つめ続けることが出来る。

 ──そんな日々が続いてくれれば、それでいい。

 武門の名家出身の趙元、乳兄弟の朗風。彼らに並んで頼りにされる、大切な麾下。それだけでも、翠令の身に余る光栄なことであった。左大臣家の貴公子と、地方の商家の娘に過ぎない自分が近づきうる限界はそこまでだろう。

 始まったと同時に終わるもの、それが翠令の恋だった。

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