四十三 白狼、書庫で幻を見る

文字数 6,695文字

 沈黙が不自然になる前に何か言わなくては……と白狼は焦る。

「俺は……。翠令が俺の特別な女ということはない。……翠令には佳卓が惚れてる」

 まあ、と姫君は驚いた顔をした。そこから気づかわし気な色を顔に浮かべる。
 彼女は、白狼もまた翠令に好意を寄せており佳卓と恋敵なのではないかと案じているのかもしれない。
 それは違う、断じて違う。何かがとても苛立たしかった。

「翠令はいい人間だと思うが、俺は別に惚れてはいない。俺は誰にも惚れない……俺は妖だから」

 姫君はにっこりと白狼に向かって微笑んだ。

「とても頼りになる妖です。妻を助けるよい夫となるでしょう。白狼がいつか家庭を持ったなら、わたくしからも出来るだけの祝いの品を贈りましょう」

「止めてくれ!」

 その語気の鋭さに白狼は自分自身で驚いた。今の自分の身体の内を渦巻く苛立ちが何なのか彼にも分からない。

 普段の白狼は、自分の色恋の話題になれば一笑に付す。
 妓女を請け出したことは何度かあるが、生活の手段を見つけてやって別れてしまえば男女の仲もそれきりだ。その後に女が亭主や子どもを白狼に見せに来ることがある。もちろん白狼は嬉しい。まさに父や兄のように、彼女達の幸せを喜ぶ気持ちになる。

 竹の宮の姫君もまた、白狼の幸せを祝ってくれるつもりだろう。白狼が妓女たちの幸せを喜ぶのと同様に。
 彼女が品物選びを楽しんでくれるなら、それは白狼にだって嬉しいことのはずだ。

──それなのに。この胸の中で荒れている感情は何なのだろう? 怒りとも、哀しみともつかないこの物狂おしいこの感情は。

「白狼?」

 姫君はきょとんとした表情で白狼を見ていた。白狼は、はっきりと彼女から顔を背けた。

 彼女のその貌を見ていたくなかった。ただひたすらに嫌だった。白狼が他の女と添うことを思い描いている、その穏やかで静かな瞳が──。白狼の幸せを願っている、その無垢な善意が──。そんなものは捨ててくれと大声で叫び出してしまいたい。

 白狼は席を蹴った。

「腹が痛くなった。今日の勉強は止めだ。書庫に本を返してくる」

 白狼は姫君の返事も待たず、東の対へ向かった。どかどかと足を蹴立てて正殿を出、透渡殿を足早に過ぎると、東の対の書庫に入る。

 後ろ手で妻戸を閉め、そして閉めた板戸に背を預けた。そして深々とわななくような息を吐く。彼女と相対するのがどうしようもなく苦しかったが、しかし置いてきたこともまた同じように苦しかった。

 書庫には整然と書物や巻物が並んでいる。あの猥談好きの男が姫君に襲い掛かった事件がまるでなかったかのように。

 あの時──。白狼が姫君の悲鳴を聞いて駆け付けたあの時。
 男の醜い背中の下に、あの女のむき出しの身体があった。抜けるように白い肌、滑らかな曲線で描かれた身体、確かその乳房も自分は目にしたと思う。

 白狼の眼前に、あの時の彼女がそのままの姿でいるかのような幻が浮かぶ。
 そして、その幻の中で、一瞬、襲い掛かっているのが自分であるかのような気がして白狼はへたり込んだ。

 ──俺は何を考えた?

 あの女を組み敷き、そして──。
 自分のこの指があの女の乳房を揉みしだき、自分のこの唇を彼女の唇に重ねた気がする。

 ──なんてことを……

 彼は自分の口を掌で覆う。こんな幻覚を一瞬でも感じた自分自身が反吐が出そうに呪わしい。自分が自分のことをこうも醜悪だと感じるのは生まれて初めてのことだった。

 彼は項垂れて頭を掻きむしる。しばらくそうしてから、ぴたりと動きを止め、今度は天を仰いだ。

 ──惚れちまった、あの女に……

 あの女は弱々しいようでいて心の奥底に気概を秘めている。そんなところが自分に似ていて他人のように思えない。
 あの女は気位高く凛然としている。その様子が、彼女が生まれついた容貌以上に美しい。
 そして何より──。過酷な境遇を何とか生き抜いてきたあの女が、自分の言葉で一つ一つ本来の生気を取り戻していく手ごたえが、たまらなく愛おしい。

 このままあの女の側にいて、あの女を励まし、あの女が本来の強さを取り戻すまで見守ってやれたなら、それはどれほど幸福なことだろう。

 だが、それはまず無理なことだった。

 もちろん第一に身分の差がある。この自分と何かあると噂になっただけでも、彼女にとって醜聞となるのは明らかだ。

 また、それ以上に、白狼にとって本質的に重要なことがあった。男女の仲がどうこう以前に人として信頼されるかどうかの問題だ。

 あの女が自分を傍に近づけるのは、自分が安全な男だからだ。
 男の情欲に踏みにじられ傷ついてきた彼女は、この自分があの豺虎(けだもの)と同じ生き物だと分かったとたん激しく嫌悪するだろう。自分に欲望を向ける男など、あの女にとっては恐怖と憎悪の対象でしかないのだから。
 彼女が求めているのは、あくまで父や兄と同じような存在なのだ。

 あの女は言った、「……そう、私を嫌いなの……じゃあ、安心ね……」と。自分も約束した、「俺はあんたが嫌いだ。だから俺自身があんたを襲うことは全くない。安心していろ」と。
 このやりとりの上に、自分と彼女との信頼が築かれてきたのだ。

 自分が嫌われるだけならまだいい。だが、彼女はようやく他人への信頼を取り戻しつつある大事なところだ。ここで俺が彼女を裏切るようなことは決してあってはならない。

 ──俺はあの女を安心させてやりたい

 男の肉体を持つ自分がいつまで自制できるか分からない。そして、自分が自分を抑えることが出来なければ何もかもが終わってしまう。

 できるだけ早くこの竹の宮を離れよう。彼女の中に、自分を守ってくれた従者がいたのだという美しい思い出だけを残せるうちに──自分が無害で安心な妖として、傍にいられるうちに。

 そう結論づけた白狼は虚脱してへたり込んだ。

 ──あの女と別れる日が来るのか……

 彼は唇を歪めて自分を嗤った。別れるも何も、ここには真名を学びに一時的に派遣されただけではないか。たまたまあの女と接点ができたが……そもそも自分はあの女の人生にとって通りすがりでしかない。

 あの女が自分と会ったことをきっかけに、彼女の中の気概を育て、強くなって病に勝つことが出来たなら。その時に、白狼という名の元盗賊との出会いを(さいわ)いだったと思い出してくれたら。

 それだけで満足だ……と自分で自分に言いかけて、白狼は再び頭を抱えた。それは欺瞞だ。それは俺が寂しい。あの女の中でただの美しい思い出になっていくことを願っているのも嘘ではないが、そうせざるをえないことが身を引きちぎられるほど苦しい。

 白狼は深々と息を吐いた。

 ──どうかしている。自分はこんな未練がましいことをめそめそ考える男じゃなかったはずだ。

 そうだ、盗賊稼業をしていた頃はそうじゃなかった。賊の頭目として手下の生活のことばかり考えていて自分の心などいちいち省みたこともない。

 ──やめだ、やめだ。

 白狼は頭を振った。慣れない小役人なんかになろうとするから良くない。

 白狼の手下の中には、佳卓から仕事を斡旋されて官庁での役人生活に馴染んでいる者も多い。だが、彼らは貧しい生まれのせいでたまたま盗賊になっただけで、元々は堅気の生活の方に適性があったのだろう。

 だが、白狼は役人になるのは止めにしようと思う。この先も真名で書かれた書類を見るたびに、この竹の宮でのことを思い出してしまうだろうから。

 竹の宮を離れ、あの女が落ち着いた暮らしを送っているのを遠くから見届けたら。その後はどこかへ行こう。佳卓に暇乞いをして、ここであの女と過ごした記憶が追いかけてこないほどに遠い場所へ去る。風来坊として刀を片手に命の遣り取りをするような、そんな緊迫感のある生活に戻ろう。

 そうやって何もかも忘れて日々を過ごすうちに、この胸の想いにも相応しい落ち着きどころが見つかるだろう。どれほどの時間がかかるのか分からないし、そして、心のどこかに隙間風が吹くような侘しさからはずっと付きまとい続けるだろうけれども。

 白狼は何度も頭を振った。その口から洩れる吐息は始めの頃より軽くなりはしたが、その分、弱々しく生気のないものになっていた。妻戸の隙間から射した夕日がしばらく彼の髪を黄金色に照らしていたが、やがて薄暮の中にその影も消えて行く。

 木の鳴る音がした。

 ──どんどんどん。

 誰かが書庫の妻戸を外から叩いている。

 ゆるゆると首を上げる白狼の耳に、女房の居丈高な声が聞こえた。

「白狼、そこにいるのであろう。何をしておる」

 白狼が書庫の扉を開けると、辺りはすっかり真っ暗だった。手燭を持つ女房が不機嫌さを隠すことなく白狼に苛立った声を掛ける。

「お前は夜に姫宮の側に侍るのが仕事であろう。早く戻らぬか」

「あの女が俺を呼んだのか?」

「いいや。姫宮は白狼の具合が悪いのだからそっとしておくようにおっしゃる。だが、この時間は姫宮のお心が不安定になりやすいであろ。先ほどからそわそわと落ち着かぬご様子。我らもいつ姫宮が暴れ出すかと気が気でならぬ」

 女房は相変わらず自分たちの負担が増えはしないかとばかり気に掛ける。

 この邸宅で誰からも大事に扱われることのない孤独な彼女。白狼は唇を噛み締めた。──放り出せない、少なくとも今は。

 白狼は正殿の簀子(すのこ)まで戻り、そして一度そこに立ち止まると大きく深呼吸をし、それから(ひさし)に足を踏み入れた。
 几帳の中から姫君の声がかかる。その素早い反応からすると、ずっと白狼の気配に神経をそばだたせてきたようであった。

「白狼、戻ったのですか?」

 そして、几帳の陰からいざり出て姿を現す。白狼は立ったまま腕を組んで柱に(もた)れて庭に顔を向け、姫君と目を合わせることを避けた。さっきまであんな幻を見ていた自分を、姫君に決して知られてはならない。

 姫君は自分を見ない白狼に、静かに声を掛けた。

「白狼、わたくしが白狼を傷つけたようなら謝ります」

「いや……」

「白狼にとって母君のことは思い出したくなかったでしょうに。わたくしが不用意に口に出してしまったのが良くなかったと思っています」

 白狼は相変わらず姫君を見ずに首を振った。

「別に、それはいい。それが悪かったわけじゃない」

「では何が白狼を怒らせてしまったのでしょう?」

「怒っている訳じゃない。……なあ、この話題は避けてくれないか」

「分かりました。白狼がしたくない話題ならもちろん止めましょう」

 こういうところがこの女のいいところだと白狼は思う。

 自分が相手の何を傷つけたのかを明らかにしようとするのは、相手のためより自分のためであることが多い。自分に非があるのかないのか、あるならどうすれば許されるのか。それを知って自分が楽になりたいから人に食い下がる。

 だが、この女は十分に思慮深い。自分のために、他人の心をこじ開けるような真似はしない。

「本当なら今夜一晩、白狼をそっとしておくべきなのだと思います」

「……」

「ですから……白狼が居なくても自分一人で眠れないか試してみたいとも考えたのですが……。白狼の顔を見てしまうと、やはり側にいて欲しいと思っています。構いませんか?」

 白狼は目を瞑った。必要とされることが嬉しく、そして苦しい。だが……。彼は心の中で揺れ動くものを飲み下した。

「ああ……。大丈夫だ。俺はあんたの側にいる。あんたがよく眠れるようになるまで」

 早く竹の宮を離れるべきだと思う。だが、それはまだ先だ。
 白狼のするべきことはただ一つ。己を抑えて、無害で安全な妖であり続けること──。

 ただ、この時から白狼は己を偽る苦しさを抱えて過ごすようになった。

 ある日の午後、彼は姫君に尋ねてみた。その日は朝から快晴で、はっきりとした夏の日差しが庭の草木を照らしている。梅雨が終わり、季節が変わるのだろう。

「なあ、あんたの父親や兄貴ってのはどんな男だったんだ?」

 父や兄のような男でいてやりたい。そのためには、姫君の思い出を聞いておくのが参考になるかもしれないと思いついた。そしてその疑問がそのまま口をついて出た。

 姫君は当惑気に沈黙した。それまで何かを喋っていたはずだが、彼女の唇はそのまま動きを止めてしまっている。

「……」

「済まん、答えたくない質問だったら聞き流してくれ」

「いえ、答えたくないなどということは全くありません。むしろ父様と兄様のことは喜んで話したいくらいです。わたくしが驚いているのは話題が急に変わったからです」

 確かに唐突な問いかけだったかもしれないと白狼は思った。

「そうか……」

「ええ、わたくしたちは蝸牛(かたつむり)の話をしていませんでしたか?」

「……」

 そう言えばそんな気がする。白狼は上手く言い繕おうとするが言葉が見つからない。
 姫君が首を傾げた。

「最近の白狼は様子が変です。心ここにあらずという感じで……」

「済まん……」

「いつも上の空になってしまうほど、何か悩み事でもあるのですか?」

「いや……。そうじゃない……」

 我ながら歯切れの悪い返事だと思うが、姫君はそっと目を伏せるだけにとどめた。ここでも白狼の心に踏み込むべきではないと気遣ってくれたのだろう。

「白狼が尋ねてくれたことですし、父様と兄様の話をしましょう。わたくしにとりましても蝸牛より楽しい話題ですから」

 姫君が一瞬だけ静かな苦笑を浮かべた後、話題が切り替わる。

父様(とうさま)はわたくしと一緒に住んでいたわけではありません。けれど兄様(あにさま)とは昭陽舎でずっと一緒でした。父様は帝として忙しいお立場だったかと思いますが、わたくしたち兄妹を頻繁に訪れてくれました。わたくしをよく抱っこしてくれましたね。昭陽舎には梨の木が植えられていますが、その根元でわたくしを抱き上げ、木の上の花や実を見せてくださいました」

「そうか」

「父様と兄様はよく書物を挟んでお話されていました。帝になる心構えをよく説いておられたましたね。良く書を学ぶと同時に、友を持つようにとおっしゃっていました。帝という立場は……白狼の使う言い回しでは『主公』です。この国全体の主です。しかし、一人の人間の立場からは見聞というのは限られがちです。だから書物や人間から広く見解や意見を、物の見方を学ぶ必要があるのだと父様は仰せでした」

「へえ……」

 白狼には興の湧く話だった。

「俺は盗賊の頭領だから、俺の独断で決めることが多かったが。率いる集団の規模が大きければそうなんだろうな。色んな手下の言うことに耳を傾ける必要があるんだろう」

「そう……手下……。正確に言えば帝にとって周囲は全て手下です。ただ、東宮の間はまだ少し気軽なところがあります。だから、兄様は同じ年頃の少年と親しく交わっていました。兄様も少年ですから、その相手も少年に過ぎません。互いに身分の重さが良く分かっていない年頃であったゆえ、身分に縛られず自由に言葉を交わしていらしたと記憶しています。口喧嘩なさっていることもありましたしね」

 白狼がうんうん頷く。

「おう、そりゃいいな。偉いからと言って何でもかんでも言うことを聞く手下にばかり囲まれていると、主の器量は次第に小さくなってしまうから」

「ええ、白狼の言うとおりです。兄様も喧嘩も出来る周囲の友人をとても大切にしていました。そして、まだ童女だった私もその輪の中に入れてくれたものです。私は昭陽舎の外に出ることもありませんでしたから、あちこちから昭陽舎に来る者たちの外の世界の話は面白かった」

「だろうな」

「兄様がその楽しさをもっと知りたいと思って、友人たちとこっそり大学寮にまで出かけたことがあります」

「何だって?」

「驚くでしょう? ええ、東宮ともあろう方が大内裏の外におなりあそばされるのに誰にも知らせず、全くのお忍びでした。下男のような格好をして朱雀門を出て……。御所に立ち入るような身分でもない者と話をし、天子が読むほどでもないとされている本を自由に手に取ったのだそうです。お帰りになると、とても楽しそうに話していらした……」

「は!」

 白狼が笑い始めた。

「どうしました? 白狼」

「いや、あんたの兄貴は錦濤の嬢ちゃんの父親なんだろ? 親子で同じことをするもんだと思って。可笑しいもんだな」

「ええと……。錦濤の御方も大学寮に出かけたのですか?」

「そうだ。お忍びだ。ああ、この話をあんたにまだしてなかったか」

「初耳です。山崎津の面白い話は聞きましたが。この話もしてくれますか?」

「もちろんだ」

 白狼は明るい気持ちになる。この女にとっても面白く、自分の気を紛らわせることができる話題が見つかったことに安堵した。

「嬢ちゃんは──」
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