八十六 翠令、承明門で待つ(三)

文字数 5,071文字

 白狼は吠えた。

「絶対にあの女に当てるなよ!」

「分かってる!」

 姫君にだけではない。あの男にも当ててはならない。あんな男でも今は近衛舎人の一人だ。禁裏を血で穢すことは禁忌とされており、翠令が今現在罪人とされているのも、錦濤の姫宮をお助けしようと近衛を斬りつけたせいだった。
 内裏を騒がせた上に、さらに朝廷への叛意が疑われるような真似は何としても避けねばならない。

 男と姫君の間にあるのはあと一、二歩で埋まってしまいそうなほどの空間。対して、翠令は前庭の南端の壁の上。今までの練習以上に当てるべき的を遠くに感じる。

 ──この距離からあんな狭い範囲に?

 自分にできるのか……そう思うと足元から震えが這い上って来る。しかし、やらねばならない。翠令は足を踏みしめて迷いを振り払った。そして白狼に叫ぶ。

「弓矢のコツならお前に聞いた!」

 白狼の返答は、その声の大きさ以上に、口調の鋭さが耳に突き刺さった。

「心の底から念じてろ!」

 翠令は矢を射るべき空間を睨み据えた。
 そして頭の中で確認する。腕はどう上げるのだったか……。どこまで弦を後ろに引けばいいのだったか……。そして、肘の角度は……。

 その翠令の思考に佳卓(かたく)の声が重なる。
「腕はまっすぐに持ち上げて」「翠令が思うより手のひら一枚分後ろに」……。
 そして……。
「肘の角度はこう、だ」
 佳卓が人差し指一本だけ触れて教えてくれた、その角度。

 突然、翠令の目に映るもの全てが動きを止めたように見えた。姫君に近づく下衆野郎の姿も絵巻物の登場人物のように静止している。いや、ごくごく緩慢に動いてはいるが……
 
 ──ああ、一刹那一刹那がゆっくりと感じられる。

 そう言えば佳卓が言っていた。東国の女君の夫君を戦列から手放した後、襲い掛かる敵と戦っている時、ふと相手の動きが止まって見えたのだ──と。

 ──よし。

 翠令は自分に頷いた。自分は今、しっかりと集中できている。もう一度、最後に頭のてっぺんから指先の構えを総点検し、そして、心から底の底から全身全霊で念じる。

 ──どうかこの矢よ、頼む! あの男の足元に突き刺さってくれ!

 「ひゅんっ」という高い音が空気を切り裂く。矢はまっすぐに飛び、姫君の頬を掠め、男が一歩を踏もうとした地面に刺さった。男の足元を阻んで、矢羽根がびいんびいんと揺れている。

「おわ?」

 男の姿勢が崩れ、斜め前方にたたらを踏む。

 姫君は一瞬だけ動きを止めたが、再び、そしてより力強く走り始めた。翠令は次の矢を(つが)えながら息を吐いた。

 ──気丈な方だ……。

 深窓育ちの姫君が、自分のすぐそばに矢が射かけられても怯むことなく、いっそう奮起なさるとは。

 だが、男の執拗さは終わらない。大きく態勢を崩したくせに、地を這いながら腕を伸ばして姫君の水干の袖を掴んだのだ。

 姫君はたまらず地に崩れ落ちる。

 ──ポキッ

 人間の骨の折れる音は意外と大きい。どうか空耳であって欲しいと翠令は願うが、姫君の足首と上半身はあり得ない角度で倒れている。

 翠令の頭から血の気が引いた。

 されど、姫君はあきらめない。その精神は恐ろしいほど強靭だった。
 袖を男の手から振り払うと、無事だった片脚だけで前に進もうとする。
 とはいえ……折った方の足を地面についた瞬間、顔を歪めてその場に倒れ込んでしまった。

 男も身を起こし、薄笑いを浮かべて姫君ににじり寄る。
 
 ──もはやこれまで……。

 翠令の膝が崩れ落ちそうになったとき。ゴトンと金属が石畳に落ちる音がした。

 ──何だ?

 続けて、木の扉がばりばりと蹴り破られる音が轟く。

 白狼に馬の前足でけられているうちに、承明(しょうめい)門の(かんぬき)を止めていた金具が落ち、扉が開いたものらしい。
 白狼の乗った馬が門の中を全速力で駆け抜ける。

 ──間に合うか……

 馬を止めて、姫君に駆け寄って……。いや、その前にあの男が姫君の身体を抑えてしまうだろう……。

 ──白狼、無理だ……。

 白狼は全く馬の速度を落とさなかった。そのまま、男に半ば覆いかぶさられた姫君の傍に駆ける。そして……。翠令から白狼の姿が一瞬消えて見えた。

 ──白狼、馬から落ちてしまったのか?

 そうではなかった。落馬したのかと思うほど、白狼が馬の鞍から上半身を沈めたのだ。何のために? 地に倒れた姫君を掻き攫うために!

 下衆男の鼻先で、白狼は姫君の二の腕を掴んだ。そのままぐいっと自分の体ごと持ち上げる。

 ──白狼!

 馬上で上半身を起こした白狼は、姫君の身体を横抱きに抱えていた。馬の速度は落ちていない。そのまま紫宸殿に突っ込みそうなところで、白狼は片腕で力いっぱい手綱を引いた。棹立ちになった馬は前脚の蹄で宙を掻く。そこをさらに、ぐっと引いて、白狼の馬は首を取って返す。
 馬は全速力で走る。今度は南へ。承明門へ!

「翠令!」

 朗風(ろうふう)の声がした。既に建礼(けんれい)門の扉を開けている。

「さあ! ここからは手はずどおりですよ!」

「分かり申した!」

 白狼の馬が姫君を抱いて承明門を内から外へ駆け抜けた。激しく揺られている姫君が、それでも衣の合わせ目から木片を取り出し、細く弱々しい腕を懸命に伸ばして朗風に差し出す。朗風は馬に並走して、姫君の手からしっかりそれを受け取った。

「よしっ。目当てのものは受け取りましたよ!」

 翠令がその光景を見て安堵の息を吐いた時。鐘がけたたましく打ち鳴らされた。

 ──カンカンカンカン

 朗風が心底楽し気に「始まりましたね!」と笑うと、「じゃあ!」と片手を上げて西へ走った。翠令自身も壁から降りて馬に跨り東へ逃げ、ビャクも後から付いて来る。白狼は南、翠令は東、関契を手にした朗風は西から内裏の外に逃げることになっていた。

 内裏の外、各省庁で叫び声がする。鐘の音はひっきりなしに鳴りまくる。翠令も朗風と同じように笑った。

 ──手はずどおりだ。

 建礼門の南、すなわち内裏の南は中務(なかつかさ)省関連の官衙が並ぶ。その中の陰陽寮では漏刻で時間を計って鐘を鳴らす。その鐘がひっきりなしに鳴り続ける。

 白狼の手下の一人が、陰陽寮で鐘を鳴らすことを職掌とする守辰丁(ときもり)に就いている。白狼が近衛に召し抱えられるにあたって、佳卓(かたく)が就職を斡旋した者達の一人だ。

 佳卓は「別にこんなことをやらせようと思って職を手配したわけじゃないんだが」と苦笑いしながら言っていた。

 ──せっかく漏刻を警護して鐘をつく守辰丁の仕事をしているんだ。少し力を貸してもらおうか。

 その者だけではない。この宮城の中の官衙のあちこちで白狼の手下が働いている。今なお自分たちの頭目だった白狼に恩を感じ、白狼のために自分を役立てようとする多くの者達が。

 今夜。建礼門から白狼が馬を駆けて出てきたら、かつての手下たちがおのおの騒ぎを起こすことになっている。

「火事だ!」という叫び声が東の大膳職(だいぜんしき)から上がった。西の典薬寮(てんやくりょう)からは「泥棒だ!」と怒鳴り声が。どこの官衙か分からないが「瓦が落ちた!」という騒ぎが始まると、その少し向こうの建物から「病人が出ましたぁ~」と助けを求めて外に飛び出す人影が現れる。

 佳卓は人を喰った顔をしながら指を折っていたものだ。

 ──火事に泥棒、瓦が落ちたとか急病人とか……。人が聞いて驚く出来事は他に何があるかな……そうだ、百鬼夜行にでも登場してもらおうか。

「妖が出るのは宴の松原だろうね」と佳卓は他人事のように言っていたが、彼の指示通り、武官姿の朗風の麾下が「宴の松原に物の怪あり!」と行き交う人々にまくしたてている。

 百官の府は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。誰も、粗末な水干の童を抱きかかえて朱雀門を蹴り破って出て行った狼藉者を追わないし、お尋ね者の女武人翠令とすれ違っても気に留めない。

 翠令は足元のビャクに声を掛けた。
「さ。昭陽舎に戻るぞ、ビャク」

 翠令は梨の典侍の計らいで、女の格好で後宮に匿われることになっていた。外の騒ぎが気になったという体で、女房達が数人、内裏の外郭の建春門にまで出てきている。翠令が近づくとさっと頭から女らしい色目のを袿を被せてくれた。

 そしてわざとらしく騒ぎながら、翠令を取り囲むようにして建春門から内郭の宣陽門を抜けて後宮に入っていく。

「時刻の鐘がこんな風に鳴るなど、私も宮仕えが長うございますが、初めて聞いたことですわ」
「火事や泥棒、けが人が出たんですって? おお、恐ろしいこと」
「恐ろしいと言えば、宴の松原に百鬼夜行!」
「ひえ……。早う中に入って、梨の典侍様に外の様子をご報告せねばならぬのう……」

 警備に配されていた近衛舎人たちにも怪しまれず、直近の昭陽舎に女の群れは入る。昭陽舎は主を失いひっそりとした雰囲気に変わっており、そこに梨の典侍が座っていた。翠令に気づくと心配でたまらないという顔で尋ねる。

「翠令殿、外がこれほど騒ぎと言うことは……」

「はい。関契は無事に朗風殿の手に渡りました。竹の宮の姫君のお働きです。真に、真にお見事でいらっしゃいました。感服いたしましたぞ!」

「無事で……姫君はご無事であらしゃるか?」

 骨折はかなりの大けがだが、典侍の顔を見て心配させるようなことは言いたくなかった。

「少しケガをなさいましたが……その……こけてしまわれましたので……」

「……」

「大丈夫です。白狼は荒くれ者の手下を率いていた男です。傷の手当についてはなまじの医師より詳しいはずです」

「姫君は白狼殿とお会いになられたのでございますな……」

「ええ。ひとまずは妓楼街の裏町の白狼のねぐらに匿われることになっています。近衛大将佳卓様が捕らえようとしてもできなかったのですから、この京で白狼と一緒に身を隠していれば誰にも捕まることはありません」

 典侍は深々と息を吐いた。

「姫君は……」

 そう口にする典侍の唇が震えた。

「もう、この典侍を恨まぬとおっしゃって下さった。髪を切り童子の格好で、この魔窟を抜け出しておしまいになった……。あとは、あとはただ……前を向いて幸せになることだけを考えてお暮しであられてほしい」

 典侍は瞑目して俯き袖で目元を拭う……。

「姫君のことがずっと案ぜられて……心に棘のように刺さっておりました。もう、この典侍、思い残すこともありませぬ……」

 実際、そう口にする典侍の顔がいつもより老いたように見えて、慌てて翠令が声を掛ける。

「いやいや、典侍殿。錦濤の姫宮がこの昭陽舎に帰っておいでです。姫宮も私もまだまだ分からぬことが多い身、典侍殿にはまだまだ助けていただかねば……」

「おお、そうじゃ。あの宮様がお戻りになられるのであらしゃりましたな……。ふふ、また賑やかな毎日となりましょうなあ」

 典侍の声にも表情にも生気が蘇る。
 ただ、表情が明るくはなっても、それでも典侍はどこか気が抜けたようでただ座っている。そして、それは翠令にも分かるのだ。自分もまた、ただただぼうっと座っているし、そしてしばらくそうしていたい。何しろ、翠令が初めて女君の格好をしてこの昭陽舎で姫宮と別れてから、ずっとずっと気が張りつめっぱなしだったのだから。

 ──コケコッコー

 鶏が時をつくった。この声だけが響くほどに、辺りは静けさを取り戻していた。
 あちこちでやかましかった騒ぎもおさまっている。今ごろ、白狼の手下たちもそれぞれ「酔っていた」「悪夢を見た」「騒ぐ声が聞こえたから自分も騒いだ」など適当にすっとぼけていることだろう。

 東の空が白み始め、常と変わらぬ御所の一日が始まろうとしている。
 典侍も、そして翠令もまた、これまで強いられてきた緊張が抜けて放心したまま夜が明けていく様を見つめていた。

 群青の夜の底は白く、東山の稜線からほんのりとした浅緋色がゆっくりと広がっていく。その赤みが鮮やかになり切った頃、すっと一筋の光が目に飛び込んだ。

 日が昇った。東から。東山の向こうから。
 ──そして、その山の向こうの東国から佳卓が戻ってくる。

 翠令は大きな声で笑いたくなった。女房が着せ掛けてくれた女物の衣の大きな袖を目の前にかざす。

 まるで幼い女童の着るような、子どもっぽくも愛らしい模様。ただただ翠令に似合わないことを目的に選ばれた衣装。

 ──この御所の人々は起こりえないと信じていたはずだ。女武人の翠令が嫋やかな女房装束など身にまとうはずなどない、と。そして、高貴な竹の宮の姫君が賤しげな男童の格好をするはずがない、と。ましてや、紫宸殿の南庭を自分の足で歩いて外に出るはずなどあろうはずがない、と。

 ──人々の思い込みをつく。

 佳卓の詐術は大成功を収めたのだ!

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