四十一 白狼、己を語る

文字数 5,044文字

「佳卓も、俺が口調を改める必要はないと言ってくれた。この口調が俺らしいのだ、と。それが意地なんだろうから、その意地を大切にしろと言われた」

「意地?」

「『情けを受けるまい、受けた恩はいつか返すのだ』という意地が俺の根幹にある。俺が傲岸不遜でいるのはその意地の表れだ。そう佳卓は言ったし、あいつは俺のことを上手く言い当てていると思う」

 彼女は首を傾げたままだった。確かに、傲岸不遜という言葉は褒め言葉では決してない。それでも――

「俺も、あんたに同じことを言う。あんただって傲岸不遜であれ、とな」

「……」

 その言葉に姫君は当惑した顔をする。女であればそのような態度は生意気だと、男以上に非難されるだろう。しかし。

「俺はあんたを助け、あんたは俺をここに置くことで俺に恩を返した。こうやって俺があんたを寝かしつけていることを新たに恩に感じているなら、この恩もまた、いつか返してやるという気概を持っていろ。昂然(こうぜん)と胸を張れ」

 だが、姫君は白狼の言葉に反して視線を下げてしまう。

「恩を返す……。それが出来ればいいと思いますが……。白狼をここに置く以外に、わたくしに何ができるのか……」

「恩は何も今返さなくてもいい。ただ、しおらしい態度を取るのはよせ」

 ほら、と白狼は笑った。

「あんたは気位の高い態度が似合っている。二回目に会った時も『感謝はしているが見下されたくはない』と言ってただろう? それでいい」

「あの時も、白狼は『いい態度だ』と言っていましたね……」

「そうだ。あの時も言ったろう? 皮肉でも挑発でもない。気概のあることは良いことだ。誇りをもって胸を張っていろ」

 姫君は御帳台の側にいる女房を一度振り返ってから、声を潜めた。

「わたくしは女房達に牢に繋がれてるような気狂いの女です。それでも?」

 女房には聞かせられない話題だろう。

 白狼は姫君を抱え直して、彼女の首を彼の肩に載せさせた。こうすると彼女の耳元で囁くことができる。男ならではの低く抑えた声でなら、女房に聞こえることもあるまい。

「気狂いと言えば、その一種といえるかもしれないが……。あんたみたいな人間はちょくちょくいる」

「わたくしのような?」

「そうだ。初めて客を取らされた娼婦や、戦場に慣れていない兵士たちだ。自分に降りかかった思い出したくもない経験や光景の記憶を消化できないとき、それらの陰に飲み込まれて錯乱状態に陥ることは珍しいことじゃない」

 白狼の腕の中で姫君の身体が軽く跳ねた。

「わたくしだけじゃないの? 他にもいるの? そういう人たちはどう過ごしているの……?」

 早口の囁き声は涙を含ませる。

「教えて。どうすればいいの……?」

「それぞれだ。あんただけじゃない、だけど誰もあんたと同じじゃない」

 それは彼女が期待する答えではないだろう。白狼は話し続けた。直接の答えは見つからない。だた、彼女が何かの解答を見出せるようなことは伝えてやりたい。

 娼婦の中には妓楼に売られてきたことすら聞かされず、心の整理もつかぬまま無理やりに体を開かれる女がいる。覚悟の上で客を取っていても、意に染まない情交は女の心を荒ませる。時が経っても、故郷で結ばれるはずだった恋人を忘れられず、現実と折り合いが付けられない女もいる。

 そんな女たちが住むあの娼婦街では、閨の悪夢に苛まれて心を病み、寂しさに耐えかねて気がふれたような振る舞いに陥る者は珍しくなかった。

 心を病んだ女たちのその後はそれぞれだ。そのまま生きることを止めてしまい、あの娼婦街の暗闇に幽鬼として消えて行った女もいる。生きてはいるが魂を失い、酒で日々を紛らわせながら時間を過ごす女もいる。腹をくくって逞しく生きているようで、夜ふとした拍子に涙をこぼす女もいる。

 白狼の語る女たちの話を、姫君は黙って聞いていた。

「あんたが襲われた場面を思い返して錯乱するのは決して珍しいことじゃない。そして、そんな人生を生きることはたやすくはない。それぞれに苦しみながらだ」

 竹の宮の姫君は稀に見る高貴な身分なはずだった。ここへ来るまで白狼はさぞ周囲に大切にされているのだろうと思っていた。

 ところが、彼女はあまりにも孤独だった。錯乱しなければならない苦しみに寄り添う者もなく、犬畜生とまで蔑まれて牢に繋がれるような仕打ちを受けていたとは……。

 彼はビャクという名の犬を思った。
 犬ですら庭を駆けまわる自由がある。白狼は犬よりも錦濤の姫宮に大切に遇されている。だが、この竹の宮の姫君は……。

「あんたも、よくここまで生きて来た。辛かったと思うが頑張ったな……」

 昔のことを思いだした今の白狼は、自分の中に芽生えた感情に気づいた。この女は白狼をここに置くという恩を与えたが、白狼は、その恩を返す以上に、この女の力になりたいと思っている。大人になった自分はきっと、子どもの頃に出来なかったことをこの女にしてやりたいのだ。

 子どもの頃の彼は妓楼の娼婦たちが好きだった。彼の母は彼に関心が無く、彼を産ませた男が彼女を捨てたように、彼女も白狼を捨て置いていた。そんな母に捨てられた自分を娼婦たちが可愛がってくれたのだ。

 だから当然彼も懐いた。彼女たちが悲しそうな顔をしていれば思いつく限りの言葉で慰めようとしたものだ。だけれども、ただの幼い子どもに、人生に行き詰った彼女達を救うことなどできはしない。命を絶って骸となったあの女、酒で身体を壊し土気色の顔で死を待つだったあの女。いつまでも悲しみに囚われていたあの女。どの女も、少年の手の届かないところで辛そうにしていた。それを見ていた子どもも、やはり辛かった。

 彼は大人になり、盗賊になって、娼婦や彼女を取りまく人々に財宝を分け与えた。だが、手に入れた物を分け与える以上のことは出来ない。
 そして、そんな自分は今でも大事な人々を見殺しにしてきたような罪悪感を抱えている。

 白狼の独白を聞いた姫君がそうっと呟く。その声には、これまで聞いたことのない温かみがあった。

「白狼のせいではないでしょうに」

「……」

 声と同じく、姫君の硬質な美貌にも柔らかい表情が浮かんでいる。

 あの娼婦街で彼を慈しんでくれた女たちと同様の優しさがこの女にもある。白狼はそう感じた。その身分に雲泥の差があったとしても。

「俺のせいではないのかもしれないが……。それでも、俺にはやるべきことをできなかったという悔いがある。出来ることはしてきたつもりでも誰かを救ったという実感がない」

「……」

「子どもの俺には出来ることが限られていたし、何重にも苦難を抱えた大人を救うことは今の俺にだって難しい。だが、あんたは……あともう少しで何とかなりそうな気がする」

「わたくしが?」

「そうだ。あんたは人間に一番大事なものを持っている。人に好かれるかどうかより大事なもの──意地、だ。あんたには気概がある。俺が助けてやれば助けてやるだけ、あんたは何かを取り戻していきそうな気がする」

 姫君は何かを言いかけたが、白狼は自分の話を続けた。

「俺は佳卓に恩があるが、大きすぎて返せそうにない。それをあいつに言ったら、こんな返事をあいつは寄越した。別に佳卓本人に返さなくてもいいんだ、と。俺に助けを求める人間がいれば、そいつを助けてやればいいのだ、と。俺が受け取った分を誰かに返していれば俺は恩知らずではなくなる」

「白狼は自分が子供の頃に受けた恩、佳卓に返しきれなかった恩を、わたくしを助けることで返そうとしているのですね」

「そうだ。俺は、子どもの頃に俺を育ててくれた大人達を救ってやることができなかったが、大人になった俺ならある程度出来ることもある。あんたに、それをしてやりたい。そしてあんたには気概があるから、上手くいくんじゃないかと期待してる」

 姫君は沈んだ顔で小さく首を振った。

「その白狼の気持ちをかなえてあげたいけれど……。わたくしには何もできません……。ただ錯乱して走って逃げまわっているだけ……」

「それでいい」

「……?」

「逃げながらでも生きている間は、あんたはあんたを追い詰める苦しみに勝っている。飲み込まれていないんだからな。どんなにみっともなくてもいい、あんたを苦しめた奴より一日でも長く生きてやれ」

「生きる……だけ……?」

「あんたが生きていることで喜ぶ人間は、あんたが思うより多いかもしれないぜ?
 まず俺だ。それから佳卓もあんたを助けれらないことを気に掛けていたから佳卓も。それからあの嬢ちゃん──錦濤の姫宮もあんたが静養できるように御所で頑張るって言ってた。これは翠令から聞いたんだが。ああ、翠令も気の毒がってた」

「そう……。そうですか……」

 姫君は何かを思い浮かべようとした。そして、錦濤の姫宮と翠令に興味を覚えたものらしい。

「会ってみたい……、錦濤の御方にも、その女武人の翠令という者にも。それから……」

 姫君は白狼の肩越しに夜空を見た。今宵は空に雲一つなく月が明るく輝く。どんな粗末な家に住もうと月影の至らぬ場所はない。

「白狼の周囲の人々にも会ってみたい。朱雀門の外に居る人々とわたくしは全く関係がないのだと思っていました。外に生きる人々とわたくしとでは不幸の性質も違うのだろう、と。でも、その人たちの悲嘆は、それぞれにわたくしの心とどこか重なり合っているように思う……。ただ全く同じでも無くて……。皆と同じで、そして自分だけの不幸を生きている」

「いつか会いに行けばいい。元気になったら」

「元気に……。そうなりたいものです……」

「なれるさ。大丈夫だ。あんたには気概がある。奥底に強さが眠っている。今まで生き抜いてきた自分を信じろ。それから、あんたには地を走ることができる足だってちゃんとある」

 姫君は虚しそうな吐息を漏らした。

「女君の私が外に走り出るなんて、その姿はまるで獣のようだと言われます」

「女房達は自分の都合でそう言うだけだ。大丈夫だ。俺ならあんたを抱きとめてやれる。逃げたいだけ逃げて走り回れ」

 女が走ることは気狂いだと指さされる。けれども、白狼の評価は異なる。

「あんたが走るその姿、見てると何だか……ええと、言葉が見つからんが……ともかく胸がすく気にもなるんだ」

 姫君は怪訝そうに問う。

「胸がすくのですか?」

 白狼はにんまりと大きく、そして太く笑んだ。

「ああ、そうだ。俺も、あんたも、この国のしきたりなど蹴散らして生きていく。痛快なことだ」

「そのようなこと初めて言われました。白狼は変わっています……」

「そりゃ、俺はこの国の秩序の中を生きてはいないからな」

 巨体を振るわせて白狼が豪快に笑う。

「走って逃げろ。逃げて逃げて逃げおおせろ。そうやって疲れて夜を眠れ」

「……」

「一日一日を生き延びろ。そうして生き延びた分だけ着実に苦しい記憶から遠ざかっていく」

「一日、生きた分だけ遠ざかる……」

 白狼の碧い玻璃のような瞳が、姫君の漆黒の瞳に視線を注ぐ。

「そうだ。その先に希望があると信じて走れ。俺がついていてやるから」

 姫君は顎をあげていた。「よし、いいぞ」と白狼は自分自身も気分が高揚するのを感じる。

「それから、佳卓がちょっと面白いことを言っていた」

「どんなことを?」

「俺から恩を受けた相手が、俺に似ているなら──つまり、受けた恩を誰かに返そうとする人間なら、そいつはまた誰かを助けるだろうと言っていた。これが広がれば世の中が……ええと、『美しくなる』と言っていたな」

「美しくなる……。佳卓は左大臣家の生まれで風流人でもあるから、彼らしい言い方ですね……」

「そうだな。あんたもその『美しくなる』の手伝いができるさ。今は俺に助けられてろ。それを恩に感じるなら、いつか誰かを助けてやれ。あんたはそれが出来るようになるだろう」

 姫君は肩を震わせえ大きな息を吐いた。安堵と意気込みとがまざった吐息だった。そして、深い響きのある声で謝意を伝えた。

「ありがとう……」

 白狼は満ち足りた気持ちでそれを聞いた。その姫君の声には様々な感情がこもっていたが、白狼にとって何よりも嬉しかったのは、その声の底の力強さだった。

 この強さがあるのなら、これほど痛めつけられても今なお残っている力があるのなら──この女は真実強い女なのかもしれない。
 この女が本来の力を取り戻せたとき、自分は自分がし残したことをやり遂げたと思えるようになるだろう。

 ──俺がこの女を救えば、俺もまた救われる。

 白狼は姫君を抱える腕に改めて力を込めた。
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