八十四 翠令、承明門で待つ(一)

文字数 3,730文字

 月の蒼い夜だった。薄雲が空を走り、月の光はその度に明るくなったり翳ったりする。翠令は白狼と朗風と共に承明(しょうめい)門の外にいた。

 内裏は内郭と外郭の二重の壁で隔てられており、外郭の南の正面には建礼門が、そして内郭には承明門が設けられている。
 この二重の門を抜けた内部には白い砂利が敷き詰められた庭が広がり、その奥に左近の橘と右近の桜を従えた堂々たる紫宸殿が威容を誇る。

 その紫宸殿の西北に帝のおられる清涼殿があり、関所をあけるために必要な関契 もそこにあるはずだった。

 ──清涼殿から関契を、男童に変装した竹の宮の姫君が持ち出すにはどうするか。

 距離だけでいえば、清涼殿からは内郭の陰明(おんめい)門が直近だ。しかし、清涼殿と陰明門の間に後涼(こうりょう)殿その他の建物があり、外郭の宜秋(ぎしゅう)門との間にも距離がある。

 佳卓(かたく)は暫く考えてから「紫宸殿の南庭に出て、正面の承明門まで縦断するのが一番いいだろう」と結論付けた。聞かされた翠令は驚いたが、佳卓は「こそこそ振る舞うとかえって人目を引いてしまう。人を欺くには堂々としていることだよ」と言い、確かにそれはそれでもっともであった。

 翠令はこの日の夜。建礼門まで朗風の従者として白狼ともども馬に乗って来た。

 衛門督の朗風が「建礼門の瓦が割れた」という理由をでっちあげて、視察するという体裁を整えたのだ。建礼門を開けさせた朗風たちは、その内側の承明門の外にまで何とか辿り着く。

 翠令は朗風に聞いてみる。

「門の瓦が割れたなど嘘臭くありませんか? それに、衛門督が視察するにも何も夜中である必要はありますまい。こんな時刻にこの三人が建礼門を通って承明門の傍にいるのは、何事かと疑われてしまうのではないでしょうか?」

 朗風は肩を竦めた。

「まあ、胡散臭さはどーしても残りますがね……。ま、疑われて困る人物にはちゃんと根回ししておきました」

「はあ……」

「カネとコネはこういう時に使うもんです」

 白狼が小さく笑った。

「要は買収したのか」

「ええ。そりゃもう、私の全財産をはたきましたし、公金で横領できるものは全部横領しましたとも」

「朗風様……」

 朗風は本気か冗談か、情けない声を出した。

「これで佳卓様の奇策が失敗したら、私は路頭に迷いますよぅ……」

 白狼が請け合う。

「心配するな。そうなったら俺があんたの面倒を見る。佳卓が俺の手下に職を与えてくれた恩返した。盗賊稼業も面白いぞ」

 朗風が暫く考えて口にした。

「嫌だな……佳卓様に振り回されるくらいなら、白狼に食わせて貰う方がいいような気がしてきましたよ」

 白狼が大口を開けて笑い、朗風も明るい声を出した。

「ま、ともかく私がどうにかできる相手はどうにかしています。翠令と白狼は承明門から外のことは気にしないで大丈夫です。ただ……」

 翠令は顔を引き締めた。

「承明門や陰明門などのある内郭から先の内側は近衛府の領域なんですよね……」

「そうです。今の近衛は円偉の息がかかったものばかりです。衛門督としても、承明門の中までは手は打てませんでした」

 そして息を吐く。

「竹の宮の姫君には何とかして承明門にまで出て来てもらわなきゃなりません」

 白狼が腹に響く低い声で答えた。

「ああ……」

 そして素早く馬の背に立ち上がる。次の瞬間には承明門西脇の築地塀の屋根によじ登った。さすがに盗賊。身が軽いし腕力もある。

 元盗賊は身を隠すのも上手い。承明門の瓦屋根の物陰にピタリと身を寄せて気配を消した。これなら中で近衛が見張っていても見つからずに中の様子を見られるだろう。

 白狼が小声で翠令を呼んだ。

「翠令も上がってくるといい。今は庭に誰もいない」

 翠令も鞍の上に足を載せて立ち上がった。しかし、翠令は馬に馴れていないし、馬も見知らぬ乗り手に馴れていない。先に馬を降りていた朗風が翠令の馬の轡を持っていてくれるが、もぞもぞと落ち着きなく動く馬の背に立っているのも困難だ。

 白狼が塀の上から翠令に「ほら」と腕を伸ばした。そして、翠令の手首を掴むと軽々と引っ張り上げる。翠令は塀の上に登り終えると、白狼に感嘆の声を漏らした。

「凄い膂力だな。片腕で人を引き上げられるのか」

「まあな。盗賊で馬が使えるのは頭目の俺やごく少数に限られる。手下の中には馬に乗れずに逃げ遅れる奴も出てくるが、見捨てるわけには行かない。馬を走らせながら、追っ手に捕まりそうなところを搔っ攫って逃げるんだ。ま、あんたが惚れてる佳卓には無理だ」

「は……?」

「あいつは貴族の坊ちゃんだから体格が華奢だ。俺みたいな筋肉はない」

「だが、剣の腕の正確さで山崎津ではお前を抑えただろう? しかもこんな奇策を考え付く頭脳もお持ちだ」

 白狼はにやりとする。

「ま、翠令としては佳卓の肩を持つのが当然だな。……さて、いよいよ、その佳卓の奇策が始まるな……」

「ああ……」

 塀の上に潜む白狼と翠令が揃って北を見た。そろそろ清涼殿から、男の童の姿をした竹の宮の姫君が紫宸殿と清涼殿を繋ぐ長橋をくぐって南庭に出て来る頃だった。

 夜の静寂は思いがけず突如破られた。

 ──わん、わん、わわん!

 犬の鳴き声が響く。

 白狼は「なんだ? 犬か?」と眉を顰め、翠令も首を傾げる。

「錦濤の姫宮の飼い犬のビャクがまだ御所にいるとは思うが……。無駄吠えしない賢い犬だ。この犬がビャクだとして……なぜ今、よりによってこんな時に吠えたりするんだ?」
 
しっ、と白狼が指を手に当てた。
人を呼ぶ声がする。

「たれかある!」

 翠令が小さく呻いた。

「帝だ……。帝のお声だ……」

 白狼が舌打ちをした。

「バレたのか?」

 そして背中に背負っていた弓矢を構える。もしかしたら姫君が警備の近衛舎人に追われて逃げてこられるかもしれない。それを援護しようとしているのだろう。
 だが、翠令がそれを「待て!」と制止した。

 帝のお言葉が聞こえる。翠令の印象では今上帝はとても大人しやかな方であり、こんなに朗々とした声を出して何かをお命じになる人柄とは思えなかった。
 しかし、お声も、そしてその言葉の内容も、まぎれもなく帝のものだ。

「近衛達よ、先ほどから錦濤の姫宮が残した飼い犬の鳴き声がうるさくてかなわぬ」

 ざわざわと清涼殿の庭に集まったらしい近衛舎人たちの声が聞こえる。「そんな犬など外に放り出さねば!」と叫ぶ者もおり、それもそうだろうと翠令も思う。

 帝が何か身動きなさったようで、騒いでいた近衛たちも水を打ったように静まり返った。帝はおっしゃる。

「錦濤の姫宮は呪詛を行ったとか。いや、呪詛を行っていなくても、無実の罪であったならそれはそれで朝廷を恨んでいよう。私は呪詛も恨みも受けたくない」

 帝はさらに声を大きくされた。

「この錦濤の姫宮の飼い犬に危害を加えては、私が祟られてしまいそうじゃ。丁度ここに武具も何ももたぬ童子がおる。この童子に、この犬を大事に抱いて承明門から外に連れ出すことを命じる。よいか、この白い犬とそれを抱いたこの童子に危害を加えては決してならぬ。そんなことをすれば帝に禍が降りかかると心得よ。よいか──」

 帝はここで居並ぶ近衛を見渡されたのか、少しの間をおあけになった。

「この犬を抱いたこの童子は、今から帝の勅命を帯びた使者じゃ。繰り返すが、粗相のないよう承明門の外まで通すように!」

 翠令は拳を握った。経緯は分からないが、帝はビャクを連れ出すという任務を男童姿の竹の宮の姫君に与え、無事に御所を抜け出せるように取り計らって下さったのだ。

「白狼、大丈夫だ。これで姫君は大手を振って承明門にお越しになる」

「……そのようだな」

 実際、紫宸殿と清涼殿を結ぶ廊の影から小柄な童子の姿が現れた。腕にビャクを抱いている。そして、気を付けてその顔を見ると……。

 翠令より先に白狼が小さく叫んだ。

「あの女だ!」

 その声が隠しようも弾んでいるのを、翠令は微笑ましく思う。

「ああ……」

 白狼は手にしていた弓を振って見せた。

 雲は月に少し掛かった程度。その月影を背に南から北に送った合図は、紫宸殿の南西、右近の橘の横にまで来た姫君にも見えたようだ。軽く微笑みを浮かべたのが遠目にも分かる。

 そのまま姫君が紫宸殿の西北の角から南庭を南の承明門まで通り抜けようとしたとき。

 紫宸殿の南庭の東側の出入り口、宜陽(ぎょう)殿と春興(しゅんこう)殿の間にある日華(にっか)門から二人の近衛舎人が入ってきた。

 二人とも紫宸殿の東北の軒廊の陣座に行く途中であるらしく、左近の桜の北へと歩いていく。そして、右近の橘から南に堂々と小走りで向かう童についても何かの用事があるのだろうと気に留めた風もなく通り過ぎようとしていた。

 ところが──。

 二人連れの一人は紫宸殿の裏に姿を消したが、後方を歩いていた男は左近の桜の手前で北へ向けていたはずの足を止めた。

 そして、南へ急ぐ姫君に顔をじっと据えたまま、声を上げる。

「なんだあ、お前?」

 粘着質で不快な声だと翠令は感じた。隣で白狼が盛大に舌打ちをする。

「あいつ!」

「知っているのか?」

「猥談好きの下衆野郎だ。竹の宮であの女に襲い掛かった……」

「なんと……」

 佳卓を恨んで、円偉の傍で働いているとは聞いていたが……。そうか、近衛舎人としてこの内裏の警護にもあたっていたのか。

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