二十五 翠令、陰口を叩かれる

文字数 5,853文字

 武徳殿前の広場で弓の鍛錬を重ねる翠令には、必ずしも愉快な声ばかりが耳に入ってくるわけではない。

 ある日、朝服を着た官人達の集団が広場の一角で足を止めた。面識のない翠令に声を掛けてはこないが、聞こえよがしに大声を出す。

「あの女か。佳卓が目をかけているというのは」

「色仕掛けで近づいたんだろ」

「錦濤なんぞの田舎者は哀れなものだねえ……身体を使ってコネをつくらなきゃならんとは」

 翠令の弓を持つ手が震える。彼らの悪口雑言は姫宮に及び、東宮を女童呼ばわりしてはばからない。

「田舎育ちの女童の方も、円偉様がお貸しした本を読んでるんだそうだが……」

「真名の哲学書を子どもが読めるもんか。読むふりだけだよ、読むふり」

「今に音を上げるさ。だって、俺たちにだって難しい本なんだぜ? 読みこなせるわけがない」

「円偉様だって子どもの浅知恵くらいすぐにお分かりになる。円偉様に見放された時に備えて、お気に入りの女武人を佳卓に差し出してるんだろう、きっと」

「女童は、佳卓が東国から連れて来たつまらぬ元地方官吏とも会ってるんだって?」

「下級官吏風情と話が合うと見える」

「早く己の身の程を知ればいいのに。女の子どもの分際で人の上に立てるわけがない。円偉様のような優れた方を重用して助けてもらわなければ何もできやしないくせに」

「そうだ。円偉様と張り合おうとする佳卓なんかに目をかけている場合じゃない」

 翠令は弓を持ったまま、彼らに近づこうとした。
 この者達はただの通りがかりではなく、翠令を見物がてらはっきりと悪意を伝えに来たのかもしれない。ならば、姫宮や自分の言い分を伝えてやりたい。

 姫宮は円偉を重用する必要性を既に十分お分かりだ。円偉が美しい理想を掲げるに至った心情を知り、そして書物を読むことで彼が貴ぶ徳というものを理解しようと真摯に取り組んでいらしゃる。十の少女が難解な哲学書に苦戦されているのは確かだが、聡明な方ゆえいつかは理解もされるだろう。

 それに何より、姫宮は円偉様と双璧を為す佳卓様を依怙贔屓してはならないことは良くお分かりだ。この翠令という女を差し出して佳卓と繋がろうとしているだと? 下種の勘繰りも甚だしい。

 しかし、翠令が官人たちの群れに一歩踏み出そうとしたとき、背後から声がかかった。

「翠令」

 落ち着いた、穏やかな声だ。

「趙元様……」

 右近衛大将趙元がにこりと笑む。そして、彼は軽く身を反らして翠令の全身を見た。

「だいぶ弓を射る姿勢が安定してきたね。筋肉がついてきたかな」

 そして、姿勢を戻しがてら小声で囁く。

「射貫くのは的だけにしてくれ。頼むからあの官人達に矢を向けてくれるなよ」

 翠令も苦笑を返す。

「そのようなこと……」

「いや、翠令は直情径行なところがあるから。止めておかないとな」

「恐れ入ります」

 右近衛大将は高位の官職だ。彼の姿を見て小役人たちはそそくさとその場を立ち去っていく。小心な連中だと連中だと翠令は呆れた。趙元も彼らの背中に溜息を一つ落とす。

「翠令に声を掛けに来たのは休憩を勧めるためでね。実は美味そうな菓子があるんだ。朗風が市で買って来たのを右近衛にも持ってきてくれた。どうだ?」

 翠令は微笑んだ。

「馳走になります」

 右近衛の役所の卓に、揚げ菓子が山のように篭に盛られて置かれていた。朗風が既にちゃっかりその一つにかじりついている。

「あ、お先にいただいてまーす。翠令もどうぞ。あれ、何で俺を変な顔で見てるんですか?」

「いや……。朗風様の陽気さがなんだか嬉しくて……」

「何か嫌なことでもありました? ま、そんなときには美味しいものを食べましょうよ」

 翠令も腰を下ろし菓子を受け取った。一口だけ齧って、ついさきほど耳にねじ込まれた官人たちの陰口を愚痴る。

「私や姫宮、さらには佳卓様まで……。白狼だっていわれなき疑いを掛けられたせいで追われるように竹の宮に去りました。いったい彼らが私たちを毛嫌いするのは何故なのでしょうか……」

 趙元が「前も似たようなことを言ったが……」と手の中の菓子を弄った。

「白狼についてはあの見た目と出自だな。翠令と姫宮については……。うーん、翠令に向かって言いにくいことだが、錦濤(きんとう)という街に馴染みがないからだろう。要は鄙育ちのくせに、と……。いや、錦濤が我が国を代表する港湾都市だとはもちろん知っているとも」

 錦濤育ちを誇りに思う翠令が顔を顰めたので、趙元が慌てて言い添えた。朗風も続く。

「みんな錦濤の名前は当然知ってはいるんですよ。ただ、京の貴族ってあまり都の外に出ませんからねえ。だから円偉様の紀行文がウケるんですが……。都人にとっては街の名前だけ知ってるけどどんな所かは知らない。そこで育った姫宮達もどんな人間なのか想像しづらいんです」
 
 趙元も隣で首をうんうんと縦に振る。

「京育ちで、幼い頃からその評判を聞いていれば馴染みもあるのだが……」

 翠令は苛立たしく感じる。

「ならば、竹の宮の姫君の方が東宮に適任ではないですか。お血筋とて先帝や先々帝に近いのですし」

「だが姫君は……」

 翠令はすぐに遮った。

「もちろん皮肉で申し上げております。竹の宮の姫君はまず静養なさるべきです。ですが、錦濤の姫宮に文句があるなら、そもそも竹の宮の姫君がああも傷つかれる前に救い出して差し上げるべきだった。そして、かの姫君が静養せざるを得ない今、錦濤の姫宮にお仕え奉るべきでしょう。かの姫君を守りもせず、錦濤の姫宮には文句をつける。この朝廷の者達は無責任です」

「そうだな……無責任だ。女だからと軽んじるのもそうだと思う。真剣に人事(じんじ)を考えるなら、東宮にしろ武人にしろ男女関わりなく適性が第一だ。佳卓様も私もそう思っている。だが、物事を深く考えない奴ほど女だから務まらないとなどと軽々に言うな……」

 趙元は翠令を労わるような目を向けた。

「さっきの翠令は辛かっただろう。佳卓様に弓を教わっただけで『色仕掛けで近づいた』『錦濤の姫宮が保身で側近を差し出した』などと言われては……。傍で聞いているだけでも不愉快だった」

 朗風も菓子を取りかけた手を止める。

「うわあ、そりゃ酷いですねえ。翠令、気にすることなんかないですよ」

「ありがとう存じます……」

 趙元は意外な方向に話を進めた。

「もし、あまりにこのような傾向が続くのなら佳卓様が一度都から離れて東国に行かれた方がいいのかもしれないな」

 翠令は驚き、それを隠そうともせず大きな声で問うた。

「何故です?」

「もともと佳卓様と円偉様とは双璧と称されてきた。ご本人同士は仲がいいが、周囲が敵対しがちだ。そして、どうも錦濤の姫宮は佳卓びいきだと思われ始めている……」

「姫宮は寵を偏らせてはならないと重々分かっていらっしゃいます」

 朗風が指先で額を掻いた。

「うーん、姫宮のお気持ちはそうでしょうよ。でも人の心の中は外に見えませんからねえ……。円偉派の者達は『円偉様の立場が脅かされたらどうしよう』と不安がる。そして『なったらどうしよう』という不安は、『相手は脅かそうとしているに違いない』という疑いに転びやすいんです」

「……ですが……それでも……」

 翠令には官人たちがなぜそんなに疑心暗鬼となるのか分からない。

「佳卓様は円偉様にもその周囲にも特に敵対心はお持ちでない。いったい、彼らは佳卓様の何をそんなに怖れているのでしょうか?」

 朗風が肩を竦める。

「そりゃあ、佳卓様のあのご性格に原因があるんですよねえ。悪い人じゃあなんですよ? だけど分かりづらい人なんです」

 趙元も嘆息した。

「ご自身が『人徳がない』とおっしゃるのは、理由のないことではないんだ」

 そして、首を傾げたままの翠令に説明を加える。

「翠令、自分のことを思い出してみるといい。翠令だった今まで二度、佳卓様に激昂しただろう?」

「え? ええ……」

「姫宮を囮に使うような真似をしたり、昨日まで敵対していた賊を公に召し抱えたり。翠令が憤ったのも当然ではある。あの方は、やることなすことが大胆過ぎるんだ……」

「しかし、囮の件は非を認めて謝罪されましたし、白狼の件も納得のいく理由がありました」

「翠令がそう納得するようになったのは、刀を突きつけたり怒鳴り込んだりしたからだろう?」

「……」

 返す言葉のない翠令を見ながら、朗風がまた篭の菓子に手を伸ばした。

「凄いですねえ、翠令は。私も現場でその様子を見てみたかったですよ」

「そりゃあもう! 怒ったときの翠令の姿は、まあ、何というかとにかく凄いぞ。特に山崎津のあの一件だ。近衛大将を刀で脅す翠令にも驚いたが、何かに驚いている佳卓様の姿にも驚いた」

「まあ、ちっとやそっとのことで動揺する可愛げなんてだいぶ前から無い方ですしねえ」

「白狼を近衛で召し抱えることが正式に決まったときにも、真っ先に気にかけていらしたのが『翠令がまた激昂するだろう』ということだったしな……」

「謝罪も説明も翠令だから引き出せたんですよ。あの佳卓様に気を遣わせるとはねえ……」

「勇気があるというか……肝が据わっているなあ! 翠令は」

 翠令は「はあ……」と困惑した顔をするよりない。

 趙元はここで口調を真面目なものと改める。

「翠令の方が稀なんだ。あの佳卓様の決められたことに噛みつける方が珍しい。他の者は大抵あの方を畏れながら、ただ振り回されるしかない……。つまり、佳卓様の下には二種類の人間しかいないんだ。人柄に惚れこみ尊崇するか、何をしでかすか分からぬ人物だと警戒するか」

「武人ならあの奇計機略を面白いと感じる人間もそれなりにいますが、文官には嫌われがちですねえ」

「文官は穏やかな秩序を重んじる。真面目にコツコツやっていれば、真っ当に報われるものだと思っていたいものだ」

 それは翠令にも分かる気がする。

「私は武人ですが……その感情も分かる気がします」

 この御所に来た時、もう自分の役割は終わったと思い、見通せない将来に不安を覚えたものだ。

「そうだ。誰にとっても予測不可能で先行きが見えない状態は苦痛だ。その傾向は文官により強い。我ら武人は戦場に立って命の遣り取りをするから、大胆な人事でも武勇の実力がっていれば納得する。そして武人の実力はわりと単純に分かる。試合すればケリがつくからな」

 朗風もそうそうと頷く。

「しかし文官の能力は客観的に測りにくい曖昧なものだ。だからあまり極端な抜擢などは受け入れがたい。彼らはは身分や学才によって一歩一歩穏当に位を進め、そしてそれに見合った官職に就けると保障されることを好む」

「……」

「だから徳ある天子が望まれる。この場合、徳とは地道で堅実な治世を敷くことだ。君主は礼節を知り、この世の秩序を整え、伝統を踏襲して、臣下の心を安んじさせねばならない」

「なんだか円偉様がおっしゃりそうなことですね」

「だろう? 円偉様は今の帝の元で穏やかで秩序正しい朝廷を築こうとなさっている。しかもご本人に私利私欲はない。実に清廉な人物だ。だから、文官からとても人望がある」

「なるほど……」

 朗風が菓子を飲み込み終えた。

「佳卓様はその秩序を乱すと警戒されるんですよ。白狼は言わずもがな、地方官吏の正智や錦濤育ちの女武人翠令……。本人を前にしてこう言っちゃあなんですが『胡散臭い』者を取り立ててますからね。京育ちの貴族にはそこが不愉快なんですよ」

 趙元が朗風に呆れ顔を見せた。

「朗風、お前は本当に言葉を選ばないな……」

 翠令は苦笑して趙元に首を振る。

「いえ、大丈夫です……。ええ、彼らの気持ちも分かります。私もまた、自分が盗賊の白狼と同格に扱われたことで、自分のこれまでの働きを侮辱されたような気になりましたから……」

 そうですね、と翠令は卓上に視線を落とした。

「佳卓様が大胆過ぎるがゆえに、主に文官から疎まれることはよく分かりました」

 趙元が説明を加えた。

「まあ、文官の全員が総じて佳卓様を嫌っているわけでもない。あまり数は多くないが、兄君の誼で比較的好意的な貴族もいる」

「佳卓様の兄君?」

「温厚な方だよ。そして佳卓様と性格が違っても仲が良い兄弟だ。同じ文官同士、円偉様とも親しい。この穏やかなお人柄の兄君を通じて、弟の佳卓様にも親しみを感じている文官もいる」

「それはようございました」

 しかし朗風が指を立てて横に振った。

「一方で武官でも佳卓様が嫌いって奴もいるもんですよ。主流派ではありませんが、なんせ佳卓様のアクが強すぎてついていけないと感じる者もいるにはいます」

 翠令は「難しいんですね……」と呟いた。

 趙元が翠令のつぶやきに答える。

「その複雑さに東宮様の存在、さらには翠令の存在が絡むから余計にややこしくなる」

「……」

「錦濤の姫宮およびその守刀の女武人が、佳卓様とその麾下と親しくなっていく。これまで、佳卓様を敬遠してきただけだった者達も、これから佳卓様が新東宮の寵を得て権力を握り、自分達の秩序を脅かすのではないかと怖れ始めている」

「まあ、翠令に悪口を言いに来たのも、翠令だけじゃなくて佳卓様に対する牽制なのかもしれませんねえ」

「……」

「佳卓様ご自身は中央での権勢にほとんど関心はない。だが、ご自分のせいで私をはじめとする佳卓派の武官や、さらには佳卓様の兄上も含めた親佳卓派の文官に類が及ぶのは避けたいとお考えだろう」

「ま、そうなる前に自分から東国にでも行って事態の鎮静化を図ろうとされるでしょうねえ」

「それで、佳卓様が東国へ行くかもしれないと……」

 そう呟く翠令に、朗風が宥めるような声を掛けた。

「そんな寂しそうな顔をしなくても大丈夫ですよ。そんなことが起こるとしても、もっと事態が悪化してからの話です。そうなる前に打つべき手はたくさんあります。そもそも、姫宮が円偉様と良好な関係をお築きになればほとんど解決する問題です」

 聞いていた趙元が「翠令は佳卓様がいないと寂しいのか?」と尋ねるが、翠令が何か答える前に、朗風が「しいっ。聞くだけ野暮ですよ」と口を挟む。

「うむ……。翠令ほどの豪胆な武人の顔が真っ赤だ。ま、理由は聞くまでもないな」

「あの……いえ、その……」

 翠令は何かを言おうとするが言葉にならない。

「まあ、私も朗風と同じことを言っておこう。姫宮が円偉をできるだけ頻繁にお召しになり、せっせと読書を通じて親睦を深めていけば、確かに佳卓様が京を離れなくて済む可能性は高くなる」

 朗風が呑気な声を出した。

「もう梅雨に入りますからねえ。読書がはかどる頃ですねえ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み