七十九 翠令、供と話す

文字数 3,313文字

 東国へ下向した時に比べれば、京への帰路は格段に楽だ。

 それでも傍目には翠令の体調は悪いものに見えたらしい。馬に乗る翠令に、徒歩で従う男が声を掛けた。

「あんた、休んだらどうだ? 死相が漂ってた頃に比べりゃ元気そうだが、その顔じゃかなり疲れてるだろう」

 男は、翠令が高熱で倒れた時に現れた京の言葉を話す小役人だった。東国と京と行き来するのに慣れているから今回の供にも選ばれたのだろう。

「あんたが佳卓様の女なんて想像もしなかったよ。あんだけ身分のお高い方はそりゃもう雲の上のお姫様しか相手にしないと思ってたからな。あんた……惚れた男に尽くすのはいいが、先はないぞ? 何をしゃかりきになっているのかよく分かんねえが、ともかく次の宿ではもう一泊してきちんと休養を取ったらどうだ?」

「……」

 男は、一応翠令の身分違いの恋と身体を気遣ってくれてはいるようだった。

「次の宿は、国衙に厄介になる。あそこの国司は贅沢好きでな。国も豊かで、旅の者でも気前よくもてなしてくれる。寝床だって絹の敷物を使わせてくれるし、山と川の両方が近いから、いい食料を使った美味い料理を喰わせてくれるぞ」

「……」

「だからさ。一泊だけじゃなく二、三泊くらいのんびり過ごしてみちゃどうだ?」

「のんびり……」

 翠令の心も誘惑に傾く。三日も過ごすのはともかく、一日くらい滞在を延ばしてゆっくり休んでも良いのではないだろうか……。
 翠令は馬上で眠れるほどには乗馬に馴れていない。手綱を握っている間はずっと馬を操ることに神経を遣わなければならない。
 行きに比べれば馬に乗るだけの今はかなり負担が少ないが、京を離れてからずっと緊張のし通しだ。一夜でいい、何もかも忘れて、心地よく床で寝ていたい。

 翠令の心の揺れが顔にも出ていたらしい。男はうんうんと頷く。

「佳卓様ほどの方ならそりゃもう、言っちゃあ何だがあんたには太刀打ちできないご立派なお姫様と結婚するよ。そりゃ、あんたがここで頑張れば、佳卓様もあんたを悪いようにはしないと思うけどよ。でもよ、俺は

一人を大事にするつもりだし、あんたもそういうあんただけを妻にする男と一緒になる方が幸せだと思うぜ?」

 翠令は苦笑を返した。いずれ他の女君と人生を共にする貴公子のために、心身を消耗させて足掻く女武人の姿は愚かに見えるのだろう。だが……。

 翠令は首を振った。

「いずれお別れするからこそ、悔いの残らないようにしたい。これは私のためだ」

 佳卓は翠令が休めと命じなければ休むことができないと言った。その役割を必要とされる限り、翠令は彼の傍に居ようと思っている。

 姫宮が無事御所にお戻りになられれば、姫宮の護衛は佳卓が近衛を率いてその任に当たる。また、佳卓が正式な妻と睦まじく過ごすようになり、その女君の傍で休むことができるようになれば、翠令の京での役割も終わる。

 誰からも必要とされなくなるのはとても辛いだろう。ただ、その日が来るまで懸命に己の役割を果たし、納得がいく時間を過ごしたい。

「耐えられなくなったら故郷に帰るさ」

 自分はいずれ錦濤に帰ることになるのだろうと翠令は思う。その後は、その思い出を糧に錦濤の波の音を聞いて穏やかに老いていけばいい……。

 男は少し気の毒そうな顔で翠令を見、話題を変えた。

「ああ、あんた錦濤の出身なんだったな。なんかそこから来た宮様が謀反にあったとか? それであんた達が動いてるんだって? 俺たちにはよく分からん話だが」

 翠令はため息を一つ零す。翠令のみならず朝廷を揺るがす大事件も、東国の庶民にとっては、その程度の関心しかないものなのか……。

「俺たちからすれば誰が内裏に住もうが関係ないけどな。都の貴人が俺たちに関心がないのと同じで……。ま、関心を持たれててもろくな目に遭わないが」

「何か不快な思いでもしたのか?」

「京で偉い人に仕えていると、たまに宴席に呼び出される。で、『何か東国の言葉を喋ってみろ』と命じられる。だが、俺が何か喋るとげらげら嗤うよ。まるで見世物にされた気分──いや、見世物以外のなんでもないな」

「京の貴族に円偉という者がいたはずだが……」

「ああ、鄙が好きって奴だな。そいつのいる宴席にも出たぜ?」

「その者は、お前が鄙の言葉を喋るからって笑いはしなかっただろう?」

 円偉は地方の民の理解者を自任していたはずだ。

「まあな。でも、いくらお上品な言葉で『鄙の言葉は風情があって良いものです』って真面目に言われても、見世物扱いには変わりがないだろ」

 男の素っ気ない言葉は正鵠を射ていた。

「そうだな……」

「あんた達が都に呼び戻そうとしてる東宮って女の子どもなんだろ。その子も都に戻ったら、東人が珍しいからって俺を呼び出すのかもな」

 翠令はふと思いついた。

「なあ、『水を下さい』というのは東国の言葉で何て言うんだ?」

「へ?」

「私はその言葉を知らないばかりに、物乞いや盗賊だと間違われてしまった」

「ああ、そうだったな」

 男は東国の言葉で水が欲しい時の言い方を教えてくれた。語彙や文法に大きな違いはないが、名詞や言い回しの抑揚が西国と異なる。

 翠令が真似ても上手くはないようで、男は、京で貴族にそうされた意趣返しをするかのように、げらげらと嗤っていた。それでもしばらく翠令が試しているうちに、満足が行く出来になったらしい。

「まあ、大体いいな。少なくとも用向きは通じるくらいにはなった」

 今度は反対に、男が尋ねた。

「なあ、錦濤では海の向こうの燕の国の言葉をしゃべれる奴も多いんだって?」

「私も使えるぞ」

「へえ、じゃあ燕語で『水が欲しい』は何て言うんだ?」

「……我要水……かな?」

 燕語を耳で覚えた翠令は発音がいいと褒められる。異国の言葉の響きを、男は面白そうに笑う。

「へえ。聞いたことない楽器の音色みたいだ」

「東国の言葉も、私からすると珍しく感じる。ここに来る前に学んでおけばよかった」

 多分、東国の言葉には正智が詳しかっただろう。姫宮が京を追われてから翠令も罪人となり、隠密行動で慌ただしく京を出立したから顔を合わせる機会もなかったが……。

「水が欲しい時に東国の言葉でどう言えばいいか知っていれば、盗人や物乞い扱いされずに済んだのに」

 男はくっくっと喉を鳴らし、そして「これからはそうしろよ」と答えた。
 翠令は西の方角を見やる。

「私がお仕えしている錦濤の姫宮も語学が堪能だ。東国の言葉も学ぼうとされるだろうし、お若いから私より飲み込みが早いと思う」

「……へえ? お姫様が東国の言葉を? 学ぶってのは聞くだけじゃなくて自分で喋ろうとしようとするってことか?」

「ああ、姫宮ならお前を教師に召し抱えて、とことん質問攻めになさるに違いない」

 翠令は、姫宮の好奇心満々なご様子が目に浮かぶようだが、男は全く想像の埒外であるらしい。

「次の帝になるかならないかって偉い姫様なんだろ? それでどうして俺らの言葉を知りたがるんだ?」

 翠令は即答した。今の翠令には、その問いの答えは明白だった。

「偉いからだ。帝がなぜ偉いかというと、この国の民に幸せをもたらす役割があるからだ。そして何が民の幸せなのか知るためには民の文化を知らなければならない」

 話が急に抽象的になったせいか、男は無言でぽりぽりと鼻の頭を掻くだけだった。

「具体例を挙げると……つまり……お前たちの言葉も知らずに『税が欲しい』と言うだけでは、盗人や物乞い扱いされてしまうから困るということだ」

 男は「なるほどなあ、違ぇねえや」と苦笑した。

「落ち着いたら姫宮に東国のことをよくよく教えて差し上げてくれ」

 そうかあ……と男は宙を見上げた。

「じゃあさ。俺の方も、そのお姫様に燕語を教えて貰えるかな?」

「ああ、きっとそうなさる。おしゃまな御子だから、ご自分が知っていることを他人に教えるのもとてもお好きなんだ」

「へえ。貴い女の子から教わったり教えたりするのか。楽しみだな。それじゃあ、佳卓様の奇計奇策とやらが上手くいくといって、無事に都に帰ってこれるといいな」

 事の重大さが今一つ分かっていない、男ののどかな言い方が翠令の胸に妙に沁みた。

「ああ……そうだな……」

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