三十七 白狼、姫君の苦境を知る

文字数 5,601文字

 姫君の不興を買った翌日の夕刻、白狼は庭にいた 。

 女房によれば、この竹の宮から京の近衛府に使いを出し、白狼の代わりの近衛舎人を呼び寄せるのだという。その者が竹の宮に着くまで、白狼は特にすることも与えられず、捨て置かれていた。

 ──どうせ放っておかれるなら、庭園の真ん中にいたって文句ないだろう。

 白狼はそう思い、初夏の夕暮れ前のひとときを庭でうろうろと歩き回って過ごしていた。

 ──困ったことになったな。

 彼は南庭の池の畔で考え込む。
 自分のこの目立つ姿がある限り、御所の人々は白狼の手下が元盗賊であったことを記憶から消してくれない。
 そんな状況を何とかしようと、せっかく佳卓が竹の宮で過ごすよう手配してくれたのに。このまま御所に戻るのは、佳卓にも手下たちにも申し訳がない。

 ──せめて下働きでもいいから、この竹の宮に留まることはできないだろうか。

 竹の宮の姫君からの文を受け取った佳卓は困惑してしまうだろう。御所で居場所のない自分のために、知恵を絞ってくれた結果の竹の宮行きだったのに……。

 白狼が視線を落とした先の池はろくに手入れをされていないのか、やたら藻が多い。彼が考え込んでいる間、天空では西の端が朱に染まり始め、東の空は色を濃くして白い月を浮かべでいる。しかし、それらを映すはずの水面(みなも)は濁った水がどんよりと淀むばかりで、早々に夜の闇を迎え入れているかのようだった。

 ──何だ?

 白狼はかすかに不穏な空気を感じて首を上げた。盗賊を生業にしていた白狼はどんなに小さな物音にも敏感だった。

 初夏の夕風にそよぐ葉擦れの音に混じって、その音はした。最初は刀の刀身がこすれあうような金属的な音に聞こえたが……しかし……。

 ──あれは悲鳴じゃないか? 

 細い、とても細くて甲高い悲鳴。白狼が耳をそばだてていると再び聞こえる。東の対の殿舎の中だ。

 叫び声と、それから物が倒れるガタガタという音。
 眉根を寄せたハクロウの耳に、女の「いやあ!」という声が飛び込んできた瞬間。彼は駆け出してしていた。

 正殿から続く透渡殿(すきわたどの)の下に駆けつけ、その地面から東の対をのぞき込む。しかし、床とその奥の几帳に視界が遮られ、中の様子が分からない。白狼は高欄(こうらん)に両手をかけ、反動をつけると片足を乗せてよじ登った。

 「殿上に立ち入るな」とあの女房は禁じていたが、彼は気にもとめなかった。どうせこれから追い出される身だったし、そもそも彼はここでふんぞり返る以外に何もしない女の指示に従う気はない。自分が従うのは、今のところ佳卓だけだった。あいつは悲鳴が聞こえたら助けに駆けつけろと言うだろう。それだけのことだ。

「いやあ、いやあああっ」

 白狼は正しくその声に近づいているようで、悲鳴はどんどん大きくはっきりと耳に届くようになる。騒ぎが起こっているのは、書庫として使われている部屋らしい。

 女の悲鳴だけでなく、その上に男の荒い息が被さっている。
 これは……。
 女が男に襲われているのだと白狼はすぐに理解し、閉じられた書庫の妻戸を蹴り破った。

 書物庫の中は、棚のあちこちから巻物が滝のように零れ落ち、床中に文字の書かれた紙が散乱している。その中に蛙のように床を這う男の背があり、その下に女の身体があった。

 無機質な紙とは異なる、まろやかに白い肌が衣をはぎ取られてむき出しとなっていた。その柔らかそうな肌のあちこちに、つけられたばかりの薄紅色の痣が散っている。

 女を組み敷いていた男が白狼を見上げた。あの、猥談ばかりしていた下衆(げす)だった。

「なんだあ? お前、出入り禁止だろ。出て行けよ、邪魔なんだよう」

 白狼は身を屈めて男の片腕をねじり上げた。

「痛ぇ!」

 男が身を浮かせた隙に、白狼は女の腕をとり、男の身体の下から引き抜いた。

「嫌っ」

 男の身体から自由になった女は、しかし、白狼の腕も振り払った。

「ああ……」と白狼は思う。混乱した女には助けが来たと分からないのだろう。女は、素早く立ち上がろうとし、そして袴の裾を踏んで転んだ。けれども、また再び起きあがり、袴の裾をからげて走り出る。

 その背を見ながら白狼は呟いていた。

「走れるのか……」

 殿上で暮らす女というのは、御簾の中にいてずっと座っているものではなかったのか。彼は小さく息を吐いた。自力で逃げられるなら、そうすればいい。逃げて心落ち着く場所があるのなら。彼は足元に残された女の衣を拾ってやり、さほど急がずに女を追った。

 夕暮れが近い透渡殿から、彼女は正殿に向かおうとする。その足音に気づいたのか、正殿の御簾内から女房が姿を現し、そして叫んだ。

「まああ、姫宮!」

 襲われていた女が竹の宮の姫君その人だった。「そうか、それならば自分はさっさと殿上から降りなければならないな」と彼は考えた。なにしろ自分はこの女に厭われているのだから。

 そのまままっすぐ正殿の女房の側に行くかと思った姫君は、白狼には予想外の行動をとった。姫君は女房を見るなり足を止め、そして向きを変える。まるで逃れなければならない敵を見つけたかのように。

「……?」

 姫君は透渡殿の高欄に足をかけた。白狼が思わず声を掛ける。

「おい、あんた!」

 女は身の丈より長い髪を残して、落下した。彼女の体から遅れて、細く長い髪がふわりと宙に浮き、そして流れ落ちる。

「……!」

 白狼もすぐに飛び降りた。しかし、その先にもう姫君はいない。彼女は足を挫いたらしいが、その足を引きずって肩を左右に大きく揺らしながら庭に走り去りつつあった。

 何が見えているのか軽く空を見上げ、彼女は叫び続ける。虚空に向かって「いやあ、いやあっ」と空気を斬り裂くような鋭い悲鳴を。

 向かう先は竹藪だ。女のただならぬ足音に、そこにいた烏達が一斉にバサバサと羽音を立てて飛び立つ。茜色に染め上げられた夕空に黒い鳥影が舞い上がり、その影が不気味で禍々しい。

 白狼は女を追って駆けた。

「おいっ! あんた! そっちへ行くな!」

 竹藪の中には槍がある。この姫君自身が仕込んだ、尖った先の切っ先が。

 白狼は姫君に追いつき、長い腕を伸ばしてその体を背後からかきだいた。

「いやあ、いやあっ」

 渾身の力で叫んでいることは、彼女の体を抱きしめていればよく分かる。全身を震わしてありったけの声を出しているのだ。

 そして全力でもがく。白狼の腕の中で身を捩り、彼に背を向け両手両足を伸ばしてどこかへ逃れようとしている。

 男の膂力で押さえることは可能だが……しかし……。彼女の興奮した意識では、男はみな恐怖の対象なのだろう。白狼と自分を襲った男との区別もついてはいまい。白狼が力づくで抑えつけることができたとしても、逃げられないと彼女が悟った瞬間、彼女は自分が襲われるしかないのだという絶望の淵に落ちてしまう。

「俺を見ろ」

 彼はまずは姫君の背後から両脇でその暴れる肩を押さえた。そして、片手で姫君の顎を掬い上げるとともに、自分から顔を近づけた。
 そして、姫君の瞳をのぞき込む。この国の人間ではあり得ない、玻璃のように透明で碧い色をした瞳で。

「ひっ」

 彼女は息を呑んだ。

「俺は妖だ。お前を襲う人間の男は俺が食ってやった」

「……?」

 ようやく女の口から悲鳴がやんだ。

「……なんですって?」

「俺が食べた。あいつはもういない。あんたは助かったんだ。落ち着くといい」

 姫君は警戒した面持ちで白狼を見た。

「……お前はわたくしを食べないの?」

「俺はあんたが嫌いだ。あんたが俺を嫌うのと同じように。だから食べたりなどしない。不味そうだからな」

 ああ……と姫君は呟いた。自分が昨日「気味が悪い」と追い出そうとした異形の近衛舎人が、この男なのだと思い至ったようだった。

「……そう、わたくしを嫌いなの……じゃあ、安心ね……」

 そうぽつりと一言残して姫君はすうっと気を失った。深窓の姫君の気力はそこで尽きたのだろう。

 自分を嫌う男しか安心できないのか……。白狼は不意を衝かれた思いで、やっと静かになった女の口許をしばし見つめた。

 確かに美しい女だと思う。抜けるように白い肌は、神聖な場所に敷き詰められる玉砂利のように滑らかだった。閉じられた睫毛は黒く長い。髪は艶やかにそして柔らかそうに背中に流れる。細めの髪だが、いかにも高貴な血筋の女らしい華奢で小柄な体格に、まるで童女のように似合っていた。

 白狼は姫君を抱きかかえて正殿の階に戻った。腕の中の女は本当に軽く、女というより子どもを運んでいるように彼には思えた。

 白狼は女房達に後を任せれば自分の役割は終わりだと思ったが、女房は白狼に次の作業も命じる。

「ちょうどよい。姫君を部屋に運んでおくれ」

「俺がか?」

「姫君が再び暴れられては私どもも難儀する」

 騒ぎを聞きつけた他の女房達、合わせて十数人はいるだろうか。どの女も無表情に彼を見るばかりだ。

「わかった。俺は殿上に立ち入ることになるが、それでいいんだな?」

「構わぬ」

 彼は簀子(すのこ)に上がるどころか、御簾の内、(ひさし)の間も抜けて母屋(もや)塗籠(ヌリゴメ)にまで通された。

「なんだ、これは?」

 塗籠の一面に、太い木材で組まれた格子がはめられている。一部だけが、大人一人が身をかがめて出入りできる戸口となっており、女房はその扉を手で開け広げながら白狼に命じた。

「早う、姫君が目を覚まさぬうちに中にお入れするのじゃ」

「これは……まるで牢獄ではないか……」

「致し方なかろう。姫君がお暴れになるとどうしようもないゆえ……」

 その女房の言葉に白狼は眉根を寄せた。

「普段から暴れるのか?」

「時折な。昔に襲われたときの記憶がふとした拍子に蘇るようじゃ。自分を襲う豺虎(けだもの)の幻にとりつかれ、奇声を上げて立ち上がり、あちこちに走って逃げようとされる。我ら女房が数人がかりで髪や衣の裾を掴んで取り押さえるが、引きずるようにしてこの格子の中に入れるまで毎回毎回大騒ぎじゃ」

 女房はため息をつく。しかし、それは姫君を思ってのことではなく、自分のためだということは明白だった。

「私がここに来た時には、もっと頻繁に姫君は暴れたものじゃ。ようやくその回数が減ってきたというのに……。この度、男に襲われたことで、また暴れる回数が増えるじゃろう。厄介なことじゃ」

「だからって、檻の中に入れるのはあんまりだろう……」

「気狂い《きぐる》の姫じゃ、仕方ない」

「……」

「お前も見たであろ。女君が屋内をふらふらと立ち歩くだけでも異常なこと、ましてや、庭に降りるなど……。足を使って駆ける姿、まるで獣のようじゃ」

 貴族の女にはそうかもしれないが、白狼からすると人間は己の足を使って動く方が普通だ。

「別に、それがおかしなこととは思えないが……」

 女房は顔にありありと軽蔑の色を含ませた。それは白狼だけではなく、仕えている姫君にも向けられているのだろうと彼は感じた。

「きちんとした女君の振る舞いではない。犬畜生も同然じゃ」

「犬……」

 白狼は、錦濤の姫宮の飼い犬を思い出した。大らかな姫宮には犬をつなごうという発想もないようで、ビャクと名を変えたあの犬は呑気に御所の庭を走り回っているという。

 ──犬ですら庭を駆ける自由があるのに

 白狼が言葉を失ってじっとしていると、女房が苛立たしげに言った。

「早く格子の中に姫宮を入れよ」

「ただ走り回るだけなんだろう? それだけの理由で牢に繋ぐことはない」

 そう、この女に出来るのは叫んで逃げることだけだ。別に刀で斬りかかってくるわけでも、弓を射かけてくるわけでもない。

 女房はさらに苛立ち、手を添えていた牢の扉をパンパンと叩いた。

「気狂いの姫ぞ!」

 白狼も眉を顰めた。

「気狂いの一種かもしれないが……。人間は恐ろしい思いをした後に、その記憶が不意に蘇って正気を失うことはよくある。兵士や娼婦でそうなっている者を俺は見て来た。この女もそうなだけだ。……で?」

「『で?』とは?」

「この女が外を走り回っても、俺なら十分取り押さえられる。ならば、こんな牢獄に入れなくてもいいだろう」

 白狼は更に言った。

「あんた達はそんな動きにくそうな服装をしている。なるほど、そんな格好じゃこの女を取り押さえるのも一苦労だろうな。なら、俺に任せたらどうだ? 俺なら今こうしているように、さっさと捕まえることが出来る」

 ここで女房はようやく牢の戸口から手を放した。そして、後ろに控えていた女房達と視線を交わす。それぞれに頷き合った後、女房は白狼を見上げた。

「よかろう。お前が後始末をするなら、我らはそれでよい」

 白狼は深々と息を吐いた。後始末、という言い方からして、この女への敬意も思いやりも感じない。この女が女房からも逃れようとした理由が分かった。彼女とっては女房達も半ば敵同然なのだろう。

 ──哀れなことだ。

 そう思って、彼は近年、自分が他人に「哀れ」という感情を抱いたことが無かったことに気が付いた。

 ──哀れな女に俺は情けをかけているのか。

 彼を育ててくれた娼婦たちを、彼は哀れだと思っていた。彼女たちは情けを受け取ることしかできずに一生を終わる。そんな人生を見ているのは悲しい。

 この女の生涯もそうなるだろう。恩を返す気概を持てれば違ってくるが──この弱々しい女にそれは無理だ。人に哀れまれて終わる人生かと思うと、より一層哀れなことだと彼は思う。

 女房の指示で、白狼は竹の宮の姫君を平常時にいつも使っているという御帳台(みちょうだい)まで運んだ。貴族が使うというその寝台を初めて白狼は目にする。女房達がその布を掲げる中、白狼は姫君を横抱きにしてその中に入り、そして繊細な模様が織り込まれた寝具の中に女君を横たえた。
 ヒヤリとした絹の冷たい手触りが、改めて白狼の心を重くする。

 ──贅沢ではあっても、何の温かみもない……本当に哀れな暮らしぶりだな。

 そして、哀れを催す女から視線を背けてその場を後にした。

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